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病の生きる領域

作者: 丹生 庫裏亜

「人は、考える生き物だ。 その先に何があるのか、それが何でできているのか……を、知るために、人は考える」

「……」

「指向し、思考し、試行して……至高を志向し、そしてそれを嗜好とするわけだ」

 そこは、白い部屋。その壁際にベッドと椅子が一つづつ置かれ、それぞれ一人が寝そべり、そして座っていた。

 まるでその色以外を排斥せんとばかりの白に囲まれて、部屋に響く声の主はこれまた白い衣服を身に纏っている。

 声と容姿から、一目で女性とわかる……これくらいの外見であれば、少女と呼ぶべきか。

 少女は、かれこれ10分程、こうして語り続けていた。といっても、もちろん独り言ではない。きちんと話を聞く相手が居て、内容についての反応を求めてのことだ。

 が……少女がそうして雄弁を振るうのに対し、その話し相手であるべきその人物は、数分に一度、それも単語単位での返答を返すのみ。この言語に不自由している訳でも、思考能力を阻害する何かがあるわけでもなく、単純に口を開きたくないだけらしいが。

「つまり、人は考えるという特徴を持つ生き物であり、そして“何か”のその先にある“何かの意味”を求めていて……これは、おかしくないか?」

「……なにが」

「順序が逆なんじゃないか、ということだ。 普通は、何か問題があって、それを解決するための手段を模索し、その達成に努めるのが順当というものだ。 だろう?」

 しかしその少女は、その端的な言葉にも気分を害するような様子は全く無く、むしろ反応があった事を喜ぶように、殊更快活に舌を回す。

「だと言うのに、人は不明を解明した後、今度は“不明を探し始める”。 それが意味するのは、やはり、『人は考える生き物だ』ということだが……あるいは、真に求めているのは問題の解決ではないのではないかと感じるんだ」

「……僕は、何も考えたくない」

 少女と同じ衣服に身を包んだ人物――僕という一人称から、便宜上少年と呼ぶことにする――が、気だるげに天井を見上げる。その口から漏れた、おそらくその日で最も長い呟き。

 それを聞き、少女は一瞬の間口を閉じ……しかし、話を最後まで続けたいのか「まあ聞け、考えなくても良いから」と、やや横暴に続けた。

「人は、思考を手段として認識していない。 考えるというのは当たり前の事であり、それが至高だと――ああ、駄洒落じゃないぞ」

「……」

「“考える”という事を当然であり前提としながら、同時に、それを十全に……あるいはその限界を超えて駆使することを望んでいる。 つまり、人はある問題を解決するために思考するのではなく、思考するために、問題というものを扱っているのではないのかということだ」

「……難しい」

「そう、時を経る程に複雑になっている。 最近、コンピューターだのプログラムだのって流行っているが……私に言わせれば、あれだってただ“現時点では解決できない問題”を増やしているようにしか感じない」

 そう語る口調は、とても流麗だ。脳内の思考を言語へ変換し、音声として出力する……本来、その過程で生じる筈の“ロス”が全く無い……と、そう言われても違和感の無いほどに、少女が語る様子は洗練されている。

「だから……お前には、考えてほしいんだ。 考え続けてほしい……思考を止めるということは、全てを放棄するということ。 だから、私は、お前に掴んで欲しい」

「……掴む?」

「そう。 例えいつか手放してしまうとしても、一度は手に取って、それについて考えてみろ。 そうしたら、きっと――いや、なんでもない。 はは、すまないな……私は、何時まで経っても利己的だ」

