第1章:灰色の雨と極彩色の反逆者
シーン1:廃棄区画の冷たい方程式
メガロポリス・ニュー東京のマリンサイド・エリアに降る雨は、空からの恵みというよりは、都市が吐き出す老廃物のようだった。
重金属を含んだ酸性の雫が、ひび割れたアスファルトを叩き、側溝には油膜の浮いた黒い水が淀んでいる。かつては工業地帯として栄えたこの場所も、今では再開発から取り残され、朽ち果てたビルの骨組みが墓標のように並ぶだけの場所となっていた。
その一角に、周囲の廃墟とは不釣り合いな、無機質な白い壁で覆われた建物が鎮座している。『国立第七特別養護老人ホーム』。
看板にはホログラムで描かれた笑顔の介護ロボットと高齢者が映し出されているが、ノイズ混じりに明滅するその光は、救済というよりは皮肉に見えた。ここは、行き場を失った老人たちが最期の時を待つための場所――いや、正確には、国家にとって「非生産的」と認定された市民を、効率的に処理するための収容所だった。
施設の一室、集中治療室304号室。
無機質なビープ音だけが支配するその部屋で、ベッドに横たわる一人の老人がいた。田所源蔵。かつては小さな町工場で旋盤を回し、日本の高度経済成長を底辺で支えた職人である。しかし今、彼の体は無数のチューブとセンサーに繋がれ、痩せこけたその顔には生気の色はほとんどない。
部屋の壁面に埋め込まれたスピーカーから、感情の一切を含まない合成音声が流れた。
『田所源蔵様。国民医療最適化法、第108条に基づく定期査定の結果、貴殿の基礎代謝維持コストが、今後見込まれる社会的貢献度を上回りました。これより、特別措置プロトコル「タナトス・クオリティ」へ移行します』
事務的なアナウンス。まるで粗大ゴミの回収手続きでも読み上げるかのようなその声に、源蔵の閉じた瞼がわずかに震えた。
彼の意識は、認知症の霧の中にあった。昨日の食事のメニューすら思い出せない。娘の顔も、孫の名前も、霧の向こう側に霞んでいる。だが、その機械的な宣告を聞いた瞬間、彼の身体の奥底、脳の深淵にある彼の尊厳が、強烈な拒絶反応を示した。
(……死にたく、ない)
言葉にはならなかった。喉からは、ヒューヒューという掠れた呼吸音が漏れるだけだ。
だが、彼の指先はシーツを弱々しく握りしめていた。
まだやり残したことがある気がする。まだ、誰かと約束があったような気がする。春になれば、近所の公園で、あの偏屈な弁理士と将棋を指す約束をしていたような――。
『本人の明確な拒絶意思が確認されません。同意とみなします。鎮静剤の投与を開始。心停止まで、あと300秒』
天井から伸びたマニピュレーターが、点滴のラインに新しい薬剤のボトルをセットする。透明な液体が、一滴、また一滴とチューブの中を落ちていく。それは慈悲深い眠りへの誘いなどではない。国家という巨大なシステムが、不要な部品を切り離すための「削除キー」だった。
「う……あ……」
源蔵の口から、微かな唸り声が漏れる。
モニターの心拍数が上昇し、警告音が鳴る。しかし、AIはそれを「死への恐怖による生理反応」として処理し、鎮静剤の流量を自動的に調整しただけだった。
個人の尊厳、生への執着、積み重ねてきた人生の重み。それらすべてが「コスト」という冷徹な数字の前で切り捨てられていく。
窓の外では雨が激しさを増し、窓ガラスを叩きつけていた。その音は、まるでこの不条理な処刑に対する、沈黙した都市の涙のようにも聞こえた。
シーン2:色彩を持つ者たちの準備
施設の裏手、放棄された地下駐車場の闇に、一台の改造ワンボックスカーが息を潜めていた。
車体の塗装は剥げ落ち、あちこちが錆びついてはいるが、その内側には不釣り合いなほど高度な電子機器が満載されている。薄暗い車内を照らすのは、無数のモニターから放たれる青白い光と、そこに表示される高速で流れるコードの羅列だけだった。
「……ひどい。バイタルデータへのアクセスに成功したけど、おじいちゃん、見て」
後部座席でキーボードを叩いていた少女、結衣が、悲痛な声を上げた。彼女が頭に装着しているのは、ジャンクパーツを組み合わせて自作したヘッドマウントディスプレイだ。そこから伸びる無数のケーブルが、彼女の細い体を、車載された巨大なサーバーへと直結させている。
「源蔵さんの同意サイン、デジタルの偽造だよ。本人の脳波パターンは『拒絶』を示してるのに、システム側で勝手に『同意』に書き換えられてる」
