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二十 では、ごきげんよう


 便箋を前にして、右手に持った筆はちっとも動いてくれません。罫線が引かれた紙は白いまま。

 書き出しすら、軍曹さん、いえそれともニイタカ メネリック様でしょうか、などと悩んでしまう私は莫迦です。長年女学校に通い、一体何を教わってきたのでしょう。

 手元には折り畳まれた紙片。

 セシカさんへ。

 流れるような文字で書かれ、私の名前で始まるお手紙は、異国の地へと出兵された軍曹さんから送られたもの。

 マァヤ様やお屋敷の方々に向けられたものとは別に、私だけに宛てられたお手紙。

 軍部校閲を考慮された文章は簡潔だけれど、優しく囁かれる甘い声が聞こえるようで、胸がちちちと疼きます。

 くすぐったいような、柔らかく握りしめられるような、この感じ。

 潰れてしまったはずの胸の卵、もう孵化することはないと思っていたのに、あの夜以来、再び感じるようになったのです。


 あの夜。


 やっぱり軍曹さんは魔法使いさんだったと、改めて思いました。

 優しいのにとても意地悪で、だけど、夜空に瞬く星のような言葉は魔法そのもの。私自身を望んで下さったら、と莫迦な望みを抱いていたことさえ、疾うに知っていらしたみたい。

 嬉しいと感じてしまったの。

 ミレイ様との約束を忘れるなんて、私はとても浅ましい。

 だから神様は罰を下された。

 光護国軍伝令のお姿をされて、私の前に降り立たれた。

 私のそら。

 そうおっしゃってくださった軍曹さんは、恭しく渡された出兵命令書に従って、もうこのお屋敷にはいらっしゃいません。


 新しい年を迎えても、お祝いに湧く世間とは裏腹に、お屋敷は火が消えてしまったみたいでした。

 料理長さんの大きな声は力弱く、馬たちの嘶きも寂し気に聞こえます。元気なウルさんとカイエさんの明るさも控えめで。

 特にマァヤ様の嘆きは深く、悲しみに沈み、度々寝つかれるようになってしまわれました。

 私にできることはないのでしょうか。

 お部屋にお伺いしますと、ココノエ様は眉根を寄せられましたが、マァヤ様の私室に通して下さいました。美しいベッドに横たわり憔悴されたお姿は、ああ、こんなにもお労しい。

 私の犯した罪は、こんなにも重かったのです。

「何を言うの、あなたのせいではないわ」

 でも。

「神の罰だというのなら、あなたと二人で引き受けますとニイタカさんは言うでしょう。あの子はそういう子です」

 確かに、ミレイ様に二人で謝りましょうとおっしゃってくださいました。

「あなたはあの子を嫌い?」

 嫌いだなんて、とっさに首を振ってしまう私を見て、マァヤ様はほんのりとお笑いになられました。

 では、私、ここにいてもいいのでしょうか。

「私、を、どうかこのお屋敷に置いてください。お願い致します。ニ、ニイタカ様がお帰りになられるまで」

 きゅっと手を握り返してくださいました。

「それこそ願ったり、ね。セシカさん、あなたはちょっとお転婆ですけれど、人の気持ちを考えられる優しい子です。ニイタカさんが好きになるのも当然ね。わたくしもあなたが好きですよ」