 それは自責か、自嘲か。ともあれ、言いたいことは言ったとでも言うように、少女は目を閉じ……そして、咳き込んだ。

 それは、およそ健常者にはないもので……その少女がなにがしかの病に罹っているのは誰の目からも明らかな程、激しく、長く続いた。

 咳が収まると、傍らに置いてあった水差しからコップへ中身を注ぎ、飲み干した。それを、少年は何も言わずに見ていた。

「ぐ……喉が痛い」

「……寝た方が良い」

「ああ……すまない……だが、すごくないか! いつもだったら、話し終わる前に――」

 そこまで言って、再び、少女は咳き込んだ。

 流石に放っておけなかったのか、少年が背中を摩ろうとして――しかし手を伸ばした所で、思い直すようにして止めた。

「やはり……近づきたくないか」

 咳が収まると、先ほどより小さく、掠れた声で、少女がそう尋ねた。

 しかし、その問いに対する答えは無く……少年は、黙って、床を見つめていた。

「そう、か」

 その沈黙を肯定と受け取った少女は、少し落胆した様子で――しかしそれもすぐに引っ込み、それまでと変わらない顔を上げた。

「今日はありがとう、話を聞いてくれて。 次は、マスクでも付けよう」

「……ごめん」

「何を謝っている、こうして話を聞いてくれるだけでも、わたしのわがままは叶っているんだぞ」

 少女は喉をさすって「これじゃあもう、話せないな」と呟いた。

「……ごめん」

「……なあ」

 絞りだすような声。少年は、無言で続きを促した。

「お前は……私を、恨むか」

「そんな……!」

 懺悔するような、慚愧するようなその声色。少年は、そこで声を荒げた。

「そんな訳ないだろ……」

「……そ、か」

 満足そうな笑みを浮かべる少女。ひどく掠れた声と重いドアが閉まる音が重なり、その部屋は無音になった。

 椅子に座っていた姿が消え、白い部屋、ベッドに一人だけ。

 溜息が一つ。それは静まり返った部屋に広がって、そして白に吸い込まれ、消えた。

 言葉の通り――それから、少女の声がその部屋に響くことは無かった。

 


「境界線というのは、曖昧な物だな」

 ふと、少女が窓の外を眺めながら、なんとはなしに呟いた。

 白い壁の一面に、おそらく人が出入りするのは不可能な程の小さな窓がある。そして、その向こうでは、これまた白い……雪が降っていた。

「……境界線?」

「ああ、境界線……だ」

 本当に何気なく放った一言だったのか、少女は反応があったことに少し目を開き……そして、思考を言語化するための、数秒の間の時間が空いた。

「例えば、その窓の外はとても寒いだろう……この部屋は、暖房がついているおかげでこんな服でも十分だが」

 室内の温度は一定に保たれていた。それは暑い時期でも寒い時期でも、この部屋だけは全く変わることなく、一定であった。

「だが、あの窓に触れれば……冷たいと感じるし、窓からの数センチでも寒さを感じるだろう」

「……窓が、境界線」

「そうだ。 “中”と“外”の境界線はハッキリとしているのに、外はそれを侵犯しているというわけだな」

「……それは、いけないこと?」

「いいや、自然な事だ。 その境界線は、勝手に人が定めたものに過ぎない……自然現象がそれに従う必要も、道理も無い――すまない、水差しを取ってくれるか……ありがとう」

