1.【絶望のあとには、希望?】
「お目にかかれて光栄です。私を知っていますか?」
―― ミック・ジャガー&キース・リチャーズ――
血しぶきが散った。
鮮血がアスファルトを汚すのを、私は見た。
何か、小さな黒い塊が、まるで蹴られた空き缶のように弧を描き、飛んだ。
(セナだ)
一瞬だった。
(ああ、あれはセナなんだわ)
ほんの、一瞬だった。
パグは私の手からリードごと抜け出して、トラックの前に躍り出た。
私が注意するまもなく、追いかける暇もなく、セナは轢かれた。
目を疑った。
(なんで?)
理解できなかった。
(どうしてよ?)
ただいつも通り散歩をしていただけなのに。
(なんでこんなことが起きてしまうの?)
何も、悪いことなどしてないのに。
(私が何をしたって言うのよ?)
(どうしてこんなことになるの?)
セナは小さな体は地面にたたき付けられた。果物の破裂する音が、耳の裏に聞こえた。時間差で、私の足下に、何か黒い棒のようなモノが落ちてくる。
なんだろう、これは?
ぼんやりと私はそれを見つめる。
毛で覆われた表面を、何かヌルヌルとした液体が浸っていて、
(私の何が悪かったの?どうして私なの?周りに代わりはいくらでもいるのに。どうして私のセナが私が私の犬がよりによってなんでどうしてどうしてなのよ)
少し、照っていた。その棒の先の方には、
(あれは)
真っ赤な布が巻かれていた。
(バンダナだわ)
それが何を示しているのか
(私が巻いてあげた、バンダナ)
に気付いて
(せなのあしに、まいてあげた)
私は悲鳴をあげた。
♤
教室は、いつもと同じだった。
学校指定のグレーのブレザーが中に溢れていた。友達と楽しそうに雑談する人。睡眠不足なのか、腕を枕にして顔を埋めている人。暇そうに漫画雑誌をめくる人。
HR前のいつもの風景。
いつもと同じ。
代わり映えのない日常。
その中で、私一人がいつもと違う。
私一人が異邦人。
私が座っているこの席だけは、世界から切り離されていた。
暢気な顔。楽しげな笑顔。教室に漂う穏やかな空気。
この前までその中に溶け込んでいた私なのに、今は彼らの無神経さに、怒りすら覚えた。
「ねぇ、沙織」
不意に私を呼ぶ声。視線を向けると佳奈の顔があった。
「なに?」
私はいかにも面倒くさそうに返す。彼女は仲の良い友達だが、今は楽しくお喋りなんて気分じゃない。
「なにか用?」
用がないならどっかに行って。そう念じる。
「えっと、用って訳じゃないんだけど」
「だけど?」
「元気、なさそうだったから」
「別に。普通だけど」
「ならいいんだけどさ」
一体なにがいいって言うのだろう。私は内心呆れていた。
「あんまり、気を落とさないでね」
ハイハイ。わかったわかった。
答える代わりに適当に手を振ると、佳奈は目を伏せ自分の席に戻っていった。なんであなたが傷ついたふりをするの?去る彼女の背中にそう言ってやろうかと思った。元気なさそうだったから?それはそれは。お優しいことで。人の心配をしてくれるなんて、よっぽど暇なのね。と。
意地の悪いやつだ、と自分でも思う。でも、そういう風に感じる自分が間違っているとも思わない。人のことを心配できる、人のことを考えられる。それは、余裕があるからこそ出来ることなのだ、って私は思うから。
(それだけ幸せなんだ)
(人のことに気が回せるほど満ち足りていて、人にそれを分け与えられると思うほど、傲慢なんだ)
みんなが私のことをどう思っているか、私は知っている。
可哀想。哀れ。心が弱い。大したことでもないのに。たかが犬ごときで。ペットごときで。そう誰もが思っている。小学生じゃないんだから。
そう彼らの目は語っていた。
(わかるものか)
佳奈はいい友達だ。
(あんたたちになんか、わかるものか)
他のクラスメートだって、そう悪い人はいないと思う。だけど。
(みんな自分目線でしか見てくれなくって)
私の気持ちを分かってもらえているとは思えない。
(想像力の欠如)
分かって欲しいとも、思わない。
「分かるよ」なんて、言って欲しくない。気持ち悪い。
分かってたまるか。
私とセナはこの教室にいる誰とよりも長い付き合いだったのだ。一番の友達だった。家族だった。それを失った悲しみなんて、わかるわけ、ない。
(あの音)
(果物の潰れる音)
(血飛沫)
(転がる脚)
(赤いバンダナ)
今朝も夢に見た(ああ、本当に夢だったなら!)。
私は自分の悲鳴で目が覚めた。
ベッドから跳ね起きて、爆発しそうになるほど震える心臓を押さえながら、辺りを見渡す。そして自分が居るのが血に濡れた道路ではなくいつもの自分の部屋であることが分かった。夢だった。でも、夢じゃない。
夢の中にも、現実にもセナは居ない。名前を呼んでも、短い尻尾を振り回しながら走ってくることは、もうない。嬉しそうに、私の足下にとびこんで来ることは、もう二度とない。
♤
セナが死んだのは、一昨日だった。
散歩の途中、いつもは大人しいセナが突然暴れだし、うっかりリードを放してしまった。駆け出したセナは道路に飛び出し、運悪く走ってきたトラックにぶつかった。
よくある話だと思う。よく聞く、珍しくもない話。「可哀想だね」で済まされてしまいそうな、そんな話。
自分のことでなければ、私も多分そう反応しただろう。少し同情して、それで終わり。所詮他人事なのだから、なければそんなものだ。大したことじゃない。そう、思い込んでいた。
こういう事故は、自然災害に似ている、そう父さんは言った。地震や台風の被害者と一緒で、悪い偶然と不運が重なってしまったんだ、と。どうしようもない、仕方のないことだったんだよ、と。
(本当に?)
