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Break up

長くなると思っていました…。


   『神に願うなら』


 彼が囁いたのは、彼女の名前。

 ずっとそう呼びかけたくて、でも、どうしても口にできなかった。彼女が常に社長と呼んでいた理由と同じく、彼もまた。

 彼女の名前さえ、とてもとても愛しかったから。

 だが、彼の傍から去った今ならば囁くことができる。セシカ。

 

「…幸せになれ、セシカ」



「御酒も宜しいのですが、異国の珍しいお茶はいかがですか。サージェット様」

 傍仕えが彼の返事も待たずに白磁の茶器を差し出した。

 かちんと机に当たる小さな音さえ耳障りに感じた彼は、眉間を寄せて抗議の視線を向けたが、長年この家に勤めている傍仕えには効果がない。

 だが手の中の杯を置く気になれないのだ。日に日に度数と量が増しているための処置だと理解してはいても。

 彼の脳裏を掠めるのは柔らかい声。

「わぁとっても美味しいです」

 きっと彼女なら花のように笑っただろう。

「…お前の淹れた茶の方が美味い、アサツキ」

 返される言葉がないことに、彼はまた絶望し、杯をあおった。


 事実、彼女の淹れた茶は美味かった。

 白湯を常とする南区でも彼女は茶を振る舞った。スチェリたちと討論中には一息で飲める温めを、取引先から戻った時には疲れを癒すためにやや熱めで、書類の確認中には頭を働かせるように熱く。

 常に相手を思いやる彼女。

 だから幾ら茶葉に合った温度で淹れられても、配慮の行き届いた彼女のお茶には敵わなかった。

「社長、お熱いですから気を付けてください」

 思い出だけではだめなのだ、彼女がいなくては彼の胸を温められない。

 ますますに胸に開いた穴を実感させ、冷たい嵐が吹き抜けて、熱を奪って行くのだ。酒以外に手段があるならば教えてくれと彼は言いたかった。




「セシカ アサツキと申します」

 

 紹介状を携えて彼の元に現れた時、それは彼の兄が表現した通り、正しく運命だった。

 上気して染まる白い頬、リボンで結った長い髪を揺らしながらにこりと笑った彼女。春の太陽のようだと思い、彼は、馬鹿かと自分自身を罵った。

 おかげで普段以上に低い声になり、彼女を追い払うことに成功した。

 胸元で握られた細く白い指、二度と見られない筈だったのに、何故か手洗い所に持ち主はいた。真っ赤に腫らして。

 掃除、だと?

 身分持ち、それも高度な教育を受けた者が自ら願い出ることではないだろう。莫迦か。ならば雑用として存分にこき使ってやるとも。

 襷で丸見えになった華奢な腕がいつまでも瞼裏に沁み込み、慌てて男装させた。より可愛いくなるとは馬鹿な、一体何処を間違えた。


 温かい笑顔、だが、時に切なげに見える理由は何だ。小さな野の花や星のせいなのか、それとも嫌いなのか。

「帝都で人気のお菓子です。女性の気を引くにはこういう物も必要ですぞ」

 煩い目付け役の一人が、アサツキさんにどうぞと言って寄こした小さな菓子は、余計な事をと思いつつ持って行った。煌びやかな包装を解いて。


 失敗だった。


 菓子を目にして、彼女ははっと息を飲み込んだ。

 悲し気な光を瞳に浮かべたのは気のせいだったのか、睫毛を伏して隠してしまった。

「ええと、私は以前いただいたことがございますので。スチェリさん、マルタさん、ソロさん。どうぞ」

 …数が足りないとは。あいつらの分など考えもしなかった。


 アサツキ。アサツキ。

 俺を見ろ。俺の傍にいろ。

 その笑顔を俺だけに向けてくれ。

 

 彼女や周囲の情報を、無論彼女には秘密裏に、今まで以上にかき集めた。何が好きで、何が嫌いだ。喜ばせるにはどうしたらいい?

 自覚するともうだめだった。何をしても、何を言っても愛しい。

 好きだ。

 アサツキ、お前が好きだ。

 どうか俺を好きになってくれ。


 他の男に思いを寄せていようとも、到底、諦めきれなかった。

 傍に置いて、逃げられないよう自分の腕の中に囲い込んだ。結果、嫌いと彼の心を抉る一言を残して逃げ出されてしまったが、それでも。

 好きだった。


 メネリックの死亡をこれでもかと突き付けた彼の心境は複雑だった。

 彼の兄が懸念しているように、現実を受け入れられず、死を選ぶかも知れない。いや受け入れて新しい人生を歩む決心するとも考えられる。その時が来たならば、彼の手を彼女は取ってくれるだろうか。