 少女はコップを満たし、そしてそれを空にすると、続けた。

「人の制約が縛れるのは人だけという話だが……だからこそ、境界線は曖昧なんだ。 だって、そうだろう? 人は規律に生きているが、それ以前に自然に生きているんだ」

「元々、人を縛るためだけのものだし……」

「そうだな……例え目に見える形で存在したとして、しかし、人の敷く境界線は飽くまで形而上のものだということだな」

 少女は満足そうな顔でそう言うと、穏やかに、ひとつ溜息を吐いた。

「やっぱり、話を聞いてくれる相手が居るというのは良いな。 病室で一人で考えていても、気が滅入るだけだ」

「……大人しく寝ていた方がいいと思うけど」

「何だ? 話を聞くのがつまらなくなったか」

「そうじゃない。 こうしている事で終わりが近づくんじゃないのか、ってこと」

「……例えば」

 少年の問いには答えず、少女は天井を見上げつつ、言う。

「毎日が楽しくて、でもあと1カ月で終わる命と、逆に毎日が退屈でできていて……それでも20年生きられる命があったら、どっちが良い?」

「……極端じゃない?」

「かもしれないな」

 少女はけらけらと笑って、そして、小さく咳をした。

「……だとしても、私はお前と話している方が、何百倍もマシだ……それで死期が三段跳びでこちらへやってこようが、構わないくらいには」

 少女のそんな挑戦的な態度に、少年は困ったように、しかし可笑しそうに笑った。

「人がせっかく直接的な言葉を避けてたのに……」

「そんな気遣いより、そうやって楽しそうにしているのを見られる方がよっぽど嬉しい――ほら、また顔が曇ったぞ」

 少女は少年に慈しむような視線を向けながら、何かに気づいたように、小さく喉を鳴らす。

「死と言えば……その境界線も、また至極曖昧なものだな……これに関しては、他でもない人間の事を人間が定義している筈なのに」

「……死という現象は、自然の物だよ」

「ああ、そうか……さっき、自分で”人は自然に生きている”なんて言っておきながら……そうだな、自分の命に対してできることなんて、高が知れてる」

 否定的な言葉とは裏腹に、その口調に自嘲的な響きは無い。ただ純粋に、己の中の事実を口にしているだけなのだろう。

「人間というのは、とても自由で……だからこそ、不自由な生き物なのだな」

 どこか哀れみさえ感じる口調に、少年は思わず笑みを零した。

「……自分が人間じゃないみたいな言い方だね」

「もうすぐそうなるのだから、ちょっとくらい不遜でも許されるだろう? そうでなかったとしても、こんなようなことを言っていた自信はあるが」

 少女は、今度こそ言葉に自嘲を含ませ……笑いながら、冗談めかしてそう言った。

「とはいえ、お前もそんなものだろう? ある意味、私よりも人間らしく扱われていないのではないか」

 ともすれば、少年を揶揄するようなその言葉。しかし、それを受けた少年は呆れたような、労わるような笑みを浮かべ、応える。

「……まあ、ね。 こんな風に話しかけて来る物好きは、他に居ないよ……本当に」

「他を基準にしてもらっては困る。 私は人より人から遠い者を自称しているんだぞ」

「ああ……最初に聞いたときは、ちょっと……アレかなと思ったけど。 確かに、そうだ」

「そうだろう? あの時ぱっと思いついた文言だったが、なかなかどうして、私をうまく言い表していると思わないか」

 案外、下手に考えるよりずっと正確だな……そう付け加えて、少女はまた、水差しを傾けた。

「ああ、それにしても……寒いな、今日は」

 窓の外を見つめながらそう呟いた少女を……少年は、何も言わずに沈痛な面持ちで眺めていた。



「昔、誰かに“桜は何故咲くのか”と尋ねた事があってな」

「へぇ……それって、けっこう前?」

「ああ、そうだな……何年前の事だろう」

 そう言って、少女は視線を虚空へ躍らせ、小さく「7年……か」とつぶやいた。

「ちょうど、ここへ来る前の病院へ入院した頃だ……中庭のある病院だった。 そこで、当時の自分と同じくらいの子供と会ってな……懐かしい」

「……なんで、急にそんなことを?」

「今日、夢を見てな――それは、その時の事じゃあなかったけども……まあ、正しく夢というような内容だった」