 あれ、私ってお転婆でしたか。そうですか。

「私もマァヤ様が大好きです」

 ぐ、軍曹さんが、とのお言葉はちょっと置いて、うう顔が熱くなってきました。

「あらあら。そう言われたいと願っているのは誰でしょうね」

 目尻の皺を深くされたマァヤ様と一緒に、ここに残ることを決心しました。


 ミレイ様、申し訳ございません。

 いろいろ考え、悩みに悩みましたけれども、私は、このお屋敷で皆さまと一緒にお待ちしたいのです。許してとは決して申せません。

 でも、私。


 私は、あの夜の返事をしていなくて。

 中途半端に逃げるのは、もう、嫌だから。


 だから、待っています。

 待っておりますから。

 どうか無事に、お帰りになってください。軍曹さん。


 新春も過ぎて、お城や光揚館での社交錬を何度か経験し、最後に臨む卒業試験。個人毎に行われるそれは、不正防止のため、同学年と会える機会を減らしました。

 ミレイ様にもお会いできません。

 私の状況や心情を綴った手紙をお送りしましたが、軍曹さんからのお返事は届いても、ミレイ様からの便りはありませんでした。

 ミレイ様。


 そうして、風の寒さが少し和らぐ頃。

 私たち六名は卒業を迎えました。


 長年穿き続けた裳も今日でお別れです。本日だけは、家紋を打ち出した黒の上衣を着用する慣例になっており、髪を結ぶリボンも当然、黒。

「やっぱりあなたは黒ウサギね」

 もう。皆さまだって同じ黒を纏っていますから、黒ウサギではありませんか。

「違うわ。わたくしたちは花だけど、あなたは違う」

「そうよ、あなたは力強い脚をもっているの」

「だから遠くにだってぴょんと飛んで行けるのよ」

 ほほ笑みあう同級の姿に、きょとんとして、ああ置いて行かれたような気分になるのはどうしてでしょう。


 先生方、下級生、学校関係者がお揃いになった講堂。

 普段は気のお強い〈華〉のウリエル様、ルイ様、〈商〉のタマキ様、〈技〉のルコ様ですが、みな、瞳を緩ませておいででした。

 時間ぎりぎりになり、軋んだ音がして開けられた講堂の扉。その向こうには、薔薇色の頬をされたミレイ様のお姿。

「あら遅くなったかしら。ごきげんよう、皆さま」

 六名全員揃ったことがどうしようもなく嬉しくて、先生の声を合図に始まった式に、潤んだ目をどうする術もありません。

 式が終わりますと、たくさんの後輩に囲まれまして、心からの祝辞を贈られました。

 ビム様とイルマ様が泣きながら、卒業しないでとおっしゃってくださいました。

「お友達になってくださって本当にありがとう。お二人とも大好きです」


 喧騒を離れて、示し合わせた訳でもないのに私たちの足が向かった先は、いつもの教室。

 ここでたくさんの時間を過ごしました。おしゃべりして、笑って、泣いて、時には意見の衝突から言い合ったこともございます。

 たくさんの課題に厳しい授業と試験。心折れずにいられたのは、あなた方がいてくださったから。

 励まし合い、乗り越えて、この日をみなで迎えられた。

「女だとて、嫌なものを嫌と言って何がいけないのでしょう」

 きゃあきゃあと無邪気に騒いだ、あの愛しき日々。

 永遠に続きますようと心のどこかで願っておりましたけれど、今や、遥か遠くへ過ぎ去ってしまったのです。どうして涙が流れずにいられるでしょう。

 それぞれ結婚が決まり、別々の道を行く私たちは、今日、お別れするのです。

「セシカじゃないけど、皆さま大好きよ。では、ごきげんよう」


 ごきげんよう。


 普段と同じお別れの言葉、口にする時みな、泣き笑いながら教室を後にされました。残されたのはミレイ様と私だけ。

「ミレイ様」

 お呼びすると、綺麗な唇の両端を上げて笑まれる。どうしてミレイ様もまた、瞳に大人びた光を帯びているのでしょう。

 みな、今日、大人になってしまわれた。

 では、私は?


「手紙を読ませてもらったわ、セシカ。でも、わたくしは直接話をしたかったの」

 ミレイ様は逃げ出さず、目を合わせて言葉を交わし、相対することを選ばれる。いつだって。潔くて強くて、ああ、私の大好きな方。

「わたくしの花嫁姿、綺麗だった?見に来てくれたでしょう、ニイタカ様とあなたの姿が遠くに見えたわ」

 薔薇のようにお綺麗でしたと答えれば、ふふっと花の笑顔で、ありがとうとおっしゃる。

「でももう薔薇はおしまい。卒業するわ。いろいろあって、わたくし、変わりたいと思うの。セシカもそうでしょう?」

 ええ。

 私も大人にならなくては。

「時は過ぎ行くのね。変わらないものはこの世に一つもない。さあ、震えるしかできなかったあなたがどれほど変わったか、わたくしに示してみせて」

 私を見つめる美しい瞳。

 力強い光を宿し、姿勢を正して前を向かれるあなた。私も、そうでありたい。

「はい、ミレイ様。手紙に記しましたが、軍曹さんは西国に赴きました。裏切りだと承知の上で、それでも私はメネリック家で帰りをお待ちしたいのです」

「…ニイタカ様を好きになってしまった?」

 かあっと顔が火照ってしまいましたが、ここで俯く訳にはいきません。以前の私なら目を背けてしまったでしょう。けれども、あなたは教えてくださった。

 友達には誠意をもって向き合うと。

 だから、もう逃げません。

「す、好きはまだ、わ、分かりません。だけど、あのお屋敷の方々が大好きです」

 あら手強いわね、と呟かれましたか?

「少しは強くなったようだけど、まだまだねぇ」

「す、すみません」

「自分の心をきちんと見つめなくては。あなたの答えを、わたくし、待っているわ。だから答えを持って会いに来て」

「は、い」

「その頃にはわたくしも、ふふ、きっと変わっていてよ」

 ええ。より素敵な女性にきっとなられることでしょう。

 私たちはそっと抱き合って、そしていつもの言葉を耳元で言いました。

「大好きです、ミレイ様」

「…あなたって本当、子どもよね」


 やっぱり、私、大人になっていなかったようです。


 水温む頃となり、〈華〉のお仕事である領地の勉強を始めました。さすがに政治や経営はお手上げですが、帳簿の読み方や付け方を執事さんに教わっております。

 そんな中、ウルさんやカイエさんと夜のおしゃべりは、とても楽しい息抜きです。

 ところが、今夜、カイエさんが爆弾を落とされました。

「前からすっごく聞きたかったことがあるの。ねえセシカ、ニイタカ様から好きって言われた?」

 は?

「あらカイエったら、いい質問を。私も聞きたい。ニイタカ様に好きって言ったの?」

 は、い?

 おおおお二人とも何を急に言い出すのですか。ぼふっと顔が赤くなってしまったではないですか、嫌だもう。

「わ、私たちはそんなこと」

「そんなことって、セシカはニイタカ様が好きでしょ?」

「えっ?」

「だって魔法使いみたいだって言ったじゃない。嫌いな人をそうは例えないわよ」


 そそそそうなのですか?

 では私は。


「前に聞いた胸の卵のことだって」

「あれだって、好きってことよね」


 では、私は。


「普通、分かるでしょ」


 こつり。

 とうとう内側から破られた胸の卵。

 殻から出てきた、私の心。


 私は、軍曹さんが、好き。



お読みいただき、ありがとうございました。

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