九 いやですと
これは悪い夢です、そうであったならどれだけ。
「式はセシカの卒業後でいいだろうか」
「それは仕方ありません。できるだけ早くと言いたいところですが」
「あと半年もないから待ってやってほしい。それでは結納は」
「早めにしてしまいたいな」
でも夢ではなくて。
これは現実、だから。
「あなた、不思議な方ね。素敵だわ。わたくしとお友達になって下さらないかしら」
ミレイ様。
「アサツキ様で、と言いました」
ミレイ様。
「あなたのことを何一つ知らないのに侮るなんて、身の程知らずもいいところね」
情けない私を信じて下さったのはいつだって、あなたお一人。
大好き。
あなたを悲しませるなんて、私には、できません。
「わ、たし…っ」
勢いよく立ち上がると、裾が悲鳴のように小さく鳴きましたが気にしていられません。驚きに開かれたお三方の虹彩に私の姿が映されていて。
言え、ない。
一瞬にして心は怯んでしまうのです。
意気地なしな私。でも、それでいいのでしょうか。
いいえ、だめです。
だめ。
言わなくては。
「わ、私、結婚できません。だって、このお方はミレイ様と結婚なさるのです」
いい言え、まし、た。
ぎゅっと握りしめた手と同じように声も、震えてしまいましたが。
けれども、最後まで言えました。
父様も兄様も、まさか私が否を唱えると思いもしなかったでしょう、開いてしまったお口を閉じようともしません。
言葉もないお二人に代わって言葉を紡いだのは、鳶色の瞳をゆっくりと瞬きされたお方でした。
「セシカさん」
穏やかな声は、いっそ憎らしく思える程です。
「あなたは誤解なさっておいでです。カン家の御令嬢と私は単なる幼馴染みであり、結婚する事はあり得ません」
「だけど、ミレイ様は」
「彼女が何を言ったとしても、私が選んだのはあなたです」
誤解ではありませんと私はどんどん興奮していくのに、なのに、対するこの方は冷静そのものなのです。
むう。
その甘い声おやめになって、私は子どもではありません。
「ミレイ様はあんなにお綺麗で、あなたをお慕いして」
「ええ、妹として可愛がっていますよ」
「が、学校中が憧れるくらいに素晴らしくて」
「あなたも素晴らしいですよ、あの騎射は見惚れました」
「あっ、あれはたまたま、わ、私が男ならミレイ様に結婚を申し込んでおります」
「それは困ります、あなたは私と結婚するのですから」
「し、しません。ミレイ様のどこが不満だと」
「あなたでないこと、ですか」
もう。
もう、どうして分かって頂けないの。
ミレイ様ではなく私を選ぶ真意が分かりません。あの、ご冗談ですよね。そう言って下さい。
「いえ本気です」
言って下さらない。
歯がゆくてじたばたと足踏みする私に、父様は強めの言葉でおっしゃった。
「セシカ、お前が何を言おうとももう決まったのだ。失礼な態度を謝りなさい」
う。
「この子の本音を引き出すとは、はは、案外気が合うのかな」
うう。
最後の砦である兄様までも私の味方をして下さらないなど、絶望的ではありませんか。
悔しくて涙が零れそうになり、それがまた悔しくて必死で我慢して見上げるけれど、右目の下のほくろを動かしてほほ笑まれるばかり。
もうもう。
困ったさんなんて。
「あ、あなたなんて大嫌いです…っ」
とうとう頬を滑った涙を見られたくなくて、私にできることは、この場から逃げ出すしか残されていないなんて。
くやしい。
ぷいと顔を背けますと、崩す事のなかった困ったさんの笑顔は、ぱりんと凍ったように見えました。いえ、見間違いでしょうけれど。
ましてや傷ついたような光が宿っておられた、とは。
知りません。
「セシカ、どこへ行く。話はまだ終わっていない」
「…お膳をお片付けします」
本当は自室に駆け戻りたいのです。
頭からお布団を被って、ぼふぼふと枕を叩けるものなら。だけど、汚れたお皿や漆器をこのままにしておけないではありませんか。
かちんとお皿の触れ合う高い音に涙が滲みました。
「娘がすまない。普段はあのようなことは言わないのだが」
「いえ、セシカさんに誤解されるような行動をとった私が悪いのです」
和やかに話し合いは続き、とうとう結納の日取りまでも決定したようです。その間、私はいやですとしかお答えしておりませんのに。
無視ですか、そうですか。
「今後、改めますのでどうか私をお見限りにならないで下さい」
「君は女性に人気だからね。だが私は君の人柄を信じているよ」
「ありがとうございます。ああセシカさん」
引き止めなさらないで、お茶をお持ちしただけです。ああ、熱いのですが気を付けなくても結構です。どうぞ舌を火傷なさって下さいませ。
「ミレイには私から話します。あなたは安心してお嫁にいらして下さい。だから大嫌いは撤回していただけますね」
「い、やです」
即座に言い返してしまいました。
今までの私なら決して言えなかった言葉。
いやですと。
今日は何度口にした事でしょう。
けれども、どなたも取り合って下さらない。
ぶくぶくぶく。
ああ深い海底に沈んでいくよう。
足掻いてもどうにもならなくて。
父様が力なくやれやれと首をお振りになり、兄様はぷはっと吹き出されました。
そんなお二人の前であると言うのに、くしゃりと亜麻色の前髪をかき上げて、困ったさんは胸から白いハンカチを取り出したのです。
さっと織り、そして、それは私の胸元目掛けてぽんと抛られる。
え。
「〈華〉のニイタカ メネリックは〈武〉のセシカ アサツキ殿に挑戦を求める」
は?