 少女は少年に、今日見たという夢の内容を語った。

 それは、一言で言えば”青い桜を見た”ということだったが……あまりに漠然としていて、少女本人も説明に少々戸惑っていた。

「へぇ……確かに、それは夢のような光景だろうね」

 話を聞き終えると、少年は頭の中でその光景を想像でもしているのか、瞳を閉じてしみじみとそう零した。

「そうだな……それを見て綺麗だと思ったのか、それとも他の何かを思ったのか……今となっては忘れてしまったが、大体そんな感じだ」

「普通の桜でも、最近じゃあ珍しいからね……今から見に行こうか?」

「それはいいな、悪くない……いや、私からしたら最高だ」

 互いに笑みを含ませそう言うが、その後実際に行動に移すような素振りは全くない。最初からそのつもりもなく放たれた言葉だったのだろう。

 いいや――出来ないからこそ、口に出したのだ。

「そういえば、あの時、なんと答えてもらったのだったか……その答えを聞いて、感動したことは覚えているんだが」

「ああ……“桜が何故咲くのか”、だっけ」

「そう……なんだったかな? なになにをするため、とかだった気がするんだが」

 少女はしばらく唸っていたが……しばらくして諦めたのか、「まあいいや」と言って笑った。

「いいんだ?」

「いいんだ」

「思い出せないのに」

 少年はやや不満げにそう言うが……しかし、少女はあくまでも穏やかな様子だった。

「思い出せなくてもいいんだ。 何かを言って、言われて……何を言ったかは覚えていなくても、それだけ覚えていられれば、十分だ」

「……前は、人と人との繋がりは記憶だけだから、大切に……とか言ってなかった?」

「そうだな、言った……だからこそ、思い出せなくてもいいんだよ」

「う、ううん……?」

 混乱した様子の少年を微笑ましそうに眺めながら、少女は続ける。

「曖昧な方が、大切にできる。 “かたい”物は、落としたら壊れてしまうからな」

「……そもそも、大切なら落としちゃだめだよ」

「……そりゃそうだ」

 少女はけらけらと笑った。少年は、そんな少女を不満げに見ていた。

「何を言われたかは、やっぱり覚えていないが……何かを言われて、私は心を動かされた――それだけで、十分だろう?」

 それはとても穏やかな言葉だったが、だからこそ、少年には説得力があったらしい。

 少年は少しの間考え込んで、そして顔を上げた。

「夢も、そうかな」

「ん……」

「夢も、細かい所は覚えてないけど……青い桜を見た、ってことを覚えていればいいんだね」

「ああ……そうだな、確かに」

 少女は驚いたような、感心したような表情で少年を見つめ……やがて、その視線を空へと移した。

「ともすれば、忘れてしまった過去と夢というのは、違いが無いのかも知れないな」

「……また難しいこと言ってる」

「いやいや、とても単純なことだ――ああいや、お前をバカにしているわけじゃない、そう拗ねるな」

 少女はベッドから身を降ろすと、少年の頭を数回撫で……窓の外を見た。

 頭を撫でる手が止まり、不思議そうに、少年が少女を見上げた。

「……どうしたの?」

「ああ、いや……何でもないよ。 ただ――」

 少年に微笑みながら言って、少女は再び窓の向こうを見た。

「――あの桃色の花が、恋しいな、と」

 特に感慨もなく、そう言ったのだろうが……白い部屋に、その言葉はとても悲しく響いた。

 その表情はおよそ、少年がそれまで見た中で最も感情の薄れたものだった。



 いつもは無音か、大きな機械の作動音がするだけのその部屋に、その日は朝から一つ、新しい環境音が追加されていた。

 少女は目覚めると、まず溜息をついた。そしてひとつ伸びをして……顔を洗いに、その白い部屋を出た。

 そして、水差しを手にした少女が扉を開けると……白いベッドに寝転び、起きてはいるものの、未だ眠そうにしている少年が目に入った。

 二人は朝の挨拶を交わすと、特に会話も無く……少女は少年の微睡を邪魔しないようにか、静かにしていた。

「ねぇ……この……この音は、なに?」

「蝉だ」

 まるで尋ねて来るのを待っていたかのような即答。その声に苛立ちが含まれているのもあり、少年は少し引き気味に相槌を打った。

