第47話 エヴァンジェリン・アルジェント
人々が寝静まり、闇に音が吸われるような錯覚を覚える深夜。
王都の中心から離れた場所にある一軒の宿屋の前に、フードを目深に被った女性が佇んでいた。
その姿は儚く、今にも消え入りそうなくらい希薄であった。
その女性の手には、大きめの籠が抱きかかえられていた。
「この子をよろしくお願いします」
フードを被った女性がそう言って、宿屋の扉の前でおもむろに籠を置いた。
籠の中には、幸せそうに寝息を立てて眠っている赤ん坊が入っていた。
「この宿の人はとても良い人だから、あなたをきっと大切にしてくれるわ。良い場所と人を探すのに苦労したけれど大事なあなたのためだもの。本当は違う国が良かったのだけど、赤ちゃんのあなたに長旅は命に関わるから」
女性は優しく、そして寂しそうに赤ん坊の頬を撫でた。赤ん坊は眉間にしわを寄せて身じろぎをした。
その様子に微笑む女性。だがその時同時に、赤ん坊の額に雫が落ちた。
「……ごめんなさい。私達にもっと力があれば、あの人を止められるのに。
あの人があなたを『愛しい水瓶』だと言った。
だからあなたを隠すことにしたの。見つからないように、探されないように、あなたは死んだ事にしておくわ。
そのせいであなたに迷惑を、あなたにさみしい思いを……」
涙を流しながら懺悔をするように赤ん坊に話しかける。その光景から決して、自ら望んで赤ん坊を手放そうとしていないことがうかがえた。
涙をぬぐい、笑顔を見せる女性。しかし、赤ん坊は眠っていてその女性の顔を見ることはなかった。
その時の女性の顔が、女性を母親と認識させるには十分すぎるほどに優しく、母性を溢れさせていた。
「こんな事を言っても意味はないわね。……運命に負けては駄目よ。あなたの人生が輝きに満ちる事を願っているわ」
女性はゆっくりとその場所から離れていった。
やれるだけのことはした。あの人が旅に出ていない今が最良の時期であった。娘は病に冒されて命を落とした事にした。色々と隠蔽工作をして誰にも分からないように配慮した。あの人が帰った頃にはあの子の顔なんて忘れているだろう。
あの人は、あの子の外側ではなく内側に価値を見出しているのだから。
さぁ、最後の仕上げだ。後は私が……。
「はぁ、姉さん怒るだろうなぁ……」
自分がこれからする事を考えて、仲のいい姉の事を思い出す。
女性は苦笑しながらも覚悟を決めて歩き出した。
ふと後ろを振り返る。赤ん坊の姿はもう見えなくなっていた。
女性は赤ん坊の心配をしながら、夜の闇へと消えていった。
――――――――――――――――――――――
――翌朝。
「のあっ!?」
野太い驚きの声が、早朝の宿屋に響いた。
「うっさいわね。どうしたのよ」
若い女性が宿屋の入り口に突っ立っていた男性に文句を言う。
「こっ、これ見てみろよ……」
男が持っているそれを見て、あらっ? と若い女性が首をかしげる。
「……赤ちゃん?」
「……どう見てもな」
二人は顔を見合わせて目をパチクリとさせた。
籠の中に入った赤ん坊は、何が楽しいのかキャッキャッと笑っていた。
「捨て子ね」
「……客の子供って線は」
「誰もいないでしょ。閑古鳥が鳴いてるわ」
そうだったと頭をかく男性。
「どうすんだ?」
「うち、余裕ないんだけど」
そう言ったものの、放置はできないし他に当てもない。このままではこの子は死んでしまう。
「う、う、うみぁ〜ん!」
どうしようか悩んでいると突然赤ん坊が泣き始めた。
「うおっと!?」
突然のことに慌てる男性。それを見かねた女性が赤ん坊を抱き上げる。これでも一児の母なのである。すぐに泣き止ませてやろうと原因を探りながら今後について考える。
だがしかし、片手間なのが伝わってしまったのか赤ん坊は泣き止むそぶりを見せない。
「……どうしたのぉ?」
騒がしくしていたため、寝ていた子供が起きたようであった。
