表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/12

第6話 夜の寮と、新たなる影

宿舎の廊下は、夕餉のあとの皿の匂いをほんのわずかに残して、早くも夜の静けさへ沈みはじめていた。

白い石壁は昼間より青く、窓の縁にかかった薄布が、塔のほうから吹いてくる乾いた風を受けてわずかに揺れる。

足音が吸い込まれていく。整えられた空間は、音まで秩序立てて並べてしまう。


食堂は広く、天井の梁に沿って温かな灯が点っていた。

列に並ぶ新入生たちは、背丈や髪の色こそ違えど、顔に浮かべる影がどこか似ている。

期待の影、不安の影、それから自尊の小さな角。

アルトは盆を持って、窓際の席に腰を下ろした。

スープは透明で、塩気が薄い。舌の上をすり抜けていく味。

火の街の濃さを思い出すと、すべてが遠く感じられた。


「隣、いい?」

声に顔を上げると、カレンが盆を持って立っていた。

昼間の熱気が嘘みたいに、頬は少しだけ冷えて見える。

「どうぞ、お嬢様。」

「そういうの、やめて。」

笑って腰を下ろす。

彼女の皿は野菜が多い。祈りと同じで、選び方にも節度があるのだろう。


「明日、何があっても前を見て。」

スプーンを口へ運びながら、カレンが言う。

「何があっても?」

「うまくいく時も、いかない時も。ここは――“見ている場所”だから。」

アルトは窓の外を見た。

白金の塔の上に、まだ夜は降りていない。

「見られるのは慣れてない。」

「見返せばいいわ。」

「……それは得意だ。」


二人の間の沈黙は、痛まない。

沈黙の居場所を知っている者同士にしか持てない静けさだ。

やがて、遠くの席で小さなどよめきが起きた。

誰かが立ち上がり、両手を振ってこちらへ。

陽の色を連れてくるような、無駄に明るい歩幅。


「おいおいおい、まさか本当にここで会うとは! ――アルト!」

声が近づくより早く、腕が肩を叩いた。

茶色の髪を適当に結った少年。笑えば歯が白い。

彼の背中に、自由な風が一匹、しがみついているみたいだった。

「ハルト・ノース。」

アルトが名を呼ぶと、少年は大袈裟に胸に手を当てた。

「第四ヴェントリア区の暴れ風、ただいま参上。いやー、帝都の空気は軽い! ノクテリアの相棒と再会、めでたい! ――おっと、カレン嬢もお久しぶりです!」

「久しぶり。落ち着きは……相変わらず無いのね。」

「誉め言葉として受け取っておく!」


ハルトは勝手に椅子を引き、盆を置いた。

皿の上は肉とパンで埋まっている。

「食わないと風は回らん。で、アルト、測定の件、聞いたぞ。」

「誰から。」

「誰でもさ。耳ってのは風に開いてるものだろ? ――で、どうなんだ?」

「どうもこうもない。機械が眠かったんだろ。」

「はは、そうかもな。あの輪っか、退屈そうだったし。」

軽口に見えて、眼差しは案外よく見ている。

ハルトは昔からそうだ。冗談の裏に、他人の痛みの形を置いておく。


「明日の式までは班もクラスもないらしい。今日くらいは騒いでいこうぜ。」

「騒ぐのは明後日にして。明日は式だもの。」

カレンがやわらかく釘を刺すと、ハルトは肩をすくめた。

「了解、境界の姫君。じゃあ今夜は静かに――風の音だけでいこう。」

「風の音が一番うるさいのよ。」

三人の笑いが、規律の灯にほどよく混ざって消えていく。


食後、共用の湯場へ向かう廊下は、人の熱と薬草の香りが薄く漂っていた。

窓から覗く中庭の芝は、均一に刈られ、風が通るたびに一斉に寝返りを打つ。

アルトは自室へ戻る途中、掲示板の前で立ち止まった。

明日の予定表、集合場所、注意書き。

そこに名前の列はなく、区ごとの区分もない。

「同じ学年は、同じ“群れ”であること。」

最後の一行だけが、なぜか祈りの文句のように見えた。


夜が深まりはじめると、宿舎はさらに静かになった。

扉の開閉の音、遠い笑い声、水音――それらが層になって、上から薄紙をかけられていく。

アルトは窓を開け、外を眺めた。

塔は白く、近いのに遠い。

“整っている”というだけで、距離はこんなにも生まれるのかと、少し笑えた。


「よぉ。」