「土の中で何年か……長いものは十何年と生活し、地上へ出て来るとああして鳴く。 その後の個々の寿命は短いが……如何せん数が多い」

「寿命が短い……何年くらい?」

「そんなんじゃない。 長くてひと月か、ふた月か……驚いているな、あまりに短かったか」

 少年は少女の問いに頭を縦に振ることで応え、説明の続きを求めた。

「鳴いているのは、オスがメスを呼び寄せるためだが……私はどうにも、この音が嫌いだ」

「嫌いなの?」

「ああ、嫌いだ。 何ならあいつら外見もキモイし、なんか、もう……嫌いだ」

 話していたら思い出してしまったのか、顔を顰めつつ、嫌悪感を拭うためか服の裾を握りしめた。

「でも、何年も土の中に居て、やっと出てきたら一カ月とかで死んじゃうなんて……かわいそうかも」

「ああ、そうだな……私はあいつらのそんなところも嫌いだ」

 いよいよ少年の顔に疑問が滲み、それを感じ取った少女が不機嫌そうに話し始める。

「何年も土の中に静かにしていて、出てきたら喚き始めるんだぞ? それも女を呼ぶために」

「……」

「聞いてると、“オレってかわいそうだろ?”って聞こえて来るんだ……いや、幻聴とかじゃなくてな。 そういう意図で鳴いてるんじゃないか、ということだ」

「それは、なんていうか……」

「ああそうだ、身勝手で被害妄想バリバリの思考だ――だが、この声は、やはり自身の境遇を呪っているようにしか聞こえないんだ」

 言って、頭をぽりぽりと掻く。長い髪がそれに合わせて揺れ、しかし少女に煩わしそうな素振りは見られない。

「あるいは……私が“死にゆく者”の境遇を呪っているから、そんなふうに聞こえるのかもしれないが」

 嘲るように言って、笑う。少年は、そんな少女の様子を見て不思議そうに首を傾げた。

「呪ってるの?」

「そうだな、昔は……それこそ、呪ったさ。 断言できる、あの頃はほぼそれしか考えていなかった」

「……今は?」

「今は、そうだな……少なくとも、そうは思っていないつもりだ。 深層心理とかいうやつは、だから、どうだか知らないけどな」

「へ、へぇ……」

 少年は曖昧に感嘆する。少女が笑った。

「お前は本当に、昔からわかっているんだかわかっていないんだかわからないな」

「わ、わかっているよ! つまり、蝉が自分の代わりに泣いてくれてるんだ、ってことでしょ?」

「わた……私の代わりに、か」

 少女は驚くように、少年の顔をまじまじと見つめ……そして、鼻で笑った。

「やっぱり、わかっていないな」

「あっ……えっ……な、なんで?」

「なんで私の代わりに泣いてくれているのに、嫌いなんだ? そもそもそこから違うし……仮にそうだとしても、虫に私の想いなんぞ語られたくはない」

「……そ、そういうことにしておいてやろう……」

「あっ……お前、最近生意気になってきたな」

 二人は互いに小突いたり、くすぐったり……しばらくの間じゃれあった。

 すると、眠かったのか……少年はそのうち眠ってしまった。そんな様子を見て、優しく微笑む少女。

「……本当に、お前は……わかっているんだか、わかっていないんだか……」

 少女がしばらくその寝顔を眺めていると、その眠気が移ったのか……少女もあくびをひとつ。

「ふ……ありえないだろ、私が蝉に自己投影なんて……」

 子供は無邪気だな。

 笑みを浮かべながらそう言って、少女も……ベッドへ突っ伏した。

 その部屋には、2つの寝息が小さく響き……そして、蝉の鳴き声が、遠くから聞こえていた。



 白い部屋。

 だが、そこは病室というわけではない。一面が白という主体は変わらないものの、しかしそこは病を患った者が

 そこには、三人の人間が居た。一人は薄い桃色の服を来て、もう二人は、その部屋と同じく白い服を着ている。

 ただし、白い服を来た二人の内一人が全身白いのに対し、もう一人は白衣を羽織っているだけだが。

「――もって3年、ですか」

 その中で、白に包まれた少女がそう呟く。

 それは、たった今その少女に告げられた言葉を反芻したに過ぎず……だから、その少女の目の前に座った、白衣を来た男性は一つ頷いた。

「そうですか……もうちょっと持つ、と思っていたんですけど」

 今しがた少女が受けたのは、所謂余命宣告というものだった。