目をこすりながらトテトテと歩いてくる男の子に赤ん坊を見せてやる。
「………………」
「…………」
「………」
三人とも無言で泣きじゃくる赤ん坊を見ていた。
――が。
「ふぉーーー!?」
突然男の子が発狂した。
ビクッと二人が反応すると、赤ん坊も驚いてさらに泣き声が大きくなってしまった。
「ちょっと! 駄目でしょ大きな声出しちゃ」
母親に怒られていく分か冷静になる男の子。だがしかし、その目は爛々と輝いていた。
それを見た二人はまたしても顔を見合わせて、目をパチクリとさせていた。
そして――
「「あははははは!!」」
顔を見合わせたまま大笑いする二人。
「その子は男か女か?」
男性が女性に問いかけた。
「こんなに可愛いんだもの、女の子に決まってるでしょ」
「女の子!?」
それに反応したのは男の子だった。
「まぶしい。そして可愛い」
「……三歳児の言葉とは思えないな」
呆れる男性のヒゲを掴み、いつのまにか赤ん坊が泣き止み笑っていた。
「ねぇ、妹欲しくない?」
「欲しい!」
その問いに間髪いれずに答えると、男の子は赤ん坊の頬をつつく。
フニャッと笑う赤ん坊を見て後ろに倒れる男の子。
「かっ、可愛すぎまんがな……」
男の子はすでに骨抜きになっていた。
「いや、だから三歳児の反応じゃねぇよ」
「じゃあこの子は今日からうちの子よ。名前は……」
女性が悩み始める。もう引き取ることは確定のようだ。
はいはーい。と言って手を挙げている男の子に発言の許可を与える。
「可愛い名前がいいでしょ。じゃあ天使のように可愛いから『エンジェル』ってのはいかがでしょう!」
センスな!?
何この子のセンス。赤ん坊の将来に関わるぞ!
男性は息子のネーミングセンスに戦慄した。
「……悪くないわ」
悪くないの!?
おかしいよ君たち!
今度は女性のセンスにも違和感を覚える。
息子の名前は母親である女性がつけたが、あまり変ではなかったからだ。
どうやら認識を改める必要がありそうだ。
「だけどもっといい名前があるわ。うちは商売をやっているのよ。見なさいこの子の髪を!」
少しだけ生えている髪の毛はまだ細く、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
「……金色だな」
「金髪だね。将来はブロンド美人か」
「お前は何目線で言ってんだ」
息子の言葉に的確なツッコミを入れる。
女性はそんなやりとりをする二人を、睨みつけて黙らせてから話し始めた。
「あんた達、縁起物よ。こんな綺麗な金色の髪、滅多にお目にかかれないわよ」
「まぁ、たしかにな」
「よく聞きなさい。この子の名前は『ビューティゴールド』よ!」
「ダサっ!」
「くっ、負けた!」
男性はそのセンスの無さに酷評したが、反対に男の子は自分のセンスの負けを認めて崩れ落ちた。
「……ビューティちゃんで異論はないよ」
「あるだろ!」
「じゃあ、あんたはなんか案があるわけ?」
男性はう〜んと腕を組みながら唸り始めた。そしておもむろに赤ん坊が入っていた籠の中を覗き始める。
「……あった」
何があったのかと男の子が男性の服を引っ張る。
「見てみろよ」
男性が指をさした場所を見てみると、赤ん坊が包まれていたくるみ布団の端に何やら刺繍で文字が書かれていた。
「上等な生地だね」
「そこじゃねぇだろ、端をよく見ろ」
男の子は気づかなかったようで、近くで見せてやる。
「この生地の刺繍に使われている糸、かなりの品ね。この子、貴族の子かしら」
今度は女性の方が糸に食いついた。
「お前らは現実を見ろ。名前だ名前、注目するのは生地と糸の質じゃねぇ」
どうやら二人は名前がもうある事に焦ってはぐらかそうとしているようだった。
そんな様子を呆れてみる男性は、仕方ないと言わんばかりにその子の名前を読み上げる。
「――エヴァンジェリン。いい名前じゃねぇか」
