二十三 こっちを向いて
「アサツキ様」
どなたかに名をお呼ばれしております。
返事を、と思いましたが、どうにも口も瞼も開けられません。今、とても疲れていて、どうか休ませていただけないでしょうか。
歩いて歩いて。
もう疲れました。
もう、何も、考えたくありません。
「アサツキ様、着きましたよ。ミレイさ…んが待っておりますよ」
ミレイ様。
答えを持って会いに来てとおっしゃって、ああ、私は答えを手にしたのでした。お会いしなければ。そしてお伝えしなければ。ミレイ様にとって裏切りとなる答えを。
でも。
「どうしましたか、アサツキ様。あっ熱が」
誰か手を貸してくれ。
そんな慌てなくても私は大丈夫ですから、心配なさらないでください。ただちょっと疲れているだけ、ああ、どうしたのでしょう意識が…。
お恥ずかしいことに、それから丸二日の間寝込んでしまったようです。目が覚めたけれど、頭の回らない私に女中さんが教えてくださいました。
「過労だとお医者様がおっしゃっていましたよ」
ご、ご迷惑おかけしております。
軍曹さんのお屋敷を出てから、私、どうしたのでしょう。
思い返してみますと、朝日が昇るまで冷たい夜風を耐えて、失礼に当たらぬ時間までお待ちして軍部をお訪ねした筈です。不運にも兄様と父様は不在で、期待した情報ももらえず途方に暮れてしまったことは覚えております。
えっと、その後の記憶がございません。
「ここはカン家です。若旦那様たちからゆっくり養生なさるように、と」
更に二日ほど寝たり起きたりして、カン家にご厄介になりました。きょ、恐縮です。そして、ようやく待ち望んだ方にお会いできました。
「セシカ」
美しいその方は髪を結い、お顔に映える常盤緑のお着物がお似合いの、瑞々しい若奥様になっておられました。
艶やかな唇がきゅっと弧を描いて、私の大好きなミレイ様の笑顔に、ぽろりと涙が頬を伝いました。
「あらやっと来てくれたのに、涙で話しができないのは嫌よ。わたくし、あなたをずっと待っていたの」
そうです、泣いている場合ではありません。私はミレイ様に話さなければ。
そして、喧嘩をするのです。
「お、遅くなりました。ミレイ様。まずは、看病して下さりありがとうございました」
「頭を上げて。テ…旦那様が堤防でぐったりしたあなたを見つけたらしいわ。見つけるならもっと早くに見つけるべきよね、そう思わない?」
「いえ、そんな」
「わたくしが言うのだから、そうなの。愚図なのよ」
もうテゴは愚図なんだから、きついお言葉に反して優しく聞こえたのですが、気のせいでしょうか。
「ねえ、セシカ。聞きたいことも話したいこともたくさんあるのよ。少しずつ順に話していきましょう」
「気が付いたかしら、ここ、前の私の部屋よ。少しは落ち着くでしょ」
ミレイ様は現在、夫となられたテゴさんと共に、敷地に新しく建てられた離れ屋敷にお住まいしているそうです。新居を短期間でご用意なさるなんて、ふう、さすが大〈商〉カン家です。
「親の言う通りに結婚したんだもの。このくらいの我が儘言ってもいいでしょ」
清貧な我が家では通じませんけれども、との思いは、美味しいお茶と共に飲み込みました。
「聞かせて。あなたの持ってきた答えを」
騎射での勝利宣言をなさったあの時と同じく、ミレイ様の瞳はきらきらと輝いています。やっぱりこの方は私の女神様。
大好きな方。
椅子から降りて、絨毯の上で三つ指をつきました。
「お約束をお破りしましたこと、心から謝罪いたします。私、は、軍曹さんを好きになってしまいました」
「ニイタカ様を好き?」
「はい。愛さない、好きにならないとお約束しましたのに。あなたを裏切り、申し訳なく思っております」
頭を上げてとミレイ様からお声がかかりましたが、とてもできず、きゅっと目を瞑りました。そうしたらぽんと肩を叩かれて、すぐ近くからお声が降って参りました。
「話しがしたいって言ったのに、その体勢じゃ無理でしょ。ね、ほらこっちを向いて」
温かいお言葉に喉がわなないてしまいます。
ひぃっく。
手を引かれるまま椅子に座りなおしましたが、私、子どもみたいです。
「莫迦ね、セシカったら。だけど好きよ」
え。
「そんな莫迦なあなたが好きよ」
え。
「わ、私だって大好きです」
力一杯言ってしまいましたが、あ、これでは喧嘩になりません。
「わたくし言ったことあったかしら、あなたから大好きって言われると、本当に嬉しくなるのだって。きっとわたくしは一番多く大好きって言ってもらったわね」
「はい」
兄様と同じくらい、何度も言わせていただきました。
「だから、許すわ。セシカ」
「え」
「いいえ、違うわね。許してもらわなければならないのは、わたくしの方なのよ。セシカ」
え、許すって、私がですか。
愛さないで。好きにならないで。
私のせいでミレイ様は苦しみ、そうおっしゃるしかなかったのです。
「あなたに嫉妬したとはいえ、呪いの言葉を口にするなんて、わたくし幼稚だった」
「そ、そんな」
「人の心を縛るとは何があってもいけないと、テゴからこっぴどく叱られたわ」