 しかし、その表情にそれほどの陰はない。まるで、欲しかった商品が売り切れていて残念、程度の反応だ。

「声は、いつまで……ああ、そうなんですか。 それなら、いいんです」

 白衣の男性は、少女の反応に終始不思議そうな、しかしどこか安堵した様子で受け答えをし、桃色の女性はそれを曖昧な表情で見ていた。

「はい、病室もそのままで。 これは感染するようなものじゃないし、問題はないですよね?」

 その後も、少女は事務的に……あるいは機械的に、いくつかのそういった確認をして、そして特に落胆した様子もなく、その部屋を後にした。

 後に残された男性と女性は、何故か一つ息を吐き……顔を見合わせて、こう言った。

 余命宣告を受けた患者は、大体が大きく取り乱すか、逆に冷静になるかのどちらかだ。しかし、彼女はそのどちらでもない。

 ――あの親子は不気味だ、と。


「死ぬって何?」

「――」

 少年のその言葉に、少女は声も無く驚き、固まった。

 無邪気なその口調に似合わない、重すぎる話題。あまりにアンバランスすぎたそれに、少女は数秒の処理時間を要した。

「か……開口一番、とんでもないのが飛び出したなぁ」

 困ったように、というより、純粋に困っているのだろう、言葉を探す少女。少年は、そんな少女の言葉を大人しく待っている。

「……止まってしまうこと、じゃあないか」

 ようやく絞りだしたその言葉に、少女は自分が言ったにも関わらず相槌を打つ。

「止まってしまう?」

「そう。その場に、ずっとだ」

 その答えを聞いて、少年はしばし考え込む。そんな少年に、少女は不思議そうに尋ねた。

「……どうしたんだ、いきなりそんなことを聞いて」

「んー……さっき、廊下で“死にたくない”って叫んでる人が居たから」

「あ、ああ……」

 少女は、その言葉で察したらしい。よくあることでもなければ、そんな反応はできないだろう。

「ねえ……死ぬのって、怖いの? 痛いの?」

「さあ……痛いのかどうかは、私は死んだことがないからわからないが……わからないからこそ、怖いんじゃないか」

「わからないの?皆いつか死んじゃうのに」

「死んじゃったら、そこで終わりだからな。 何を用意した所で、死は決して経験できない事象なのだ……だぞ」

 やや芝居がかったその台詞に、少年は意味を掴みかねたように頭を捻った。

「死、って、形がないものなんだね」

「形が、ない……か」

 少女は少し驚いたような表情をして、しかしすぐに「そうだな」と、少年の言葉を肯定した。

「死というのは、人が形を与えるには大きすぎるんだろう。 そしてその大きさが計り知れないからこそ、怖い」

「……怖いの?」

「私か? 私は……そうだな、怖い。 死ぬのも嫌だしな。 でも、一番怖いのは私が死んでしまった後のこの世界だ」

「ん……さっきの廊下の人とは、違うの?」

「死によってもたらされるというのは同じだ。 だが、私は私が奪われることよりお前が傷つけられることの方が嫌なんだ」

 今度こそ、わからないといったふうに唸る少年。少女はその頭を撫で、微笑む。

「わからなくていいんだ。 わかったら嫌だよ、むしろ。 この想いは、私だけのものだ」

「私だけのもの」

「そう。 今となっては、という条件付きだが」

「今……昔は違ったの?」

「ああ。 昔はもう一人、これと同じ想いを持つ奴が居た……というより、私がそいつの意思を受け継いだようなものだ」

「……その人は、もう居ないの?」

「ああ。 ……死んでしまった」

 少年から、その人物が誰なのか、という質問はなかった。それは、その人物が誰だかわかっているのか、それとも興味がないのかはわからない。

 少女は昔を懐かしむような眼をしながら、少年の頭を撫でていた。

「死んじゃうと、一人なんだね」

 ふと、少年が呟いたその言葉に、少女の手が止まった。

「止まっちゃうと、周りが動いてるのに、自分だけ止まっちゃうから、一人になっちゃう」

「……そう、だな。 一人になって、そして――私の場合は、一人にしてしまう」

 だから、私は死にたくないんだ。

 少女はそう言って、少年を抱きしめた。

「寂しいのが……嫌なんだね、みんな」

「……お前は……時々、わかってるんだかわかってないんだか、わからないな」

「……わからないと、怖い?」

