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第7話 夜明け前の静寂

夜が、沈黙を脱ぎ捨てようとしていた。

白金の塔の上空で、最初の光が空気を震わせる。

それはまだ“朝”と呼ぶには淡く、闇が手を離したばかりの世界を、そっと撫でる程度の明るさだった。


聖域(サンクトゥム)学園(アカデミア)は、眠ってはいなかった。

塔の壁面を走る細い符文が、夜のあいだも静かに脈を打ち続けている。

人が眠る間も、石は祈り、光は循環する。

この場所では、呼吸するのは生徒でも教師でもない。

塔そのものが、生きている。


白金の外壁は、日の出前でも光を拒まない。

その材質は金属でも石でもなく、光を記憶するためだけに創られた聖質。

昼には陽を反射し、夜には星を吸う。

そして今、その表面には、まだ誰も知らない朝の模様が描かれていた。

薄い霧が流れ、光の帯が、ゆっくりと塔を包み込んでいく。


宿舎の窓からその光を見たアルトは、思わず息を止めた。

静謐という言葉はこのためにある。

音が存在しないのではない。

すべての音が、あまりにも均等で、区別ができなくなるほど整っているのだ。


塔の根元には、円形の広場がある。

そこに向かって白い道が七本、星のように伸びている。

それぞれの道の起点には、帝国の七つの区域を司る主神の像が立つ。

光と水と火、風と土と天、そして闇。

像はただ在るだけで、秩序の骨格をつくっていた。


最初に光を受けるのは、東の第一ルーメリア区の像。

両の掌に輪を宿す光の女神アグライアが、夜明けを掲げる。掌の輪が淡く燃え、塔へ薄金の反射を送る。祈りと倫理の都の主神は、ここでも最初の一打を担っている。


そこから光は、南東の第二アクアリス区へ渡る。

水晶で象られた水の女神アムピトリーテーは、常に薄い水膜をまとい、集めた朝霧を足元の泉へ返す。彼女の周囲だけ、空気がやわらかく潤む。


さらに光は南の第三イグナリア区へ跳ね、

火の神カグツチの掲げる刃に紅が灯る。刃の赤は塔の根を染め、石の紋に微かな熱紋を走らせる。鍛造と情熱の都から来る者たちの心拍が、遠いところで共鳴するようだ。


南西の第四ヴェントリア区では、四面体の像が順に光を受ける。

四身一体の風神アネモイ——北風ボレアース、西風セビュロス、南風ノトス、東風エウロス——が面替わりで紋を浮かべ、風の(みち)を示す。季節によって主面が移ろうのは、この像だけの癖だ。


西の第五テレニア区に立つのは、ゆるやかな量感の像。

大地の神ガイアは台座から蔓を伸ばし、苔のしずくを受け止めている。塔の土台と像が見えない根で繋がっているのか、光が触れるたび、地脈の低い唸りが足裏に戻ってきた。


北西の第六アストリア区に目をやれば、

天文神アストレイアが天を仰ぐ。まだ星は薄いのに、その瞳は星図を忘れない。朝の斜光が冠にかすかに散り、塔の上空に薄い幾何学を描いた。


最後に光は北の影へ落ちる。

第七ノクテリア区の冥府神ハデスの像だけは、他像と違って手を下げ、影を司る。彼の足元にだけ、朝の影が濃く沈む。光はめぐり、影は止まる。だが止まった影こそが、めぐる光の輪郭を与えている。


七柱は互いに顔を見合わせることはない。

それでも、塔に向けられた視線はひとつに収束する。

祈りであり、監視でもある視線。

神々ですら、この場所を“見張っている”。


宿舎の時計が低く鳴り、まだ六の刻にも満たないことを告げた。

アルトは靴を履き、静かに部屋を出る。

廊下はもう灯っている。夜のあいだに一度すべての灯が落ち、順番に点り直されているらしい。人の手か、塔の自動かは分からない。


外へ出ると、空気はひときわ澄んでいた。

霜の粒が白い道に散り、七本の路が薄く輝く。

輪郭だけが先に現れ、色はまだ塗られていない——世界の下描きのような朝。

アルトは塔の根元へ歩く。

一歩ごとに、靴底の下で聖印が微かに点滅した。

塔が訪れる者の重みを覚える。

教師の帳面は要らない。ここでは塔が出欠を取る。


鐘楼が一つ、そして遅れて塔の内側が一つ、音を打った。

金属の共鳴が皮膚の裏を撫でる。

“見られている”という感覚が背筋を走る。

ふと、風が止んだ。

空気の目に見えない糸が、一本だけ、逆向きに張りなおされる。

前夜と同じ感覚だ。

ほんの刹那、塔の光が逆流した。

霧がその変化を包み隠し、次の瞬間には何事もなかった顔に戻る。


「……気のせい、か。」


最上部は霧に隠れ、空と同化している。

あそこに何があるのか——神が降りた最初の地、と学院史は記す。

だが彼は、その“神”という言葉にどうしても馴染めなかった。

測定不能の結果が、そこに理由を持つのかもしれないと一瞬考える。

けれど確かめる術はない。


白い道の先で鳥が羽ばたき、塔の周りで一度だけ輪を描いた。

その軌跡が光の筋を切り、筋の欠片が頬に触れる。

冷たいはずの空気に、わずかな温度が生まれた。


遠くで人の声がし、寮の窓がいくつか開く。

“場所の時間”に、ようやく“人の時間”が追いついてくる。

聖域の機構が完全に覚醒する前の、短い余白。


アルトは息を吸い込んだ。

冷たい空気が肺を満たし、心臓が塔の鼓動に合わせて一度だけ脈打つ。

光は七柱をめぐり、影はその輪郭を縫い止める。

秩序は今朝も完成している。

そして、その秩序の中心で、まだ誰にも知られていない“反転”が、小さく息をしていた。

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