第2章:二人の天才少女と、憂鬱なエリック
シーン0:不可侵領域の「おもてなし」
それは、エレナがエリックに接触するためにバー『オールド・ローズ』へ向かう、数時間前の出来事だった。
資源管理局のメンバーである彼女は、独自に「カラーメイツ」という組織の素性を洗っていた。 「……見つけた。ここが彼らのメインサーバーのバックドアね」エレナの巫女姿k
アバターは、ゴミデータに偽装された藤井家のサーバー入り口を発見した。
「セキュリティレベルは低い。……素人ね」
彼女は指先から解読コードを流し込み、防壁を音もなく溶かした。目的は、リーダーである藤井哲也の弱点を探ること。彼女は自信満々に、データの回廊へと足を踏み入れた――はずだった。
「……あれ?」
視界が歪む。 無機質なデータの壁が、一瞬にして「和紙」の質感に変わった。 足元のデジタルグリッドが、「畳」の感触に変わる。 そして、鼻をくすぐるのは、回路の焦げる臭いではなく、上品な「抹茶」の香り。
「いらっしゃい。客人が来るとは珍しい」
エレナが顔を上げると、そこは四畳半の静謐な「茶室」だった。床の間には『無我』と書かれた掛け軸。そして、釜の湯がシュンシュンと音を立てている。その前で、着物姿の老人が茶を点てていた。藤井哲也のアバターだ。
「な、何この空間……! 仮想現実(VR)トラップ!?」 エレナは即座に攻撃プログラムを展開しようとした。 『警告。このVR空間内では、全ての暴力的干渉が無効化されています』
「ふぉっふぉっ。そう殺気立つな、お嬢さん」
藤井は穏やかに微笑み、泡立った抹茶の入った茶碗を差し出した。
「これは私のオリジナル特許、防衛型思考迷路『侘び寂び(WABI-SABI)』だ。敵意を持って侵入した者の意識を、強制的に『正座』させてしまう」
「くっ……体が、動かない……!」
エレナのアバターは、システムの強制力によって、行儀よく正座させられていた。
「まあ、飲みなさい。結構なお手前だよ(デジタルだがね)」
エレナは恐る恐る茶碗を手に取った。
「……あなた、何者?
ただのテロリストじゃないわね」
「私は弁理士だ。……そして、人生の先輩でもある」
藤井は自身の茶を啜ると、エレナの強張った顔――そして、その瞳の奥にある「揺らぎ」を見透かすように言った。
「お嬢さん。君のコード(心)は美しいが、少し『張り詰めすぎ』ておるな」
「……え?」
「完璧な論理、完璧な正義。……それは素晴らしいが、それでは男は息が詰まるぞ?」
ガシャン!
エレナの手から茶碗が落ちそうになる(仮想空間なので割れないが)。
「な、ななな、何を言ってるの!?
エリックさんは関係ないでしょ!」
「隠しても無駄だよ。ここ(茶室)は、精神感応領域だからね」
藤井はニヤリと悪戯っぽく笑った。
「君のハッキングのログには、彼への『守りたい』という執着が滲み出ている。……だが、それは一方通行の愛だ。君は彼を守ろうとするあまり、彼を『管理』しようとしている」
エレナは言葉を失った。図星だったからだ。
「いいかね、お嬢さん。
特許も恋愛も同じだ。『独占権』を主張する前に、まずは相手にとって『なくてはならないもの(進歩性)』であることを示さねばならん。
……ガチガチの防壁で囲い込むより、たまには隙を見せて、相手に『守らせてやる』のも、女の甲斐性というものじゃないかね?」
「守らせてやる……?」
「そう。男というのは、そういう生き物だからな」 藤井は懐から、茶菓子(デジタルの落雁)を取り出した。 「……ウチの孫娘(結衣)も手強いぞ? あいつは隙だらけで、騒がしくて、放っておけないタイプだからな」
「……っ!」 エレナの対抗心に火がついた。同時に、この不思議な老人に対する敵意が、別の感情へと変わっていくのを感じた。