 少女の腕の中で、不安そうにそう問いかける少年。それを聞いて、少女は少しの間笑った。

 そして、さらに強く抱きしめながら言った。

「わからないから、いとおしい」


「形のないものって、さわれるのだろうか」

 ふと、少女が空を見上げながら呟く。

 それは誰に向けた発言だったのか……というのも、その場には少女と、そしてその腕の中で眠る赤ん坊しか居ない。

「形があるからって、さわれるのだろうか」

 この場に居ない誰かへ問うているのか、あるいは自問か。

 そもそも、質問なんかではなかったのかもしれない。

 少女は、腕の中で眠る赤ん坊へ語り掛ける。眠り続けるその子へ、諭すように。

「……この世になかったものを作るというのは、とてもすごいことなんだ。 それこそ、それがどんなものでも」

 その声色も、表情もとても穏やかで……そして、柔らかい。

「形のない物に形を与えるというのは、とても素晴らしいことだが……形を与えられた以上、もう“それ”は“それ”であることしかできない」

 少女は、穏やかに眠る赤ん坊の頬を撫でる。

 優しく、愛しそうに。

「……お前は、私に形を与えられて……良かったんだろうか。 私は、お前に形を与えてしまって、良かったんだろうか」

 同じ意味にもとれる、その二つの言葉。

 しかし、少女の中では、その二つは明確に意味が分かれているらしかった。

 少女の手に髪をかき分けられ、頬を指でつままれても、少年はそのまま寝続けている。

「ふ……のんきだなあ、お前は」

 安心しきったようなその寝顔に、少女は柔らかい笑みを漏らした。

 そしてしばらくの間、穏やかな時間が流れた。時間にして数分、そこには風の音以外、誰の声も、何の音も響かなかった。

「……形のないものというのは、何にでもなれる。 しかし裏を返せば、形あるものは、なれるものにしかなれない」

「――いいや、形のないものは、何にもなれないのさ」

「っ!」

 不意に、背後から低い声が響く。少女が驚いてそちらを振り向くと、そこには男性の姿があった。

「き、来ていたのか……」

「ついでに聞いてもいた。 形があるだのないだの、まーたよくわかんねー事言ってんな」

 男は少女の隣へ歩いてくると、その腕を覗き込んで、笑った。

「ぐっすりか。 かわいいヤツめ、ホッペ触らせろ」

「あ、おい、起こすなよ……さっき眠ったばかりだ」

「わぁってるって。 触るだけ、触るだけ……おっほほ、柔らかい」

 はしゃぐ男に、少女は呆れたように笑い……そして、問いかけた。

「……さっきの、形のないものは何にもなれない、って、どういうことだ?」

「んぁ? なんだそれ、どうだってよくないか?」

「よくない!」

「あぁあおいおい、大きな声を出すな……おぉ、起きない、か」

「ふん。 お前に似て、一度眠ったらそうそう起きないぞ」

 それから数秒。咎めるような少女の視線に根負けしたのか、不承不承といったふうに男が口をひらく。

「形のないものってのが“何か”になるには、形を得る必要がある。 その瞬間、それは“形のあるもの”に落とし込まれるわけだ」

「そうだな。 だからこそ、形というのはその“何か”の可能性を縛るものだと――ぅあっ」

 男は少女の額を弾き、言葉を遮る。

「ただ、だぞ? その“何か”が得る形ってのは、何でも良いわけじゃない。 “何か”に相応しい形じゃなきゃぁ、そもそも形なんか持てねーよ」

「む、むう……」

 納得したのか、それとも反論の言葉を考えているのか……押し黙る少女を、男は鼻で笑った。

「っつーか、なんで中身が先なんだ? 外身が中身を作ることだってあるだろ」

「……どうにせよ、同じことだ。 形を与えたのは、私なんだ」

「じゃ、俺もだな。 お前が間違っていたとすると、俺も間違っていたんだ」

「そ、それは違――」

「逆に、俺が間違っていなかったとすると、同時にお前も間違っていなかったことになるが……ん? 今何か言いかけたか? ん?」

「……本当に、お前は性格が悪いな」

「何言ってる、世界最高級の人格者を捕まえて」

 二人は軽口を言い合って、笑い合って、そして、歩き出した。

 薄く色づいた桜が温かい風に舞う中、3つの命が寄り添って……確かに、そこに存在していた。

 