 結果。

「軍曹さんの傍を離れたくありません」


 彼女の心はメネリックのもの。彼のものにはならない。


 切られたように痛む心臓の上をぐっと拳を打ち付けて、瞬時に計算し直した。こうなれば長期戦だ、構うものか。

「死は大きな痛手だ、だがその時こそ入り込む隙ができるよ、サージェ」

 言葉を尽くせとイレフが言った通り、彼は、彼の心を証明した。宝石のような涙を散らす彼女が、ついに彼の手をそっと握った時には息が止まった。

 柔らかい唇を押し当てられて、耳に心臓があるのかと思う程脈打っていた。

 好きだと告白は彼の妄想だとしても、彼女がこてんと頭を預け、すり寄って甘えたのだ。初めて。更に彼女は彼を翻弄する。


「…サージェット様」

 そっと囁かれた彼の名前。彼の中で何かが音を立てて切れた。

「お前は全て俺のものだ」


 いつか。

 今はメネリックの影を抱いていても、いつか、その瞳を向けてくれるならそれでいい。例え遥かな未来であったとしても。

 だから真っ赤な顔をして彼女が好きだと言った時には、彼の息はひゅっと飲み込んだままになってしまった。

 果てに。


 果てに、彼女が、友の葬儀で出会った女だった。まさか。


 奇跡としか言いようがない。



 〈貴〉の身分を隠して出席した葬儀は、今振り返っても、おそろしく気分の悪いものだった。

 何も知らない身分持ちは己の立場に胡坐をかき、身分無しだと彼を卑下した。悪口雑言の数々は底を尽くことなく、渦まく海流に落とされたように感じた。

 息を吸うも吐くもできない心地。

 これ以上無理だと感じた瞬間、彼に向けられていた侮蔑が、一人の女に移った。

 普通ならば挑戦を突き付けてもおかしくない程の嘲り。だが女は真っ青になりながら、口を噤み、耐え忍んだ。

 言い返せ、莫迦な女め。

 マナハラ夫人の策略によって二人になる機会が訪れ、ただ場を追い払いたいだけだったろうが、初めは辟易した。

 ちっ女と二人きりとは。

 だが喪服姿の女は、ゆっくりと話し穏やかに微笑む。女臭さは微塵もなく、むしろ、彼の心を落ち着かせたのだった。

 涼やかな風のようだ。

 嵐を払う一迅の風に似た女は、溺れた彼の胸から水を取り除き、新たな息を吹き込んだのだ。

 彼女が淹れたであろう茶もつい受け取ってしまったが、甘過ぎないおはぎに、とても合った。彼は自分自身を不思議に思う、今まで見知らぬ女が作った物を食いたいと感じたことはないと。

