悪役令嬢の母にはなりません!
リリィは馬車の中で、手袋をきゅっと握りしめていた。
窓に映る自分の顔は、やや青白く緊張に染まっている。
ふわりとしたプラチナブロンドの髪が肩のあたりで揺れ、切れ長の大きな翡翠色の瞳が不安げに輝いていた。
どちらかと言えば幼い印象の顔立ちだが、かすかに感じられる気品が、彼女が没落貴族の娘であることを物語っている。
「まあ、見事なお屋敷ね…」
精一杯の明るい声でつぶやいてみるが、その声は震えていた。
馬車がゆっくりと止まり、扉が開かれる。
リリィは深呼吸をしてから足を踏み出した。
目の前に立つのは、これから夫となる冷徹な公爵、ルイス。
ルイスの容姿は一目見ただけで圧倒されるものだった。
黒曜石のように漆黒の髪が、風になびく様子はどこか厳粛さを漂わせている。
切れ長の冷たい灰色の瞳は感情を感じさせず、その高い鼻梁と引き締まった口元は、彼が厳格であることを如実に表していた。
加えて、すらりとした長身に黒いローブを纏った姿は、まるで肖像画から抜け出した彫像のようだ。
「リリィ・エヴァンスだな」
「昨日の書面で、リリィ・コーネルになりましたわ」
「……はじめまして。ルイス・コーネルだ。君には、今日からここで公爵夫人として振る舞ってもらう」
ルイスの声は低く冷たい。
「はい。よろしくお願いしますわ」
リリィはぎこちない笑顔を作り、最近はとんとご無沙汰な慣れない礼をする。
だが、ルイスはその表情をちらりと見るだけで、すぐにそっぽを向いた。
「使用人に案内させる。私はこれから仕事だ」
それだけを告げると、ルイスは彼女に背を向けてそのまま歩き去ってしまう。
執事が恭しく礼をとる。
リリィはその場に立ち尽くした。
広大な屋敷の中に立つ自分って、なんて滑稽。
そのとき、背後から小さな足音が聞こえた。
振り返ると、そこには小柄な少年が立っていた。
たぶん、ルイスの息子のエリックだ。
確か歳は10歳のはずだ。
エリックは、幼いながらもどこか大人びた雰囲気があった。
整えられた茶色の髪はやや癖があり、風に揺れると柔らかそうに光を反射している。
大きな青い瞳は公爵家の特徴だが、その奥には幼い少年らしさよりも、達観した鋭さが宿っている。
小さな顔に似合わない、しっかりと閉じた口元が彼の冷静さを物語っているようだ。
「お母様、ですか」
第一声がこれだった。リリィは驚いて目を丸くする。
「え、ええ。そうですわ。あなたがエリック君ね」
エリックは軽く頷いた。
その仕草は妙に洗練されていて、10歳の少年らしさをほとんど感じさせない。
「これからよろしくね。お母様として、精一杯頑張りますわ」
リリィが微笑むと、エリックはため息をついた。
「…このままだと、あなたは悪役令嬢の母親になります」
「……え?」
リリィは耳を疑った。
悪役令嬢? あのロマンス小説に出てくる高慢で意地悪な女の子?
突然、何を言い出すのだろう。
エリックは彼女の混乱を気にすることもなく、翡翠色の瞳を真剣な目で見上げた。
「だから、あなたには変わってもらいます。僕の指示に従ってください」
「え、ええっ!?」
リリィはますます混乱する。
目の前の10歳の少年が発するその言葉の意味が全く理解できなかった。
リリィの伯爵家は没落していた。
通常16歳で行うはずのデビュタントでさえ17歳のリリィはまだ済ませていない。
父親のエヴァンス伯爵は事業の失敗による負債の処理に追われていた。
もともと商才に乏しい彼は、貴族としての立場を維持するために無理な投資を繰り返し、その結果、莫大な借金を抱えることになった。
そんな状況下で舞い込んできたのが、公爵家からの「不自然な結婚」の話だった。
公爵家は亡くなった妻の後任となる公爵夫人を必要としており、持参金はいらないとのこと。
さらに、エヴァンス伯爵家への事業援助をしてくれるという破格の取引だった。
要は、娘を金で買いたいという申し出である。
コーネル家は公爵家で、長い歴史を持つエヴァンス家はギリギリ釣り合いが取れるだろう。
父はリリィを書斎に呼び、正式な申し出について話した。
「リリィ、お前に話さなければならないことがある」
「なにかしら、お父様」
父の顔は疲れ切っていた。
目の下にはくっきりと隈ができ、手元の書類をいじる手は震えている。
リリィはそんな父の姿を見て、少し胸が痛んだ。
