第一話「道士と殺人鬼」1
19世紀倫敦。
ヴィクトリア朝の時代。
かつてフランスとの間に起こった第2次百年戦争において優位をとなったイギリス帝国は、その後最盛期を迎える。
いわゆるパクス・ブリタニカである。
そして、18世紀半ばから19世紀にかけた起こった産業革命は、世界を変えた。
イギリス帝国は世界の工場と呼ばれ、蒸気が街を包んだ。
しかし、後の歴史書でも繰り返し描かれる通り、急速な発展は暗い影をも生み出す。
拡大した貧富の差、都市部への人口の流入、河川の汚染、そして多発する凶悪犯罪……。
19世紀の世界の中心と言える倫敦は、強い光と闇を併せ持つ、魔都であった。
その倫敦中心部から、外れた位置にあるホワイトチャペル地区。
夜は薄暗く、道の衛生状況も決して良くはない。
住人達も裕福とは言えず、そんな場所の治安が良いはずもないのであるが、ここを一躍有名にしたのは、ある猟奇殺人事件であった。
そこを一人の男が歩いている。
やがて、その男は薄汚れた一角で足を止めた。
「ここがメアリー・ジェーン・ケリーの殺害現場か……」
今は昼間であるが、なぜか男の周りは暗く見えた。
それは、山高帽をはじめ、コートからズボン、革靴に至るまで全て黒で統一されているのみならず、髪や瞳が黒なのもあるが、一番はその男の持つ、一種の雰囲気であった。
闇を引き連れて歩いているかのように、彼の居る場所が一段暗くなっているように錯覚するのだ。
年齢としては20代前半なのは疑いないが、それでは到底醸し出せぬ年輪ある空気を纏っている。
男は、懐から古びた板を取りだした。
板の表面には、八卦と呼ばれる古代中国の占いに使用される図像が描かれていた。
八卦の図像は、方位や色、季節など様々なものを示す。
男は、今度は酒瓶を取り出し、中身を板にぶちまけた。
そのしぶきが渦を巻き、幾何学的な文様を描きだす。