十八 どこにも
「嫁いだ先にしか、もう、あなたの場所はありません。居場所がなければ勝ち取るまで。逃げ帰ることは〈武〉の名折れ、決して許しません」
垣根の暗がりから現れたマツさんは、伯母様からの伝言を教えてくださいました。やはりこの家に、私はもう戻れないようです。
どこに行けば。
口の端からつい漏れてしまった心を、マツさんには聞かれてしまったようです。
「お嬢様、あちらには連絡しておきましたよ。きっとすぐに迎えに来てくださいます」
う、マツさん、それは慰めにはなりません。
むしろ。
「あっ、お嬢様どちらへ?行き違ってしまいますよ」
そっと頭を下げて逃げ出すことにしました。
風は寒いし荷物も重いし足も痛みます。行く当てすらないのに、ばかな意地だとは思いますが、あのお屋敷だけは戻れないのです。
あの場所は、ミレイ様の居場所です。
マァヤ様からの親愛も、ココノエ様の敬愛も、ウルさんとカイエさん、他の多くの皆さんからの信頼も、全てミレイ様のもの。
困ったさんの優しさも。
けれど、あのお屋敷にいてはいつか自分に向けられるのではないかと期待してしまうのです。いえ望んでしまうかもしれません。
こわい。
こんなにも弱くて自分に甘いのだと、私は知りませんでした。
ミレイ様。
大好きなあなたとの約束を忘れ、自分の望みを優先してしまったら。そんな私になってしまったら。ああ、とてもこわい。
ミレイ様、あなたが大好きなのに。
どこにも。
行く当てなど、どこにもありません。お店の軒先をお借りして足を休めては、心細くなって立ち上がり、他の軒先まで移動するくらいです。
時々、響く馬の足音にびくびくしながら、警ら隊の巡察を見つからないよう隠れて遣り過ごしました。
兄様。
兄様なら分かって下さるかも。
ふと思いついた考えは、とても良いものに思えました。父様は無理でも兄様なら必死で訴えれば、助けてくれるかもしれません。
夜明けまで我慢したら。
吹きすさぶ風に、ぎゅっと身を縮めました。
「セシカ、お前という奴は」
ようやく朝の光が地を照らし、僅かに温まった空気に凍えた手足も動くようになったみたいです。軍部まで歩き、応接室に通していただいたまでは順調でした。
ところが。
面会を求めた兄様、ではなく、大変お怒りになった父様がお見えになりました。
と、父様。
さらに。
その後方には、う、困ったさんのお姿。
ぱしりと左頬への衝撃があり、足がよろめいてしまいました。椅子をがたがたと押しのけて、床にどすんと尻もちをつけば、え?
と、父様に叩かれた、のでしょうか?
「どれだけ迷惑をかけたと思っている、セシカ。何も言わず急にいなくなれば、心配すると思わなかったのか」
じんじんと頬が痛み、頭がくらりとしました。
父様の怒気を阻むように、父様との間に入り困ったさんが膝ついてくださいましたが、あの、大丈夫ですから。
「人様に迷惑かけて平気な娘だったのか、セシカ」
ごめんなさい。
ただ謝罪するだけなら、いつもの私。そうして、いつまでも口噤んで自分の思いも伝えずに、ぐずぐず悩んで。それで、いいのでしょうか。
同じ日々をただ繰り返すだけ。
そんなの、もう、だめだって私は知ったのです。
「父様、私、やっぱり結婚できません。友達が思う方と私は」
「黙れ、セシカ」
大きくもないのに低い声は、逆らうことを許さない響きに満ちていました。
「家長の言葉は絶対。それに逆らうのか」
「と、父様、聞いて下さい」
「母がいないからと甘やかし過ぎたな。愚かな真似しおって、まして何の謝罪もないとは、私の娘と思えぬ」
「お願いです、父様」
「お前はもはや娘ではない。二度とアサツキに戻るな」
え。
そ、そんな。
頬はじんじん痛むのに、当てた手も唇も、冷たくぶるぶると震えるだけ。
もう、どこにも。
「今、お前に寄り添っているのは誰だ。気遣ってくれているのは誰だ、セシカ。顔を上げてよく見ろ。軍曹は、夜通しお前を探してくださったのだぞ」
私の隣には、膝をつく困ったさんが。
「メネリック軍曹、お聞きの通り、この娘は当家との関係はなくなった。それでも良いなら連れて帰ってくれ」
「セシカさん」
のろのろと顔を上げたけれど、ああ頭が麻痺してしまって何も考えられません。
「一緒に帰りたいのですが、私は仕事なのです。先に戻ってください。きちんと休むのですよ」
いつまでも震える私の背中。
そっと優しく押されたのは、覚えています。
けれど。
馬車に乗る時に安堵の表情を見せてくださった御者さんに、ごめんなさいとありがとうを言えたでしょうか。それに。
さらに甘さを増したこの声の持ち主にも。
「いいのです。あなたが無事で本当に良かった」
お屋敷に着けば、皆さまが駆け寄って来てくださいました。
その光景は胸をじんじんと熱くさせて、ウルさんとカイエさんにぎゅっとされたら、もういけません。泣いてしまいそうです。
マァヤ様のお姿も見えて。
「あら、黒ウサギさんはちょっと蹴り飛ばしただけよね」
本当にごめんなさい。
皆さまが口々に心配しましたとおっしゃって、伝わるその温かさ。堪えていた涙で視界は滲み、鼻水が止まらなくて、ああとてもみっともないです。
「心配したっ、心配したんだから。セシカ」
「冷たっ、体が冷え切ってるじゃないの」
ごめんなさい。
私の口はそれだけしか紡げなくなりました。子どもではないのですから、ご迷惑かけて申し訳ありませんときちんと謝罪するべきなのに。
「あなたたち、何という口の利き方を」
あ、ココノエ様。戻って来てしまい、ごめんなさい。
「…仕方がありません、大奥様の御命令です」
「帰って来てくださって、良かった。若奥様」
「家族に会いたくなったって仕方がないよ、まだお若いんだし」
「そうそう。ニイタカ様が許可していればなあ、喧嘩なさることもなかったのに」
「ニイタカ様に部屋に閉じ込められては、黙って出て行くしかなかったですよね」
「それだけニイタカ様の愛情が深いのです。どうかニイタカ様を責めないで、若奥様」
「ニイタカ様と仲直りしてください」
は?