「公爵家から結婚の申し出が来ている。向こうは持参金を求めない代わりに、我が家の事業に資金援助をすると言っている」
「つまり、お父様の借金を肩代わりしてくださるということね」
リリィはすぐに状況を理解した。
持参金なしで嫁ぐということが、貴族の娘にとってどれほどの屈辱かは知っていた。
婚家での立場も良くないだろう。
それでも、父の苦しい表情を見て、引き受けるしかないと覚悟した。
「もちろん、受けないという選択肢もある。ただ…今の我が家の状況を考えると…」
父の言葉は途切れがちだった。
「お父様、もう結構ですわ!」
リリィは勢いよく立ち上がり、拳を握りしめた。
「こうなったらやってやりますわ!このリリィ・エヴァンス、全力で公爵夫人を務め上げます。エヴァンス伯爵家の娘としての誇りに懸けて!」
父はその言葉に目を丸くしたが、すぐに深い溜息をつく。
「頼むから、あまり暴れないでくれよ…。お前が『やってやる』と言うときほど、怖いことはないんだから」
「何を仰いますの!精一杯、上品に振る舞うつもりですわ」
リリィは胸を張るが、父の顔は不安げだった。
彼女が張り切れば張り切るほど、何かしら問題を起こすのが常だったからだ。
それでも、今の状況では彼女に託すしかない。
「リリィ、お前ならできるはずだ。いや、頼むからできるようにしてくれ」
「ええ、お任せくださいませ!我が領地のため、私、必ずやコーネル公爵に認められてみせますわ!」
リリィの令嬢らしからぬガッツポーズに、父は微妙な表情を浮かべた。
こうしてリリィは、公爵家へ嫁ぐことになった。
気丈に振る舞おうとする彼女の中には、恐れと不安が渦巻いていたが、それを表に出すことはしなかった。
貴族令嬢としての誇りを胸に、リリィは馬車に乗り込んだのだった。
ルイスの冷たい態度に戸惑いながらも、リリィは案内された自分の部屋でやっと一息ついていた。
豪奢な調度品と広々とした空間は圧倒的だったが、同時にどこか冷たさを感じさせた。
部屋の中の扉は、きっと旦那様の寝室に繋がっているのだろう。
「これが公爵夫人の部屋というものですのね…広すぎてどう使えばいいのか分からないわ」
リリィが周囲を見回していると、不意にドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのはエリックだった。
小柄な少年のくりくりとした愛らしい目が、まっすぐリリィを見つめている。
「どうしたの、エリック君? 何か用かしら」
「お母様と話したいことがあります」
その真剣な表情に押され、リリィはソファに座り、エリックを隣に招き入れた。
エリックは重々しく口を開いた。
「お母様、僕は普通の子どもじゃありません。僕は転生者です」
「て、転生者!?えーと、ロマンス小説によく出てくるやつかしら?あの……それって、どういうことかしら?」
リリィは戸惑いながらも、真剣に耳を傾ける。
エリックは静かに頷き、言葉を続けた。
「僕は前の人生で、こことは違う世界に住んでいました。そして、この家族、特にお母様や未来に生まれる妹がどうなるかを知っています」
「妹? 未来に生まれる…?」
エリックはため息をつき、さらに信じられない話を続けた。
「お母様、将来あなたが産む娘…彼女は『悪役令嬢』になります。人を陥れ、貴族社会を混乱に陥れる存在です」
リリィは目を見開いた。
「ちょっと待って! 娘を産むって…私が!?」
エリックは少し言いにくそうにしながらも、核心を突いた。
「お母様、あなたが父上の無関心に逆に息巻いて、夜這いをかけてできた子供です」
「よ、よ、よば!? そんなこと、私がするわけないじゃありませんの!」
リリィは顔を真っ赤にして、椅子から立ち上がった。
その反応にエリックは冷静に頷く。
「そう、普通はそう思いますよね。でも、お母様はやるんです。そして、その結果妹が生まれます」
ただでさえ、リリィはここ数日張り詰めていた。
持参金も侍女もなく、荷物も少ない。
そんな場所で始める新しい生活をずっの不安に思いながら、そんなふうに考え込んでしまう自分を必死に誤魔化してきた。
それが、新しい生活が始まる前からの、義理の息子からの謎の宣言と夫のあの態度。
リリィの眼に涙が浮かんだのも、仕方のないことだろう。
「そ、それは本当なのかしら……どうしてそんな未来になるの…どうすればいいのよ」
エリックはリリィの手を取って強い目で見つめた。