「……覚えておくわ」 エレナは茶を一気に飲み干した。 「今日のところは、ご馳走になるわ。……でも、次は手加減しないから」
「いつでも来たまえ。粗茶を用意して待っている」
空間が霧散する。 エレナの意識は、茶室から元のサイバー空間へと弾き出された。 ログアウトする直前、彼女の口元には、デジタル信号の抹茶の苦味と、少しの甘みが残っていた。
シーン1:鉄屑とソースの匂い、そして「生」のノイズ
戦いの熱が冷めやらぬ翌日の夜。
マリンサイド・エリアの再開発指定区域から外れた、旧湾岸エリアの廃倉庫。そこが、国家に牙を剥いた反逆者たち、チーム「カラーメイツ」の仮宿だった。
外の冷たい雨とは対照的に、倉庫の中は湯気と活気に満ちていた。
高い天井からは無数のケーブルが垂れ下がり、積み上げられたジャンクパーツの山が迷路を作っている。その中央にある居住スペースで、長男の拓海が巨大な鉄板に向かっていた。彼が手にしているのは、戦闘用のパイルバンカーではなく、スクラップのチタン合金から削り出した特大のヘラだ。
「おらよっ! 特製『ヘラクレス焼き』、一丁上がり!」
ジュワァァァッ!!
鉄板の上で、キャベツと豚肉の塊が踊り、ソースの焦げる甘辛い香りが爆発的に広がる。それは、無機質な合成栄養食や機能性食品には決して存在しない、「生活」という名の暴力的なまでの匂いだった。
「ちょっと拓海兄! ソースかけすぎ! 精密機器に飛んだらどうすんのよ!」
居住スペースの隅、サーバーラックに囲まれた「コックピット」から、次女の結衣が顔を出して抗議する。彼女はディスプレイの光を顔に浴びながら、昨夜の戦闘で破損したRGBロボットたちのAI修復作業に追われていた。
「うるせえな。頭を使うにゃ糖分と塩分が必要なんだよ。ほら、R号たちもオイル交換の時間だろ」
拓海が豪快に笑いながら、皿に盛ったお好み焼きをテーブルに運ぶ。
そのテーブルの端には、救出された田所源蔵が、車椅子に座ってぼんやりと湯気を見つめていた。まだ言葉は戻らない。だが、その瞳には昨日のような死の色はなく、目の前の料理の匂いに鼻を動かすという、生物としての根源的な反応が戻っていた。
「……食欲はあるようだな。良いことだ」
奥のソファで、万年筆を分解してメンテナンスしていた藤井哲也が、眼鏡の位置を直しながら言った。
「人間、食えるうちは死なん。そして、美味いと感じる心が残っている限りはな」
藤井は立ち上がり、源蔵の前に座ると、小さく切ったお好み焼きを箸で運んでやった。
「ほれ、ゲンさん。アンタの好物だ。国が配給する流動食よりは、ずっとマシだろう?」
源蔵は震える口を開け、それを咀嚼した。ゆっくり、ゆっくりと。
そして、その目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……う、ま……い」
「! じっちゃん! 今、喋った!」
長女の美咲が、整備中の強化スーツ『シルフィード』から顔を上げた。彼女の手は油まみれで、額には黒い煤がついている。
「すごい……。昨日は植物状態って診断されてたのに」
「データ上の数値がどうあれ、これが現実だ」
藤井は優しく源蔵の背中をさすりながら、孫たちを見渡した。
「いいか、よく覚えておけ。資源管理局は『システムを正常に回すこと』を正義とする。だが、人間というのは本来、システムからはみ出した『ノイズ』の塊なんだ。……無駄にソースをかけたり、効率の悪い手作りロボットを愛したりな」
その言葉に、修理中のG号(緑色の多脚ロボ)が、ピポピポと電子音を鳴らして結衣の足元に擦り寄った。
「あーもう、G号ったら甘えん坊なんだから! ……でも、直ってよかった」
結衣はG号の装甲を撫でながら、ふと真剣な表情でモニターに視線を戻した。
