第3話 灰の果て、炎の門へ
ノクテリア区の朝靄は、街を出たあとも彼の背中にまとわりついていた。
灰色の霧は冷たく、まるでこの街の空気そのものが離れたくないと言っているようだった。
靴の裏が濡れた石畳を踏むたび、鈍い音が響く。
静けさの中で、夢葬殿の鐘の余韻がまだ空に漂っていた。
ポケットの中には、母の護符。
指先で触れるたび、布の感触と金糸の凹凸が確かにあった。
それを握ると、ほんのわずかに温かい。
朝の空気が冷たすぎるせいか、それとも——母の手のぬくもりがまだ残っているのか。
「……見送りにも来なかったな。」
アルトは呟いた。
出発のとき、母はただ“いってらっしゃい”と微笑んだだけだった。
扉を閉めたあと、祈るような声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
もしあの時、目が合えば歩けなくなる気がしたからだ。
霧の向こう、白く霞んだ街道が続いている。
ノクテリアの外縁には古い石橋があり、その先に黒鉄の境界門が立っている。
両側の柱には炎を象った紋章。第三イグナリア区の象徴だ。
門の向こうには熱と鉄の街——炎の都がある。
アルトは立ち止まり、軽く息を吐く。
「ここからが、"本物の"エリュディアってわけか。」
門の前には、槍を持った兵士が二人立っていた。
鎧は朝日に反射し、金色の光を返している。
その整った姿勢は、ノクテリアの兵のような疲弊がない。
「通行証を。」
低い声。
アルトは封筒を取り出し、差し出す。
兵士は無表情のまま印章を確かめた。
一瞬、眉がぴくりと動く。
「出身区、ノクテリア……ふむ。ずいぶん早い時間に出たな。」
「陽が高くなる前に通りたくてな。」
「……通行を許可する。」
冷たい声。
だが、その奥にわずかな興味の色が混ざっていた。
アルトが通り過ぎると、背後で門が重く閉じる。
鉄が軋む音が霧の中に吸い込まれていった。
——ノクテリアの灰が遠ざかる。
一歩、門を越えると、空気が変わった。
温かい。
肌に触れる風が、ほんのり熱を帯びている。
遠くから金属を叩く音が響いていた。
その音は途切れることなく、まるで街全体が鼓動しているようだった。
街道の両側には赤茶けた岩肌が続き、地面には黒い焼け跡が点々と残っている。
陽光がそれに反射して、微かに揺らめく。
ノクテリアの鈍い空とは違い、こちらの空は明るく澄んでいた。
東の空から、朝日が少しずつ昇りきろうとしている。
「……空の色が違う。」
アルトは思わず立ち止まった。
太陽の光が頬に当たる。冷たく閉ざされた灰の街を出て、初めて感じる“温度”。
目を細めると、遠くにうっすらと赤煙が立ち上っているのが見えた。
それがイグナリアの鍛冶炉の煙だと知るのは、もう少し先のことだった。
街道を進むにつれ、人の数が増えた。
荷車を押す商人、鎧を着た兵士、腕に包帯を巻いた職人。
彼らの服には煤がつき、みな熱に慣れた顔をしている。
アルトの灰色の外套は、そんな人波の中ではひどく浮いて見えた。
「七区の人間か?」
行き交う職人がちらりと見て、すぐに目を逸らす。
その視線に敵意はない。ただ“異質なもの”を見る目だ。
アルトは無言で通り過ぎた。
こういう視線には、もう慣れている。
しばらく進むと、道の先で人だかりができていた。
荷車が倒れ、赤熱した鉄の塊が地面を転がっている。
煙と焦げた匂いが漂い、職人が慌てて叫んでいた。
「離れろ! 触るな、まだ冷えてない!」
しかし鉄塊は街道の真ん中を塞いでいる。人も馬車も動けない。
アルトは躊躇なく外套を脱ぎ、近くの布を掴んで手に巻いた。
「水、どこだ?」
「そ、そこに!」
職人が指差した桶を引き寄せ、鉄塊に勢いよく水をかける。
ジュウ、と音がして白い蒸気が立ち上る。
その蒸気の向こうで、太陽が一瞬霞んだ。
「……助かった。本当に、ありがとう。」
職人の青年が額の汗を拭いながら言った。
アルトは肩をすくめる。
「気にすんな。たまたま通りかかっただけだ。」
腕にうっすら火傷の赤みが残っていたが、気にも留めず歩き出す。
「兄さん、どこの区の人だ?」
「七区。」
「……そうか。悪かった、最初は……」
「いいよ、慣れてるから。」
青年は深く頭を下げた。
アルトは少しだけ笑った。
人の善意が、灰の街には少なかった。
それだけに、この街の熱が妙に心に沁みた。
太陽はすでに空の高みへ昇り、光が強くなっていく。
石畳の照り返しが眩しい。
風は乾いていて、ノクテリアの湿った空気とはまるで違う。
火の国は、光そのものが生きているようだった。
街道の終わりに、赤い屋根が見え始める。
鉄塔が何本も立ち、そこから白煙が上がっている。
槌音と蒸気、そして人の声が混じり合い、遠くからでも活気が伝わってくる。
それが——イグナリア区の中心都市「紅蓮工廠」だった。
アルトは立ち止まり、息を吸い込んだ。
空気の中に鉄と油と焦げた匂い、それに混じるように香辛料のような甘い香りが漂っている。
火の国の匂い。
ノクテリアでは感じたことのない“生の匂い”だった。
「……なるほど。こいつは生きてる街だな。」
灰の街の沈黙とは違う。
ここでは、音も光も、すべてが動いている。
だが同時に、その熱の中に、どこか落ち着かないものも感じた。
火は力を与えるが、同時にすべてを焼く。
神の光もまた、そうなのかもしれない。
ふと、胸の護符に触れる。
母の縫った金糸の紋が指先に当たる。
今この瞬間だけは、あの祈りの意味が少しわかる気がした。
神を信じたわけじゃない。ただ、あの人の祈りだけは本物だった。
「……俺のこと、試してるってか。」
小さく笑いながら、アルトは紅蓮の街へ足を踏み入れた。
光が強く、視界の端が白く滲む。
鉄を打つ音が近づくたび、胸の奥で心臓が鳴る。
灰の街を離れたその足跡は、
もう冷たい泥ではなく、陽光の下の赤い土を踏んでいた。
そして、その影が一瞬だけ、光の流れと逆に揺れた。
誰も気づかないほどの小さな“反転”。
——世界は、確かに動き始めていた。




