十六 願ってしまいそう
困ったさんのお家で過ごすようになり、一カ月が経ちました。
時は早いものですね。
「どうしてバルコニーからお降りになる必要が?」
あっココノエ様、扉が開かないのです。何故でしょう。
「あなたがお茶を淹れる必要はありません」
あっ私のお茶がありませんでしたので。すみません。
「このっちょこちょことウサギめが」
だってこのお屋敷は広いのですもの、余りお役には立てないかもしれませんが、一緒にお掃除させて下さい。
「このような方…っ、くっ、どうして選ばれたのでしょう」
「今日も散々ね、セシカ」
「額に青筋まで立たせるセシカってすごいわ」
ウルさんとカイエさんとはすっかり仲良くなりまして、人目のない処では嬉しいことに、セシカと呼んで下さいます。
お友達になれて本当に嬉しいです。
着替えがないだとか学校に行かせてもらえないだとか、しょんぼりと肩を落とす私を助けて下さいました。
「大丈夫、なんとかなるわ」
「そうよ。お家に帰るなんて言わないで」
そう慰めのお言葉通りに、アサツキの家から荷物が届けられた時には、とても驚きました。
中には制服の裳や着慣れた衣服をはじめ、細々した生活用品や包丁などが詰められており、嬉しくて、お二人にはリボンや小物を手作りしました。
ウルさんカイエさん、大好きです。
「言う相手が違うけどね…」
え。
では誰に、言えばよろしいのでしょう。
だって知らなかったのです。
荷物が届いたのは、お二人が報告したから、だと。
「教えてくれて感謝するよ。彼女が帰ってしまわないよう、今後も頼む」
にっこりと笑った困ったさんが、すぐに手配して下さった、など。
「結婚について思い直して下さったか、そろそろ聞いてみようと思うのです」
私はこの家に相応しくないと、ミレイ様がご自分の隣に相応しいと、困ったさんも分かって下さったのではないでしょうか。
ココノエ様にも毎日、叱られていることですし。
そう相談させていただくと、ウルさんもカイエさんも少し慌てた様子でした。
「え、ええと、まだ早いんじゃないかしら」
「そ、そうよ。ニイタカ様はお仕事でいらっしゃらない日もあるのだし」
そうなのですか。
「そうそう。来月には大奥様の誕生会があるのだし、それまで待った方がいいわ」
ウルさんもカイエさんも、とても優しいのですね。
「ご助言、ありがとうございます。では、そういたします」
「う、そんなきらきらした瞳で見つめないで」
「ほんっと莫迦よねぇ」
この頃、心が苦しくなります。
例えば、白い服を召した料理長さん。
「ここは私の持ち場です。たとえ若奥様であろうと勝手に立ち入られては迷惑です」
大きなお腹から飛び出す大声。
毎日とても美味しい異国風料理を作って下さいますが、あの私、清貧を旨とする我が家で育った故、舌が貧しいようでして。
普通のご飯が恋しいです。
「かて飯?何ですかな、それは。作ったことありません」
そうおっしゃいますので、何度も頭を下げて、ついに厨房の片隅をお借りする許可をいただきました。きゅっと襷を締めて作ったのは。
豆と大根を入れて炊き上げたご飯の、おにぎり。
菜は軽く茹でて、針しょうがとだし醤油に浸しただけ。
「うまい」
料理と言うには質素すぎますが、厨房の隅で料理長と一緒にいただくご飯はほかほかで、するんと落ちた先の胸が温まりました。
以降。
少しずつお話しするようになり、甘いものに目が無いのですと、普段のお声を潜めて打ち明けてくださったこともあります。
では、甘辛いみたらし団子はいかかでしょうか。
一口食べられて、ほんわりと笑って下さいますと、その笑顔にきゅっと胸が疼きました。
「何ともまぁ、可愛らしい人だ」
それに御者さん。
「馬小屋に入られては臭いが移りますよ。いけません」
麦わら帽子で隠されておりますが、灰色になられた髪が素敵なのです。
少し離れてお仕事を見せていただいていましたら、手綱を振り払ってしまった一頭の馬がこちらに向かって来るではないですか。
あら。
黒い鼻先がふんふんと顔や首に近づき、興味深い様子で臭いを嗅がれてしまいました。ふふ、くすぐったいです。
「いい子ね、撫でさせてくれるの?」
「そんなにくっついて嫌がらないこいつは初めてだ。あなたは私より馬に好かれるらしい」
以来。
馬小屋への入所を見逃して下さいます。
寡黙なお方ですが、時々、馬のお手入れもさせてもらえました。お掃除は断られてしまいましたけれども。
