王宮にて
あの後、どうやって王宮に帰ったのか、フリードリヒはさっぱり覚えていない。
ただ、フリーデを前にして、己の感情が振り切れて泣いてしまった事と、フリーデに拒絶された事ははっきりと覚えている。
王宮に戻ってすぐ王との謁見で王から王太子の身分の剥奪を言い渡された。
平民服に着替えさせられ、王子の身分を示すものは何も無くなっても、まだフリードリヒはぼんやりとしていた。王からの聞き取りが終わった後、フリードリヒは王宮の地下牢へと自ら入った。
「兄様……」
薄暗く肌寒い牢の中に、兄を心配する弟の声が響く。
「ヴィンセントか……すまなかったな」
兄のその一言で、ヴィンセントは彼が自分の状況を全て悟っている事を知る。
ヴィンセントが牢の隙間から狩猟用の皮の外套を手渡すと、フリードリヒは素直に受け取った。
「兄様……兄様は、これから平民として生きていく事になります。魔法研究所から、龍に変化出来る兄様を研究したいと申し入れがありましたが、私の方から断りました。兄様は、身分など無くても私の兄です‼」
ヴィンセントは堪え切れない様に俯く。
魔法研究所はもとは王立だったが基本的に王国から独立していた。創立当初は王家からの資金提供で成り立つ機関だったが、現在は援助など無くとも十二分に成果を出していた。
王家からの依頼は受けるが、その権威からの影響も受けない研究所から、今回のフリードリヒの龍への変化を見て、研究させてほしいと申し入れがあった。
研究所は今までに数えきれない成果を出しており、その研究はミッドランド王国の屋台骨を支えるほどであると言っても過言ではなかった。医療に関わる魔道具の開発に始まり、生活に必要なありとあらゆる物品が日々、魔法研究所の一人の天才によって生み出されていた。
王家と並ぶほどの権威を持ち始めた研究所を危惧する貴族たちも出てきたが、国王がそれを許した。人民の為になる研究ならば、その研究を深めよと研究所に申し渡した。
今回研究所がフリードリヒに研究協力依頼をしたのも、そういった経緯があったからだろう。
ヴィンセントが拒否してくれなければ、自分はやけっぱちになって研究に協力していたかもしれない。男爵令嬢は今頃研究所でどんな実験をされているのか……
「ヴィンセント……」
檻の外の白金の髪を持った弟王子を見る。ヴィンセントの容姿はフリードリヒとよく似ているが、髪色はフリードリヒより薄く、線も細い。まだ少年のあどけなさが残る顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
「兄様は! 龍の泪を私に下さったでしょう? あれがあったら、魅了魔法になどかからなかったはずだ‼」
龍の泪とは、王家に伝わる国宝で、飲めば万病を癒し、あらゆる魔法耐性をつけてくれる物である。その量は希少な為、王族といえども直系一代に一度しか使う事ができない様に保管庫には魔術がかけられている。
ヴィンセントが幼少期に不治の病と言われた時、ためらわずに龍の泪を使わせてくれたのはフリードリヒだった。そのおかげでヴィンセントは常人より健康になり、あらゆる魔法耐性、毒耐性がついている。
王立魔法研究所から、フリードリヒの頭髪や血液から、フリードリヒは強い魅了魔法にかかっていたとの研究結果が出た。これからリリーの研究が進めば、更に詳細な結果が出るだろう。
龍の泪を自分に使わなければ、フリードリヒが魅了にかかる事は無かった。ヴィンセントはフリードリヒに顔向け出来ない。
「ヴィンセントを救った事を後悔した事はない。ただ、フリーデに申し訳ない事をしてしまった……」
「フリーデ様にこの事を言えば、わかってもらえるかもしれません!」
「いや……無理だ。フリーデは私の姿を見るのも、声を聞くのも嫌だと、はっきり言った」
昨日、神殿を飛び出し龍に変化してまで助けたかった人物がフリーデだったと知り、ヴィンセントは驚愕した。魅了魔法が完全に解けた事もそれでわかった。
「そんな! しかし……兄様は、フリーデ様の姿を龍の眼の中に見たのでしょう? 彼女が番なのでしょう?」
説得するも兄からは諦めたような声しか返ってこない。
「…………ああ。だが、もう遅い……」
「昨日、兄様が流した龍の泪で、王宮の金庫もすぐ回復します。兄様がいる事によって他国より軍事力を得た事になり、国防に大きく貢献しています! 兄様が魅了魔法にかかっていたと、父上も知っています。だけど、けじめの為に廃嫡させると……しかし、今、父上に廃嫡取り消しを願い出れば、兄様は‼」
唯一の望みに期待をかけるが、当の本人は首をふる。
「言うな……もう過ぎた事だ……」
昨夜、孤独な牢の中で、フリーデを失った悲しみは止まる事はなかった。夜通し泪を流し続けたが、どうせならこの上で泣きなさいと様子を見に真夜中に牢を訪れた母上から小さな器を受け取った。
朝になるまでに、一滴で金貨一億枚とも言われる龍の泪が並々と溜まった。
成人男性がこんなに涙する事をどうかとも思うが、番に拒絶された悲しみはフリードリヒの胸を切り裂こうとする。番を失った龍の殆どが気が狂って死んでしまうと言われているが、きっと自分もそうなるだろう。
「私はこれからどうしていいか、全くわからない。フリーデが居ないと、何も手に付かないのだ……こんな事になってしまって本当に申し訳ないが、この国を頼む」
「……兄様」
それっきり牢の粗末な寝台に座り俯いてしまった兄に、ヴィンセントは何も声をかける事ができなかった。兄を案じ、何度も振り返りながら牢を出る。
翌朝、ヴィンセントが再び牢を訪ねると、フリードリヒの姿はもう何処にも無かった。