月面展覧会
マルコはダ・ヴィンチやピカソの再来とうたわれた、当代最高のよび声高い画家だった。芸術家としては運が良かったほうであろう。生きているうちに作品が認められたのだから。
老画家は筆一つで身に余るほどの富と名声を手にした。
それでも毎日が不満でいっぱいだった。
「暦では秋も終わりだというのに、枯葉一つ落ちてないじゃないか!」
ロンドン、パリ、ニューヨーク、東京……薄もやのかかった街をホテルのテラスから見下ろすたび、マルコは額に汗をにじませながらそう叫ばずにはいられなかった。
氷河は溶け、サンゴは枯れ、嵐は街ごとなぎ倒し、砂漠は広がり、動物は滅んでいった。そんな大事件も恵まれた国の人々のあいだでは、俳優のスキャンダルや凶悪事件の実況と同様、画面のなかの娯楽の一つでしかなかった。漠然と行く末を悲観する人々も少なからずいたが、ボタン一つでチャンネルが切り替わると、もう笑っていた。
遠い土地の災難はまだしも、万人に身近な季節というものが壊れてしまったというのに、その変わり方があまりにも緩慢だったせいで、人々は今現在の気候が『普通』なのだと思いこんでいた。過去の記録を持ちだして騒いでいるのは数字好きの学者くらいのものだ。
マルコは無力だった。春の花、夏の鳥、秋の風、冬の月、なに一つ取り戻すことはできなかった。札束を手にしたからなんだというのだ。あんなものは『手遅れ』になった後では、せいぜい鼻紙か燃料にしかならない。絵筆を置こうと思ったことは何度もあった。本に耽り、色に溺れ、ボトルを空け、旅から旅へ……どこに足を向け、どこへ逃げても、果てにあるものは同じだった。果てにあるものは、色あせたなじみの扉だった。
そんなある日のこと。宇宙船の打ち上げ中継を見ていて、マルコはハッと閃いた。さっそくキャンバスに向かい、生涯もっとも短い時間で、生涯もっとも満足のいく作品を描き上げた。
マルコはその絵を携え、ヨハンという男の家を訪ねた。歳のわりに体の引き締まった家主はマルコを快く迎え入れた。
トロフィーやメダル、惑星儀や月球儀、そしてマルコのオリジナルやレプリカでいっぱいの書斎。
老画家はそんなものには目もくれず、厳重に包んだ絵を、誉れ高き男に突きだした。
「宇宙最高傑作だ」
ヨハンは一瞬、受け取るような仕草を見せるも、さっと両手を広げた。
「その……それは作品の出来、ということですか。それとも……」
「無論、どちらでもある」
「それはまた大胆な……」
ヨハンは眉を段にした。驚きと不審の念を隠さずにいられないようだ。
それは無理もないことだった。マルコの作品のほどんどは『無題』『花』『海』など、ありふれた一語きりのタイトルなのだ。
マルコはかまわず続けた。
「この絵を、私の指定する場所、指定する時節に飾ってもらいたい」
「私が、ですか?」
ヨハンは自分を指した。
「そうだ。君のような男でなければ、できない相談なのだ」
マルコはおもむろに壁棚のほうへ足を向け、月球儀の北半球にしわしわの指を置くと、ニヤリと振り返った。
「……」
ヨハンは痛みをこらえるような顔で黙ってしまった。
「マルコ爺もついに頭にきやがった……かね?」
「い、いえ……」
男は目をそらした。
マルコはかまわず続けた。
「飾る方法は任せる。が、包みは必ず月の上で解いてもらいたい。それまでは絶対に誰にも見せるなよ。ヨハン、君も含めて絶対にだ。それから、このことはマスコミを通じて大々的に報じるのだ」
ヨハンは三度目の宇宙飛行を二年後に控えたベテランパイロットだった。過去二回は宇宙ステーションでの仕事だったが、次回のミッションは『諸般の事情』で長いあいだ凍結となっていた、月面への再着陸だ。
「まあ、絵の一枚くらいはなんとかなるでしょうが……それにしても、あなたはいったい何を考えているんです?」
マルコは低く笑った。
「なーに、まともな絵も描き飽きたが、まともな展示にも飽きた。それだけのことだよ」
緊急記者会見でヨハンは言った。
「再来年の月面ミッションには特別な余興があります」
当代最高の画家による宇宙最高傑作を月面で初公開する、というヨハンの発言はマスコミを通じ、世界中に衝撃を与えた。特に人々を驚かせたのは、絵のタイトルにも増して大胆なツアー内容だ。マルコはなんと、すべての国の代表を自費で招待したのだった。
地球の裏側にいるニュースキャスターが衛星中継を通じてマルコに訊いた。
「このイベントが実現すれば、あなたは一文無しになってしまうわけですが、せっかく築き上げた財産をフイにして後悔はないのですか?」