 揺るぎなく白く、であるのにどこまでも昏い雰囲気を醸し出すその建造物。

 その建物の中では、今日もまた命が救われ、そしてまた命が失われた。

 それが、“その中”での日常であった。

「――聞いた? あの患者さん、ついに亡くなったのよ」

「ええ、さっき。 ……よく持ったよね、“あれ”で」

「本当に。 余命より2ヶ月……ドクターも驚いてたわ」

 そんな空間で、命の有様を見る事を生業としていれば、人というものの死について、感情が薄れるのも当然の事。

 休憩室で茶請け代わりに交わされる話題は、その日命を落とした一人の患者について。その表情と口調に、死に対する恐怖は感じられない。

 彼女らにとって、患者の死というものはただ突発的に起こるイベントでしかなく、それに付随するのは感情ではなく行動でしかなかった。

 この二人が非情なのではない。例えば、道端で死体を発見すれば、叫び、怯え、恐怖を抱くだろう。だが、少なくとも“ここ”では、この二人はそうはならない。

 それは、この場所に死体が存在するという状況に何の特異性も無いからである。

 二人は、しばらくその患者の長命に感嘆の声を送った。その後で、一人が「それでね」と話を発展させる。

「息子さんが居るじゃない。 第2棟の、ほら、ずっと入院してる」

「ああ、そういえば……親子で揃ってなんて、可哀想にねぇ」

「実は……そうじゃないのよ」

「え、どういうこと?」

「病気に罹ってたのは、息子さんの方だけだったの」

 その女性は得意げに、まるで自分の優れた知識をひけらかすように続ける。

「息子さんの方、血液の病気なの。 薬の開発は絶望的らしいんだけど……今は特注の血液濾過装置に通して、なんとか保ってる状態」

「あぁ、10年くらい前のあのでっかい発注……すごい金額の機械、病院が出したの?」

「いえ、そんなわけ。 母親――今日亡くなった、あの患者さんが、全額現金でポン、って」

「え、すごい! 聞いた話だと、8桁は行ってるって……何のお仕事してたら、そんなことができるの?」

「小説家だったらしいわよ。 ペンネームは……えぇと、忘れちゃったけど」

 二人の関心は既に、人の死には無かった。いや――最初から、そこには向いていなかったのかもしれない。

「で、息子さんね。 ……病室、行った事ある?」

「ううん、私1棟の、上の方しか」

「じゃあ知らないわね。 あの部屋、マスク付けなきゃ入れないのよ」

「あ、聞いたことある! 確か、“マスク部屋”って」

「しっ……あまり大きい声でそれ、言わない方がいいわよ」

「そ、そうね……でも、その話だったら知ってる。 確か、中の人が空気感染する病気で――えっ、息子さん?」

「そう……とは言っても、その病気がそのまま感染るわけじゃなくて、マスク無しだと粘膜がやられちゃうだけらしいんだけど――」

 それからしばらく、その二人は興奮したような声色で、その症状や仕組みについて話し、一通りそれが終わると口を揃えて「怖いわね」と言った。

 と、そこでドアが開く音がして、二人の会話は中断した。その部屋へ入って来たのは初老の女性で、二人と同じ服を着ていた。

 口々に「お疲れ様です」と言い交わし、そして初老の女性へ中断していた話を振ると「あぁ……」と、少し憂鬱そうに呻いた。

「それね……私、看取ったのよ」

 翳りを帯びたその声に対し、二人は畏怖の声――ではなく、好奇心を強く帯びた子供のような声を上げた。

「遺言も、私が聞いたの。 それで、息子さんにも伝えに行ったわ」

「何て言ってたんですか?」

 二人の内、解説役をしていた方が嬉々として尋ねると、初老の女性は聞かれたくない事を聞かれたように眉を顰め、やがて苦々しく口を開いた。

「“問題。 現実を日常に落とし込めているのは誰だ”」

「……そう、言ったんですか」

 女性はまっすぐ頷いた。

 意味が分からない。そう言いたいのがありありと見て取れる表情を浮かべた二人を見て、その女性は尚、その顔に影を落とした。

「私もそう思ったわよ。 でも、その時のあの人の表情――きっと、私は死ぬまで忘れない」

「ど……どんな、顔を?」

「笑ってたのよ」

 半ば忌々しそうに、言い捨てるように。

「とってもいい事を思いついた。 これを聞いたら、あいつは喜ぶに違いない……今際の際よ? にっこりと、そりゃ満面の笑みで……掠れた声で――!」

 寒気がするというように首をすくめ、今にも泣きそうな声で小さく言う。

 二人の表情が、いよいよ凍り付いた。女性の語り口のせいもあるのだろうが、その光景が途轍もなく異常な物に思えるらしい。

「息子さんに、伝えに行ったの。 マスクして。 何て言ったと思う?」

 聞かれてもいないのに、続きを話し続ける。二人はそれを、沈黙を以て促した。

「ぽつりと、“お前、か”って――」

 ――こっちも、笑いながら。

 女性は、そう付け加えた。

「や、やめてくださいよ……!」

「ごめんなさい……でも、わからなくて――あの“お前”は、誰なの?」

「怖いですって、先輩!」

 虚空に向かって問うようなその呟きに、二人の顔に恐怖が浮かぶ。

 一体何が怖いのか、それさえもわからない様子で、二人は女性から一歩後ずさった。

 あの患者にか、その息子にか、それとも目の前の”先輩”にか……あるいは、その全てにか。

 無意識の内に死を日常と認める彼女達は、死を前に一片の揺るぎもない患者に恐怖を抱いた。

 死が許容される領域で、自らの死を許容したように振る舞う。一見何の異常も無く、至極真っ当にも思えるそれは、間違いなくこの三人に恐怖を齎した。

 そうあるべきものが、その通りにそこにないという違和感。異常と正常と、その組み合わせの中で生まれる恐怖。

「――あの人、何を思って、あの部屋に毎日通ってたのかしらね」

 そして、息子さんも――女性はそう呟いて、ふと正気を取り戻したように顔を上げた。

「ごめんなさい……私、今日は帰るわ。 ここには、荷物を取りに来ただけなの」

 そう言って、言葉の通りに自分の荷物を抱え、女性は部屋を出て行った。

 部屋に残された二人はしばらく放心したように黙っていたが、そのうちに、嫌悪のようなものを含ませた言葉を交し合った。

 そして、口を揃えて……二人は、「怖いわね」と言い合った。

 ……ふと。二人の間で、気を紛らわすためか、どちらからともなくこんな言葉がこぼれた。

 ――桜が、散ってしまったね、と。

これは何も病院とそこへ勤めていらっしゃる方々を揶揄するものではありません。

病人に対して真摯に接しているのに、とか、そういう突っ込みはおやめください。

あとこんな病気はありませんとかもおよしください。許してください。頼みます。

ここまで読んで頂いた物好きさんがいらっしゃいましたら、ありがとうございました。


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