助手席に座る老弁理士、藤井哲也は、愛用の杖を強く握りしめた。
その瞳の奥には、長年法廷で戦い続けてきた古強者だけが持つ、鋭い知性の光が宿っている。
「予想通りだ。効率化という美名の下に行われる、行政による殺人と変わらん。……法的根拠はこちらにある。だが、それを主張するためには、まずは物理的に時間を稼がねばならん」
藤井は振り返り、後部のカーゴスペースで待機する二人の孫に声をかけた。
「美咲、拓海。準備はどうだ?」
「いつでもいけるわ」
闇の中で、美咲が立ち上がった。彼女が身に纏っているのは、軽量かつ高機動性を重視した強化スーツ『シルフィード』だ。カーボン繊維と人工筋肉で編み上げられたその漆黒のスーツは、彼女のしなやかな肢体を包み込み、暗闇に溶け込んでしまいそうなほど光を吸収している。両腕には、彼女の切り札である高周波モノフィラメント・ワイヤーの発射装置が仕込まれていた。
「雨音のおかげで、足音は完全に消せる。通気口からの侵入ルートも確保済みよ」
「俺の方も万全だぜ、じっちゃん」
美咲の横で、重厚な金属音と共に動いたのは、長男の拓海だ。
彼が装着しているのは、産業用のパワーローダーを軍事用に無理やり改造したような、無骨極まりない重装甲スーツ『ヘラクレス』。むき出しの油圧シリンダーが、獣の唸り声のような音を立てている。右腕にはパイルバンカー、背中には折りたたみ式のシールド。洗練されたデザインとは程遠いが、その圧倒的な質量感は、見る者に原始的な恐怖を与えるには十分だった。
「いいか、お前たち」
藤井は厳かに言った。
「我々は軍隊ではない。破壊が目的ではないぞ。第一目標はあくまで田所源蔵氏の『身体』という財産の保全。そして、彼らの違法な手続きを中断させることだ」
「わかってるって。……でもさ」
拓海がニヤリと笑い、ヘルメットのバイザーを下ろした。
「向こうの警備ドローンが、問答無用で撃ってきたら?」
「その時は」
藤井は懐から万年筆を取り出し、カチリと音を立ててキャップを外した。それは彼にとっての剣であり、指揮棒でもあった。
「正当防衛だ。私の孫たちに指一本触れさせるな。……結衣、電子戦開始!」
「了解! ターゲットの視界、ジャックするね!」
結衣がエンターキーを叩いた瞬間、車内の空気が変わった。
モニターの光が一斉に赤く明滅し、目に見えないデータの奔流が、雨の降る駐車場から施設へと向かって放たれる。それは国家という巨大なシステムに対する、小さな家族からの宣戦布告だった。
三色のラインが入ったチームロゴが、モニターの中で誇らしげに輝く。
「よし、行くぞ! カラーメイツ、出動!」
美咲と拓海がハッチを蹴り開け、灰色の雨の中へと飛び出していく。その背中は、どんな最新鋭のサイボーグ部隊よりも、藤井にとっては頼もしく、そして輝いて見えた。
シーン3:鉄と風の舞踏
爆裂音が夜気を引き裂いた。
特別養護老人ホームの南側外壁、その厚さ三十センチの強化コンクリートが、まるで濡れたダンボールのように内側へとひしゃげ、粉砕されたのだ。
噴き上がる粉塵と煙の向こうから現れたのは、歩く重機とも言うべき巨体――長男・拓海の『ヘラクレス』だった。
「おらぁッ! 道を開けな!」
拓海が咆哮する。彼のスーツの背面にある排気ダクトから、圧縮された蒸気がシュウウウッ!と白煙を上げて噴き出す。それはあたかも、怒れる猛牛の鼻息のようだった。
即座に、施設の防衛システムが起動する。
天井の格納ハッチが開き、円盤形の警備ドローン『T-28型』が三機、降下してきた。その赤外線センサーが、侵入者である拓海を捉え、無機質な赤色に発光する。
『警告。第一種防衛エリアへの不法侵入を確認。直ちに投降せよ。従わぬ場合は、致死性兵器の使用を許可される』
「許可? 笑わせんな。こちとら、そんなもん申請してねぇんだよ!」
拓海は一歩も引かず、正面から突っ込んだ。
ドローンのガトリング砲が火を噴く。タタタタタッ! という乾いた発射音と共に、劣化ウラン弾の雨が『ヘラクレス』の装甲に降り注ぐ。だが、拓海のスーツは、その名の通り神話級の頑強さを誇っていた。藤井家が特許を持つ「多層衝撃分散ラミネート装甲」が、着弾の衝撃を波紋のように拡散し、無効化していく。
「効かねえよ、そんな豆鉄砲!」
拓海の間合い。右腕のパイルバンカーが唸りを上げる。
ドガァァン!
