三十七 離れればもっと
少し長めになりました。
ど、どうしてこんなことになったのでしょう。
太陽は疾うに地平から抜け出しているのに、私はお布団に潜り込んだままです。緋色のお布団に真っ赤な顔の私。どちらが赤いのでしょう。
「まだ早い、寝ていろ」
すぐ間近に寝そべっていらしては、とても寝ていられません。社長。
お聞きしてもよろしいでしょうか、ここはどこでしょう、何故社長と同室で寝ているのでしょう。いえ、やっぱりお答えにならないで。
だ、だってしゃ、社長の、社長のっ。
ふふふ服がはだけていらっしゃるなんて、あああ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。見てしまいました。
だから言っただろ、と、くくくと低く笑われる。か、からかっているのですか。
と、ともかく。
早鐘を打つ私の心臓の為にも、お布団からは絶対抜け出しません。今のうちに早く服をお整えください。
「俺はまだ睡眠中だ。聞こえん」
い、意地悪。
結局、社長は起き上がってくださいませんでした。お布団に包まれたまま、二人で、障子の向こうで降る雨の音を聞いておりました。
まるで海の底にいるみたい。
少し暗めの室内に閉じ込められた時間は、ゆったりと通り過ぎて行きます。
そうして私の失態を知りました。
寝間着姿で社長とお泊りしてしまったのは、全て、私のせいでした。汚れた足まで拭ってくださったなんて、ああ、何てこと。
「ご、ご迷惑をおかけしました」
出来るならこのまま消えてしまいたい、です。
「お前が不安定になったのは俺のせいだ」
はい?
「違います」
「いや、合併の相談をマルタから受けた時、俺は好きにしたらいいと答えた。お前が困ると分かっていながら」
「でも」
「困れば、お前は俺を頼らざるを得ないだろうと思った」
だが、お前は俺を頼らなかった。
吐息が目に見えるなら、きっと切ない色に染まっていたでしょう。お前にとって俺はそれほど頼りないのかと小さな呟き。
だって。
ご迷惑をおかけしたく、ないです。
「それでおタキに頼った、と」
今までの口調が一変しました。
「妓女になる、だと。この莫迦が」
私自身、妓女に向いていないと思います。なので吠えないでください。一応、女学校で小唄も茶道も修めております。
碁も打てますし。
そんなにだめですか、妓女は。
「お前に務まる訳がない」
一刀両断されては、頬もぷっくり膨らみます。
「お、お酒は飲めませんし気の利いた会話も無理ですが、舞は良いとおタキさんは褒めてくださいました」
「馬で街を疾走し、犬に抱きつき、木登りするお前に舞などできる筈もない」
むう。
確かに私は女らしくありませんが、ミレイ様に褒めて頂いて以来、舞だけはましな筈なのです。それすら出来ないとなれば、私の取柄は何一つ無くなってしまいます。
ここには剣も扇もございませんが、いいでしょう、では。
お布団をはねのけて、髪を結わえ直しました。
「踊ります」
舞で大事なことは、指先、足先まで神経が行き届いていること。
姿勢。
視線。
緩急はっきりと。表情。くるりと回って伏せがちに、ほら、微笑んで。
はっと気が付けば、緋色のお布団の上で私を見つめる社長と視線が重なりました。
袖を通すことなくシャツは肩に掛けられただけ、黒い髪を掻き揚げられるしどけないその様子に、かあぁっと顔に血が集中します。
はっ、私、寝巻きでした。
いっ、いやああ。
「…なんだ、もう終いか」
お布団を返してください、ど、どうして取り上げるのですか。
隠れる場所を失い、両手を交差させてぷるぷる震える私に、にやりとなさる社長。やっぱり意地悪です。
「今更隠すな」
「ま、舞は」
「…悪くない。だが、いや、だから妓女には向かん」
何故?
「お前が莫迦だからだ。妓女になど、絶対にさせるか」
どうなさったのでしょう、社長は不機嫌そうに考え込まれてしまいました。
「帰るぞ」
すくっと立ち上がられ、流水模様の襖を開けられて奥へと向かい、お勘定を求められます。ぽかんとする私を残して、手早く身支度なさり、社長は廊下へと出て行ってしまわれました。
あ、お宿の代金。
袂、胸の袷に手を当て、終いにはぱたぱたと身を叩いてみましたが、寝巻き以外、何も見当たりません。
お、お金がございません…っ。
蒼ざめる私に、部屋に戻られた社長は金などいらんとおっしゃいましたが、そんな訳にはまいりません。私の分はちゃんとお支払いしないと。
「そうか、なら、サージェットと呼べ。それで礼は十分だ」
そ、そんな礼はございません。
「礼も返せないのか」
うう。
言い負かされて、悔しく思いながら見上げても社長は、早く呼べとせっつくのです。もうもう、子どもみたい。
「…サージェット様」
「ようやく俺の名を呼んだな」
何故、ご機嫌に?
さて、長屋までどうやって帰りましょう。
私の靴はもちろん無く、この寒空の下、寝間着のまま裸足で帰宅しなければなりません。ここから長屋までどの位あるのでしょうか。
どうかしていたとはいえ、う、私の莫迦。
「アサツキ、ボタンを嵌めてくれ」
全力で走る?
それとも、こそこそ隠れながら?
