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第4話 紅の街、カレンの瞳(前編)

第三イグナリア区の門をくぐった瞬間、空気が変わった。

皮膚の表面をなでるものが、冷気から熱の膜へと入れ替わる。

呼吸を一度するだけで、喉の壁に薄い煙が張り付くような感覚が残った。

ノクテリアの朝の湿りは、背中の遠いところでほどけていく。ここは炎の都。

——区の主神カグツチの火が、人の生活の隅々にまで灯っている。


街道の両脇に、赤茶けた石の建物が並ぶ。

窓は半分開き、内部で燃える炉の光が、呼吸のように明滅している。

軒先には鉄粉を払う(ほうき)が吊るされ、戸口ごとに小さな祠が据えられていた。

祠の中央では、親指の先ほどの灯が揺れる。

捧火(ささげび)」——カグツチに一日の労を誓うための火だ。

男が通りかかるたびに、すすで黒くなった指で軽く印を切り、

女は火皿に油を一滴垂らしてから店内へ戻る。

街は、祈りと労働が同じ温度で動いていた。


「……熱いな。」


声に出すと、熱気が返事をするように頬を撫でた。

遠くから、鉄を打つ音が途切れず響いてくる。

カン、カン、カン——と均一な律動。

それがいくつも重なり、街全体がひとつの巨大な鼓動になっている。

汗がうなじを滑り、外套の襟にしみていく。

アルトは外套を脱ぎ、腕にかけた。布地の重みが、熱に重なってずしりと辛い。


通りの角で、鍛冶場の少年と目が合う。

少年は煤で真っ黒だが、白い歯を見せた。

「兄ちゃん、七区の人?」

「そう見えるか。」

「コートの色が灰色だから。ここだとすぐ分かるよ。」

言いながら、少年は炉の前に戻り、火箸で真っ赤な鉄をすくい上げる。

肩に刻まれた細い筋肉が、熱のうねりに合わせて動いた。

この街の人間は、体が火に馴染んでいる。呼吸のテンポさえ、火に合わせているようだ。


広い通りへ出ると、視界がぐっと開いた。

白い蒸気が上がり、鉄輪を嵌める職人の掛け声が飛ぶ。

鮮やかな赤の布をまとった女性たちが、腰に皮袋を下げて行き交う。

袋の中身は油だ。火を扱う者の「水筒」代わりなのだろう。

揺れるたび、革のこすれる音が熱の膜に紛れ、微かな匂いを残した。

アルトは喉の奥にからみつく油の甘みを、ゆっくりと薄めるように息を吐く。


「捧火、よし。炉温、一段上げる!」


鍛冶場の親方の声が通りを切った。

次の瞬間、三つ先の窓から炎が高く噴き上がる。

周囲の職人たちが手を止め、胸の前で二度、指を交差させた。

カグツチへの簡易の印だ。

アルトはほんの少しだけ眉をひそめる。

ノクテリアの祈りは静かで、息を潜めるものだった。

こちらは違う。祈りが労働の号令で、火力の調整で、日常そのものだ。


噴水の音が近づく。

広場に入ると、真紅の石で組まれた池の中央に、鉄の像が立っていた。

剣ではなく槌を掲げた神像——カグツチを模したものだろう。

掌のうえで細い炎が踊っている。魔導機関の微かな唸りが、足元の石を震わせた。

像の台座には、煤で黒ずんだ祈願札が何百枚も括りつけられている。

「今日の火を弱めに」「この刃に粘りを」「あの子の熱が下がりますように」。

祈りの文字は癖が強く、どれも短い。

この街では長文の祈祷より、手で願いを刻むのだ。


腹が鳴った。

香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。

露店の鉄板で、薄い生地がパチパチと音を立てている。

赤いソースを垂らし、草のような香りの葉をちぎって載せる。

「一つ。」

「はいよ、兄さん。七区からようこそ。」

女主人は手際よく生地を折り、紙に包んで差し出した。

「分かるのか、出身区。」

「言葉の“温度”で分かるのさ。こっちは声が早い、向こうは言葉が冷える。」

「そうかもな。」

かじる。辛さが舌先を刺したあと、油の甘さが追いかけてきた。

熱が口の中に巣を作る。涙腺が少しだけ緩む。

「うまい。」

「そりゃそうだとも。カグツチの火で焼いてるからね。」

女主人は笑い、鉄板に油をもう一筋引いた。

音が、より澄んだ高音に変わる。熱の調律だ。


広場の外れ、赤い布の日除けの陰で、真新しい水瓶が並んでいた。

小さな子どもたちが列をつくり、ひと口ずつ水をもらっている。

汗で濡れた頬に水滴がひときわ明るく光る。

その列の先頭で、水瓶を傾けている女の人がいた。

金色の髪を布でまとめ、白の上着の袖を少しだけまくっている。

肩の線は細いのに、動きに迷いがない。

ここの温度に、ちゃんと手がなじんでいる。


アルトの足が止まった。

心臓が、一拍、遅れる。


