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第5話 白金の塔、反転の影

火の都を背に歩くと、風が変わった。

イグナリア区の空気には、鉄と油の匂いがあった。

だがその匂いは、坂をひとつ越えるごとに薄れていく。

風の流れが赤から白へ、熱から冷へと、ゆっくり入れ替わっていくのが分かる。


夕陽はまだ傾き始めたばかり。

空の端が金に染まり、雲の底に赤い筋が走る。

光はまだ強いのに、熱はもう失われつつあった。

アルトは立ち止まり、背後を振り返った。


遠くの地平に、イグナリアの塔が並んでいる。

黒煙が細く立ち上り、火花の音がかすかに響く。

その光景は、昼の喧騒を閉じ込めたまま、静かに息づいていた。

「……あの街、ほんとに燃えてるんだな。」

独りごとのように呟くと、隣のカレンが小さく頷いた。


「火は、燃えるためにあるもの。

でも、本当に怖いのは、燃え尽きたあとの静けさよ。」

「お前の言葉は、いちいち意味深だな。」

「あなたが考えないからでしょ。」

軽口を交わしながら、ふたりは再び歩き出した。


やがて道が開け、丘の上に白い石畳が広がる。

ここが“聖火の丘”。

炎の神カグツチの信仰圏を抜け、王都近郊の結界へ続く中間地帯。

風の匂いが変わり、鉄ではなく砂の匂いがした。

丘の上に一本だけ立つ古い灯台のような塔が、

旅人たちに境界を告げている。


「見て。」

カレンが前方を指した。

丘を下りた先に、白い道が続いている。

銀砂で敷き詰められた街道。

陽の光を反射して、まるで川のように輝いている。

それが“銀砂の街道”と呼ばれる所以だ。


馬車の列が遠くに見える。

同じく聖域学園へ向かう新入生たちだろう。

誰もが胸に紋章をつけ、誇らしげに歩いている。

アルトは列の最後尾に加わった。


「暑くもない、寒くもない……

空気が“均等”すぎる。」

「ここから先は、聖域の加護が及ぶ場所。

熱も冷たさも、感情も、均されてしまうの。」

カレンの声は少し遠くに聞こえた。

彼女の金髪が風に揺れるたび、陽光がその間に白い輪を描く。

イグナリアでは火の赤だった光が、ここでは銀の冷たさを帯びている。


やがて、街道の先に巨大な門が見えてきた。

左右に天秤の彫刻を抱えた二本の柱。

その中央で薄い結界の膜が揺れている。

天秤門——王都防壁の内と外を分かつ、最初の境界。


門前には帝国衛士の列があった。

一人ずつ通行証を提示し、記録を取られる。

アルトが封筒を差し出すと、

衛士が印章を確認して、短く頷いた。


「聖域学園行きか。……ノクテリアの出身か。」

「そうだが。」

「珍しくはないが、多くもない。在校生だけでも十数名はいるが、列に並ぶとやっぱり目立つな。」

「目立つだけなら安いもんだ。」

「ああ。——通れ。」


結界をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。

音が柔らかくなる。

遠くで鳥の羽ばたきが聞こえるのに、その羽音すら濾過されたように軽い。

アルトは息を吸い込んだ。

甘くも苦くもない、無味の空気。

「……この先が、聖域か。」


視界が開ける。

広大な平原の中央に、

白金の塔が立っていた。


それは建物というより、

空の一部が降りてきたような姿だった。

表面は鏡のような金属光沢を帯び、

傾きかけた太陽を映して、世界を上下逆さまにしていた。

塔の周囲には、花壇と整列した寮の建物。

どれも白く、角がなく、整然と並んでいる。

人が造ったものとは思えないほど静謐で、完璧に整った世界。


「……まるで、神様の庭だな。」

アルトが呟くと、カレンが首を振った。

「違うわ。ここは神様の“観察場”。

人がどんなふうに生きるか、見下ろすための場所。」

「らしいな。」


塔の手前に宿舎の並ぶ通りがある。

看板には「新入生用宿舎 南棟」と書かれている。

中庭では職員たちが点呼をとり、荷物を運び込んでいた。

アルトは名簿を確認し、鍵を受け取る。

真鍮製の札に、手書きで部屋番号が刻まれていた。


「三〇七号室、三階……だとさ。」

「私も同じ棟よ。」

カレンが微笑んだ。

「部屋は別でも、窓から見える空はきっと同じ。」

「詩人みたいなこと言うな。」

「詩人は現実を見てるものよ。あなたが知らないだけ。」


階段を上がると、廊下はひんやりしていた。

石壁には白い布のタペストリーがかけられ、

夜を閉じ込めたような静けさが漂っている。

扉の上に並ぶ番号。

鍵穴が金色に光り、静かに開く音を立てた。


部屋の中は、思ったより広かった。

机、棚、寝台、簡易の洗面台。

窓を開けると、冷たい風が入ってくる。

遠くに塔の影が見えた。

白い光が夕暮れを溶かし、空と地の境がぼやけていく。


「アルト。」

振り向くと、廊下の向こうにカレンが立っていた。

「今日はもう休みましょう。

明日から、また“別の世界”が始まるわ。」

「……ああ。」

彼女の言葉は、祈りではなく予告のように響いた。


扉を閉めると、部屋の音が静止した。

遠くで鐘が鳴る。

低く、重い音。

学園の時を告げる鐘。


アルトは机の上に護符を置いた。

金糸が夕陽を受けて、淡く光る。

母の針の跡が、まるで今でも脈打っているようだった。

ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。

白い石が、夜に染まっていく。


「……あした、か。」

その呟きが部屋に溶ける。

窓の外、白金の塔の最上部で、光がひとつ瞬いた。

それはまるで——空が呼吸を反転させたような揺らぎだった。

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