金属と金属がぶつかり合う凄絶な音。拓海の拳がドローンの一機を捉え、その装甲を紙のように突き破った。内部の回路がショートし、ドローンは痙攣しながら崩れ落ちる。
残る二機が、脅威度を再計算し、距離を取ろうとバックステップを踏む。
だが、その背後はすでに「彼女」の領域だった。
「遅い」
天井の配管に張り付いていた影が、重力から解き放たれたかのように落下した。
長女・美咲だ。彼女の『シルフィード』スーツは、拓海とは対照的に、徹底的に音と気配を殺すことに特化している。
彼女が両手を交差させると、指先から極細の輝きが走った。
「特許技術『ナノ・カーボン・フィラメント』。あんたたちの安っぽい関節じゃ、この糸は切れないわよ」
美咲が着地と同時に腕を振り抜く。
空中に張り巡らされていた、肉眼では視認不可能なワイヤーが、バックステップしたドローンの脚部に絡みついた。
『駆動系、エラー。拘束されました。エラー、エラー』
「拓海、仕上げ!」
「おうよ!」
拓海が巨大なコンクリート片を掴み上げ、動きの取れないドローンに向かって豪快に投げつける。瓦礫の下敷きになり、二機目のドローンが沈黙した。
残る最後の一機が、美咲に照準を合わせようとする。しかし、そのセンサーカメラの映像が突如として歪み始めた。視界に無数の極彩色のノイズ――「笑うピエロ」や「踊るウサギ」の落書き――がオーバーレイされ、照準が定まらない。
『視覚センサー異常。論理バグ発生。再起動ヲ――』
車内の結衣からの電子攻撃だ。
「おやすみ、ポンコツさん」
美咲がドローンの背後に滑り込み、メインCPUの強制停止スイッチに、掌底を叩き込んだ。
バチバチッという音と共に、全てのドローンが機能を停止する。静寂が戻った廊下に、破壊された機械のオイルの匂いと、雨の匂いが混じり合う。
「クリア。……急ごう。本命はこれからよ」
美咲は呼吸ひとつ乱さず、最奥の部屋を見据えた。そこには、まだ救わねばならない命がある。
シーン4:法の番人と沈黙の法廷
集中治療室の前。電子ロックされた扉は、美咲のハッキングツールによって数秒で開放された。
プシューッという音と共に扉が開くと、そこには死を待つだけの冷たい空間が広がっていた。
「ゲンさん!」
美咲が駆け寄る。ベッドの上の田所源蔵は、先ほどよりも一層顔色が悪くなっていた。モニターのカウントダウンは【残り0:45】を示している。
「……バイタル、危険域。おじいちゃん、早く!」
遅れて入室してきた藤井哲也は、乱れた呼吸を整える間も惜しんで、ベッドの脇に立った。彼の足元には、浮遊型ロボットのB号が随伴している。
「間に合ったか……」
藤井は源蔵の顔を覗き込んだ。かつて町工場の油まみれの手で、藤井の壊れた万年筆を直してくれた友人。将棋盤を挟んで、「人間、死ぬまで現役だ」と笑っていた男。
その彼が今、システム上の「不要在庫」として廃棄されようとしている。
『鎮静剤投与完了。心停止プロセスへ移行します』
無慈悲なアナウンスが響く。
「させるか!」
藤井は叫び、懐から取り出した特殊なインターフェース・ジャックを、生命維持装置のメンテナンスポートへ力任せに突き刺した。
「B号、接続! 私の署名入りデータを流し込め!」
『了解。法廷闘争モード、起動』
B号の青い瞳が激しく明滅し、膨大なデータパケットが施設のホストコンピューターへと逆流を始める。
それはウイルスによる破壊工作ではない。
藤井哲也が生涯をかけて構築してきた、膨大な「法的書類」の束だった。
『エラー。システム割り込み発生。……特許権侵害の申し立てを受信』
AIの音声が戸惑ったように揺らぐ。