「大丈夫です、お母様。僕が絶対に妹を悪役令嬢にさせません。そのためには、お母様を変える必要があります!」
「わ、私を…変える?」
エリックは真剣な顔で頷く。
「今のお母様は、少しわがままで人に頼れない性格です。その性格が、未来の妹に悪い影響を与えるんです。だから、僕がこれからお母様を教育します」
「教育って…私があなたをではなく?」
「お母様を、僕が、です」
リリィは涙を拭きながらも困惑したが、エリックの言葉には不思議な説得力があった。
「大丈夫です。僕がついていますから。まずは、お母様が人に頼ることを覚えるところから始めましょう」
「そ、そんなこと急に言われても…」
エリックはにっこり微笑むと、冷静に言葉を続けた。
「大丈夫です。僕の指示通りにしてくれれば、未来は変えられます」
こうしてリリィとエリックの奇妙な教育計画が始まるのだった。
リリィが初めて料理に挑戦することになったのは、エリックの突然の提案からだった。
「お母様、まずは何かをやり遂げる経験が必要です」
「ええっ、いきなり何を言い出すの?」
「料理です。前世では、家庭的な人間が好まれました。母親として、家庭的な一面を見せることは無駄にはなりません」
エリックの真剣な眼差しに押され、リリィはしぶしぶ頷いた。
広々とした厨房に立つリリィは、目の前に並べられた食材と格闘していた。
エプロン姿の彼女は、一見やる気に満ちているように見えたが、手元は慣れていないのが明らかだった。
「えっと…まずは、このお肉を切るのよね…!」
彼女は包丁を持ち上げたが、慣れない手つきで食材を切ろうとして、危うく自分の手を切りそうになった。
「危ないですよ!お母様、包丁はこうやって持つんです!」
エリックが小さな手で包丁の持ち方を直し、リリィは苦笑いを浮かべた。
「だ、だってこんなことやったことがないんですもの!」
次に鍋を火にかけるも、火力を調節できず焦げ臭い匂いが漂い始める。
さらに、調味料を適当に入れた結果、出来上がったスープは見た目からして怪しげだった。
エリックは眉をひそめて一言。
「……お母様、これは毒です」
「毒って!失礼ね!」
リリィはぷっと頬を膨らませたが、自分でもそのスープを見て納得してしまった。
「もういいです。僕がやります」
エリックはため息をつき、エプロンを結び直すと、手際よく作業を始めた。
小さな手で野菜を刻み、鍋の火力を調節しながら、あっという間に料理を仕上げていく。
リリィはその姿に驚き、思わず口を開けたまま見つめてしまった。
「エリック…本当に10歳なの?」
「料理は前世でしてましたから」
さらりと言うエリックに、リリィは再び言葉を失った。
やがて出来上がった料理は見事なもので、スープは黄金色に輝き、香ばしい肉料理の香りが食欲をそそった。
テーブルに並べられた料理を前に、リリィは感激してスプーンを手に取った。
「こんなにおいしいものを作れるなんて…本当に驚きですわ」
エリックは淡々と答える。
「料理は人を幸せにする手段の一つです。それに、お母様が娘と一緒に料理をすれば、もっと楽しくなると思いますよ」
「娘と…一緒に?」
リリィはその言葉を噛み締めた。
料理が苦手でも、もし未来の娘と一緒にキッチンに立つことができれば、それは素敵な時間になるのかもしれない――そう初めて思った。
「エリック、ありがとう。私、これから少しずつ料理の練習をしてみますわ!」
「ええ、期待しています」
エリックの真剣な目とリリィのやる気に満ちた笑顔が重なり、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
次の日、リリィが朝の着替えをしようとクローゼットを開けて中を眺めていると、後ろからエリックの冷静な声が響いた。
「お母様、そのドレス、いつの時代のものですか」
「いつの時代って…失礼ですわね!これはエヴァンス伯爵家が誇る格式高い一着なのよ!」
リリィは反論するが、エリックは呆れたようにため息をつく。
「確かに格式高いかもしれませんが、時代遅れすぎて悪役令嬢の母っぽさが倍増してますよ」
「なっ…!悪役令嬢の母っぽさってどんなかんじ!?」
エリックの辛辣な言葉にリリィは頬を膨らませたが、彼の指摘に少し心当たりがあるのも事実だった。
「では、どうすればいいのよ」
「簡単です。街に出て新しいドレスを選びましょう。僕が選びます」
