第44話 アルジェント家の危機
――時は少し遡り、リットが営業に出た後の黒猫亭に戻る。
今朝も早くからリットが出かけて行き不満そうな顔のエヴァンジェリンを、常連の客達がからかっていた。
それは、もはや新たな定番と言ってもいいやりとりとなっていた。
「おっ、リットはまた女のところか」
「ちがいますぅ、お兄ちゃんはお仕事に行ったんですぅ」
唇を尖らせて反論するエヴァが可愛らしくて、ついつい意地悪をしたくなってしまう客達。
まるで好きな子にちょっかいを出して後に後悔する小学生男子のようである。
「ふぅ、仕事かぁ。どんな仕事をしてるんだろうなぁ」
知っているが挑発するようにエヴァを見る客達は、皆ニヤニヤとしていた。
「城下でお店を出してるの!」
知ってるでしょ、もぅ。と、さらに機嫌を悪くするエヴァに、ニヤリとした客達が追い打ちをかける。
「なんの店なんだ? あーあれか、女とイチャイチャするお店かなぁ」
ちがうもん! と、エヴァはそっぽを向いてしまった。
店の中が笑いに包まれる。
「なんで笑うの!」
「いやいや、お前ほんとに兄貴が好きだよな」
エヴァはキョトンとしてこう言った。
「えっ? 好きじゃないよ」
その言葉に先ほどまで笑いに包まれていた店内は、水を打ったかのように静寂に包まれる。
「へっ?」
誰かが素っ頓狂な声を出したことによって、その空気は弛緩したが、ありえないことを言ったエヴァに対して疑問がぶつけられる。
「おっ、おい。エヴァお前さんリットのこと好きじゃねぇのかよ……」
いつも兄にベタベタ触ってベタベタくっついてベタにベタ惚れているあのブラコンが、兄の事を好きではないと言うのだ。只事ではない、もしかしたらこの娘は本物ではないかもしれない。
そう思った客達は大勢居たらしく、皆エヴァの顔をつついたり引っ張ったりして確認している。
「い、いひゃい」
涙目で訴えるエヴァを見て、すまなかったと離れていく。
「あんた達私の娘に何してんのよ」
呆れたように料理をテーブルに置いてから、エヴァの頬を撫でるのはルーティだ。
ルーティはジトッとした目で店内の客を見渡すと、大きく溜息をついてエヴァの話を最後まで聞くように促した。
エヴァは胸に手を当てて嬉しそうに話し始めた。
「お兄ちゃんのことは好きじゃなくて、大好きなの♡」
ぽっ、と頬を染めるエヴァ。そしていつも兄といる時に見せるようなふんわりとした笑みになるのだった。
まるで彼女の周りだけ花が咲いているような錯覚に襲われてしまうほど、エヴァの笑顔は輝いていた。
なんだそうゆうことかと、拍子抜けする客達。だがしかし、そうと分かればまたからかいたくなる。
「そうか大好きなのか、でも確かリットは大人っぽい女が好きって言ってたなぁ。あれ、エヴァお前さんいくつだったっけか?」
「うっ……! 9歳……」
答えながら後ろにたじろぐ。
「ガキだな」
グサッ!
「大人の女じゃねぇなぁ」
グサグサッ!
「色気もねぇなぁ」
グサグサグサッ!
「あと胸もない」
ぺたーん。
もはやエヴァのヒットポイントはゼロである。
ここぞとばかりにエヴァをからかう常連客達。エヴァは顔を赤くして憤慨した。
エヴァは懲らしめてやろうと虎の威を借りる事にした。
「言い過ぎだよ! 特に最後に言った人には後でお兄ちゃんに め ってしてもらうから!」
この後も女は胸じゃないと強めに主張するエヴァ。
エヴァの中では一番気にするのはそこなのか? と呆れる客達。だが、そんな事を考える余裕もなくなる客がいた。
「すいませんでしたぁ!」
言い過ぎたことに焦った客が手のひらを返して他の客にも謝れと促す。
店内がまた賑やかになり笑顔が溢れた。
その光景をルーティとライオスは幸せそうに眺めていた。
こんな日々がずっと続けばいいと、ライオスとルーティはそう思う。
さらに、そこにリットが居ればきっと毎日笑顔が絶えない日々になるだろう。
そんな幸せな日々を二人は望んでいた。
だが、誰しもが二人の幸せを望んでいるわけではなかった。それはリットやエヴァの幸せも一緒である。
この世界にも、人を不幸にする事を自分の幸福にする者達がいる――
この日はいつもより新規の客が多く訪れていた。
カランコロンと店の入り口のベルが鳴る。客が入って来たが、誰も知らない顔だった。また新規の客だとエヴァは親切心を働かせて席に案内しようとする。
入ってきたのは男の客であった。外見は綺麗に着飾られていて、エヴァはきっと貴族か商人の客なのだろうと身を引き締めて接客をすることにした。
貴族の客はフレデリク以外は来たことがない。だが、最近ではヴァレリー家のメイド達に礼儀作法なども習っていたので、さも当然かのように、自然と振舞うことが出来た。