きっと苦しんでも約束を守るでしょう。セシカさんはそういう人だと友達ならご存知でしょう。それとも分かっていて心を縛ったのですか、ならば、友を名乗る資格はありませんよ。
窘めることはあっても、決してミレイ様に怒ることのないテゴさんが。
そんな風に。
「許して、セシカ」
「ミレイ様」
「わたくし、親の言いなりは嫌だと言いながら、あなたを言いなりにしようとした。友なら譲るべきだと、傲慢にも思っていた。どうか許して」
ひそめた眉の下、ミレイ様の力強い瞳が緩んで、真珠の涙が浮かぶのでした。慌てて首を横に振っても、ミレイ様は白い手でお顔を覆ってしまい、こちらを見てくださいません。
両膝を着けて椅子ごとミレイ様を抱きしめました。
先程かけられた言葉を、今度は私が。
こっちを向いて、ミレイ様。
「ミレイ様、大好きです。いつだって向き合ってくださる、あなたが大好きなのです。だから」
許します。
私の小さな囁きは、質の良いミレイ様のお着物に吸い込まれてしまいましたが、きっと届いたのでしょう。ミレイ様の細い腕が私の背に廻されて、きゅっと力が込められましたから。
喧嘩にはなりませんでしたが、お互いに許し合う方が、私たちに合っているようです。
そうお思いになりませんか。
軍曹さん。
「ニイタカ様が言っていたわ、あなたの大好きは許しの言葉ですって。世界から許される気持ちになるのだって。ふふ、本当ね」
「ミレイ様、私、軍曹さんにまだ言ったことがないのです」
「あらまあ、やっぱり」
う。
だって。
「お体に障りますから、この辺りで」
女中さんの勧めで、名残惜しいのですが、明日またお話しすることになりました。
お部屋まで運んでくださった美味しい夕食をいただいていると、幾分お顔をふっくらさせたテゴさんがお見舞いに来てくださいました。
まあ。
浅黒い肌も丸いお鼻もお変わりありませんが、身なりを上品に整られれば猫背も目立たず、若旦那様に相応しい貫禄がございました。
何度も頭を下げて感謝と結婚祝いの言葉、それに素敵ですと言わずにはいれませんでした。丸い瞳が大きく開いて、優しく細められました。
「何故もっと早く連れて来なかったのと、可愛いおじょ…妻に怒られてしまいました。あなたが困ると、つ、妻が怒りますから、私を助けると思って、ぜひ相談して下さい」
優しい微笑みは、とてもお幸せそうでした。
翌日は朝から雨が降り、窓から見える木々を、しとしとと静かに濡らしていました。この窓を、お庭からずっと眺めていたこともありました。
あれはそう、軍曹さんが連れて来てくださったのだと思い出せば、少し切なくなりました。
淹れていただいた昨日と違うお茶は、縹色のお着物をお召しになったミレイ様のように爽やかです。
「テゴさん、素敵になられましたね。大店の若旦那様らしくなられて、びっくりしました」
雨の午後、明るさを欠いた部屋でしたが、分かるくらいにミレイ様は耳まで真っ赤になられました。
「そっ、そう?」
それにお幸せそうでしたとにっこりして付け加えると、どうされたのでしょう、白い喉までも赤く染まるのです。
「きょ、今日はわたくしの話しを聞いて欲しいの」
テゴが結婚相手だなんて、悪い夢だと思ったわ。
始まりの言葉は、その時を思い出されたのか、苦々しい表情でおっしゃいました。
だって、ね、ニイタカ様と比べるとテゴはとても見劣りするし、使用人だし。悪い夢そのものよ。
「嫌で嫌で、部屋に籠ったり机を投げたりして反抗したわ。食事だって手をつけなかった。でも、お腹が空くって駄目ね。テゴが扉の前に置いたおにぎりや軽食に我慢できなかったわ」
ミレイ様は結構な健啖家です。
「都で噂のお菓子もちゃんと用意してあるのよ、悔しいけど、食べたくて部屋を出たわ」
さすがミレイ様の扱いに手慣れたテゴさん。弱点を良くご存知です。
「悔し紛れに、異国風の新居を建ててとか、新着の着物とドレスを二十着欲しいとか言ったら全部叶えられて、結婚するしかなくなったの。テ、テゴは大事にしますって言うし」
ぷっと膨らませた頬はとても愛らしく、ミレイ様がこんな表情をなさるなんてと、ぱちぱち瞬きしてしまいました。
「結婚したらしたで、こんなに幸せなことはありませんと毎日言うの。しつこいくらい」
あなたの全てが愛おしい、とか。
あなたのいるこの世に生まれて良かった、とか。
私にあなたを与えてくださった神に感謝します、とか。
ま、毎日何度もおっしゃるのですか、それは、あの私が聞いてしまってよろしかったのでしょうか。う、赤面してしまいます。
「あなたのことで叱られた以外、本当に大事にしてくれて、どこかに出かける度にお土産をくれるのよ。もうつんつんしているのが莫迦らしいほど」
お、お土産作戦は私も覚えがあります。
私たち、いえ、乙女には効果絶大なのですね。
「前から思っていたけれど、もう全力で尻尾を振る犬そのものよ。わたくし、犬は嫌いじゃないって知っているくせして」
ずるいわよね。
小さい頃からお慕いしているのはニイタカ様だって、テゴも知っているのに。
とてもずるい。
けれども、花が、季節が移ろい行くように、わたくしの心も変わったの。
あなたは呆れるかしら。
わたくし、テゴを愛しているの。
お読みいただき、ありがとうございました。