こうして二人は街へ出かけることになった。
街は昼下がりの陽光に包まれ、多くの人々で賑わっていた。
石畳の道を歩きながら、リリィは少しそわそわしていた。
人混みの中にいるのは久しぶりだったし、エリックが自信満々に「僕が選びます」と言ったのがどうにも不安だった。
「ここです」
エリックが指差したのは、華やかな装飾が施された高級仕立て屋だった。
中に入ると、豪奢なドレスがずらりと並び、リリィは思わず目を輝かせた。
「お母様、見てるだけじゃなくて試着してください」
「え、ええ…」
エリックに急かされるまま、リリィは勧められるドレスを次々と試着した。
だが、エリックの評価は厳しい。
「袖が重すぎます」
「色が地味すぎます」
「これだと悪役令嬢感が強まりますね」
次々とダメ出しされるたびに、リリィの眉間にしわが寄った。
「エリック、あなたねぇ…」
「黙ってください。僕の選んだこれを着てみてください」
エリックが差し出したのは、淡いラベンダー色のシンプルなドレスだった。
リリィが恐る恐る袖を通すと、鏡の中に映る自分の姿が目を引くほど洗練されていた。
「これ…本当に素敵ね…」
「だから言ったでしょう」
エリックが誇らしげに腕を組むと、仕立て屋の店員も口を開いた。
「お客様、とてもお似合いです。若々しくて品があり、まるでお花のようですわ」
その言葉に、リリィは思わず頬を赤らめた。
「エリック、ありがとう。本当にあなたのおかげね」
「これで悪役令嬢の母感が減りましたね」
エリックの冷静な一言に、リリィは苦笑いしながらも、心の中でもう一度感謝した。
その夜、リリィは寝室で眠ろうとしたが、どうにも落ち着かなかった。
豪奢なベッドと広すぎる部屋が、かえって彼女を不安にさせていた。
「風の音…よね?…そうよ、ただの風の音ですわ…」
窓の外で木々がざわめく音が耳に入るたび、リリィは布団をきゅっと握りしめた。
暗闇の中、わずかな影でもお化けに見えてしまい、ついには声を上げそうになったそのとき――
トントン、と扉が小さくノックされた。
「ど、どなた…?」
リリィが震える声で聞くと、扉の向こうから聞き慣れた小さな声が返ってきた。
「お母様、僕です」
ドアが開き、キャンドルを持ったエリックが顔を覗かせる。
「どうしたの、エリック?こんな夜中に…」
リリィが尋ねると、エリックは小さな声で答えた。
「…その…今日は嵐ですので…ちょっと怖くて」
その言葉に、リリィは驚いて目を丸くした。
「あなたも怖いの?」
「…少しだけです。でも、お母様も怖がってると思って」
そう言ってベッドの近くまで来たエリックの顔には、ほんの少し怯えたような表情が浮かんでいた。
リリィはその様子に安堵し、思わず笑みをこぼした。
「ふふっ、あなたが怖いっていうなんて珍しいわね。でも…正直言うと、私も怖かったの」
「やっぱりそうですか」
エリックはそう言って、リリィのベッドの端に腰掛けた。
「一緒に寝ますか?」
突然のエリックの提案に、リリィは驚いて目をぱちぱちさせた。
「え、ええっ!?そ、そんな、あなたと一緒に寝るなんて…旦那様とも寝たことないのに」
「僕は息子ですから問題ありませんよ。お母様、怖いんでしょう?僕だって怖いんです。一緒にいれば少しはマシになるかもしれません」
冷静な口調でそう言うエリックに押され、リリィはしぶしぶ布団の端を引っ張ってエリックを招き入れた。
「仕方ありませんわね。特別よ」
「ありがとうございます」
エリックは布団の中に潜り込み、リリィの隣で小さく息を吐いた。
暗闇の中、二人は布団を共有しながら小さな声で話し始めた。
「お母様、僕、前世ではこういう怖い夜を一人で過ごしてました」
「そうだったの…?それは辛かったでしょうね」
リリィはエリックの小さな頭を撫でながら、そっと微笑んだ。
「でも今は、私がそばにいるわ。だから安心して眠っていいのよ」
「……ありがとう、お母様」
エリックはそう言いながらも、リリィの手をそっと握り返した。
二人は互いの存在を感じながら、次第に怖さを忘れていった。
「お母様、イビキとか歯軋りはしないでくださいね」
「そんなことしないわよ!」
こうして二人は、穏やかな眠りにつくことができた。
広間の床は磨き上げられた鏡のように光っており、大きな窓から差し込む夕日が空間を柔らかな橙色に染めていた。
リリィは緊張した面持ちで、ダンス用の軽やかなドレスを整えていた。
