〈幕間〉神童は、やがて氷の雪となす(終)
そうして『天九位:神童』になって半年の月日が流れた。
二〇三三年 十二月。
雪愛はすっかりと慣れた海外合同任務の為に、アメリカ合衆国カルフォルニア州にある渓谷へと足を運んでいた。
それはうんと寒い日だった。
この日はアメリカ側の指揮官が、天階位の『天七位:魔女』という貴重な機会もあって、日本側は後方支援することが決まっていた。
日本からは二十名。アメリカから三十名と足して五十人の大部隊だった。
任務内容は、混合独立犯罪組織の壊滅。
ここ数年で殺人、強盗の類を一般者に繰り返した組織で、更にそれを信仰するかのように続々とはぐれ術師達が集まり、組織が活性化し始めているので壊滅命令が出た。
渓谷に洞窟や地下に、結界を張った術斎を構えているらしく、日本人の魔術師と陰陽術師も何人か所属していることが、陰陽機関との情報交換により伝わっていた。
何よりも味方である指揮官のエノア・アトレアという女が、恐ろしい程の凶暴性を備えているとかで、東京支部の先輩は、エノアには決して何があっても刃向かわない事の旨を、事前の打ち合わせで釘を刺していた。
そして雪愛達は、エノアの部隊と合流するも挨拶や交流の類は一切無かった。ただお前達は、後方支援に徹してればいいと言わんばかりの態度だった。
東京支部の皆は、それでも最低限の任務を手早くこなし、すぐさま帰国するつもりだった。
やがて襲撃が成功した所で、敵の数人が命乞いをしてきた。
日本なら状況にもよるが、敵が命乞いをして来たならばイギリスにある【地下監獄】に送り届けて、終わらせる事もままある。
それに今回の任務は、抹殺命令ではなく組織の壊滅命令なので、そこに人命の有無は二の次だ。任務に支障が出るなら殺し、そうでないなら殺さなくていい。
しかしエノアが下した命令は、慈悲など一切無き処刑そのものだった。
当然エノアは、命令通り任務を遂行している。何一つ間違っていないのかもしれない。
言っても敵は犯罪者だ。卑劣な行為で人の命を奪ってしまうような奴ら。自分達だけが生きたいなんてそれこそ虫が良すぎるというもの。
――――分かってる……でも。でも……。
そこで雪愛は、自分の心に深く亀裂が入っている事に、初めて気付いた。
強く、強く奥歯を噛みしめ、拳を握りしめた。
――――本当に、このままでいいの?
気付いた時には、己の魔気血管を通して魔力が流動していた。
結果的に先輩に止められたりもしたが、エノアの思想に背く形となった雪愛は、取引を持ちかけられた。
エノアに持ち出された条件は、命乞いをしている犯罪者が処刑されるか、雪愛がエノア自身と手合わせするかの二択だった。
いくら日頃から鈍感な方の雪愛でも、エノアが言う『手合わせ』とは、そのまま言葉の通りだとは思わなかった。でもチャンスが貰えたなら雪愛の答えは一つだけだった。
「……分かりました。やります」
この時の雪愛は、決して自分の実力に驕っていた訳では無い。
むしろ怖くて怖くて仕方がなかった。
だって今自分の目の前にいるのは、『天七位:魔女』の中でも【火焔の魔女】という現役階位持ち魔術師であるのだから。
震えない理由が無かった。
怯えない理由が無かった。
でも目の前で不必要な殺人が起こり、それをただ呆然と見ている自分がいるのなら、それはどんな恐怖よりも怖いモノだと思ったから。
まだ自分が戦って何かを変えられるチャンスがあるのなら、それにすがりつく。
だから――ここで戦わない理由も無かった。
これが当時の雪愛に出来る精一杯の、心の保ち方だった。
そうして『手合わせ』という名の『殺し合い』が始まった。
序盤から互いに譲らず周囲の部下から見る状況は、互角に見えただろう。雪が降り積もる状況的にも雪愛に分がある。
しかし実際の所、そんな事微塵も感じさせない程に、エノア優勢な状態が続いていた。
それほどに彼女の、エノア・アトレアという女の剝き出しになった野生動物の如き獰猛さ、凶暴性、怒り、その全てからくる『飢え』は、常軌を逸脱していた。
雪愛はその気迫に負けないよう、抵抗するだけで必死だった。
『どうした~神童? まさかこんな所で終わりだ、なんて言うなよ』
「―――くっ」
『まさかお前の正義感は、そんな口だけの安っぽいものだった、なんて言うなよ?』
迫りくる火焔の渦。それを雪風で逸らす。
その後も勢いが衰えるどころか威力は増し、放射数は増え、しつこいくらいそれが続く。
エノアの魔気血管の解放数は、それはもう圧倒的だった。
化け物みたいな解放数を誇る彼女と魔術の打ち合いをして勝ち目なんてあるのか。そう思った時には、膝は折れる様に地面へと突いていた。