背後から小声。振り向くと、扉に影がふたつ。

ハルトと、湯上がりらしいカレンだった。

「散歩。」

「夜の空気、吸っておきたくて。」

三人で廊下を歩く。

消灯前の灯は低く、床に敷かれた幾何学模様が淡く浮いていた。

庭へ降りる階段の手すりは冷たく、指先から体の熱が抜けていく。


中庭は、塔の影の縁にあった。

噴水は音を細く絞り、花壇は夜色に沈む。

遠くの巡回灯が、規則正しく角を曲がるたび、影が粒のように散った。

ハルトが大きく伸びをする。

「……静かだ。風が寝てる。」

「あなたが起こさないでね。」

「夜にはやさしくする主義だ。」

その声まで、夜に合わせて低くなっている。

カレンは石縁に腰をかけ、膝の上で指を組んだ。

「ノクテリアの夜を思い出すわ。」

「同じ夜でも、匂いが違う。」

「ここは香油。向こうは雨と土。」

短い言葉が、遠い故郷の輪郭を描いた。


「なぁアルト。」

ハルトが横顔を覗き込んだ。

「お前、怖いか?」

「何が。」

「明日から、群れに入ること。」

アルトは少しだけ考えた。

「怖いのは……誰も俺を見ないこと、かな。」

「へぇ、珍しい。見られたくないが、見られなさすぎると困る、と。」

「勝手だろ。」

「人間はだいたい勝手だ。――でも、俺は見るぜ。カレンも見る。」

「もちろん。」

カレンの声は細いが、強く届く。

「見られたくない時は?」

「その時は、目を閉じておくわ。」

冗談みたいに言って、彼女は微笑んだ。


そのときだった。

空気の目に見えない糸が、一本だけ、逆向きに張りなおされたように感じた。

風は吹いていない。水も鳴らない。

それなのに、世界の表皮が“裏返って光る”一瞬がある。

塔の最上部――白金の環が、かすかに陰った。

ほんの呼吸一つ分。

見えていない者には決して見えず、見ている者には確かに見える、その種の変化。


「……今、揺れた?」

カレンが囁く。

「気のせいだろ。」

ハルトは首を傾げ、空を嗅ぐみたいに鼻で息をした。

「風は反対に流れない。流れる“道”が反対になることはあるけど。」

「難しいこと言うな。」

アルトは塔を見たまま、胸の護符を指でなぞった。

金糸の縫い目が、心拍と同じ速度で、ほんの少しだけ温かった。


巡回灯が近づき、三人は立ち上がった。

「俺、部屋戻るわ。明日、寝坊して怒られるのはゴメンだ。」

ハルトは肩を回して、気楽な調子で手を振る。

「おやすみ、風の人。」

「おやすみ、境界の人。」

「……おやすみ、灰の人。」

最後の言葉に、アルトは目を細めた。

悪くない呼び名だ。今夜は、とくに。


廊下を戻る途中、掲示板の前に小さな人だかりができていた。

「明日の導入、集合は講堂前。――クラス分けは無し、以上。」

係の声が淡く弾む。

誰かが安堵し、誰かが肩を落とす。

比べる相手がいないと、人は自分だけに向き合うしかないから。

アルトは人だかりを避け、階段を上がった。


部屋に戻ると、空気はひんやりしていた。

窓を少しだけ開け、机の上に護符を置く。

針目の中に、母の時間が眠っている。

ベッドに腰を下ろし、靴を脱ぐ。

誰もいない小さな空間に、今日の足音がやっと止まった。


扉が軽く叩かれた。

「アルト。」

カレンの声。

開けると、廊下の灯の下で彼女がまっすぐ立っていた。

「明日、――最初の一歩だけ、一緒に歩いてくれる?」

「俺は並んで歩くのは苦手だ。」

「大丈夫。歩幅を合わせるのは、私の方。」

彼女は微笑み、ほんの短い沈黙がふたりの間を通り過ぎた。

「おやすみ。」

「おやすみ。」

扉が閉まる瞬間、塔の方角から、遠い鐘の音がひとつだけ落ちてきた。


床に横になると、目の裏側で今日の光景が交代で現れては消える。

灰の街、炎の街、白い塔。

そして、空気が一度だけ反転した夜。

眠りに落ちる直前、アルトは思った。

――見られることより先に、見ることを覚えないといけない。


目を閉じる。

聖域の夜は、静かに均されていく。

けれど、その均し目のどこかで、世界の小さな皺が、呼吸を続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