今日はエリックのダンスの先生が用事で来られなくなったので、急遽リリィが教えることになったのだ。
しかし、一曲ふたりで踊っただけで、リリィは勢いで立候補したことをすでに後悔し始めていた。
「お母様、社交界のパーティーではダンスは必須です。下手だと笑われますよ」
エリックが淡々と告げると、リリィはふくれっ面をした。
「失礼ね、私だって踊れてるでしょう。ちゃんと教育を受けているんだから。ただ、少し足が不器用なだけよ」
「……他人の足を踏むのは不器用とは言わないと思いますけど」
その一言に、リリィの眉がピクリと動いた。
「あなたねぇ…!」
怒りながらも、リリィは自分の非を認めざるを得なかった。
これまで舞踏会では、踊るたびにパートナーの足を踏んだり、自分の足で転びそうになったりしていたのだ。
「まずは基本のステップからです」
エリックは小さな手を差し出し、リリィと向き合った。
音楽が静かに流れ始め、二人はステップを踏む。
しかし、リリィの動きはどこかぎこちなく、すぐにエリックの足を踏んでしまう。
「いたっ!お母様、もっと軽やかに動いてください!」
「だ、だって難しいのよ!それに、あなただって子どもなんだから、もう少し下手に踊りなさいよ!」
「年齢は関係ありません。これはおそらく、天性の素質の無さでしょう」
リリィはムッとした顔をしたが、反論できなかった。
ステップを続けるものの、今度は自分の足を踏んでバランスを崩してしまった。
「きゃっ!」
リリィが転びそうになった瞬間、背後から誰かの手が彼女を支えた。
「少しは注意を払え」
低い声に振り返ると、そこにはルイスが立っていた。
鋭い灰色の瞳でリリィを見つめながらも、その手はしっかりと彼女を支えていた。
「ル、ルイス様…」
リリィは頬を赤らめ、慌てて姿勢を直した。
「下手だな。私が代わろう」
そう言うと、ルイスはリリィの手を取り、ステップを踏み始めた。
彼の動きは洗練されており、リリィは引っ張られるように踊る形になったが、彼のリードのおかげで次第に自然な動きができるようになった。
「足を踏まないように、相手の動きを感じろ」
「わ、わかっていますわ!」
そう言いながらも、緊張でまたルイスの足を軽く踏んでしまった。
「……もう少し軽やかに」
ルイスは呆れたように言ったが、その口元はわずかに笑みを浮かべていた。
端でそれを見ていたエリックは、腕を組みながらふーんと頷いていた。
「なるほど。お母様は下手だけど、一応進歩はするんですね」
「あなたねぇ!」
リリィがエリックに抗議の声を上げると、彼はからからと楽しそうに笑った。
その後もルイスの指導で踊り続ける中、リリィは彼の手の温もりを感じながら、不思議な安心感を覚えた。
どうやっても転ばないだろう力強く支えてくれる手と、体全体でリードしてくれる踊りやすさ。
「これで少しは踊れるようになったな」
「ええ…ありがとうございます、ルイス様」
その言葉には自然と感謝が込められていた。
二人が踊る姿を遠くから見守るエリックは、小さくため息をつきながらも、その様子にどこか満足そうだった。
「これ、僕の練習のはずなんですけどね」
彼の一言が、広間に響くことなく消えた。
「……なんだか気に入りませんね」
少し休憩をはさんで練習が再開されるとき、ルイスを押しのけたエリックがリリィの手を取り、軽くリードしながらステップを踏んだ。
「エリック、どうしたの?踊りたかった?」
リリィが優しく尋ねると、エリックはそっぽを向いてそっけなく答えた。
「別に。なんでもありません。ただ…さっきのダンス、父上ばかり目立ってて面白くないんです」
「まあ!」
リリィは思わず微笑みながら、エリックの肩に手を置いた。
「そんなことで拗ねているの?可愛いわね、エリック」
「か、可愛いってなんですか!」
エリックは顔を真っ赤にして後ろに下がろうとしたが、リリィがそのまま抱きしめた。
「だって本当に可愛いんですもの。嫉妬するエリックなんて滅多に見られないわ」
「や、やめてください!僕はもう子どもじゃありません!」
エリックは必死に抗議するが、耳まで赤く染まっている姿がますます可愛らしく、リリィは笑いをこらえきれなかった。
「もう、からかわないでください!」
エリックが怒ったように顔を背けると、リリィは彼の前にしゃがみ込み、目線を合わせて真剣な表情で言った。
