第11話 式後の余韻
入学式が終わった後の白金講堂は、
まるで儀式そのものが夢だったかのように静まり返っていた。
たくさんの新入生が外へ列を成して出ていく。
その中には、未だ現実に戻りきれていない者も多い。
「なあ……今の、やっぱりおかしかったよな?」
「夢を見てた……いや、夢を“見せられた”?」
「未来視の儀で過去を見るなんて聞いたことないぞ……」
講堂を出る石段の上では、
小声の会話が泡のように弾けては消えていた。
それらのどの声にも、
少しの不安と、ほんのわずかな興奮が混ざっている。
アルトは人の流れに混じりながら、
ぼんやりと天井の方を振り返った。
星環はもう光を失い、ただの灰色の輪に戻っている。
だが、その内側ではまだ、何かが“ゆっくり回っている”気がした。
隣でカレンが肩を並べる。
「ねえ、あなたは何を見たの?」
「……夢だった。」
「どんな?」
「忘れた。でも、懐かしかった。」
「それは夢じゃないわ。記憶よ。」
カレンはそう言って、階段を下りる足を止めた。
「神意が暴走したとき、意識の奥が見えることがある。
でも、これは暴走じゃない。何か、意思のある“転覆”よ。」
アルトは答えず、視線を落とした。
護符の金糸が、まだ微かに熱を持っている。
何かが、彼の胸の奥で笑っていた。
ハルトが駆け寄ってきた。
「おーい、二人とも!早くしないと寮案内の集まり始まっちまうぞ!」
彼の声が空気を割る。
その明るさだけで、周囲の重苦しさが少し和らいだ。
「お前、あの光の中で何見た?」
「俺? 子どもの頃に親父と作った風車!しかも、ちゃんと回ってた!」
「それ、未来関係ないじゃん。」
「だよなぁ!」
ハルトの笑い声が響き、
周囲の緊張がようやく解けた。
人の波が校舎へと吸い込まれていく。
白金の床を渡る足音が徐々に遠ざかり、
講堂の内部には、わずかに残る祈りの残響だけが残った。
──その頃。
壇上の裏に設けられた観測室では、
数名の神官と教師が慌ただしく動いていた。
壁面の魔導鏡には、さきほどの儀式の記録映像が再生されている。
しかし、どの映像も一箇所で途切れていた。
まるで時間が抜け落ちたように。
「未来視の儀で、過去が映るなんて……」
「学園長の神意が揺らいだのか?」
「いや、それだけじゃない。
塔の反応記録が一度、“逆相”を示している。」
神官の一人が震える指で波形を指し示した。
魔導記録の光が、一瞬だけ下向きに反転している。
「あり得ません。
ヴェルデイン様の未来視が、
過去を掘り起こすことなど……」
「彼が自分の意思でそんなことをするはずもない。」
「では、外因か?」
「いや、塔そのものに干渉が……」
議論が次第に熱を帯び、
だが結論の出ないまま、沈黙が訪れた。
その静寂を断ったのは、一人の女性の足音だった。
規則正しい、冷たい音。
「ここは騒がしいですね。」
全員が顔を上げた。
白銀の髪が光を吸い、金の瞳が淡く輝いている。
理事長セラフィム・オルディアが観測室に入ってきた。
神官たちは一斉に頭を下げる。
「セラフィム殿……学園長の神意に異常が——」
「承知しています。
——映像を最初から再生しなさい。」
彼女の声は穏やかだが、
命令というより“既に決定された結果”のような響きを持っていた。
神官が魔導鏡に触れると、映像が巻き戻る。
光幕の中で、儀式の光が再び展開される。
未来が見え、そして過去へと変わる。
セラフィムはじっと見つめていた。
眉一つ動かさず、唇だけが微かに動く。
(……これは干渉。)
映像が終わる。
他の者たちは息をつくが、
セラフィムは動かない。
「校長の神意に異常はありません。」
「えっ……ですが、実際に——」
「異常があったのは“彼”ではない。」
セラフィムはゆっくりと首をめぐらせ、
背後の光柱を見上げた。
塔の中心——
その奥には、まだ微弱な神意の残滓が漂っている。
記録に映らないはずの“第三の干渉”。
彼女だけがそれを感知していた。
「……笑いましたね。」
静かに言ったその言葉に、
周囲の神官たちは意味を掴めなかった。
セラフィムは一人、観測台に歩み寄り、
光柱の根元に手を触れた。
冷たい。
だがその奥には、
何かが確かに“生きている”ような鼓動があった。
(神が直接干渉するには、あまりに繊細。
しかし、悪戯としては完璧。
———あなたらしい。)
彼女の金の瞳が細まり、
唇が静かに形を作る。
「ロキ……」
その名を口にした瞬間、
塔の上層で光が一度だけ瞬いた。
音も、揺れもない。
それでも空気の層がひとつ、
裏返ったような微かな感覚があった。
他の者は気づかない。
セラフィムだけが感じていた。
塔が、笑っている。
夕刻。
新入生たちは寮の前に整列していた。
各区の生徒が混在し、
未来視の異常の噂をあちこちで囁き合っている。
「やっぱり“過去”を見たって言ってたぞ。」
「俺なんか、亡くなった祖母の顔を見た……泣いちまった。」
「でも、校長が謝ってたし、きっとミスだろ。」
「……ミス、なのか?」
夕陽が塔の壁を朱に染める。
その色が美しく、どこか不安を煽る。
アルトは寮舎の前で足を止めた。
石造りの建物の影が、彼の顔を半分だけ覆う。
「カレン。」
「なに?」
「もし、“過去”が未来を飲み込むとしたら……
俺たちはどっちに進むんだと思う?」
カレンは一瞬黙り、
「選ばなければならない時が来るわ。」とだけ言った。
ハルトが後ろから声を上げる。
「おーい、もう部屋決まったってよ!早く来い!」
二人は顔を見合わせ、わずかに笑った。
その笑顔の奥で、
胸の奥に残る“懐かしい笑い声”がまだ消えなかった。
その夜、学園の塔の最上階。
誰もいない観測室に、セラフィムだけが残っていた。
窓の外では星環が静かに回転し、
夜の空気が銀の糸のように流れ込んでくる。
彼女は机の上に広げた観測記録を見下ろした。
一枚の波形がそこに記されている。
未来視が「過去」に変わった瞬間、
塔の観測装置が記録した“反転波”。
それは、どの神意にも一致しなかった。
「……やはり、あなたですか。」
セラフィムは独り言のように言った。
「世界の秩序を裏返す神——反逆の系譜。
けれど、なぜ今になって……」
窓の外で星環が一度だけ逆回転した。
その反射光が、セラフィムの横顔を照らす。
彼女は微笑した。
「歓迎しますよ、ロキ。
この世界に、もう一度“裏側”が訪れるのなら。」
夜風が吹き抜けた。
白金の塔の上層で、
誰にも届かない笑い声が、確かに響いた。