『おいおい、正気か神童? 冗談ならさっさと立て』
容赦なく迫りくる火焔の渦。
雪愛は既に魔力切れを起こす寸前だった。
なけなしの魔力で、生成した薄い氷雪膜を張るのが限界で、火焔の渦を弾ける訳も無く、雪愛は後方に吹っ飛ばされた。焼き焦げて死ぬ事は無かったのが幸いだった。
視界は霞み、意識は朧気。
地面に積もった雪が、火照った身体に染み渡るようで少し気持ちよかった。
『チッ』
エノアは失望とも幻滅ともとれる眼差しで、寝転がる雪愛を一瞥し、何事も無かったかのように別方向へと歩き出した。
この時点で雪愛は、意識を途切れないようにするので精一杯だった。
刹那――
『ウヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
それは、突然の男の悲鳴だった。
『ウヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
続けて、悲鳴。一人目と声質だけが違った。
何事かと。雪愛は重い瞼を持ち上げ、悲鳴の聞こえる方を向いた。
雪愛は自分の目を疑った。疲労で幻覚でも見ているのかとも思った。
瞼を擦る。見る。変わらなかった。それは幻でもなく只々容赦のない現実だった。
それは人間で言う所の頭。
その頭部だけが焼けるように燃えていた。
燃える頭部を両手で握り潰すように掴んでいるのはエノア。
悲鳴の正体は、先程命乞いをした数名の内の二名だった。
それはまさに死ぬ直前の、断末魔の叫びだった。
「…………何で……で、何で⁉」
雪愛は喉から掠れるような声を出し、手を伸ばす。
『ウヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
三度目の頭部燃焼。断末魔の叫び。
雪愛はゆらゆらと放心状態で立ち上がっていた。
立ち上がった雪愛を、ゴミでも見るような侮蔑の眼差しでエノアは見る。
「な……何やってるんですか⁉ 私と手合わせしたらその者達には手を出さないって」
『手合わせ……あれで私と殺し合いしたつもりか?』
最早原型を留めていない黒焦げになった頭部は、胴体から千切れるように切り離されており、エノアはその黒塊を適当に投げ捨て、次のターゲットに決めた男の髪を引っ張るように持ち上げた。
『ヒッ⁉』
持ち上げられたターゲットは、事前に仲間が燃え死ぬ現場をまじまじと見せられたせいか、恐怖の余り顔が捻じれ、ズボンが濡れていた。
『ウ、ウ、ウ、ウヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
四度目の頭部燃焼。断末魔の叫び。
「やめて‼」
凹凸の粗が目立つ氷弾を数十発生成し、エノアに向けて乱雑に射出された。
それに対しエノアは、フン、と鼻で笑うよう指を鳴らし、全弾を溶かし尽くした。
『……フフッ……死んだ。死んだぞ。お前が半端なせいで、四人、死んだぞ?』
楽しそうに、嬉しそうに愉悦の貌を浮かべるエノア。
「…………私の……せい」
『そうだ。お前が半端な正義感を掲げたせいで、こいつらはさっさと首を刎ねられて楽に死ねたはずなのに、一度助かるっていう安堵を得て殺された。どんな殺人よりも卑劣だ。神童、実はお前って結構イカレサディストなんだな』
エノアは、嘲弄の狂を浮かべ五人目に近寄る。
『お、おい……待って、や、やめてくれ………お願いだ。さっきそこの姉ちゃんのお陰で俺達は地下監獄行きで済んだ筈じゃなかったのか?』
「あっ……」
日本人だった。
『黙れ犯罪者』
『ヒッ……ア、ウヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
五度目の頭部燃焼。
燃える寸前、その者が雪愛を憎むような眼で睨んでいたのを雪愛は見ていた。
髪が燃え、焦げた後の硫黄ガス染みた、厭な臭い。
皮膚が溶け、捲れ、焦げた後の酸味の残る不完全燃焼臭。
ぐじゅぐじゅに濃縮された、熟成された脳味噌が焼け、上からバーナーで炙らように焦げた、血泥鉄臭さ。
それら全てが混ざり合った、不快刺激臭。
「あ……あ、っ……あぁ…………あぁ」
雪愛は呼吸が乱れ、喉が締め付けられる。酸素が足りない。
片手を雪面に突いた。
もう片方の手で喉の気道を広げようにも意味もなく触る事しか出来ない。
脳が正常に働かない。
死際の日本人が、雪愛を憎むように睨みつけていたその眼が脳にこびりついて離れない。
頭部だけが燃える五人の遺体。首から下が無い黒の塊。
雪愛はついにガンと頭を雪面にぶつけるように倒れた。無意識に瞳から涙が零れる。
――私のせいで死んだ? 殺してないのに、何で。私はただ、戦ったのに?