「チッ」
「くやしいけど本当だね」
二人とも悔しそうな表情をして、男性の持っているくるみ布団を見ていた。
「いや、舌打ちって。決まってるもんはしょうがないだろ」
「だって捨てられてんのよこの子。名前も捨てるべきじゃない?」
「だけどお母さんしっくりくるよ。この子はエヴァンジェリンちゃんだよ。……呼ぶとき長いな」
「呼ぶときゃ縮めればいい」
「そだね。エヴァ、お兄ちゃんだよ」
男の子がこえをかけるが、ずいぶんの間おいてけぼりだった赤ん坊は寝息を立てていた。
「寝てるわね」
「寝てるな」
「寝てるね」
赤ん坊の寝顔を見てほっこりする三人。
この日、しがない宿屋であった黒猫亭と言う場所に、新しい家族が増えた瞬間であった。
彼女の名前はエヴァンジェリン・アルジェント。アルジェント家に引き取られた養女である。
―――――――――――――――――――
「えっ?」
誰が発した声だっただろう? その場にいる全員が驚愕の事実を前に呆然としていた。
当事者のエヴァと、その両親を除いて。
しばらくして、揺り戻しのように店内がざわざわとし始めた。
「……本当なのかよ」
「確かに容姿は似てないと思っちゃいたが……」
「待てよ、こいつの言ってること真に受けるのか?」
「だってよぅ……」
至る所でそんな会話が始まっていた。
無理もない。いつも仲睦まじく接している親子なのだ。他人からすれば容姿が少しちがうのは隔世遺伝か何かだと思うだろう。
男の言葉を信じたのか、エヴァはその場に立ち尽くしていた。
「エ、エヴァ……」
今日は本当になんて日だ。
ライオスは、ルーティに続いてエヴァまでも辱めを受け、様々な感情が胸を渦巻いていた。
ルーティも同じような心持ちなのだろう。複雑な表情でエヴァを見ている。
ルーティは、母親として今すぐにでも抱きしめてやりたいが、男の言ったことが真実であったため動けずにいた。
先程、母親としての自分を否定し、エヴァに受け入れてもらえたことで吹っ切れたと思っていたが、まだ覚悟が足りなかったのかもしれない。
今、こうして動けずにいる自分に嫌気がさした。
エヴァと出会ったのはリットが三つの時だっただろうか。
当時、店が軌道に乗り始める前の時期で、エヴァが店に来てから客が入り始めた。
その時は幸運の子だと喜んだものだ。それは丁度リットが営業に口を出してきた時期でもある。
ルーティが、グッと脚に力を入れてエヴァに近づこうとした時だった――
「………した」
エヴァが何かをつぶやいた。
表情はうつむいて見えない。
何か? と男が問いかける。
エヴァがバッと顔を上げる。その表情は弱々しいものではなく強い意志を感じさせるような凛々しいものであった。
「知ってました!」
言葉の意味。それは、自身が血の繋がりがない存在だと認める言葉だった。
エヴァンジェリン・アルジェントは知っていたのだ。そこにある自分自身の秘密を。
幼いながらも色々なものを見て聞いて、エヴァは少しずつ成長していった。
子供の成長は著しい。
その中でいつしか気づき始めたのだ。顔立ち、髪の色、瞳の色、遺伝における全ての矛盾を。
知っていたと言うよりは、察していた、気づいていたと言うほうがただしいだろう。
エヴァは別段その事を気にしているわけではなかった。何より気にする必要がなかった。
こんなにも自分を大切にして愛してくれる家族をエヴァは大好きだったからだ。
それに、それとは別に嬉しいこともあった。血が繋がっていないとはそうゆう事だ。
エヴァは男を見据えてそれがどうしたと言わんばかりだ。
「貴女は今まで騙されてきたんですよ。怒らないのですか? 憎まないのですか?」
男は怪訝そうに問いかける。
「なんで怒ったり憎んだりしないといけないんですか? 血の繋がっていないわたしをいっぱい大切にしてくれたんですよ。そんな必要ないです」
「……エヴァ、あなた」
