白いコート
心臓の音がバクバクと脈打ち、残り時間僅かな命の灯し火を全力で燃やし尽くさんとしていた。
「大丈夫だから、大丈夫だから――」
抱き締める女の子に言っているのか、はたまた自分に言い聞かせているのか、茂は大丈夫と言う言葉を壊れたラジオのように繰り返していた。後、数秒後には奴らの牙が届く。この刹那の時間は彼に取って永遠に等しく長く感じている事だろう。処刑台に乗せられたら死刑囚はこんな気持ちだったのか、今までの記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。
「おーちゃん……苦しい」
強く抱きしめた事で息苦しさを感じた女の子は、どうにか脱出しようともがく。そこで、茂は我に返った。
「あれ? 生きてる?」
「苦しいよ~」
「う……あ? す、すまん」
茂は女の子を抱きしめる力を緩めた。すると、ぷはぁとプールで息継ぎをするように、酸素を求めて女の子は脱出した。
「もう! おーちゃん苦しいよっ!」
「え……ああ」
「あれ――このお姉さん……誰?」
女の子が茂の背後を指差したのだ。
「え?」
慌ててそちらに振り返ると、
「なんだ? どうなってやがる……」
燦々と降り注ぐ雪空の下に見知らぬ女が立っていた。白く膝まであるトレンチコートを羽織い、茶色いミトンの手袋をしている。茂に比べると、かなり小柄で少女と言ってもいいだろう。守りたくなるような、小動物的雰囲気を醸し出していた
「――大丈夫かな? そこから動かないでね」
優しく柔らかい声色で茂達に話しかけた。降り注ぐ雪に純白のコート、腰まで伸ばした黒い髪、この雪夜の雰囲気のせいかまるで――聖女。のようであるが、それはモドキと言う言葉が合っているのかもしれない。
手に持つは――鈍器。
杭を打ち付ける時に使用するような、持ち手部分が長いハンマー。それを、頭の部分を下に、柄の部分を上にした状態で手の平をそこに乗せ、緑の生物達をじっと睨んでいた。女性が扱うには不向きな武器。まして、聖女となればそんな武器を選ばないと断言できる。
更に極めつけは、彼女の前に広がる光景であった。純白の雪を染める紫。凶悪で醜悪な面構えをした緑の生物達――だったもの。この夜に似つかわしくない紫の花。受粉の為に花粉を飛ばすかのごとく中身は遠くに、味方に、飛び散りそこら中にたくさんの花を咲かせていた。
爆心地の中心に居るのでは、と錯覚するような死屍累累とした世界が広がっていた。
聖女ならば、こんな悲惨状況を作り出す事をしない。だから――モドキなのだ。
「瞳ちゃん見ないように。うぐ……」
魚が腐り、それにアンモニアをぶっかけたような強烈な刺激臭。風が吹いた事で茂達にそれが直撃した。込み上げる酸っぱいものを喉の奥に押しやりどうにか耐えるが、女の子の方は耐えれなかったようだ。
「ごめんね。早く終わらせるから――加速」
さっき聞こえた声の主はこの女で間違いないようだ。この言葉の後に――
「ふぅ……終わったかな?」
緑の生物との決着が決着が付いていた。
「――へひっ?」
茂は間の抜けた、頓狂のような声を上げた。
夢を見ているのではないか、それとも本当は死んでいるのではないか、ここは死後の世界ではないのか、疑心暗鬼のそれに違い全てを疑いたくなるような現実離れした現象を目の当たりにして硬直した。それもそのはず、いつ動いたかも茂には分からなかったのだ。
まさしく刹那の出来事――緑の生物は全滅した。
「これで全部かな?」
急激に濃度が増した悪臭と女の声により、茂は現実へと引き戻される。
「うん。大丈夫だね」