「でも、おじいちゃん。……あの『隊長』って人、タダモノじゃないよ。私のハッキング、全部読まれてたみたい。それに……もう一人」
結衣の指がキーボードを叩く。
「昨日の戦闘中、資源管理局の回線に変な『割り込み』があったの。エリックって男の通信ログに、ほんの一瞬だけど、凄く綺麗な……でも冷たいコードが混ざってた」
「ほう?」藤井が興味深そうに眉を上げる。
「AIじゃない。人間による介入。でも、思考パターンが異常に澄んでる。……まるで、未来予知みたいに先回りして防壁を張られた感じ」
結衣は悔しそうに唇を噛み、目の前のお好み焼きをフォークで突き刺した。
「ムカつく。どこの誰だか知らないけど、エリックさんの周りをウロチョロするなんて……次は絶対に負けないんだから!」
「何だ、結衣、エリックさんって誰だ。資源管理局の男か。あそこには、ごついのやら、おかしなのしか、いなかったはずだかな。監視しているうちに情が移ったのかのか?」
「良いんだってば!」
藤井家の食卓は、ソースの匂いと、再戦への闘志で熱気を帯びていた。
彼らは知らなかった。その「見えないライバル」が、今まさにエリックの元を訪れようとしていることを。
シーン2:雨上がりのバー、そして神託の巫女
マリンサイド・エリアの一角にある会員制バー『オールド・ローズ』。
ここは、資源管理局や近くの政府系の組織に属するサイボーグや、裏社会の住人たちが、質の高い「潤滑オイル」入りの酒を楽しめる店として知られている。店内に流れるジャズは、あえてアナログレコードで再生されており、その微かなスクラッチノイズが、客たちを心地よく麻痺させる。
カウンターの隅。エリックは、琥珀色の液体が入ったグラスを揺らしていた。その巨体は、スツールからはみ出しそうなほどだ。彼は時折、自身の高性能化された義手のメンテナンスモードを起動し、視界の端に流れる昨夜の戦闘ログを反芻していた。
(……あのガキどもの動き、素人離れしてやがった。特にあのパワードスーツ、俺のパンチを受け流すための『遊び』を構造レベルで持ってやがる。……藤井の爺さんが設計したのか?)
「――隣、いいかしら。エリックさん」
思考の海に沈んでいたエリックは、不意にかけられた鈴のような声に現実に引き戻された。
振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。
長い黒髪、透き通るような白い肌。年齢は10代半ばに見えるが、その瞳の奥には、数百年を生きた賢者のような静寂な光――高度な知性の証――が宿っている。
「……エレナか」
エリックは少しだけ表情を緩め、隣の席を顎で示した。
「ガキが来るような店じゃねえぞ。また局長に怒られるな」
エレナ。
資源管理局保安隊のコンピュータ技術者として、敵味方にかかわらず資源管理局の任務を遂行するために必要な膨大なデータを監視する「目」の役割を果たしている。
「子供扱いしないで。……これ、昨夜の戦闘データの解析結果」
エレナは席に座ると、エリックの頭部装着型AIへ直接接続しようとした。
「おい、断りもなく無線でデータを送り込むのはよせ。行儀が悪いぞ」
エリックは苦笑しながら、データ受信を許可した。
頭部装着型AIを介して脳内に展開されるデータ。それは昨夜、エリックが対峙した拓海の『ヘラクレス』と、ドローンを翻弄したRGBロボットの行動予測パターンだった。
「……驚いたな。あの不規則な動きを、ここまで丸裸にしたのか」
「彼らのアルゴリズムは『感情』をベースにしてる」
エレナはバーテンダーにミルクを注文しながら、淡々と語った。
「論理的な最適解を選ばない。怒り、焦り、あるいは『家族への愛』といった不確定要素が、行動決定のトリガーになってるの。だからこちらのドローンたちの予測演算と噛み合わなかった」
