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三 嵐の向こうの

 セシカさん、とお呼びになったのは、マナハラ夫人でした。


 私?

 私をお呼びになった理由は思いつきませんでしたが、隣の伯母様から、椅子をがつんと蹴りと…いえ、合図されたので立ち上がりました。

 行きたくありませんが、この衆人環視の中でそうはいかないようです。


「こちら、イクノと婚約を予定していたお嬢さんですわ。セシカさん、このお方はイクノのご友人です」

 足取り重く感じながらマナハラ夫人の前まで参りますと、何故だかイクノ様のご友人を紹介されました。あの背の高い紳士さんです。

 頭を下げてご挨拶する私に、マナハラ夫人はおっしゃいます。

「御気分が悪くなられたようだから、セシカさん、あなた部屋に案内差し上げて」

 はい?

 どうして私が。

「え、あの」

「お願いね」

 顎先で扉を示されて、早く行けとばかりに無言の圧力を感じます。至極全うな、私このお屋敷知りませんと言い訳が通じるとお思いですか。

 思えませんとも。

「どこか人気のない処を頼む」

「は、はい」


 紳士さんは近くで拝見すると、背が高く細身で、珍しい列強風衣装が良くお似合いでした。胸元にお締めになったタイに負けないくらい艶やかな黒い髪。

 理知的な印象を受ける、切れ長の黒い瞳。

 身なりから致しますと、裕福な家柄の方でしょうか。どこか逆らえないような響きのある低い声をしていらっしゃいます。


 同じ武家なのだから、造りは似ているのかしら。

 紳士さんに先立って廊下を進めば、庭にも他のお部屋にも人影があり、人気のない場所をとの希望は叶えられそうにありません。

 どこに行けばいいのでしょうか…あ。

 迷いながらも思いついた先は、おしゃべりに夢中な女性が大勢詰める厨房。その先。

 勝手口を押すと、ぎぃと軋んだ音がして、裏庭へと抜け出せました。


 日陰になったその場所には、予想した通り、我が家と同じく簡素な横長の椅子が置いてあります。

 休める場所があって、ああよかった。

「あの、このような場所でもよろしいでしょうか」

「構わん」

 どさりと投げ出すように椅子に座られて、足を組まれると、とても長く見えます。深く眉間に皺を寄せて、吐き出した息は長く。

「お茶でもお持ちしましょうか」

 厨房へと戻れば忙しそうに働く家人さんたちがいて、声をかけ、お茶を淹れさせて頂きました。あ、おはぎ。私が持参したお重が目に入り、少し分けてもらいました。

 お盆にお茶とおはぎを乗せて裏庭に出ると、彼は不機嫌そうなままです。

 どうぞ、と差し出したお茶を受け取って下さいましたが、眉間に皺は寄せたまま。ただ、その手がとても大きくて、つい見つめてしまいました。

 長くて綺麗な指。

「雨が降って来た、そこは濡れる。もっとこっちに寄っておけ」

 見上げれば、灰色の空から小さな雨粒が降りて、ぽつぽつと木々の葉を揺らしていました。小さくありがとうございますと言って、軒先の長椅子に腰を下ろしました。


 音もなく降る、優しい雨。

 先ほどの嵐が嘘だったみたいな穏やかさ。

 息が、こんなにもしやすい。

 ふうと息を吐けば、同じ瞬間に同じ仕草をなさる隣のお方。


「おはぎか、あいつは好きだったな」

 耳触りの良い声ににじむ、惜別の情。

「あいつとは久しく会っていなかったが、婚約していたとは知らなかった。悔やみを贈る」

「ご丁寧にありがとうございます。でも、その、私も婚約を三日前に知らされまして、一度もお会いした事がありませんでした。お会いしたかったと、思います」


 お会いしたかった。

 するりと出て来た言葉に、自分自身が驚いてしまって、そうだったのかと今更気が付きました。

 結婚なんて私には起こり得ないのだと諦めて、違う世界に行きたいと夢見ていた筈なのに。心はどうしてこんなにも複雑なのでしょう。


「会ったことがない?帝学に通っていた頃からあいつには思う女がいたはずだ。お前じゃないのか」

「違うと、思います」

 マナハラ様には思う方がいらした。

 私ではない、誰かに心を寄せて。

 知り得た事実に、私は何を感じたら良いのでしょう。悲しみ?嫉妬? 顔も声も手も、私は何一つだって彼の事を知らないのです。

 そのような権利、私にありません。

「女はどれも特に変わらん、一緒だと言った俺と、あいつの意見とは、最後まで合わなかったな」

 紳士さんの語られるマナハラ様は、一途で頑固な帝学の一学生さんで、その頃のまま今も思い出の中を生きておられるよう。

「そのやり取りを見て見たかったです。私、本当に何も知らなくて」

「あいつの事を何も知らないのに、あの醜悪な噂の中、いいように言われるがまま黙っていたのか。何故言い返さなかった」

 切れ長の瞳が刃物のように光り、鏡のように私を映しております。この方のお耳にもあの囁きが届いていたのです。

「何故だ」


 そこに問われた答えがあるかのように、私は右を見て左を見て、ぐるりと周囲に視線を動かして最終的に紳士さんに辿りつきました。

 この方は、不思議。

 伯母様や他の方々のように、私が何か答える前に言葉を発したりせず、きちんと待っていて下さる。

「私が黙っていた理由は、財産目当てではないと証明できないからです」