目に涙を溜めながら微笑むルーティ。
「うぅ、ひっぐ、ぶおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
ライオスはエヴァの言葉に涙腺崩壊を起こしていた。
「ちょっとライオス台無しなんだけど……」
しゃくり泣いているライオスに冷ややかな目線をおくる。
「だってよぉ……。嬉しいじゃねぇか、俺たちのエヴァが立派に育ってくれべぇぇぇぇん!!」
「泣くか喋るかどっちかにしなさいよ」
はいはい。とルーティがライオスをなだめる。
エヴァが二人を見て顔を赤くしながらもじもじしている。
どうしたんだろうと二人はエヴァを見つめた。
二人に見つめられたエヴァは恥ずかしそうにしながらも、二人に感謝の想いを伝えた。
「お父さんお母さん。本当の子供じゃないわたしを大切にしてくれて、愛してくれてありがとう」
エヴァのその言葉に、ライオスだけでなくルーティも涙を流した。
何故だか周りの客達も涙している。
「うおぉ〜ん! お前らよがったなぁ!」
「やばい、俺にもこんな娘がいたらぁ!」
「ぐすんっ……、辛かったなぁエヴァ、何かあったら俺たちに言えよなぁ!」
エヴァはハッとして、周りの客達にも言葉をかける。
「みんなもありがとう。いつもからかわれてるけど、みんながわたしのためにしてくれてるって分かってるよ。ちゃんと優しさも伝わってます。それにわたしにとってはお客さん達も家族みたいなものだから」
「「「う、ゔぉぉぉぉぉぉぉん!! エヴァぁぁぁぁぁ!! あいじでるぞぉぉぉ」」」
「うんっ! ありがとっ!」
エヴァは照れ笑いしながらもしっかりとした口調で感謝を伝えた。
「馬鹿馬鹿しい茶番だ! くそがぁ!」
そのやりとりを見ていた男がついに爆発した。今までの口調とは違い。感情をぶつけるようであった。
「ふざけるなよ! あのガキといいお前といいなんで私の思い通りにならない!」
地団駄を踏み、怒りをあらわにする男に、エヴァが冷たく透き通る声でこう言った。
「あなたの物じゃないですから」
そのあと誰にも聞き取れないくらいの声で「わたしはお兄ちゃんの物なの……うふふ」と黒い顔で嬉しそうに言っていた。
「チッ、これで最後三つ目だ。散々家族の仲を掻き回してやろうと思っていたのに」
「次はなんですか?」
エヴァは鼻を鳴らして馬鹿にしたように男を見た。その仕草はまるで母親のルーティの様だった。
「あーなんかもうどうでもよくなってきたわ。ライオス店をたたんで他の国で商売する覚悟ある?」
「はぁ、しょうがねぇな」
一方で、ルーティとライオスは貴族と事を構える覚悟を決めた。荒事になってでも押し切るつもりだ。
「馬鹿にしていられるのも今のうちだ。私を怒らせた事を後悔させてやろう」
少しだけ余裕を取り戻し、男が勝ち誇った表情を浮かべる。
「早く言ってください」
「さっさとしなさい」
「え〜と、持ち出すものはどうするか」
エヴァとルーティは男を急かし、ライオスは逃げる準備を始めていた。
その態度に激昂した男は、怒りに眉尻を上げて三つ目の最後の話をし始めた。
「今城下町では私の部下たちがリット・アルジェントを殺すために出向いている。お前達が私の言う事を聞けばあのガキには手を出すまい!」
男は本日、リットに刺客を送っていた。目的はあくまで生け捕りだが、嘘も方便、家族の窮地を知れば従わざるをえない。
それに、用が済めば最終的には死んでもらうので一所だと思っている。
「ふはははは! さぁ、どうする? 愛しの息子が、兄が、 死んでしまうぞ」
男は狂喜し笑っている。勝ったと思い込んでいるようだ。
アルジェント家の面々は顔を見合わせて一瞬キョトンとした後。
「「「あっ、それは大丈夫です」」」
三人は手を横に振りながら、とても清々しく言い切った。
その意外な返答に男は、へっ? と、間の抜けた声を上げた。