「なるほどな。感情で動くロボットか……。厄介なもんだ」
エリックがグラスを干すと、エレナは少しだけ身を乗り出した。
「でも、私が解析した限り、彼らのセキュリティには『隙』があるわ」
「隙?」
「ええ。特にあの、情報戦担当の『結衣』って子」
エレナの声色が、ほんの少しだけ冷たく、そして鋭くなった。
「彼女のコードは独創的でパワフルだけど、……雑よ。エリックさんの視界をジャックしようとした時の痕跡、まるで『私を見て!』って叫んでるみたいだった」
「はっ、確かにうるさいお嬢ちゃんだったな」
エリックが笑うと、エレナは眉をひそめた。
「……笑い事じゃないわ。エリックさんのインターフェースに、あんな汚いノイズを混ぜるなんて許せない。私のエリックさんが、あんな低俗なウイルスに汚染されたら……」
少女の独占欲、あるいは崇拝に近い純粋な情熱。
エリックは頭を掻いた。「おいおい、俺は誰のものでもねえよ」
「いいえ。エリックさんの背中を守るのは、私の役目」
エレナはグラスのミルクを一気に飲み干すと、決意に満ちた瞳でエリックを見上げた。
「許可をください、エリックさん。次の作戦、私も同行するわ。あの生意気な『迷子の子猫ちゃん』に、本物のネットワーク技術者の怖さを教えてあげる」
エリックは溜息をついた。
昨夜の敵は「法と感情で武装した家族」。
そして味方についたのは「嫉妬と才能で武装した天才少女」。
(……こりゃ、物理的な殴り合いのほうがマシかもしれねえな)
エリックの予感は的中する。
この後、二人の天才少女による、エリックの脳と視界を舞台にした、仁義なきハッキング戦争が幕を開けることになるのだ。
「……勝手にしろ。ただし、俺の視界にハートマークとか浮かべるなよ」
「努力するわ」
エレナは微かに微笑んだ。それは聖女のようでもあり、これから戦場に向かう戦う乙女のようでもあった。
シーン3:電子の海、極彩色の落書きと氷の城壁
結衣は、独自に構築したコンピュータシステム内のVRを利用して、資源管理局やそれによって管理されている国立特別養護老人ホームのサーバ内を走り抜けていた。これらのサーバから得られる多量の視覚情報、すなわち0と1の奔流は、彼女のVR内で「極彩色のネオン街」へと変換される。そこは、世界中のデータが行き交う情報の高速道路だ。
彼女の狙いは一つ。昨夜の戦闘で接触した、資源管理局保安隊の回線――特に「エリック」という個人のIDに紐づく通信ポートだ。
「見つけた。……やっぱり、セキュリティ固いなぁ」
結衣のアバターは、猫耳のついたパンクファッションの少女の姿をしていた。彼女は手にしたスプレー缶を振り、目の前に立ちはだかる灰色の防壁に、デカデカと『エリックLOVE!』という落書きをしようとした。
これは彼女なりの「ノック」であり、挑発だ。
だが、スプレーの霧が壁に触れる直前、VR空間が凍りついた。
キンッ! という澄んだ音と共に、黄金色の幾何学模様が展開され、結衣の攻撃コードを完全に無効化したのだ。
「……行儀が悪いわね。他人の家の玄関に落書きなんて」
光の中から現れたのは、純白の巫女服をアレンジしたようなドレスを纏った少女のアバター――エレナだった。その背中には、光ファイバーで織られたような天使の羽が揺らめいている。結衣のVR空間とエレナのVR空間が一つに混じり合って、分割不可能な一つの共有空間が生まれていた。
その中で、彼女の周りだけ、ネットのノイズが消え、神聖な静寂が支配していた。
「あんた……! 昨日の『割り込み女』!」
結衣は猫のように背中を丸め、仮想空間上の爪を立てた。
「やっぱりエリックさんの回線に常駐してたのね。ストーカーみたいで気持ち悪い!」
「ストーカー? 心外ね」
エレナは冷ややかに微笑んだ。その瞳は、深海のように底知れない青色をしていた。