接客するエヴァを、男はニコニコと見ていた。エヴァは子供心ながらも嘘っぽい笑顔だと思った。それにこの男を見ていると何か嫌な気持ちになってしまう。
思わず顔が強張る。笑顔で対応しなくてはならないのに頬が上がってくれない。代わりに胸のあたりがモヤモヤと胸焼けを覚える。
さっきまで機嫌は悪かったが気分は悪くなかったのに吐き気までしてきた。
よろめくエヴァ、それを見て咄嗟に支える常連客。
「おいっ! 大丈夫か!」
「……ごめんなさい。気分が少し悪くなっちゃって」
気分が悪そうなエヴァを椅子に腰掛けさせて落ち着かせる。
そんな時、代わりに接客に出たのはルーティだった。
しかし、ルーティのそれは接客ではなく。相手を疑い責めるようなものであった。
「いらっしゃいお客さん。私は慣れてるからどうでもいいけど、さっさとその魔力を引っ込めてくれないかしら? 気分が悪くなるわ」
この店に居た者の大半が冒険者であったので、耐えることが出来たのだが、この男は尋常ではない魔力を放出していたのである。並みの魔法使いでは比ではないくらいの魔力濃度である。これでは耐性のないエヴァが倒れてしまうのも無理はない。
「おっと、これは失礼しました。つい癖で」
悪びれもせずに男はそう言って両手を上げた。
「それでここは宿屋兼お食事処なのだけど、食事でもしに来たのかしら? 生憎と部屋は空いてないから宿泊は無理よ」
もちろん部屋が空いていないというのは嘘だ。こんな得体の知れない男を宿泊させるわけにはいかない。
さっさと食事を済ませて帰って欲しいが、一応客なのでそんなことは言えない。いや、身なりを見て貴族と判断し言わなかったのだ。面倒事は御免である。
すでに巻き込まれているのだが、ルーティはそんな事を知る由もない。
「では、心を満たす食事を」
ルーティではなく、エヴァを見ながらそう言った男を訝しげに見る。ルーティは仕方がないので注文を取ることにした。
「ご注文は?」
「私を満足させる物を」
その言葉にルーティは青筋を立てたが、鼻息を荒くしながら、ライオスに目にもの見せてやれと顎をしゃくった。
「任せろ」
ライオスは短く返事をすると、手際よく料理を作り始めた。
出来上がった料理を持っていくと、店の中に緊張が走る。ごくり、という生唾を飲み込む音が聞こえる。一体誰のものかは分からないが、この状況ではそんなものも気にならない。
「召し上がれ」
ルーティはいつのまにか移ってしまったリットの口癖を言うと一歩下がって礼をした。
そのままエヴァが座っている場所まで行き頭を撫でてやる。
厨房では、ライオスとヴァレリー家のメイド達が、固唾を飲んで男を見ていた。
男が料理に口をつけ始めると、より一層空気が張り詰めたような気がした。
男は食事を終えると、一瞬悔しそうな顔をしてから笑顔になり、賛辞の言葉をライオスに贈った。
「店主、とても美味でしたよ。また来たいと思えるほどでした」
その言葉にライオスは安堵し、ルーティは鼻を鳴らす。
食事が終わり立ち上がる男は、エヴァを見つめる。その視線はまるで、獲物を狙う蛇のようであった。
目が合ったエヴァは身体が固まってしまう。蛇に睨まれた蛙とは、このような状況を言うのであろう。
目線をそのまま固定し、男は喋り始めた。
「この店の料理は、とても美味で、私の舌と胃を満たしてくれました」
ですが……、と一呼吸置いて。
「……私の心はまだ満たされていません」
とても残念そうに言っているのだが、その目はいやらしく光っていた。
「私の心を満たすために必要なものがあります」
その言葉にルーティとライオスは警戒する。貴族であろうこの男が何を要求してくるか分からないからである。
周りの客として来ている冒険者も、いつでも飛び出せるように重心を前方に向ける。荒事は避けたいが頼もしい限りである。
「それは貴女です。エヴァンジェリン・アルジェント」
男の言った一言に一同固まってしまうが、ルーティだけその言葉に反応する。
「どうゆう意味かしら? 嫁取りなら他所でやってくれる? 娘はまだ子供だし、嫁に出す気も婿を取るつもりもないんだけど」
「嫁取り? なるほど、それはそれで彼・が面白い反応をしてくれそうですね。ですが残念です。私は貴族なのでこのような汚い宿屋の娘を娶ることはありません」
何だと? と、珍しくライオスが語気を荒げた。
「失敬。ですが本当のことでしょう?」
「うちは確かにしがない宿屋、その事は認めるわ。でも娘は別よ馬鹿にしないで」
ルーティも耐えられなかったらしく、いつもよりも低い声で相手に撤回を求める。
「おやおや、ですが事実なので撤回はできませんね」
飄々とした男の態度に、ルーティがギリギリと歯を鳴らす。
「さぁエヴァンジェリン嬢、こちらへ」
男が手を差し出す。この手を取ってしまえばエヴァは自分からついて行ったという事になり、こちらからは何も言えなくなってしまう。だが相手は貴族だ、断れば面倒な事になってしまう。