 真っ直ぐな姿勢。

 自分にない強さを示す彼女に、胸がすく思いを感じ、この時間がもっと長く続けば良いと彼らしくもなく思った。

 別れ際に何度も振り返ったが、喪服の背中が見えるばかりで、女は振り向かなかった。


 彼の部下に言わせると、この女が彼の初恋らしい。


「もう一度会いたいと思う、これが恋でなくて何と言うのですか。さ、お調べいたします。名前は?」

 嬉し泣きにむせぶ部下に覚えていないと返したが、事実、名も顔も覚えていなかった。小柄な女だとは思ったが。

「あなたより大柄な女は居りませんよっ、サージェット様」

 あの時の女は結局不明のままだったが、まさか、アサツキだったとは。

 どんな奇跡だ、これは。

 喉元からじわじわ浸食する熱に、生まれて初めて彼は、神に感謝した。


 彼にはやはり彼女だけ。



 アサツキ。アサツキ。

「しゃ、社長。ひひひ人前ではいけませんっ」

 髪や額に口づけると真っ赤になって狼狽える様子も愛おしい。

「私は〈貴〉の役割が分からない愚か者ですが、社長をお支えできればと、あの、思います」


 彼女が傍にいれば、幸せだった。


 真摯で優しい彼女を父も部下も認め、呆れられる前に早く結婚しろと言われていたが、そうしたくともできない問題があった。

 彼の母からの反対、それは無視した。

 彼女の家族は揃って北国に出向しており、連絡困難で、結婚の承諾を得られない。兄からは断りの電報が送られてくる始末。

「我がアサツキ家は〈貴〉に見合う身分ではございません。身に余る光栄につきご辞退いたします、どうぞお許しを」


 彼女には言えなかった。

 仲の良い兄妹だったと聞く。その兄が反対していると知ったならば、彼女はまた彼を拒むだろう。それはどうしても避けたかった。


 それ程想う彼女を、自ら手放す時が来た。


「ごきげんよう、サージェット様。今日も私室にお通しくださいますね、内密な話ですもの」

「…ご足労おかけする、ニルスス殿」

 初めは彼女の情報を得る為に、現在ではアサツキ家に連絡を取る手段として、〈貴〉のニルスス家に協力を求めていた。

 北と称されるかの家は〈武〉を統括する立場にある。

 また、東はイレフレートに西は彼にと、ウィアヌス家のお家騒動に加担しようとする二家とは違い、中立を保っていたことで、信頼に値すると彼は考えていた。

「キティルとお呼び下さいと申したでしょう?もう何度もお会いしているのですから、親し気になさっても、わたくし構いませんわ」

 ただ、情報を伝える使者が、女であることだけはいただけなかった。

 〈貴〉のキティル ニルスス。きゅっと吊り上げられた眦に口元、きつい香水、つんと反らした顎先、全て苦手だった。

 彼がこの世で最も苦手な女性、母親と同じ臭いがした。


「今日は最新をお持ちいたしましたわ、残念ですが、アサツキ何某の情報ではございませんの」

 茶を運んで来た傍仕えがすぐに立ち去ったのは、使者が目配せした故だと、彼は気付かなかった。

 ああ、と素っ気なく返事をした。

 使者は彼の隣へと席を移したが、何故だ。肩に垂らした髪を掬い上げて、耳を顕わにした行動も意味が分からない。

「この間忘れていった耳飾り、わたくしに付けてくださいます?」

 丁重な手つきで彼は、使者の手に返した。無言で。

「もう。では今度わたくしの好きな宝石を贈ってくださる?」

 女性の望む宝石を贈る行為は求婚を意味すると、社交界にも女性にも疎い彼が知る由もない。それよりも本題を早くと願い、浅く頷いた。


「まあ嬉しい、約束ですわ。お忘れにならないで。では、これをご覧になって」

 ようやくか、と彼は痛む頭を押さえた。

 そうして飾りの多い鞄から取り出されたのは、白い布に包まれた襟章だった。針留は失われていたが、双頭の鷹と花は光護国軍部を表す。裏には小さく名が彫られていた。

「以前この方のことお調べになられていたでしょう?ですから今日お持ちしたのですわ」

 隣でふふふと含み笑う声すら、彼の耳には届かなかった。

「死亡と報告いたしましたが、軍部も間違うのですね、先日西国の辺境で保護されたのですって。今は取り調べも済み、もうすぐ帰国するだろうと父が言っておりましたわ」

 

 襟章に刻まれた文字に、彼の漆黒の瞳は驚愕に瞬いた。何故なら。


 ニイタカ メネリック。


「サージェット様がお連れになった、あの女性の関係者なのでしょう?わたくし、直に教えて差し上げますわね」

 いつしか膝の上に手を置かれたが、彼には振り払えなかった。


 アサツキ。

 混乱を極める胸と頭は、がんがんと鳴り響き、刃を付き立てられたかのように痛む。生きていた。生きていた、まさか、あの男が。

 アサツキ。

 様々な思いが交差する、俺のものなのにとか、居場所とか、奪われるとか。巡り巡って、はっとしたのは一日以上かけた後だった。

 彼女がおかしい。

 悲し気に見える。

 繊細な彼女は好きだと彼に言った手前、気兼ねし、メネリックの元に帰れないのだろうと結論づけた。だから悲し気なのだと。

 結局、彼はたった一つの思いに突き当たる。

 アサツキ。

 お前が好きだ。


 だから。

 幸せになれ。


 あいつのいる世界がお前の居場所。

 幸せになれ、あいつの元で。


 彼は彼女をじっと見つめ、声に耳立てた。これが最後だと自分自身に言い聞かせて。

 そして。

 イレフレートが出立した後、彼女を呼び出した。


 遊び。

 飽きた。

 必要ない。


 厳しい言葉は彼女を傷つけると分かっていたが、彼の元を去る際に、罪悪感を抱かずに済むなら必要だと思えた。

 むしろ、嫌ってくれと願った。

「わ、私はあなたのお傍に」

 だが、彼女は健気な事を言って、彼の胸を締め付ける。

 今にもその小さな身体を抱きしめて、嘘だここに居ろ、そう言いそうになった。唇を噛んで押し殺すしか無かった。

 彼との何もかもは、メネリックに報告する必要ない。だから口を噤めと言ったが、その時の彼女の様子は言葉にできない。


 綺麗な瞳が、絶望で潤んでいた。


 ぱたん。

 扉の閉まる音で、彼と彼女の世界は終わりを告げた。




 神に願うなら。


 たった一つ。

 彼女の永遠の幸せを。





お読みいただき、ありがとうございました。

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