「私は『守護者』よ。エリックさんのハードウェア、通信、そして精神衛生を、あなたのような汚いウイルスから守るためにここにいるの」
「汚いウイルスですって!?」
結衣の怒りが爆発した。彼女の感情の高ぶりに呼応して、周囲の空間に無数のポップアップウィンドウ――怒りマークや骸骨のアイコン――が出現する。
「私のハッキングは芸術よ! エリックさんの防壁にだって、ちょっとくらい隙間があったほうが人間らしいでしょ? あんたのガチガチのセキュリティじゃ、エリックさんが息詰まっちゃう!」
「人間の感情はノイズよ。エリックさんは戦士。必要なのは完璧な静寂と、正確な情報だけ」
エレナが手をかざすと、空間に氷の槍のような攻撃プログラムが無数に出現した。
「警告するわ、迷子の子猫ちゃん。今すぐ回線を切断して、お家に帰ってママのおっぱいでも飲んでなさい。……これ以上近づくなら、あなたの脳を焼き切るよ」
「やってみなさいよ、優等生!」
結衣も負けじと、両手から極彩色のミサイル(スクリプトやワームの爆弾)を生成する。
「エリックさんがどっちを面白いと思うか、勝負よ!」
電子の海で、氷と炎、秩序とカオスが激突した。
二人の天才少女が繰り出す膨大なデータ量は、一瞬にして周辺のサーバーの処理能力を飽和させ、マリンサイド・エリアの一部の信号機を誤作動させるほどの嵐となった。
シーン4:エリックの憂鬱な射撃訓練
現実世界。資源管理局保安隊の地下射撃訓練場。
エリックは愛用の重機関銃を構え、仮想ターゲットに向かってトリガーを絞っていた。
昨夜の戦闘での鬱憤を晴らすかのように、ダダダダダッ! と乾いた銃声が響く。
「……チッ、右肩の反応がコンマ1秒遅いか」
エリックは呟き、頭部装着型AIのアテナを通じて、義手の調整プログラムを呼び出そうとした。
その時だった。
彼の視界に映るアテナのインターフェースが、突如として狂った遊園地のように変貌した。
『警告! 不正なアクセスを検知!』
『エリックさん大好き! エリックさん大好き!』
『ウイルス駆除中……駆除中……』
『エリックさんは私のものよ! 泥棒猫は消えろ!』
「な、なんだコリャアアアッ!?」
エリックの視界の中央に、ピンク色のハートマークと、黄金色の十字架が乱れ飛び、ターゲットが完全に見えなくなった。
照準を合わせようとしても、勝手にカーソルが動いて『結衣のキス待ち顔』アイコンに吸い寄せられたかと思えば、次の瞬間には『エレナの神聖バリア』が展開されて視界がホワイトアウトする。
「おい! エレナ! 結衣! てめぇら俺の頭の中で運動会してんじゃねえ!」
エリックは銃を放り出し、頭を抱えて膝をついた。
物理的な痛みはない。だが、視覚情報と聴覚情報に、二人の少女の罵り合いと「エリックさんへの愛の囁き」が同時に、しかも大音量で流し込まれているのだ。これはある意味、どんな拷問よりも精神に来る攻撃だった。
『エリックさん、右手のキャリブレーション数値を弄らないで! 今、結衣の罠を解除してるの!』
『嘘つき! エレナがエリックさんの「秘蔵フォルダ」を覗こうとしたから、私が隠してあげたんじゃん!』
『なっ……!? 人聞きも悪い! 私はセキュリティチェックを……!』
「どっちも出て行けぇぇッ!!」
エリックの絶叫が訓練場にこだまする。
そこへ、騒ぎを聞きつけた同僚の立花が駆けつけてきた。
「エリックさん、どうしました!? 敵襲ですか!?」
「敵襲じゃねえ……災害だ……」
エリックは床に突っ伏したまま、呻くように言った。
「俺の脳みそが……女どもの戦場になってやがる……」
立花はエリックの首元のインジケーターが、赤(危険)と青(正常)とピンク(?)に高速で点滅しているのを見て、察したように天を仰いだ。