元々ひび割れていた心に、メキメキと音を立てるように亀裂が入る。
『興が逸れた。おい、残りの奴らを抹殺しろ』
『ハッ!』
鼻白んだエノアは、部下に抹殺命令を下す。
『ウヴァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
六度目。断末魔の叫び。
その叫びを雪愛は、まるでお前が裏切ったんだと恨むような叫喚にも聞こえ、六人の悲鳴が脳内で反響し合う。
――やめて。やめて。やめ……っ、て。もう……や、めて、下さ、い。
…………お願い、します。お願い、だから……オネガイ……私が、ダメだったの……わたシが。
わタシ、ノせい?
……ワタ……コレが――――マジュツ、シ、ナノ?
パリンッ‼
硝子が粉々に砕け散るように、そこで雪愛のココロが、何か大切なモノが………………………コワレタ。
——刹那。
一箇所を起源に、爆発的に魔力の波状が奔流するように広がった。
空間が、
音が、
魔気が、
パキンィと凍り付いた。
野生の危機感を持つエノアは、反射的に魔力で編み上げた防壁を張って凌いだが、それ以外の者は全て―――――凍結していた。
『―――っ?』
のろのろと立ち上がる雪愛。
周囲には粉雪が不規則に乱れ舞う。
その瞳には、喜びも、憎しみも、悲しみも、何も映さない。
光すらも反射させない瞳に広がるのは、虚無の空間。
『……フフッ。やれば出来るじゃないか……』
エノアは火弾を生成しようと指を鳴らしかけて、自分の指が動かない事に気付く。よく見ると右腕全体を包みこむように凍り付いていた。
この寒さの中、いや今日初めてエノアは、額に薄っすらと水滴を浮かべた。
何より自分が凍結したことに後から気付くという現象は、エノアの想像を数段階も上回っていた。
すかさず鋭利な氷槍が異常な速度で走り抜け、エノアの凍結した右腕に直撃、粉々に粉砕した。
『……フ、フフ。フハハハハハ‼』
片腕を失ったエノアは、狂うように頬を歪ませ後方に飛ぶ。今度はその足が凍り付いた。
次こそは同じ轍を踏まないようと、瞬時に魔力を循環させ、氷を溶かし、高速で雪面を横切るように走っていく。
神経を最大限まで研ぎ澄ませエノアは、火弾を高速で生成し、百発以上も撃ち込んだ。
火弾は雪愛の逃げ道を防ぐように展開している。
それら全ての火弾が囮。
今の雪愛から漏れ出る魔力の『質』が今までと段違いな事に対しての。
勿論、百発以上の火弾は全て、空中で凍結していた。
その数秒間の時間を作りながらエノアは、呟くように口を開く。
『―――使用属性=火―――固定』
今日初めてエノアが【属性魔術】の簡易詠唱を唱え始める。
『―――形態変化=龍状、放射―――完了』
足に急ブレーキをかけ、残った左手を雪愛に向ける。
『焼き殺せ…………火焔龍!』
式区を終えたエノアの左手から、二メートル程の火の形をした龍が生成される。
それは不死鳥のような美しさを伴っていた。
火焔龍は勢い良く翼を羽ばたかせ、雪愛に突撃する。
近づけば発火。
触れれば全焼。
喰われれば灰塵。
雪面は一瞬で溶け、水は蒸発し、地面は跡形もなく焼き焦げた。
異常な速度で火焔龍が雪愛に近づくこと一メートル。
パキンィ! と甲高い音が波状する。
残り数センチの所で火焔龍の動きが、ピタリと止まった。
エノアは今度こそ時が停止したように感じ、瞬きすら忘れその現象に目を見張らせた。
何故なら今現在、雪愛の前には、火焔龍の氷彫刻が出来上がっていたのだから。
美しい氷彫刻の周辺を結晶が舞い踊り、光を反射させる。
最早それは――神秘すら感じさせる芸術だった。
『ッ……‼』
その美しさに、有り得ない現象に一瞬だけ目を奪われたエノアは、突然胃からこみ上げてくる血を吐いた。
気づけば自身の身体に、氷槍や氷剣が何本も身体に突き刺さっていた。
そしてエノアの足元から徐々に氷が這いずるように全身を駆け上り、やがて数秒後には全身が凍結した。
「…………私の…………せい」
雪愛は、その場に倒れた。
やがて意識は混沌の闇へ飲み込まれ、渓谷には吹雪が駆け抜けていった……。
齢十七にして彼女が手に入れたモノ。
それは精神崩壊と、表向きの対処罰則として三ヶ月間の『特殊犯罪部門』への移動。
そして最後に魔術師にとって至高の階位が与えられた。
―――『天七位:魔女』―――
女魔術師の名は橋永雪愛。
別名、二つ名、異名、呼び方は数あれど皆はその者の魔術名を―――『氷雪の魔女』と呼んだ。