「はい、深呼吸して——そう。火傷は浅いわ。冷やせば大丈夫。」


太陽が雲間から顔を出し、金の髪に火が灯った。

光の粒が、髪の一本一本を伝って落ちるように見えた。

彼女が少し身をかがめ、泣き顔の子に言葉をかける。

目元に迷いがない。

声はまっすぐで、火の街のざわめきに負けないのに、耳に刺さらない。

熱を踏んだ人の声だ。


——カレン・アスティリア。


名前が、呼吸のうちに立ち上がる。

六年前、ノクテリアの教会の小部屋で、机を並べて文字を覚えた少女。

雨の日に別れ、光の方へ連れて行かれた少女。

記憶の中ではいつも“光”だった彼女が、いまは“火”の街で、

水を手に子どもたちの前に立っている。


「……嘘だろ。」


呟きは、熱に飲まれて消えた。

アルトは無意識に外套を片手で握る。布地にこもった自分の体温が、急に頼りなく思えた。

数歩、踏み出す。

通りすがりの男がカグツチの印を切り、女たちが笑い交わし、子らが甲高い声で走り抜ける。

街の熱が胸に押し寄せ、鼓動がそれに歩調を合わせる。


彼女の動きは途切れない。

転んだ子の手を水で洗い、布で押さえ、息で冷ます。

その息は、ただの吐息より冷たく感じられた。

この街で覚えたやり方だろう。

彼女の指が、水滴の行方を追って滑り、子の泣き顔が少しずつ緩んでいく。

周囲の大人が安堵の息をつき、捧火の炎が短く揺れた。


「ありがとう、お姉ちゃん!」

子らの声が弾け、列が解ける。

カレンは腰を伸ばし、額に貼りついた前髪を指で払った。

その指先にも、薄く煤がついている。

——火の街に立つ彼女は、光の花ではなく、燃える芯だった。

見上げた空は白く高く、陽は頂点へ向かっている。

熱の板が街全体に被さり、景色の輪郭がわずかに揺らめいた。

陽炎(かげろう)が、彼女の輪郭を柔らかく崩す。


アルトは深く息を吸って、吐いた。

喉が痛んだ。

呼吸の音が自分の耳にも熱く響く。

——声をかけるだけだ。

難しいことは何もない。

六年前と同じように、名前を呼べばいい。

ただ、それだけが、熱よりも難しかった。


近づくほどに、記憶の層が剥がれていく。

雨の匂い、教会の薄暗い廊下、古い机。

彼女の「大丈夫?」という声と、小さな手。

その手を掴んだとき、一瞬だけ走った温かい閃光。

あれは何だったのか。

神なんかいないと決めつける以前の、もっと手前で、確かに身体が覚えている光。


「……久しぶりだな。」


まずはそれでいい。

喉の奥で転がった言葉を、外へ押し出す。

熱に負けるな。

彼女の気配が、ゆっくりとこちらを向く。


「カレン。」


自分の声が、思っていたよりも低く響いた。

名を呼ぶと同時に、噴水の水音がふっと遠のく。

熱い空気が、一瞬だけ薄くなる。

世界が、彼女の振り向きに合わせて呼吸を変えた——そんな錯覚。


金の髪が、光を散らして揺れた。

カレンが振り向く。

火の街の色を映した瞳が、こちらを捉える。

驚きが、瞼の縁で静かに広がる。

汗に濡れた頬に、笑いの前兆のような微かな弧が浮かぶ。


「……アルト?」


名前を言う彼女の声は、六年前と同じ高さで、いまの温度だった。

まっすぐで、揺れがなく、熱を受け止める芯を持っている。

その一声で、街の喧騒が、背景へ退いた。

鍛冶場の槌音だけが遠くに残り、捧火の炎が短く頷いたように見えた。


アルトは、苦笑に似た笑みを浮かべる。

「生きてたよ。なんとか。」


カレンの肩が、少しだけ緩む。

陽光がまた強くなって、彼女の睫毛(まつげ)の影が頬に落ちた。

「本当に、あなたなのね。」


「ああ。」


そこまで言葉を交わして気づく。

自分たちはまだ、広場の真ん中に立っている。

熱は、容赦なく背中を押す。

水瓶の列はもう途切れ、風が入れ替わった。

熱いはずの風が、少しだけ涼しい。


「……場所、変えるか。」

「ええ。日陰へ行きましょう。火の街の話は、日向だと長くできないの。」


カレンが指さしたのは、捧火の祠が連なるアーケード。

布の日除けの下、影は揺れて、床石に熱の模様を描いている。

歩き出す二人の横で、職人の少年がこちらを見て笑い、

指先でカグツチの印を切って見せた。

「いい日だね、お兄ちゃん!」

「……ああ。」


火の街の熱は、なおも高まっている。

だが、彼らの歩調は、少しだけ軽かった。


——この再会が、火の都の真昼に起こったのは、偶然じゃない。

炎の神の前で交わす最初の言葉は、いつだって、熱の只中で鍛えられる。

アルトはそれを、胸の奥のどこかで理解していた。

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