「私にとって金というのは、画材とパンと日々の家賃、それ以上の意味は持たないよ」
「ほんとうにそれだけ?」
「それだけだ」
画面の若者は下を向く。
マルコは仕方なく笑顔を作った。
「ただ……もし『必ず満足のいく絵が描ける』という魔法のチケットが発行されたなら、話は違ってくるかもしれんがね」
人類初の月面着陸から半世紀以上たった今、宇宙船や宇宙服の進歩により、優良な健康状態にある人なら誰でも宇宙へ行くことが可能だった。問題は……費用だった。以前よりは安上がりになったものの、宇宙飛行はまだまだ国家予算の浪費家であり、また大金持ちの道楽であり、議員の収入ごときで手を出せる代物ではなかった。
それをタダで宇宙へ行かせてくれるというのだ。個人の財産で公人が旅することなど到底できないと、はじめは断る国が相次いだ。そんなあやしい雲行きを吹き飛ばしたのは、ある小さな国の首相のひと言だった。
「私は芸術を愛する国民の代表として、また宇宙を愛する少年少女の代表として、月の大美術館へ招かれたのです」
そして、二年の月日が流れた。
荒れ果てた月の高台に集まった人々は二百を超えた。調査を終えた宇宙飛行士たち、偉大な画家に招かれた諸国の首脳たち、力を駆使して勝手にやってきた民間の大物たち。
幾多のスポットライトが重なる先に、一つのイーゼルと、包まれた絵を抱える宇宙服の男が立った。
いよいよ展覧会のはじまりだ。
ヨハンはイーゼルに載せた絵から、さっと覆いを引き払った。
人々は息をのんだ。
宇宙の静寂があった。
やがて、各々の耳もとのスピーカーに汚いノイズが吹き荒れた。
「我々は……我々はこんなくだらないジョークを見せられるために、危険を冒してはるばるやってきたというのか?」
そこにあるのは三十号サイズの、ただのキャンバスだった。まだなにも描かれていない、安物の白いキャンバス。
月の荒野に群がる眼光という眼光は、巨匠の代理であるヨハンに向けられた。
「どういうことなんだ、これは!」
東洋訛りの英語を皮切りに、誰彼となく息を吸いこんだときだった。
ヨハンは口もとのマイクにささやいた。
「時間だ。ライトを消してくれ」
地平の彼方から差すほのかな陽の光が、人々の長い影をつくった。
「これより月面展覧会を開催いたします。お集まりの皆様、どうか正面をご注目ください」
人々は映画の本編がはじまったかのごとく静まった。
そこにあるのは、色のない世界だった。
漆黒の宇宙、灰色の起伏、白いキャンバス。
なにもかも変わり果ててしまった先にある、終末の景色のようだった。
人々は互いを見合った。これをどう受け取ったらいいのか。
賢者たちは口をつぐみ、愚者たちは口を開いた。
「なるほど『ありのまま』を愛する彼らしい作品といえなくもないが……」「フン、くだらん皮肉だ」「正直がっかりというほか……」
「シッ!」
ヨハンは人差し指を立てた。
白いキャンバス越しに、ふっと青白い炎がともった。
画材になにか仕掛けでもあるのかと、人々はどよめいた。
「お集まりの皆様、この作品のタイトルを今一度、思い出してください」
人々は時を忘れ、場所を忘れ、そしてなにもかも忘れた。
人々は顔を上げてゆく。ただ顔を上げてゆく。
ある人は天からの授かりものを受け取るように、着ぶくれた両手を掲げた。
小さな球を写したヘルメットの奥には、光るものがあった。
* * *
時は流れた。
ここは南の海に浮かぶ小さな島。ヤシの木に囲まれた海沿いの小学校では、今日もいつも通りの授業がおこなわれていた。
開け放しの平屋の窓から、若い女の声がする。
「はい、静かに。こうして人々は心を入れ替え、私たちの島は海の底にならずにすんだのでした」
安堵のため息、かすれたあくび、クスクス笑いがぽつぽつとあった。
そこに男の子の尖った声が響く。
「先生。それってさ、ほんとうはぼくらをいましめるための、つくられた神話なんでしょ?」
子供たちのざわめき。
「なーんだ、ただのお話か」「ちがうよ」「そうよ」「ほんとうにあったんだから」
「はいはい!」女教師は手を叩く。「では、明日は教室での授業はやめにして、特別に社会見学会をおこなうことにします。行ったことがある人は、そのことを自慢したりせず、今こうして平和に暮らすことができる奇跡に感謝しましょう」
どこ行くんだろ、とひそひそ声が飛び交う。
カッカッカッ、と教師は板書する。
「明日の朝九時、『宇宙エレベーター発着所行き』の桟橋に集合。寝坊した人は置いていきます。いいですね?」
「はーい!」