第6話 夜の寮と、新たなる影
宿舎の廊下は、夕餉のあとの皿の匂いをほんのわずかに残して、早くも夜の静けさへ沈みはじめていた。
白い石壁は昼間より青く、窓の縁にかかった薄布が、塔のほうから吹いてくる乾いた風を受けてわずかに揺れる。
足音が吸い込まれていく。整えられた空間は、音まで秩序立てて並べてしまう。
食堂は広く、天井の梁に沿って温かな灯が点っていた。
列に並ぶ新入生たちは、背丈や髪の色こそ違えど、顔に浮かべる影がどこか似ている。
期待の影、不安の影、それから自尊の小さな角。
アルトは盆を持って、窓際の席に腰を下ろした。
スープは透明で、塩気が薄い。舌の上をすり抜けていく味。
火の街の濃さを思い出すと、すべてが遠く感じられた。
「隣、いい?」
声に顔を上げると、カレンが盆を持って立っていた。
昼間の熱気が嘘みたいに、頬は少しだけ冷えて見える。
「どうぞ、お嬢様。」
「そういうの、やめて。」
笑って腰を下ろす。
彼女の皿は野菜が多い。祈りと同じで、選び方にも節度があるのだろう。
「明日、何があっても前を見て。」
スプーンを口へ運びながら、カレンが言う。
「何があっても?」
「うまくいく時も、いかない時も。ここは――“見ている場所”だから。」
アルトは窓の外を見た。
白金の塔の上に、まだ夜は降りていない。
「見られるのは慣れてない。」
「見返せばいいわ。」
「……それは得意だ。」
二人の間の沈黙は、痛まない。
沈黙の居場所を知っている者同士にしか持てない静けさだ。
やがて、遠くの席で小さなどよめきが起きた。
誰かが立ち上がり、両手を振ってこちらへ。
陽の色を連れてくるような、無駄に明るい歩幅。
「おいおいおい、まさか本当にここで会うとは! ――アルト!」
声が近づくより早く、腕が肩を叩いた。
茶色の髪を適当に結った少年。笑えば歯が白い。
彼の背中に、自由な風が一匹、しがみついているみたいだった。
「ハルト・ノース。」
アルトが名を呼ぶと、少年は大袈裟に胸に手を当てた。
「第四ヴェントリア区の暴れ風、ただいま参上。いやー、帝都の空気は軽い! ノクテリアの相棒と再会、めでたい! ――おっと、カレン嬢もお久しぶりです!」
「久しぶり。落ち着きは……相変わらず無いのね。」
「誉め言葉として受け取っておく!」
ハルトは勝手に椅子を引き、盆を置いた。
皿の上は肉とパンで埋まっている。
「食わないと風は回らん。で、アルト、測定の件、聞いたぞ。」
「誰から。」
「誰でもさ。耳ってのは風に開いてるものだろ? ――で、どうなんだ?」
「どうもこうもない。機械が眠かったんだろ。」
「はは、そうかもな。あの輪っか、退屈そうだったし。」
軽口に見えて、眼差しは案外よく見ている。
ハルトは昔からそうだ。冗談の裏に、他人の痛みの形を置いておく。
「明日の式までは班もクラスもないらしい。今日くらいは騒いでいこうぜ。」
「騒ぐのは明後日にして。明日は式だもの。」
カレンがやわらかく釘を刺すと、ハルトは肩をすくめた。
「了解、境界の姫君。じゃあ今夜は静かに――風の音だけでいこう。」
「風の音が一番うるさいのよ。」
三人の笑いが、規律の灯にほどよく混ざって消えていく。
食後、共用の湯場へ向かう廊下は、人の熱と薬草の香りが薄く漂っていた。
窓から覗く中庭の芝は、均一に刈られ、風が通るたびに一斉に寝返りを打つ。
アルトは自室へ戻る途中、掲示板の前で立ち止まった。
明日の予定表、集合場所、注意書き。
そこに名前の列はなく、区ごとの区分もない。
「同じ学年は、同じ“群れ”であること。」
最後の一行だけが、なぜか祈りの文句のように見えた。
夜が深まりはじめると、宿舎はさらに静かになった。
扉の開閉の音、遠い笑い声、水音――それらが層になって、上から薄紙をかけられていく。
アルトは窓を開け、外を眺めた。
塔は白く、近いのに遠い。
“整っている”というだけで、距離はこんなにも生まれるのかと、少し笑えた。
「よぉ。」