この場で平然としているのはこの女だけだった。瞬きすらしていない。動いた事も、武器を振るった姿も何も――分からなかった。雪の上に残っている、ムートンブーツの足跡から彼女はその場から動いたのは間違いないのだが、茂には何もかも見えなかったのだ。ぶるりと肩を震わせた。これは気温から来る寒さじゃなく、恐怖に似た寒気によるものだろう。もし、これが敵だったらば――
すると、彼女が茂方を向いた。
「えっと、向こうに居る女性もお仲間ですかね? とりあえずあっちに行きましょう」
話しかけて来た女に茂は、飲み込まれるように見惚れていた。「美しい」「可愛い」「キレイ」、表現するならそのどれもが当てはまるが、どれも安っぽく適していない。茂からは彼女が本当に聖女に見えていた。
現に、二重瞼に睫毛も長く、鼻筋も通っている。アイドルや芸能人と言われても誰も疑わないだろう。少し幼さが残っているが、それがよりギャップを生み彼女の魅力を引き立てていた。
恐怖で戦きそうになった事がどうでもよくなるくらい、魅力に満ち溢れていた。それを、呆けたように眺めると、何も反応しない茂に対して心配したよう再び声をかけた。
「あの~……」
恐る恐る声をかける。怪我でもしているのではないか、と心配しているように見つめていた。
「おーちゃん?」
おかしな調子の茂に対して今度は、女の子が服の袖を引っ張った。
「えっ? あっ! すまん! ぼーっとしてたわ……おほん」
意識が現実へと戻ってきた茂は慌てて咳払いをする。三人は急いで女の子の母親の元へと戻った。
「ママっ! 怖かったよ~」
女の子が母親の胸に飛び込むと、玉のような涙を流して泣き出す。
「――ひーちゃん! 良かった!」
母親と抱き合う姿を見て、茂はほっと胸を撫で下ろす。だが、安心した事で忘れかけていた感情を思い出した。心の中をかきむしりたくなるような、やり場のない怒りが言葉として現れる。
「あの野郎――もし、見つけたらただじゃおかねぇっ!」
「……何かあったのですか?」
茂の右後ろに立っていた聖女のような女性は、女の子と母親のやり取りを微笑ましく見ていた。間に合って良かったと、肩の力を抜いて一息吐こうとしていた時である。茂の居る方向から肌を刺すような空気が流れてきた。微量ながら殺気もこもっており、女はそれに反応したようだ。
鬼の形相となった茂を見て、これは何か一悶着あって、あの状況になったのだろうと思い事情を聞く事にしたのだ。
「いや……それが――」
茂は女に事の発端を説明した。
「なるほど。それでその高校生は逃げてしまったんですね」
「ああ、子供を餌にするとか許せんっ! ここに来るまでに見かけなかったか?」
「いえ、悲鳴が聞こえて急いで来たんですが特には……それにしても、何処にでもそう言う人は居るんですね――裏切りか」
最後の言葉はとてつもなく重い何かが込められるように感じた。茂もそれを何となく察したのか、聞き返そうとしたが辞めた。
「今から探すにしても見つかりそうになさそうですし、ここから早く離れましょうか。血の臭いで他に良からぬ奴らも集まってきそうですし」
「ああ、そうして貰えると助かるん」
「はい。ところで晃さんは何処にいます?」
この女は晃の味方で間違いないようだった。彼が石を使って会話していたのが男だったからそれとは別人なのだろうが、急いで駆けつけてくれたみたいだ。
「っ! 晃君は俺達を逃がすために――」
茂は怒りで我を忘れた自分を呪いたくなった。今ももしかしたら危険な目にあっているかもしれない。本来であれば真っ先に伝えなくてはいけない事だった。
「そんなっ! 急がないと――でも」
三人を見ると今にも飛び出しそうになった自分を押さえ込んだ。彼等を置いていく訳にはいかない。だから女はもう一度、魔法を使う事にした。
「加――」
加速と言う二文字をもう一度口にしようとした時である。
「――唯っ!」
その声に女が反応する。