思案中の私に、外套を羽織られた社長が手招きされました。はい、お袖のボタンですね。ちゃんと嵌めて差し上げようとしたのです。
なのに。
え、私の視界一杯に柔らかな皮の外套が広がる理由が分かりません。そのままくるりと覆われ、あっ、何故抱き上げるのですか。
地面が遠いです、お、下ろしてください。
「こんな手に易々引っかかる。だからお前は莫迦なんだ。帰るぞ」
歩けます、一人で歩けますから。じたばたともがいても、見た目よりもうんと硬い腕はがっちりと身体に纏わりついて離れないのです。
そのまま宿の外へと連れ出され、あっという間に馬上の人となりました。馬の嘶きがひんやりした空気を割ります。
「濡れないよう、くっついていろ」
すでにもう腰には社長の硬い腕が巻き付いておりますのに、これ以上、くっつけません。こんなにも密着して、社長は苦しくないのでしょうか。
「いや苦しい」
は?
私も苦しいので、お互いの為に、もう少し離れても宜しいかと思います。
「離れれば、もっと苦しい」
はい?
「お前に会えない日々がどれほど胸を焦がしたか、お前は知らない」
スチェリさんとの時もそうでしたが、乗馬での往来は非常に注目されました。ましてや社長は南区で有名だったようです。
ウィア版元さんの社長が女を連れている、え、あの女嫌いが?まさか?
恥ずかしくて、ぷるぷると震えて外套に顔を埋めるしかありません。反対に、社長は上機嫌で、くつくつと笑っておいでです。
小雨すら心地良さそうに。
ちょっぴり悔しく思っても仕方がないとお思いになりませんか。そして見知らぬお宅へと辿り着きました。
え?
「ど、どこですか。あの長屋はどちらに?」
長屋に送られるとばかり思っていた私は目を白黒させて、すとんと下馬なさった社長を見つめました。
自分で降りられますからと、私の言い分を聞かれることもなく、社長は私を抱き下ろすのです。
地面へと着地。
しま、せんでした。
ええ?
大きな歩調で、ぎゅっと抱っこされたまま、お屋敷内へと向かわれるのです。
「莫迦め。煽るだけ煽っておいて、お前、俺がおタキの元へと帰すと思っているのか」
「あ、煽る?そ、そんなことしておりません。それに社長は長屋に帰してくださいますでしょう?」
「社長と呼ぶな」
「サ、サージェット様、お願い」
「他の願いなら幾らでも」
私たちの言い合いが聞こえたのでしょう、お屋敷内から人影が見えます。
うう寝間着姿なのに。
「ちっ、お前のそんな姿を俺以外の男に見せたりするか。じっとしていろ」
視界が真っ暗に閉ざされました。
あの日から私は長屋に帰ることができません。
「お前はここで働いてもらう」
え?
ここは、南区にある社長の邸宅でした。
緑の木々に囲まれた小さな離れが、今の私の住居です。
社長は私に、円形の窓がある綺麗な部屋を用意してくださいました。寝台の垂れた紗が風に揺れ、置かれた白磁香炉から白檀が淡く香ります。
卓上にはガラス細工の犬さん。少しカールに似ているので、選んでくださったのでしょうか。そうであったら嬉しく思うでしょう。
「せ、せめて一度帰してください」
「だめだ。お前の荷物は全て長屋から運び込む。他にいるものがあれば言え」
こちらで働くにしても、おタキさんや長屋の皆さま、ウィア版元に今までのお礼をしたいと思う心を、どうして汲んでくださらないのでしょう。
優しさも伝わるのに、強引過ぎます。もう。
「いつか連れて行く。それまで待て」
分かりました、大人しく待っております。なのでお約束をお守りくださいね。
さて、新しい私のお仕事は。
それはお掃除でもお洗濯でも、食事の支度でもございませんでした。専門の職人さんがこのお邸には大勢いらっしゃいます。
社長は〈貴〉のお仕事のため、このお邸と帝都を行ったり来たりなさって、お仕事関係の方々に囲まれる毎日です。
「社長業に比べると、つまらん仕事だ。だがお前がいれば」
様々な年齢層の方々が、社長と面談なさいますので、順番待ちの時間があるのです。
その間のおもてなしが私のお仕事になります。
初めは、幾人もの執事さんについてご指導いただきました。女学校での授業にて教わったとは言え、もうすっかり忘れておりましたから。
「アサツキ様、貴女にお教えすることはございません。完璧な所作です」
そ、そうでしょうか。褒めてくださり、恐縮です。
身形にも気を付けるようになりました。
お部屋にはたくさんの衣服や小物があり、何故ぴったりなのかは追及いたしませんが、自分で選ばなくてはなりません。これもお仕事の一環だとか。
高価な服を汚さないようにしなくては。
「その淡い薔薇色のドレス、とてもお似合いだ。愛らしい」
「貴女がサージェット様が選んだ方か。女性嫌いを治してくれて感謝する」
「何もかも貴女のおかげだ。サージェット様を頼む」
はい?
難関もございます。
今みたいな会話も意味が分かりませんが、政治情勢や国際情勢、他国から見た我が国の批評、国民の動向などにも話題は及ぶのです。
にこやかにお話を伺うにも限度があります。一介の女にお答えできません。
うう難しい。
「お前の評判は上々だ」
社長…。
私を誤解なさっておいでです。毎日届けられる幾種の新聞に目を通して、何冊も本をお借りし、必死で勉強しなければついていけませんのに。
本日のお客様は、あの青いドレスをご用意してくださった南区の顔役さんです。
顔見知りということもあり、客室に向かう足取りは軽やかです。もしかしておタキさんのこともお伺いできるでしょうか。
「失礼いたします。お茶を、え?」
「やあ。姫君、久しぶりだね」
ところが。
客室にいらっしゃったのは、車いすに乗られたお方でした。
灰色の髪の、社長のお兄様。
確かお名前は。
「イレフレート様?」
印象的な瞳の奥に、炎が見えた、気がいたしました。
「囚われの姫君。どうか僕に攫われてくれないか?」
お読みいただき、ありがとうございました。