「お受けいたしません」
話し合いにて問題は解決するはずです、できるだけ穏便にとの持論を覆すつもりはありません。
「あなたが勝てば、あなたの言い分を聞きましょう。それでも?」
それは。
結婚を考え直して下さるということ、ですよね。おずおずと視線を上げると魅惑の笑顔が見えるのでした。
く、くらくらします。
「な、内容とは?」
「お受けしてもらえますか。そうですね、では」
小さく頷いてしまった私をお見逃しなさらず、実に楽し気に挑戦の内容をお決めになられる。提案された内容は、あの子どもの喧嘩でしょうか。
唖然としてしまいました。
「腕相撲にしましょうか、私は左手で。あなたは両手を使ってよろしいですよ」
「…〈武〉のセシカ アサツキ、お受けいたします」
腕相撲、果たして私が勝てますでしょうか。
小さな頃から避けてましたのに、どうしてここ最近は挑戦に縁があるのでしょう。ああ、でもミレイ様のためにも負ける訳にもいきません。
場を整えまして、とは言っても机の上を片しただけですが、向かい合うように座ります。ぺこりと頭を下げますと、ますます楽しそうな笑顔が見えました。
「勝負は一回きり、よろしいですね」
「はい」
こちらも随分と楽し気な父様と兄様は、審判役をしてくださるようで、それではと声がかかりました。互いに机に肘をついて。
あ。
思い出したように、私は声をあげました。
「お待ちください、女性は見知らぬ男性と手を握ったりしないものです」
えっと軍部では散々握手しておりましたが、お忘れになっていますように。
「なので代理を立てます。父様、お願いいたします」
唖然となさるお三方に、駄目でしょうかと首を傾げます。代理不可と規則は決めませんでしたので、よろしいですよね。
「確かに決めなかったが…それは卑怯でしょう」
眉根を寄せて呟かれる声は、先程庭で耳がおかしくなってしまい、聞こえないのです。ええ。ご存知でしょう?
私は絶対に負けられないのです。
「では私の不戦勝でよろしいでしょうか」
「まさか」
兄様の呆れた声は小さくて私の元には届きません。
「手を繋ごうなんて目論むからだよ」
「…君の妹は手ごわいな」
「まあ男として触りたい気持ちは分かるけれどね」
少しだけ憮然とされた困ったさんの前を退いて、父様の影へと回り込みました。
「父様、頑張って下さい。負けたりしませんよね」
「セシカ」
大きな手で私の頭に触れた父様の視線は、頭頂部を飾る黒いリボンに辿りついて、深いため息をお漏らしになりました。
「負けないで、父様」
兄様の隣の席に移動して、左肘を立てた困ったさんの手を両手で握る父様を見守ります。
「では、始め」
兄様の開始の声に、お二人の手にぐっと力が込められました。握られた手が小刻みに震えて、つい私も自分の両手を握り絞めてしまいました。
頑張って、父様。
口元を歪められて、それでも両手をお使いになっている父様の手に押され、じわじわと真っすぐに伸びた腕が傾いていきます。
あと少し。
「アサツキ少将」
甘く囁く声。
勝負の場に相応しくない声に、兄様も私も、挑んでおられた父様もはっと顔を上げました。まるで操り人形のように。
そんな私たちに向かい、困ったさんは右目のみを瞑って見せて。
ぱちん。
音がしそう。
閉じられた瞳から醸された何かに、私たち全員が固まってしまい、その隙をつかれてしまってはどうにもなりません。
絡んだ腕は、傾いていた反対側へとあっけなく倒されたのでした。
…大人の魅力ってこわい。
「私の勝ちですね」
ま負けてしまいました…。
「ああ、見事な勝利だったな。ニイタカ」
「〈華〉のニイタカ メネリックはここに勝利を宣言する。正義は我に。響け声よ、届け熱き心よ。光帝様の御元へ」
困ったさんの宣言はまるで詩でも読み上げる如く、朗々と響きます。
さて、そうおっしゃられ視線を向けられますと、こわくてぴょんと体が飛び跳ねてしまいました。まさしく黒ウサギだね、との言葉が聞こえました。
「…私〈武〉のセシカ アサツキは負けを認めます」
がくり。
ああ、先日のビム様もイルマ様もこのように悔しい思いだったのでしょうか。
しゅんとして項垂れる私の頭。
そこに乗せられた手のぬくもりに、ええ、なな何でしょう。軍服に包まれた困ったさんの手から逃れるように、兄様の背中へと隠れました。
さ、触らないで下さい。
「セシカさん、大嫌いを撤回して下さい。妻に嫌われるのは困ります」
うう。
この困ったさんは。
どんなに涙目になってもお許し下さらなくて。
「お前の負けだよ、セシカ」
こうして悪夢のように、私の二人目の婚約者は決定したのでした。
お読み頂き、ありがとうございました。