若木を見守りながら
「失敗した」
その苦い思いが、胸の奥で冷たく広がった。
息子のクリス・ホーネットは十二歳。伯爵家の正嫡として、私は彼に惜しみない愛情と最高の環境を与えてきた。周囲を固める使用人に至るまで、その人品を吟味し、誠実な者だけを配してきたのだ。
「常に慈愛を忘れてはならない」
「弱き者に手を差し伸べることこそ、我ら貴族の責務である」
そう言い聞かせて育てた。
ノブレス・オブリージュ――。高潔な精神は、彼の中で真っ直ぐに育ったはずだった。
だが、その「正しさ」こそが付け入る隙になるとは、露ほども思わなかったのだ。
異変を確信したのは、二階の自室から庭園を見下ろした時だった。
今日は、クリスの婚約者であるアナイス・サーペント伯爵令嬢が来訪する日だ。
彼女もまた十二歳。いつも穏やかな微笑を絶やさない、春の日溜まりのような少女である。
愛らしい二人が並ぶ姿は、見る者の目を細めさせるほどに睦まじかった。
けれど、今日のアナイスは、どこか翳りがあった。挨拶を交わした際も、その瞳にはいつもの輝きがなく、無理に口角を上げているように見えた。
視線の先、東屋には三つの影があった。
クリス、アナイス。そして、もう一人。
どうやら女性のようだ。
アナイスが立ち上がり、深々と頭を下げた。どうやら辞去するらしい。
礼儀正しい彼女のことだ、帰る前には必ず私の元へ寄るだろう。
私は重い足取りで椅子を立ち、彼女を迎えに階下へと向かった。
アナイスは、玄関ホールで待ち構えていた私を見て、一瞬戸惑いの色を浮かべた。
私は努めて穏やかに、核心を突いた。
「二人の時間に、誰か紛れ込んでいたように見えたのだけれど」
アナイスは表情を強張らせ、絞り出すような声で答えた。
「……お隣の、カトリーナ様ですわ」
「彼女は、いつもいるの?」
「はい。ここ数ヶ月は……必ず」
私は内心で深い溜息をついた。
「なぜ、クリスはそれを許しているのかしら」
「カトリーナ様のご病状が重いそうで……。クリス様を頼っておられるのです」
「ふうん。そう」
私は短く応じた。
これを片付けるのは容易い。
だが、それでは意味がない。彼らはまだ子供だが、いつかは独り立ちする。善意に付け入る輩は、この世にごまんといるのだ。慈悲が仇となることを、その目に焼き付けてほしかった。
アナイスを励まして送り出した後、私は一人で庭園を歩いた。
東屋の近く、生垣の綻びに赤茶けた髪が数本、無様に絡みついている。ホーネット家も、サーペント家も皆、金髪だ。庭師のジョンは銀髪。
つまり、この髪の主が――。
私はジョンを呼び、その綻びを塞ぐように新しい木を植えさせた。
それから、隣家へ一通の書簡を認め、クリスの従者であるリックを呼んで密かに指示を与えた。
一週間後。
招きに応じた隣家の夫妻を、庭園が見渡せる二階の応接室へ通した。
ちょうどアナイスが訪れ、クリスに伴われて東屋へと向かうのが見える。
私は夫妻と茶を飲みながら、静かに庭を眺めていた。
異変はすぐに起きた。
隣家の庭から、一人の少女が姿を現したのだ。カトリーナだ。彼女は「重病」のはずが、ドレスの裾を荒々しくまくり上げ、全力疾走で我が家の生垣へと突進してくる。
その野卑な姿に、カトリーナの母親は絶句して口を抑え、父親は恥辱に頭を抱えた。
階下では、リックが合図通りに動き、クリスたちに何かを告げた。
事態を察したクリスはアナイスの手を引き、急ぎ足で屋敷の中へと避難してくる。
二人がこの部屋に駆け込んできたとき、私は何も言わず、ただ窓の外を指さした。
つられて外を見た二人の表情が、驚愕に凍りつく。
そこには、いつもの「近道」だった生垣の穴が塞がっていることに憤慨し、新しい抜け穴を探して猛然と駆け回るカトリーナの姿があった。
そして――あろうことか彼女は、植えたばかりの若木に両手をかけると、力任せにそれを引き抜いてしまったのだ。
「……ご病状が、重いのだと伺っていましたが」
クリスが、絞り出すような、冷え切った声で呟いた。
カトリーナの両親は、消え入りそうな声で答えるしかなかった。
「とんでもない……。ご覧の通り、健康で、元気すぎるほどなのです」
恥じ入る夫妻は、謝罪を繰り返しながら、暴れる娘を止めに庭へと向かっていった。
私はそれを見届け、一言も発さずに部屋を後にした。
数十分後、辞去の挨拶に訪れたアナイスは、かつてないほど晴れやかな微笑みを浮かべていた。
「クリス様が『今まですまなかった』と言ってくださいました。疑いを持ちながらも、もし真実だったらと、彼女を遠ざけられなかったと。私も、ただ耐えるだけでは間違いだったとお伝えしました。これからは、もっと自分の思いを口にします」
私は満足して頷き、二人の健やかな成長を願った。
後日、隣家から届いた正式な謝罪状には、カトリーナを修道院へ送るという決定が記されていた。
カトリーナに無惨に引き抜かれたあの若木は、再びジョンが丁寧に植え直してくれた。
一度は引き倒された木だが、以前よりも深く、力強く根を張っているようだ。
窓から庭を見下ろせば、若木を慈しむように見つめ、並んで歩く二人の姿がある。
降り注ぐ陽光を浴びて枝を伸ばすその木のように、二人の絆もまた、風雨を乗り越えて健やかに育っていくに違いない。




