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第2話 母との朝

朝の光は、灰色の靄の向こうからゆっくりと滲み出していた。

ノクテリア区の朝は静かだ。誰もが遅く起き、誰もが働きすぎた夜を抱えて眠っている。

街の路地を漂う霧は、昨夜の夢の残りかすのようで、家々の屋根から垂れる露が地面に落ちるたび、かすかな音を立てて消えた。


その音を合図にするように、サシャ・クローディアは目を覚ました。

寝間着の袖を整え、まだ湿った空気を胸いっぱいに吸い込む。

そして、木製の神棚の前に膝をついた。

古びた棚板の上には、欠けた聖印と小さな銀のロザリオ。

一度だけ王都で手に入れたそれを、彼女はずっと大切にしていた。


「今日だけは、どうかあの子に光を……」


サシャの声はかすかだった。

それでも、祈る姿は静謐で、どこか凛としている。

両手を組んだ指が震えていたのは、寒さのせいだけではない。

木の床に差し込む朝の光が、細く、白く、彼女の頬を照らした。


階段を下りる足音が聞こえたのは、その直後だった。

ぎし、ぎしと軋む音。

アルト・クローディアが寝ぼけたような表情で現れる。

髪は乱れ、瞼の下には眠れなかった夜の影があった。


「母さん、それ、まだ続けてたのか。」


声は低く、どこか乾いていた。

サシャは驚いたように振り向き、すぐに微笑んだ。

「ええ。だって、今日が大事な日でしょう?」


「大事な日ね……俺にとっちゃ、ただの検査の日だよ。」


「それでもいいの。神様はきっと見てくださってるわ。」


サシャの声は柔らかいのに、どこか祈りそのもののように真っ直ぐだった。

アルトはその声に、わずかに眉を寄せる。

そして、テーブルに置かれた椅子を引き、無言で腰を下ろした。


テーブルの上には、焼きすぎたパンと、湯気を失ったスープがあった。

パンの香ばしい匂いが、冷たい空気の中にゆっくりと広がる。

木の皿にひびが入っていて、古いスプーンの金属が少しだけ錆びている。

けれど、そのどれもが、この家の「日常」だった。


「……見てるんなら、なんで見放したんだろうな。」


アルトがぽつりと呟く。

その言葉は、まるで机の上に落ちた水滴のように、静かに広がって消えていった。

サシャの手が、祈りの途中で止まる。

一瞬、光が彼女の頬をかすめ、静かな影ができた。


「見放したんじゃないの。試しているのよ。」


「試す? 俺みたいなやつを? 何を?」


「生きることを。——誰だって、生きる理由を見つけるまでは神意を授かれないの。」


サシャの声は優しかったが、その奥に確信があった。

アルトはスープをひと口すする。

ぬるく、味の薄いそれが喉を通るたび、胃の奥が冷えていくような気がした。


「……神様がそんなに優しいなら、母さんだって楽できてるはずだ。」


サシャは笑った。

けれどその笑顔は、どこか壊れやすいガラスのようだった。

「私は、あなたがいるだけで十分よ。」


その言葉を聞いた瞬間、アルトは視線を落とした。

机の木目を見つめながら、唇を噛む。

優しさが痛い——そう思った。

慰めてほしいわけじゃなかった。ただ、理解してほしかった。


外の光が少しずつ強くなる。

窓の外では霧が流れ、遠くで馬車の車輪が石畳をこする音がした。

サシャは立ち上がり、棚の上から小さな布包みを取った。


「アルト、これを持っていって。」


「……何だ、それ。」


「護符よ。あなたのために作ったの。」


布の中には、小さな石と金糸で縫い込まれた紋章が入っていた。

どこか歪で、不器用な刺繍の跡が残っている。

それでも、手に取った瞬間に、指先がほんのり温まるような気がした。

サシャの指が、その上を撫でる。


「神様の加護を呼ぶ印。……信じないでしょうけど。」


アルトは一瞬、口を開きかけてから小さく笑った。

「まぁな。でも……ありがとな。」


その短い言葉に、サシャの目がわずかに潤んだ。

「行くのね。」


「ああ。早めに出ないと、列ができる。」


「……アルト。」


「ん?」


サシャは言葉を探すように沈黙した。

朝の光が、彼女の背を透かしていた。

やがて、祈るような声で告げる。


「もし、誰にも選ばれなかったとしても、自分を嫌いにならないで。

神様に見放されても、人は——祈れるものよ。」


アルトはその言葉に返す言葉を持たなかった。

ただ、ポケットに護符をしまい、立ち上がった。

扉の前に立つと、手の甲に冷たい風が触れた。

曇り空の光が、彼の横顔を淡く照らしている。


「……祈るくらいなら、殴る方が性に合ってる。」


静かにそう言い、扉に手をかける。

サシャはその背を見つめ、何も言わなかった。

代わりに、手を胸の前で組む。

祈りでもなく、願いでもなく——ただの母の仕草だった。


「いってらっしゃい、アルト。」


扉が閉まる。

その瞬間、家の中の音がすべて遠のいた。

サシャは、息を吐くように小さく呟く。

「どうか……あの子の明日が、今日よりも光に近くありますように。」


外では、靴音が霧の中に消えていく。

アルトはゆっくりと歩きながら、街の匂いを感じていた。

湿った土と鉄の匂い、朝の冷気、遠くの鐘の残響。

どれもいつも通りのはずなのに、今日は少しだけ違って感じられた。

胸の奥で、何かが微かに疼いていた。


ポケットの中の護符が、かすかに熱を持っていた。

それが母の祈りのぬくもりなのか、

それとも、神がほんの一瞬だけ目を向けた証なのか——彼には分からなかった。


ただ一つ分かるのは、

この朝の光が、もう昨日の光ではないということだけだった。

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