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二 お亡くなりに


「マナハラ様がお亡くなりになりました」


 その日もまったく普通の休日で、残念なことに学校はお休みでした。

 ということは、当然、朝から就寝まで伯母様とご一緒です。ご容赦なく隅々まで目が行き届いておりますので、炊事に掃除に洗濯、何一つ手が抜けません。

「セシカ、ここ埃が残っていますよ」

 は、はい。ただ今。

 え、次は蔵の虫干しですか。めんど、いえ、何でもありません。

 家人のマツさんと、何度も蔵と庭を往復して重い荷物を引っ張り出して、また片付けて、終わったのは空の太陽が傾く頃でした。


「セシカ、部屋までおいでなさい」

 伯母様の硬い声に、お茶を淹れるふりしながらこっそりおやつを食べようなど画策していた私の肩は、びくっと跳ねるしかありませんでした。

 どうしてお分かりになったのでしょう、さすが伯母様。逃げ出したいけれど、やはり逆らえません。仕方なくお饅頭は諦めて、お部屋に伺いました。

 扉を開けると、夕日に照らされ強張った表情をした伯母様がいらっしゃり、どこかで見た既視感に、嫌な予感でお腹がぐるぐるするのでした。


 そして聞かされたのは、訃報。


「はい?」

 お亡くなりにとは、ええっと、誰が?

 マナハラ、聞き慣れないお名前だと思いますが、お知り合いでしたでしょうか。頭の中でお名前が高速回転いたしますが、そのお姿は一向に思い浮かばなくて。

「まさか忘れたのですか、あなたの婚約者のお名前を」

 ぎりりと音がする位に睨まれて、え、あ、婚約者?


 婚約のお相手、お名前を〈武〉のイクノ マナハラ様とおっしゃるようです。


 そう言えば、私、お相手のお名前を知りませんでした。だって、三日前には戸惑いが大きすぎて、それどころではなくて。

 翌日、女学校で婚約の件を話すと、友人たちに囲まれてしまったのですが。

「え、あなたが?」

「婚約?」

「まあ、おめでたいけれど、大丈夫なの?」

「まあまあ」

「それで、お相手は?」

 やはり、皆、大丈夫なのかと思うのですね。もう。

「お名前、あ、伺いませんでした」

 素直に白状しましたのに、皆、可哀想な子ども見るかのような瞳で見つめるのです。どうしてでしょうか。

 いえ、お待ちください、頭が混乱しております。今、重要なのは。


「え、お亡くなりに」

「西国の海に軍艦もろとも沈んだと訃報が入りました。明日、葬儀になりますからあなたもそのつもりで準備なさい」


 お亡くなりになった、って、え、ええ?


 …ということは。

 婚約がなくなった、と、いうことです、か?


 たらりと背筋に汗が伝います。


 二日前。

 婚約の件は、大好きなミレイ様に一番先に打ち明けました。失望されないかとひやひやする私に、意外な答えをミレイ様は返して下さいました。

「そう、じゃあ早めに離縁できるといいわね」

 は?

「あなたの伯母様だって嫁ぎ先から出戻りされたのだし、あなたがそうなっても何も言えないと思うわ」

 ええと、婚約もまだ正式ではありませんが、もう離縁を視野に?その先見性、大変素晴らしいですが、伯母様をちょっぴり揶揄する鋭さも、さすが薔薇の様なミレイ様。

 棘もまた素敵です。

「その前に」

 にやり、ミレイ様の悪い笑顔。

「何かが起こって婚約破棄しますように、と、呪うべきかしら?」


 呪いが本当に?

 

「若い身でありながらなんてことでしょう」

 まさか、そんなこと。

「確か、イクノ様はおはぎを好きだった筈です、セシカ。あなたお供えにお作りしなさい」

 でもミレイ様ならありえそう、なんて莫迦な考えに囚われていた私は、伯母様への返事が遅れてしまいました、って、え?

「おはぎ、え?私が作るのですか?」

 呪いは私にも作用しているのでしょうか、頭が回りません。のろい呪い。

「あなたの婚約者が亡くなったのですよ、その位しなくてどうするのですか」

「は、あ」

 婚約者といっても三日前のことなので全然実感がありません、とは、本音過ぎて言えません。

 どうして私が。

 おはぎを作るには手間がかかるのですが。むろん、そのような答えも求めません。だから、凍るような視線は許して下さい。こわいです、伯母様。


「明日の朝は早いですよ、鍛錬は繰り上げて今からにしましょう。すぐに着替えて道場に行くように」

「え」

 えええ。

 すごく嫌そうな返事になってしまいましたが、だって、今から?