藤井は、まるで法廷に立っているかのように、虚空に向かって堂々と宣言した。
「田所源蔵の肉体、およびその記憶(尊厳)は、彼自身の固有財産である! いかなる国家権力といえども、所有者の明確な許諾なしに、この財産を滅失・毀損することは、憲法および知的財産基本法に対する重大な違反である!」
モニターのカウントダウンが【0:15】で止まる。
システムは、藤井が送り込んだ『即時差し止め請求』と『生存権確認訴訟』の膨大な条文処理にリソースを奪われ、物理的な安楽死プロセスを一時停止せざるを得なくなったのだ。
「……詭弁だ」
もしここにシステム管理者がいれば、そう叫んだだろう。
だが、AIは論理で動く。藤井の組み立てた法論理が、システム上の定義において「安楽死の実行=違法行為」というパラドックスを生み出した瞬間、AIは安全装置を作動させるしかなかった。
『……プロセス、中断。法的審査の完了まで、生命維持装置を再稼働します』
プシュー、コポコポ……。
再び酸素と栄養剤が供給され始め、源蔵の顔に微かに血の気が戻る。
藤井はその場に崩れ落ちそうになる体を杖で支え、友人の手を握った。
「……勝ったぞ、ゲンさん。まだ、終わらせんよ」
「おじいちゃん、撤収だよ! 警備の増援が来る!」
拓海が入り口で叫ぶ。
「ああ。連れて帰ろう。我々の家に」
美咲と拓海が手際よく源蔵をストレッチャーに移し、破壊した壁の穴へと運び出す。藤井は最後に一度だけ振り返り、沈黙した監視カメラに向かって、静かに一礼した。
それは、非人道的なシステムに対する、精一杯の皮肉と、勝利の宣言だった。
シーン5:見えない観測者
雨は、全てを洗い流すように降り続いていた。
藤井たちを乗せたワンボックスカーが、泥を跳ね上げて闇の中へと消えていく。そのテールランプの赤い光が滲んで見えなくなるまで、濡れたビルの屋上から彼らを見送る一つの影があった。
迷彩を施した戦闘服の表面を冷たい雨が流れ、顔のゴーグルにも水滴が付着していることも気にせず、一人立っていたのは、資源管理局保安隊隊長、結城香織の姿だった。彼女の体は冷たい雨に濡れながらも、その視線は熱を帯びていた。
「……へぇ。面白い」
香織は独りごちた。
彼女の頭部装着型AIである「アテナ」には、今しがた藤井が施設に流し込んだデータの残骸が傍受されている。
通常、テロリストやハッカーは、システムを「壊す」か「欺く」。だが、あの老人はシステムを「説得」し、自らのルールに従わせた。それは、物理的なハッキングよりも遥かに厄介で、そして人間臭い手口だった。
「隊長、どうする? 追うか?」
インカムからエリックの鋭い声が響く。彼もまた、別の監視地点で彼らを捕捉していたはずだ。
「いいえ。泳がせなさい」
香織は「アテナ」を装着したヘルメットに手を当てながら、立ち上がった。
「あの老人が主張した『人間の特許』……。もしそれが認められるなら、AI一体型隊長と呼ばれるわたしの権利はどうなるのかしらね」
「……哲学のお勉強かよ。俺には分からんね」
エリックが呆れたように鼻を鳴らす。
「それに、彼らが盗み出したのは友人だけじゃない。あの施設の『裏データ』も一緒に持ち出している可能性がある。……奴らがパンドラの箱をどう開けるのか、見届けさせてもらうわ」
「局長に伝えて。……『カラーメイツ』、監視対象Aに指定。私が直接マークする」
雨は激しさを増し、マリンサイド・エリアの澱んだ空気を叩きつける。
だか、その雨の向こうには、確かに小さな、しかし決して消えることのない「家族」という灯火が走り去っていた。
巨大なシステムに対する、極彩色の反乱が、今まさに始まろうとしていた。