「ごめんなさいね。でも、私にはエリックが一番だわ。あなたが一番かっこいいわ。私の小さな紳士さん」
その言葉に、エリックの顔がさらに赤くなる。
「お母様は幼すぎるんですよ」
口をとがらせながらも、どこか嬉しそうなエリックに、リリィは柔らかく微笑んだ。
その様子を見ていたルイスが、ふと口を開いた。
「リリィ、過保護すぎると息子がますます増長するぞ」
「ルイス様、嫉妬しているのかしら?」
リリィがにこりと笑うと、ルイスはわずかに苦笑して肩をすくめた。
ルイス・コーネルは、不器用な男だった。
ひとつのことに集中すれば、その他は少し疎かになる。
仕事一筋の彼にとって、エリックの母親役は必須だった。
新しい妻はわがままで変わったところがあるという噂はあったものの、特に自分の夫人としての役割は求めていない。
あまり夫婦らしくなれる自信もなく、持参金なし、経済援助を盾にして、ほとんど買い取るように娶った。
もちろん、式もあげずに書類のみでの再婚だ。
式なんてルイスは一度行ったし、そもそも仕事時間が奪われてしまう。
母親になれなくても、息子と一緒に楽しく過ごしてくれるなら、ルイスとしたは万々歳だ。
それでルイスに不必要に関わったり仕事の邪魔をするようなことがなければ、正直他にダメなところがあっても受け入れられる。
夜も更け、仕事を終えたルイスが書斎から廊下に出ると、どこからか楽しげな笑い声が聞こえてきた。
足音を忍ばせながらその声を辿ると、広間でリリィとエリックが遊んでいる姿が目に入った。
「ほら、エリック、ここを見て!これが正解でしょう?」
「全然違います。お母様、本当に勉強が必要ですね」
リリィが拗ねたように頬を膨らませると、エリックが得意げに笑う。
その様子はまるで本当の母子のようで、どこか温かみがあった。
廊下の陰からその様子を見つめるルイスの目に、一瞬だけ何か柔らかな感情が浮かぶ。
だが、それを振り払うようにため息をつき、音を立てないよう踵を返した。
「……俺には関係のないことだ」
そう呟きながらも、心のどこかでその輪の中に入れない自分に、微かな寂しさを覚えていた。
ある日、リリィがエリックのためにお菓子作りに挑戦していた。キッチンからは甘い香りが漂い、リリィはエプロン姿で奮闘している。
「これでいいのかしら…砂糖を入れすぎてないかしら…」
「お母様、失敗しないでくださいね。僕、甘すぎるのは嫌いですから」
エリックに念を押され、リリィは真剣な表情で焼きあがったクッキーをお皿に並べた。
その夜、エリックはリリィが作ったクッキーを大事そうに抱えて自分の部屋に戻った。
だが、翌朝になり、キッチンに残しておいた追加のクッキーがなくなっていることにリリィは気づく。
「え、あれ…昨夜のクッキーがないわ。エリックが全部持って行ったのかしら?」
そのとき、控えていた侍女が言った。
「いえ。旦那様が持って行かれました」
「え!?旦那様が?甘いものがお好きなのかしら」
「いえ。甘いものを召し上がっているところは見たことがありません」
「ええ?」
急に食べたくなったのかしらとリリィは首を傾げた。
ある晩、広間でリリィがエリックと手をつなぎ、彼を寝室まで送り届ける姿をルイスは物陰から見つめていた。
「今日はありがとう、エリック。お買い物、あなたのおかげで楽しかったわ」
「それは良かったです。でも、お母様はもう少しセンスを磨くべきですね」
「これでも頑張って流行を調べたりし始めたのよ?」
「それは良かったです」
リリィが微笑みながら手を振る姿に、エリックも軽く手を挙げて応じた。
その後、リリィは廊下を戻りながら小さく鼻歌を口ずさんでいた。
ルイスは廊下の影に立ちながら、リリィの無邪気な姿とエリックの笑顔を思い返していた。
「俺が疎外感を覚えることがあるなんてな」
ルイスは最初の結婚生活を、淡々とした表情で思い返す。
彼の最初の妻、セリアは明るく快活で、社交界でも一際目立つ女性だった。
ふんわりとした金髪に笑顔を絶やさない彼女は、ルイスの心を一瞬で掴んだ。結婚当初、彼女の笑顔は家庭に温かな雰囲気を与え、二人は幸せそうに見えた。
だが、次第にその生活に影が差し始めた。
セリアは豪奢なものを好み、常に新しいドレスや宝飾品を欲しがった。
「この指輪、とても素敵でしょう?でもこれ、来週にはもっと新しいのが欲しいの」
「……セリア、それと似たものを先月も買っただろう」