だが、ルーティは食い下がった。大切な娘が理由もなく連れて行かれるのは我慢ならなかった。
私は母親だぞ馬鹿にするな、男をひと睨みして視線をエヴァにずらす。
「エヴァ ダメよ」
そう言ってエヴァを強くそれでいて優しく抱きしめる。奪えるものなら力ずくで奪ってみろという意思表示であった。
「お母さん苦しいよ……」
と言いながらもエヴァは安心感に包まれた。
「やれやれ、抗いますか」
当たり前だと一蹴するルーティ。ライオスも男を睨んで視線を逸らさない。
「では、エヴァンジェリン嬢が自ら来てもらえるよう説得するだけです」
その言葉に、はんっ、と挑発的に馬鹿にした態度をとるルーティ。説得? 脅迫の間違いだろう、と心の中で吐き捨てる。
では、と一つ間を置いて男は話し始めた。
「説得するにあたって話が三つあります。先ずはルーティ・アルジェントさん貴女の話からです」
エヴァを説得するのに私の話? ルーティは首をかしげるがすぐに警戒した。男の顔が冒険者時代によく見た嫌な貴族達と重なったからだ。
よく裏切られた、よく仲間を奪われた、よく命を狙われた。昔の事を思い出し、ルーティは嫌な汗をかいた。
ルーティの表情を見て笑みを深める男。
「ルーティさん貴女は黒猫の異名を持った元S級の冒険者でした。今は宿屋の女将ですが昔の逸話は有名ですよ。私もいくつか知っています」
それがどうしたと睨みつけるルーティ。だが内心では気が気ではなかった。向こうは私のことを調べていると。もしあ・の・事・を知られてしまっているとしたら私はリットとエヴァの母親ではいられなくなってしまう。
ルーティは大丈夫だと自分に言い聞かせる。元々この国の出身ではないのだ。元いた国のことを調べるわけがないし今まで隠しきれているのだ。あの事を知っているのはここにはライオスだけ。あとは昔の仲間に一時期敵・であったアルリエルだけだ。
だけどどうしても不安が拭えない。思わずエヴァを抱く手に力が入る。
「お母さん?」
エヴァの声にハッとする。自分が不安を抱えていればそれがエヴァに伝わってしまう。そう思い笑顔を作ったルーティは、大丈夫だとエヴァを撫でた。
だけどやっぱりエヴァに不安が伝わってしまったようで、心配そうに顔を覗き込んでくる。
しっかりしろ母親だろうと自分自身を叱咤する。
そんな事を知ってか知らずか、男は世間話でもするかのような軽いトーンで話を続けた。一部を強調しながら。
「貴女は紛れもなく英雄でした、数々の依頼を仲間と共に解決へと導いた。そう輝かしい冒険者時代でした」
嗚呼、この男は知っているんだ。冒険者時代を強調して言うこの男は、私が冒険者をしていた以前の過去を知っている……。
「ですが、その輝かしい頃よりも少し前は、貴女は真逆の人生を送っていましたね」
男の顔が醜悪に歪む。この男が私の話をすると言った時に最初は気づかなかったが、これが狙いだったんだ。エヴァの心を私から離すために。そしてエヴァを物理的に私達から奪う為に……。
「やめて……」
自分の声はこんなにも弱々しかったのかと驚いた。それに何だその言葉は? 私はいつからこんな弱い女になったのだ。悔しくて歯をくいしばる。
だけど今はこんなことしか言えない。今の私が過去の私を拒絶する。
男は楽しそうにルーティを見てとうとう触れて欲しくなかった核心を話し始めた。
「ルーティさん貴女は暗殺ギルド、闇ギルドにカテゴライズされる組織の ―― 」
「やめて!」
男の話を遮るように、ルーティの声が店に響いた。
今度は大きな声が出せた。だが、その言葉に乗った意思は強さではなく、悲痛な心の脆い部分であった。
これでもう私の過去はバレてしまった。常連の客達も目を見開いて驚いている。
ライオスは私のことを知っている。でも、リットとエヴァは……。
知られたくはなかった。たくさんの人を殺した。たくさんの命を摘んだ。たくさんの大切な人を持つ人を殺して殺して殺して……。
今の私なら私が殺してきた人、残された人の気持ちがわかる。でも、奪った命は私の物にはならなかったし、奪った命は帰ってこないのだ。
後悔している。そんな言葉は無意味だともわかっている。
きっと、私は幸せになってはいけなかったんだ。
「ルーティ……」
ライオスが心配そうにそう呟いた。
「お母さん」
エヴァはもしかしたらわかっていないかもしれない。いつものように自分を呼ぶ声に、ルーティは顔を伏せてしまった。
今はエヴァを見れないし、エヴァに見て欲しくない。
自分は母親失格だと思った瞬間に、いつぶりだろう? 頬に温かいものが伝い。ルーティはエヴァを抱きしめていた手を離して、その場に崩れ落ちた。
父さんごめんなさい。私は後悔してしまった。
少し暗い話が続きます。