そう、言っていた。
(私が)
どうしようもない、
(リードを放さなければ)
どうしようもなかったから、
(しっかり握っていれば)
お前は悪くないんだって。
そうかもしれない。
でも、そんなの、不当だわ!私は強く思う。私だけが悲しんで、私だけが苦しんで。納得いくわけ、ないじゃ、ない・・・・・・。
「ね、ねえ、沙織」
「なによ!」
自分の口から出た大声に驚いて、私は我に返った。
ピタリ、と教室内が静かになる。いつの間にか私の前に舞い戻ってきた佳奈が、怯えた目でこちらを見ていた。その「危ない人を見るような目つき」に私は苛つきさらに怒鳴りたくなるが、これ以上周囲の注目を集めたくない。私は気を取り直して口を開いた。
「今度はなに?まだ何か用?」
穏やかに話をするように努める。何事も起きないのを察したのか、周囲にはざわめきが戻った。
「う、うん。その」
何故だか話すのを躊躇する佳奈。その煮え切らない態度に、少しずつイライラがたまる。
「なに?さっさと言ってよ」
「う、嘘みたいな話だし、馬鹿らしいから、言わないほうがいいかなって黙ってたんだけど。やっぱり、言うだけ言おうと思って」
「なんのことよ?」
「う、うん。実はね・・・・・・」
佳奈は内緒話をするように、私の耳元で囁いた。
「この学校に、死んだものを生き返らせてくれる人が居るんだって」
「・・・・・・は?」
一瞬、耳を疑った。
「なに、それ?」
「なんかね、そういう人が居るみたいなの。依頼すると、生き返らせてくれるっていう人が」
次に疑ったのはこいつの神経だった。私が言った「なにそれ?」はそういう意味ではなくて、「馬鹿にしてるの?」っていう皮肉のつもりだったんだけど、無神経な彼女にはニュアンスが伝わらなかったらしい。怒るより先に呆れてしまう。佳奈は呆然とした私に、次々と情報をまくし立ててくる。
「お金取るらしいんだけど、すごく少ないんだって。五千円とかそのくらいで。ほら、去年卒業した赤川先輩。あの人は猫を生き返らせてもらったらしいよ。他にもC組の小松さんとか、三年生の須藤先輩とか」
「もういいわ」
私は佳奈の話の余りの馬鹿馬鹿しさに耐えきれなくなって、話を遮った。しかし、何故か興奮しだした佳奈はお構いなしに話を続けようとする。
「あ、でも、まだ他にも」
「そんなの嘘に決まってんじゃん。ばっかみたい」
「だって実際に」
「もういいって言ってるでしょ!」
私は机を強く叩いた。激しい音。揺れる教室。時が止まったかのように雑音が消え、この場の全ての視線が、私に集まったのを感じた。
「・・・・・・ごめん」
佳奈が静寂を破った。消え入りそうな声で私に言った。
「別に」
「本当にごめん。変なこと言って。でも、結構有名な話だし、もしかしらって思ったら、つい」
「別に、いいってば」
よくない。
なにも、よくなんてない。
「う、うん。じゃあ」
申し訳なさそうに、佳奈は席に戻っていった。周囲の視線を感じ取って、私は表情だけは平静を装うが内心は怒りにはらわたが煮えくりかえっていた。
死んだものを生き返らせる?そんなこと出来るわけないじゃない。ゲームじゃあるまいし。そんな噂を本気で信じているのだとしたら、佳奈の神経を疑うわ。普通だったら鼻で笑う。あまりにもくだらない。
そんなことが出来るんだったら、私がこんなに悲しむことはないし、世の中雑誌や新聞から死亡記事なんてなくなるはずだ。娯楽から悲劇の半分だって消えてしまうだろう。そんなこと、少し考えれば分かることなのに。
(でも)
そんな噂、法螺に決まってる。
(もしも)
それもお金まで取るなんて、立派な詐欺じゃないの。
(もしもそれが)
人の悲しみにつけ込んで儲けようとするなんて
(その噂が)
そんな奴、許せない。絶対に許せない。だから
(本当だったら)
私が、その法螺を暴いてやる。
(本当に、死んだものを生き返らせてくれるのなら)
暴いて、後悔させてやる。とことん追い詰めて、泣いて許しを請うまで。絶対に。
(私は)
私は誓った。