「そんなケチなこと仰らないで。私が楽しむためのお金が惜しいとでも言うの?」
セリアの散財癖は一向に治らず、ルイスがいくら注意すればするほど、彼女は感情を爆発させるようになった。
社交界での評判を気にして、頻繁に社交とは関係のない高額なパーティーを開くようになり、家計に大きな負担をかけていた。
彼女の感情の起伏は激しく、些細なことで怒り出したかと思えば、次の瞬間には涙を流して謝罪する。
その度にルイスはどう接していいのかわからず、ただ黙って受け流すようになっていった。
次第に二人の間には深い溝ができていった。
ルイスはセリアとの喧嘩を避けるため、仕事に没頭するようになった。
家にいると彼女の怒りを買うだけだと思い、遅くまで職務を理由に外出し、帰宅を遅らせた。
その結果、息子のエリックとも疎遠になっていった。
エリックが成長するにつれて、ルイスは彼にどう接していいのかわからなくなった。
「お父様、今日幼学校でね…」
「あとで話そう。今は忙しいんだ」
エリックの小さな声を聞き流しながら、ルイスはいつも部屋にこもり、書類に目を通すふりをしていた。
息子の小さな手が、自分を求めていたことに気づきながらも、どう応じればいいのかがわからなかった。
そんなある日、セリアは馬車の事故で突然この世を去った。
「…夫人の馬車が横転し…」
使用人の報告に、ルイスはただ黙り込むしかなかった。
最期の瞬間、セリアとどんな会話をしたのかさえ思い出せなかった。
葬儀の後、家には静寂が訪れた。
しかしその静けさは、決して安らぎではなかった。
「…父上、母上はもういないの?」
エリックのか細い声に、ルイスは何も答えられなかった。
彼は息子の目を直視することができず、ただ手を伸ばして彼の頭を軽く撫でることしかできなかった。
それ以来、ルイスはますます息子との距離を取るようになった。
彼を愛していないわけではない。
ただ、どう接すればいいのかわからないだけだった。
エリックが何かを話しかけても、ルイスは素っ気ない返事をするだけだった。
彼の小さな手が父親の愛情を求めて伸びていたことに、気づきながらも無視してしまった自分を何度も責めた。
今、リリィとエリックが楽しそうに笑い合う姿を目にするたびに、ルイスは心のどこかが締め付けられる思いだった。
「…俺は、何も変わらなかった」
変わるチャンスはあった。
話し合う機会もないまま死んでしまうことがあることを、知っているはずなのに。
「セリアを失ったように、エリックも失うわけにはいかない…」
ルイスは静かに拳を握りしめた。
ある日の夕食後、ダイニングには張り詰めた空気が漂っていた。
教師からの報告を読み上げたルイスが、厳しい視線をエリックに向けている。
「エリック、どうしてそんなことをしたんだ!」
ルイスの低く鋭い声が響く。エリックはぎゅっと口を結び、視線を落としたまま動かない。
その小さな肩が微かに震えているのを見たリリィは、心を痛めた。
「エリック、答えなさい」
ルイスがさらに問い詰めるが、エリックは何も言い返さない。
ただ俯くばかりだった。
リリィは思い切って席を立ち、テーブルを挟んでルイスを睨みつけた。
「話も聞かずにそんなふうに叱るなんてひどいわ!」
ルイスは驚いた表情でリリィを見つめる。
「リリィ、友達を転ばせるなんて暴力は許されない。理由がどうであれ、正当化できるものではないんだ」
「それでも!エリックが何の理由もなく、そんなことをする子だと本気で思っているの?」
ルイスは返す言葉を失った。リリィはさらに続ける。
「まず、エリックの話を聞いてから叱るべきよ!」
その言葉に、ルイスは少し眉をひそめながらも、静かに椅子に座り直した。
「…話を聞こう。それでいいだろう」
リリィはエリックの隣に座り、優しい声で問いかけた。
リリィはそっとエリックの小さな手を握り、目線を合わせる。
「エリック、あなたがそんなことをする子じゃないって私は信じてるわ。だから、何があったのか教えてくれる?」
エリックはしばらく沈黙していたが、やがて小さな声で話し始めた。
「…僕、止めたかったんだ…その子が、別の友達をいじめてたから。やめてって言ったけど、全然聞いてくれなくて…」
涙ぐみながら、エリックは続けた。
「それで、その子の手を引っ張ったら…バランスを崩して転んじゃったんだ。本当に、転ばせるつもりはなかったんだよ」