 おはぎを作るにはいろいろ準備が必要なのですが、恐る恐る視線を寄せましたが、すぐにがくりとうな垂れました。

 分かっております、そんなことは伯母様には関係しませんと、ええ。

 伯母様が求めるのは従順な返事のみ。

「…は、い」


 婚約話から、三日が経って。

 お顔どころか、お名前も知る事のなかったお相手は、泡のように消えていなくなってしまいました。

 どうしよう。

 呪い、なのかも。まさか。

 ただ。

 お相手の不幸に、よかった、と心のどこかで安堵しているなんて。

 ごめんなさい、私はなんて酷い人。


 鍛錬、前後に道場の清掃、夕食の準備、片付け。

 胸の混沌はとりあえず、取り掛からなければならない事はたくさんあって、時間は明日までに限られているのです。

 しっかりしないと。


「お嬢様、甘清堂さんから小豆を分けてもらいましたよ。喪服は納戸を探してみましょうか」

「ありがとう、マツさん。嬉しいです」

「マツ、余計な手出しは無用です。セシカ、一人でおやりなさい」


 …おわった、今日は徹夜決定です。


 それでもマツさんは、こっそり納戸を探し出して下さって、見つかったのは母の喪服。

 奥戸に仕舞われていたためお手入れが必要でしたが、ありがとうございます。ありがとうございます。

 炊き上げた小豆をつぶしてあんを作り、糯米を蒸して、おはぎは食べやすいよう小さめに。薄い紙に包んでお重にぎゅうぎゅうと詰め込んで、風呂敷に包めば完成。

 

 ようやく全てが整ったのは、東の空の闇が白々と明ける頃でした。


「大丈夫ですか、お嬢様。朝ですよ」

 はっ。

 マツさんの声に重い瞼をかっと開くと、そこは厨房でした。隅っこの壁にもたれるように眠り込んでしまったみたいです。

 朝?

「用意は整ったのかとセイナ様がおっしゃっていましたよ」

 もちろん、まだですとも。

 慌てて水浴びして喪服に袖を通したけれど、黒いリボンで結った髪はよれよれ、目は充血。

 激しくぼろぼろな私、きちんと喪服を着た伯母様の隣に立つには恥ずかしいほどです。葬儀出席者の正しい姿なのだと言えなくもありませんが。

 ああ、なけなしの乙女心が砕けます。


 伯母様と乗り込んだ狭い力車はゆらゆら揺れて、眠りの谷間に何度も落っこちそうになります。その度伯母様が鋭い肘鉄を送って下さり、墜落を間逃れましたが。


 今にも泣き出しそうな曇天。

 マナハラ邸の門前に止められて、力車を降りると、喪を表す黒い垂れ幕が風にはためいて見えます。

 案内役の家人さんにお悔やみとお重をお渡しし、お屋敷の中に入れば、黒い衣装の方々が大勢いらっしゃいました。

 広間には花に飾られた祭壇があり、その中央には一人のお写真。

 マナハラ様。

 まだ、あなたのお顔さえお目にかかれません。

 あなたは、遠すぎて。

 伯母様と一緒に目を赤くしたマナハラ夫妻に御挨拶しても、どこか現実とは思えず、少しだけ乱れた白い襟元に胸が詰まる気がしました。


 広間は大勢の黒い服の影にひしめいて、とても息苦しく感じました。あのどうしてこんなにも視線を向けられるのでしょう。

 隣では伯母様が毅然と背筋を伸ばされております。

「前を向いていなさい、セシカ」


「まあ、あのお嬢様はどちらの方でしょう」

 ひそ。

「イクノ様の婚約者ですって。正式にはまだのようですけれど」

「正式になっていらっしゃらないのに、ここまでやって来たの?まあ、どういう思惑が?」

「決まってますわ、婚約者面して権利を主張したいのでしょう」

 潜められている筈の声ははっきりと聞こえるのです。


「あちらにも得体のしれない方がいらっしゃったわ」

「身分なき者が堂々と。イクノ様の御交友はずいぶん広かったようですわね」

 ひそひそ。

「施しを勘違いなさっているのではないでしょうか。あわよくば、おこぼれに与ろうと」

「卑しい人たちですこと、おお、いやだ」


「大人しそうな顔をしてますのにねえ、これだけ言っても出て行かないなんて、大胆ですこと」

「まだ結婚もなさっていない小娘が、身の程も知らず」

「渡しませんわ、何一つ」

 ひそひそひそ。

「マナハラの財産や名誉は全てわたくし達のものですわ」


 嵐。


 息ができない。


 幾重にも襲い来る高波は白く泡立ち、海の底へ底へと引きずり込まれるよう。

 ごぼごぼごぼ。


 助けて。

 兄様。



 その時。


「悪いが」

 凛とした声。

 大声で叫んだ訳でもないのに、その声は部屋の隅々まで響いて、囁き声は一瞬で払われてしまいました。

 わあ。

 広間の中央辺りに視線が集中して、その中心では、一人の青年が椅子から立ち上がられました。

 黒い喪服は、まだ珍しい列強風のスーツ。遠目にもその際立つ黒がとても美しくて。

 だというのに戻ってきた騒めきは、彼に向けられる視線と共に、どうしてだか冷ややかなものに感じられるのです。

 どうしてでしょう、立派な紳士様なのに。


「悪いが、気分がすぐれない。退出を願う」


 気分が悪くなられたようです、お気の毒に。

 私もあんな風に言えたら。

 そうしたら、ここから抜け出せるのに。


 少し羨ましく思っていただけなのに、この後、本当に抜け出せることになるなんて、まるで想像もしておりませんでした。

 あの背の高い紳士様と一緒に。


 ふいに名前が呼ばれました。

 

「セシカさん」



 お読み頂き、ありがとうございました。ブックマーク本当にいいのですかと疑ってしまいました。感謝致します。

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