背後から小声。振り向くと、扉に影がふたつ。
ハルトと、湯上がりらしいカレンだった。
「散歩。」
「夜の空気、吸っておきたくて。」
三人で廊下を歩く。
消灯前の灯は低く、床に敷かれた幾何学模様が淡く浮いていた。
庭へ降りる階段の手すりは冷たく、指先から体の熱が抜けていく。
中庭は、塔の影の縁にあった。
噴水は音を細く絞り、花壇は夜色に沈む。
遠くの巡回灯が、規則正しく角を曲がるたび、影が粒のように散った。
ハルトが大きく伸びをする。
「……静かだ。風が寝てる。」
「あなたが起こさないでね。」
「夜にはやさしくする主義だ。」
その声まで、夜に合わせて低くなっている。
カレンは石縁に腰をかけ、膝の上で指を組んだ。
「ノクテリアの夜を思い出すわ。」
「同じ夜でも、匂いが違う。」
「ここは香油。向こうは雨と土。」
短い言葉が、遠い故郷の輪郭を描いた。
「なぁアルト。」
ハルトが横顔を覗き込んだ。
「お前、怖いか?」
「何が。」
「明日から、群れに入ること。」
アルトは少しだけ考えた。
「怖いのは……誰も俺を見ないこと、かな。」
「へぇ、珍しい。見られたくないが、見られなさすぎると困る、と。」
「勝手だろ。」
「人間はだいたい勝手だ。――でも、俺は見るぜ。カレンも見る。」
「もちろん。」
カレンの声は細いが、強く届く。
「見られたくない時は?」
「その時は、目を閉じておくわ。」
冗談みたいに言って、彼女は微笑んだ。
そのときだった。
空気の目に見えない糸が、一本だけ、逆向きに張りなおされたように感じた。
風は吹いていない。水も鳴らない。
それなのに、世界の表皮が“裏返って光る”一瞬がある。
塔の最上部――白金の環が、かすかに陰った。
ほんの呼吸一つ分。
見えていない者には決して見えず、見ている者には確かに見える、その種の変化。
「……今、揺れた?」
カレンが囁く。
「気のせいだろ。」
ハルトは首を傾げ、空を嗅ぐみたいに鼻で息をした。
「風は反対に流れない。流れる“道”が反対になることはあるけど。」
「難しいこと言うな。」
アルトは塔を見たまま、胸の護符を指でなぞった。
金糸の縫い目が、心拍と同じ速度で、ほんの少しだけ温かった。
巡回灯が近づき、三人は立ち上がった。
「俺、部屋戻るわ。明日、寝坊して怒られるのはゴメンだ。」
ハルトは肩を回して、気楽な調子で手を振る。
「おやすみ、風の人。」
「おやすみ、境界の人。」
「……おやすみ、灰の人。」
最後の言葉に、アルトは目を細めた。
悪くない呼び名だ。今夜は、とくに。
廊下を戻る途中、掲示板の前に小さな人だかりができていた。
「明日の導入、集合は講堂前。――クラス分けは無し、以上。」
係の声が淡く弾む。
誰かが安堵し、誰かが肩を落とす。
比べる相手がいないと、人は自分だけに向き合うしかないから。
アルトは人だかりを避け、階段を上がった。
部屋に戻ると、空気はひんやりしていた。
窓を少しだけ開け、机の上に護符を置く。
針目の中に、母の時間が眠っている。
ベッドに腰を下ろし、靴を脱ぐ。
誰もいない小さな空間に、今日の足音がやっと止まった。
扉が軽く叩かれた。
「アルト。」
カレンの声。
開けると、廊下の灯の下で彼女がまっすぐ立っていた。
「明日、――最初の一歩だけ、一緒に歩いてくれる?」
「俺は並んで歩くのは苦手だ。」
「大丈夫。歩幅を合わせるのは、私の方。」
彼女は微笑み、ほんの短い沈黙がふたりの間を通り過ぎた。
「おやすみ。」
「おやすみ。」
扉が閉まる瞬間、塔の方角から、遠い鐘の音がひとつだけ落ちてきた。
床に横になると、目の裏側で今日の光景が交代で現れては消える。
灰の街、炎の街、白い塔。
そして、空気が一度だけ反転した夜。
眠りに落ちる直前、アルトは思った。
――見られることより先に、見ることを覚えないといけない。
目を閉じる。
聖域の夜は、静かに均されていく。
けれど、その均し目のどこかで、世界の小さな皺が、呼吸を続けていた。