リリィはエリックをそっと抱きしめ、その背中を優しく撫でた。
「そうだったのね…。止めたかった気持ちは正しいわ。でも、やり方が間違っていたのね」
エリックは泣きながら頷き、リリィの胸に顔を埋めた。
「次はどうすればよかったのか、一緒に考えましょうね」
「うん…ありがとう、お母様」
リリィとエリックのやり取りを黙って見ていたルイスは、深くため息をついた。
その夜、リリィは書斎にいるルイスを訪れた。ドアをノックすると、ルイスが少し疲れた表情で顔を上げる。
「エリックの話を聞きましたよね?」
リリィは優しい口調で問いかける。ルイスは短く頷いた。
「聞いた。確かに彼には理由があったようだな…だが、やはり手を出したことは間違いだ」
「ええ、でもそれをただ怒るだけでは解決しません。彼がどうすればよかったのかを一緒に考えるのが、私たち親の役目じゃないかしら?」
ルイスはしばらく黙った後、椅子にもたれかかりながらリリィを見つめた。
「……君がそんなふうに親らしくなれるなんて思わなかったよ」
「……私も不思議ですけれど、エリックが可愛く思えて仕方がないんです」
ふふふと声に出して笑ったリリィは、母親の顔をしていた。
翌朝、ルイスはエリックに声をかけた。
「エリック、昨日はすまなかった。これからは、何があっても父親として話を聞くことを約束する」
エリックは驚きながらも微笑み、初めて侯爵家の家長ではなく、父親としてのルイスを実感した。
庭には夕陽が差し込み、柔らかなオレンジ色の光が芝生を照らしていた。
リリィとエリックは花壇のそばで笑い合っている。
「エリック、待ちなさい!絶対に捕まえてみせますわ!」
「無理ですよ、お母様。僕の方が速いんですから」
エリックが得意げに走り回るのを、リリィが必死に追いかける。しかし勢い余ってスカートの裾を踏み、リリィはその場に転んでしまった。
「きゃっ!」
芝生に倒れ込むリリィを見て、エリックが近づきながら苦笑する。
「お母様、また転びましたね。足元をちゃんと見てください」
「うう、あなた、本当に逃げ足が速いですわ!」
リリィが膝をさすりながらぷっと頬を膨らませると、二人は顔を見合わせて笑い出した。
その姿を少し離れたテラスから見つめるルイスの姿があった。
彼は父親を見つけると、たっと駆け出した。
「楽しそうだな」
低く呟いたその声に、エリックの声が重なる。
「なにか緊急の用向きでもありましたか。父上」
エリックが首を傾げる。
「別に。ただ、お前の母親が幸せそうで良かったと思ってな」
「……それを言うなら、最近、父上が母上のそばにいる時間が増えすぎだと思います」
拗ねたように顔をそむけるエリックを見て、ルイスは思わず口元を緩めた。
「嫉妬か?」
「ち、違います。ただ…僕が教育して、ここまできた母上なんです。僕の功績が奪われる気がして不愉快なんですよ!」
そう訴えるエリックの声に、ルイスは少し考え込んだ。
そして、不器用ながらもそっと彼の頭を撫でた。
「そうだな。確かにお前のおかげだ。だからこそ、私ももっと家族のために変わらなければならない」
「……まあ、わかってくれればいいです」
そう言いながらも、エリックは少し満足げな顔をしていた。
その日の夕暮れ時、リリィ、ルイス、エリックの三人は庭のベンチに並んで座っていた。
風が花の香りを運び、静かな時間が流れる中、リリィがふと呟く。
「こうして家族みんなで過ごせるなんて…夢みたいですわね」
その言葉に、ルイスは静かに頷き、リリィの肩に手を置いた。
「これからはもっと家族を大事にしていくよ。お前と、エリックと、そしてこれから生まれてくる子どもと一緒に」
「こ、こど…」
リリィの顔がみるみる赤く染まり、目をぱちぱちさせながら口ごもる。
「子、こ、こどもって…その…!?よ、よばいの!?」
「夜這い?」
「あ、いや、あの!」
慌てふためくリリィに、エリックが腕を組んで冷静にコメントを入れる。
「お母様、落ち着いてください。未来は少しずつ変わってきているのですよ。だから……」
「落ち着けるわけないでしょう!エリックは平然と言うけれど、よ、よよ、ば、……なんて!私には大問題よ!」
二人の掛け合いに、ルイスは思わず微笑む。
そして、リリィの頭にそっと手を置いて優しく言った。
「焦る必要はない。ただ、そういう未来もいいだろう」
リリィは真っ赤な顔で頷いた。