「……モテる男は辛いですね」
シーン5:女神の鉄槌、そして奇妙な連帯
二人の少女の戦争が最高潮に達し、エリックの頭部装着型AIがオーバーヒート寸前になったその瞬間。電子の海に、第三の「太陽」が昇った。それまで互角に渡り合っていた結衣の「炎」とエレナの「氷」が、圧倒的な質量の前に、一瞬で蒸発したのだ。
彼女たちの共用VR内に現れたのは、軍服姿の女性アバター。その背後には、国家予算並みの演算能力を持つ防壁が、後光のように輝いている。
結城香織(隊長)の介入だ。
「……いい加減にしなさい、クソガキども」
その一言は、物理的な衝撃となって二人のアバターを弾き飛ばした。
結衣とエレナは、仮想空間の地面に叩きつけられ、強制的に「正座」のポーズで固定される。
「たっ、隊長……」
エレナが青ざめる。
「げっ、昨日の怖いおばさん……」
結衣が悪態をつくが、すぐに口を塞がれるような圧力を感じて黙り込んだ。
隊長は腕を組み、冷ややかに二人を見下ろした。
「私の部下の脳を、ラブホテルの落書き帳か何かと勘違いしてるんじゃないかしら? エリックの射撃スコアが下がったら、お前たちの脳をフライにして請求書と一緒に送りつけるわよ」
その迫力は、本物の尊厳の格の違いを見せつけるものだった。
だが、隊長は怒るだけでなく、ふと表情を緩めた。
「……それにしても。カラーメイツの『結衣』、と言ったわね」
隊長の視線が、猫耳アバターの結衣に向けられる。
「エレナの『オラクル(神託)』防壁を、正面から食い破ろうとするとはね。論理構造は滅茶苦茶だが、その『突破力』だけは評価してやる」
「へ……?」
褒められると思っていなかった結衣が、きょとんとする。
「そしてエレナ。お前もだ。守ることに必死になりすぎて、柔軟性を欠いている。相手の攻撃をあえて取り込み、肥料にして返すくらいの度量がなくてどうする」
隊長の説教は、いつしか高度なハッキング技術論へと変わっていった。
二人の少女は、最初は縮こまっていたが、次第にその内容の高度さと奥深さに引き込まれ、目を輝かせ始めた。敵対していたはずの二人が、今は並んで「師匠」の話を聞く弟子のように見える。
「分かったら、さっさと解散。……それと」
隊長は接続を切る直前、意地悪く笑った。
「エリックの『秘蔵フォルダ』の中身なら、今度こっそり教えてやる。おまえたちの好きなお好み焼きの差し入れと交換でね」
プツン。
隊長の反応が消える。
残された結衣とエレナは、顔を見合わせた。
「……聞いた? エリックさんの秘蔵データだって」
結衣がゴクリと喉を鳴らす。
「……興味ないわ。私はエリックさんの安全が第一だから」
エレナは澄まして言ったが、その頬はアバター越しでも分かるほど赤らんでいた。
「ふーん。じゃあ、私が独り占めエリアゃおっかなー」
「……抜け駆けは許さない」
二人の間に、先ほどまでの殺伐とした殺意とは違う、奇妙な連帯感――あるいは「ライバルとしての協定」が結ばれた瞬間だった。
現実世界に戻った結衣は、アジトの椅子の上で大きく伸びをした。
「あー、怖かった! でも……面白かった!」
彼女のディスプレイには、エレナから送られてきた『休戦協定.dat』というファイルが表示されている。中身を開くと、そこには一行だけメッセージが記されていた。
『次は負けない。――P.S. エリックさんの好きなオイルは、北地区の「ブルー・ムーン」よ』
結衣はクスリと笑い、キーボードを叩いて返信した。
『了解。こっちはおじいちゃん特製の「痛み止めパッチ」のデータを送るね。お互い、苦労するね』
雨上がりの夜空の下、敵対する二つの陣営の間に、細く、しかし確かな「回線」が繋がった。
だが、この平穏な交流も、迫りくる巨大な嵐の前の、ほんの束の間の休息に過ぎなかった。