仲直りとは、皆さま、誤解なさっておいでですよ。
「責めるって、あの、私が悪かったのです」
本当のことですのに、どうして皆さま、にやにやなさるの。
視線が生温かいのですが。
夕闇の迫る頃、困ったさんがご帰宅なさり、皆さまと一緒にお出迎えしました。ところが。
「休むよう言いましたね」
目の下のほくろがぴくぴく動いて、十分休みましたと反論する間もなく、手を取られてしまいました。周りの生温かいほほ笑みが気になります。
「ニイタカ様、強く叱らないでやってください」
「ウサギの躾は夫の役目、です」
う。
「…頬はもう痛みませんか」
左頬に当てられた熱を、つい振り払ってしまい、後悔いたしました。握られていた右手も放して下さって、その向こうには傷付かれた色を宿す瞳。
「ご、ごめんなさい。あのもう大丈夫ですから」
「それほど私が嫌いですか」
え。
「前には大嫌いと言われましたね。今もまだ、そうだと?」
う。
大嫌いと確かに申したこともありましたが、今はそこまででない、と、あの、思います。
「では好き?」
「それは…だめ、です」
好きにならないで。
愛さないで。
ミレイ様との約束を、私は、守りたいのです。
「…だめの意味が分からない。あなたって人は、本当に」
はぁと息を吐きだして、亜麻色の髪をかき上げれば、困ったような表情。
「セシカさん、約束のことですが、もう少し考えさせてもらえませんか。あとしばらくこの家にいてください」
「い、いつまででしょうか」
それまでに身の振り方を考えなくては。
「そうですね、新年まで」
そうして私の不合格は、延期されることになったのです。
新年まで。
どうか、ばかな望みを抱きませんように。
どうか、ミレイ様を好きな私でいられますように。
「ああセシカさん、私の名前をご存知ですか」
え。
急にどうされたのかしらと思いながら、〈華〉のニイタカ メネリック様ですと答えると微かにほほ笑まれました。
「ちっとも名前を呼んでくれないので、お忘れかと思いました」
「それは、その、あの、えっと…は、恥ずかしくて」
心の中でもお呼びできないのに、口にできるとお思いですか。無理ですとも。
「どうか呼んでください」
うう。
顔が真っ赤になっていることご存知でしょうに、どうかと懇願なさるなんて、意地悪だと思いませんか。
長々した交渉の末。
決定した呼び方は、軍曹さん、です。
「照れる姿はこんなにも可愛いのに、あなたは本当に手強い」
それから。
空は徐々に色を薄め、灰色の空から白い雪が降るようになったのです。
風は冷たさを増したのに、このお屋敷で過ごす日々は、胸温まることばかり。
心のまま笑っても、お顔を引き締めなさいと、誰も怒らないのです。ココノエ様すら、ですよ。
むしろ、甘い笑顔が返されて。
このお屋敷は、皆さまは、あまりにも居心地が良過ぎます。その裏で、ちりちりと焼けつくような罪悪感はいつも胸に感じ、消えることはありませんでした。
私は毎日唱えます。
好きにならない。
愛さない。
胸の卵は潰れてしまったのに、どうしてこんなにもきゅうとするのでしょう。
そして。
新年に近いその日が、やって参りました。
「セシカさん、出かけますよ。温かい姿でお願いします」
乗り込んだ馬車から見える景色は、見覚えのある街並み。少し離れた場所に停められたのでしょう、馬車を降りた後は徒歩でした。
ここは。
「間に合いましたね、ほら。あそこを」
手袋で覆われた指が指し示した先には、大勢の方々が通りの左右に立っておられました。その中心をゆっくりとした歩調で列なして行くは。
花嫁御寮。
光護国伝統の、金糸銀糸も鮮やかな花嫁衣裳。しゃらしゃらと涼やかな音のする飾りを頭に付けられて、赤い紅が白い顔を引き立てておりました。
大変な美人の花嫁様。まるで薔薇の花の如くの。
え、薔薇?
ミレイ、様?
「今日はミレイの婚礼の日です」
軍曹さんの甘い声は喜びにあふれ、なのに、おっしゃる意味が分からないのです。
混乱する頭、だから目までおかしくなったのでしょうか、美しい花嫁様に寄り添われる花婿様のお顔は、浅黒い色の肌をされた。え。
だって。
え。
うそ。
「彼女の結婚相手は、あなたもご存知でしょう。カン家当主が幼少より才を見出して、己の後継者となるべくお育てした。彼はミレイの相手だと、疾うに決まっていたのです」
テゴ、さん?
お読みいただき、ありがとうございました。