 真摯には真摯でもってお答えしなくてはなりません。

「では、本当に財産目当てだと言うのか」

「違いますが、そう言っても信じて下さるでしょうか。真実を証明する何かを持たない限り、そうだそうじゃないと互いに言い合うのではないでしょうか」

 声が震えないようお答えするには、苦心致しました。

 湿り気のある風が吹いて、そういうことは苦手ですと小さく呟いた言葉はお耳に届いたでしょうか。

「お前、今の言葉を何故あの場で言わない。ただ黙って耐えているなど、莫迦のすることだ」

 まるで鋭い剣ですっぱりと身を切られる心地がします。

 それでも嫌な気持ちにはならず、むしろ、切られた断面から覗く本当の私をお伝えしなければならない気がするのです。

「あの場から逃げ出さない事こそ、私が財産目当てではないと証明する手段だと思ったのです」

 私は意気地なしで、嫌な事も嫌だと言えませんけれど。

 もう嫌、逃げたいと思いながらも、はいと返事をしたからには、投げ出したくないのです。鍛錬も家事も学校も、休んだことはありません。


 それだけが私の意地。


 不思議な物を見たかのように黒い瞳を瞬かせ、ふうと吐きだされた息。

「今まで見た事のない莫迦だ、お前は。少し感心する位に、な」

 莫迦と言われているのに、どうしてこうも優しい響きなのでしょうか。

「あのような悪意は侮辱としか思えん。黙って耐えるなど、俺にはできん。あと数分でハンカチを投げつけたところだ」

 ハンカチを投げつけたら、挑戦と言う名の私闘が始まってしまいます。いくら何でも葬儀の場ではいけないのではないでしょうか。

「それ程でしたか?」

「それ程だ」

 即座に言い切られてしまい、小さく噴き出して笑ってしまいました。大きななりをして子どもっぽいのですもの。

 背高さんのくせして、ね。

「怒って下さって、ありがとうございます」

「…お前はやはり莫迦だな。俺もいろいろ言われて、息が詰まって死ぬかと思うくらいだったのに。気が、抜ける」

 大きな手で顔を覆い、天を仰ぐ姿はいかにも忌々し気で、吐き出した息は空へと還って行きました。

「あなたも何か言われたのですか、どうして?」

 こんなにも立派な紳士が悪く言われる理由を思いつかず、首を傾げるしかありません。

「昔はともかく、今の俺には身分がないから」


 確かに広間では、彼に向けられた視線は冷たく感じました。

 帝学に通えたならそれなりの身分をお持ちの筈です。しかし昨今では家が没落し身分剥奪の憂き目に遭うなど珍しくないようです。

 背高さんも?

「身分なき者は、人として下だ。それだけで侮蔑される」

「違います」

 自分でも予想外の強い言葉が口から飛び出して、でもこれだけはどうしてもお伝えしたくて、彼の黒い瞳をしっかりと見据えます。

「違います、身分は己の果たすべき役割を表しているだけです。身分がないということは、己の力で役割を見つけるということです。上も下もない、そう教わりましたし、私もそう思います」

 だから。

 私は違う世界に憧れるのです。

「それを何というか知っているか。自由、だ」


 自由。


「身分がなくなって、俺は自由だと感じた。人からは馬鹿にされるが、まあ分かってもらおうなど思わん」

「とても素敵だと思います。羨ましいです」


 目の前にいる背高さんは、私がずっと憧れていたそらの下で生きるお方。

 遥か遠いそらの向こう、違う世界で。


「お前、何も言い返せないだけの女かと思っていたが、違うな。普通の女は、俺を羨ましいとは言わん」

 一瞬だけあっけにとられた表情をなさって、ふんと鼻で軽く笑われる。

「単なる、おかしな莫迦だ」

 再び莫迦と口にされ、にやりと目を細められる。ですが、ちっとも不快に感じません。むしろ。

「何故笑う」

「す、すみませ。ふふ。だって」

 不思議なのです、名前も知らないのにこんなにも話しやすいなんて。いつもの私ではないのに、言葉は全て偽りなく本心を語っているのです。

 ミレイ様といる時のように。

 兄様と話すときのように。


 本当の私。


「お前、変わった女だな。ここは笑う処じゃなく怒鳴り散らす場面だ」

 だから女は苦手なんだが、との呟きに、お前はそうでもないと続けられるお言葉。

「割と、だからな」


 手にした湯呑から立ち上る湯気は雲になって、密やかな雨音に変わり行く。荒れ狂う水面が次第に落ち着いていくように。

 嵐はようやく治まって。


 遥か遠くと思っていた水面に辿りつき、ぷはっと顔を出したみたい。


 背高さんのお傍だから?


「…本当は、あの場所から逃げ出したかったのです。助けて下さって、ありがとうございます」

 ぺこりと下げた後頭部に感じる視線。

「息を吹き返したような気分だ」

「はい?」

「いや何でもない」

 背高さんは大きな手で口元を覆っていらっしゃるけれど、隙間から見える唇は弧を描いています。

「俺の方こそ気が晴れた。助かった、礼を言う」

 にっこりと笑い合って、視線を上げれば。

 撫でつけられた黒髪の向こうには、そらが見えるのです。


 嵐の向こうにはきっと、晴れ渡る青い空。



お読み頂き、ありがとうございました。

蛇足ですが、背高さん、は、せいたかさんとお読み下さい。

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