仔馬が生まれる時には、こっそりと呼んで下さり、一緒に馬小屋にて見守ったこともございます。よろよろと立ち上がり母馬のお乳を飲まれる姿に、思わず抱き合って喜んでしまいました。
良かったですねとのお言葉に、またも胸がきゅっといたしました。
「不思議な方だ」
そんな風に、お話しして下さる方が少しずつ増えました。
優しい方々がお仕えする主。
主もまた優しいのだと、気が付いてしまいました。
お仕事が忙しいでしょうに、帰宅の際にお土産を買って来てくださいます。ぽかんとする私に、どうぞと差し出される笑顔は、とても眩しくて。
ああ、胸の卵がうずうずするではないですか。
きらきら光るガラス細工やふかふかの室内履き。お土産に下さったものは、いつも心惹かれるものばかり。
ミレイ様がお見えになった時、お渡しできるよう大事に片付けました。
美しい包装の異国のお菓子。
丁度お屋敷内の人の数分ありましたので、皆にお分けします。
「わ、私に下さるのですか?」
「はい。一ついただきましたが、おいしかったです。どうぞ」
ほんの少ししかありませんのに、そのように恐縮なさらないで下さい。
「それから、あの、いつもお洗濯ありがとうございます」
いつもなら頭を下げるところですが、ココノエ様のお言葉に従って、にっこりとするだけに留めました。
「ミレイ様はお美しいけれど、私らなんかにお声をかけて下さらないよ」
ましてや何かくださるなんて。
「若奥様、か。いいかもしれないね」
「セシカ、知っているの?このお屋敷では、こういった物をいただいたらお礼をしなくちゃいけないのよ」
はい?
ウルさんとカイエさんがおっしゃるには。
あーん。
と、言って、困ったさんに食べさせるそうなのです。
は?
「えっ、そ、それを私がするのですか」
「だって、ニイタカ様からいただいたのはセシカだもの」
「お礼してくれるわよね、セシカ」
ウルさんだけでなくカイエさんまで、にやにやなさって見えるのは気のせいですか。
お家によって習慣は違うと知っておりましたが、こんなに対応に困るお礼は初めてです。うう。とても戸惑いましたが、お二人に頑張ってねと背中を押されてしまいました。
ならば、頑張るしかありません。
その夜。
夕食を終えて、ゆったりとしたソファで寛ぐ困ったさんをちらちら眺めていますと、不思議そうに尋ねられました。
「どうしましたか、そわそわしているようですが」
えっと。その。
「…結婚のことなら私は」
「あーん」
しまった。
何かおっしゃっていたのに、どきどきしすぎて聞いていられませんでした。
「え?」
「あーん」
どうか、お口を開けて下さい。
ぱちぱちと音がしそうなほど亜麻色の睫毛が瞬いて、それでも言葉通りに口を開けて下さったので、えいっとお菓子を放り込みました。
う、唇に指が当たって、ますます鼓動は速まるばかりです。
「おおお菓子をありがとうございました」
は恥ずかしい。
恥ずかし過ぎて。
どうにもいけません、ええ、脱兎のごとく部屋に逃げ帰りましたとも。
「…これからのお土産は菓子に決まりだな」
お、おやめ下さい。
そんな風に、優しく笑わないで下さい。
辛いのです。
あなたも、この家の皆さんも、優しい方ばかりでとても心が苦しくなります。
ずっとこの家にいられたら。
そう願ってしまいそうになるのです。
だめなのに。
ここはミレイ様の場所なのに。
「アサツキ様、大奥様の誕生会のお献立はいかがいたしますか。招待状の文面は。どういった趣向でどのように采配なさいますか」
え。
私、今までそういった催しをしたことはありません。
「お分かりにならないとおっしゃるのですか。こういった決め事ができず何が奥様ですか」
左右に振られた頭と共に、ココノエ様の長い髪が揺れました。
「できないならニイタカ様が何を言おうとも、この家から出て行っていただきます」
明日までに必ずと期限を切られましたが、もう夕方ですし、今から調べて間に合うのでしょうか。それとも。
この機会に、お家に帰れる?
今にも地平に沈みそうな太陽をぼんやり眺めていますと、お声をかけて下さる方がいらっしゃいました。
「窓から見えた姿が、なんだか元気がないみたいでしたから」
料理長さん。
ココノエ様との話をするつもりはなかったのですが、余りにも心配して下さいますので、連れられた厨房でつい零してしまいました。
「心配ないよ、献立は俺が教える。おい、カイエは執事呼んで来い」
お屋敷に働かれる皆さまが、入れ替わりながら、答えを教えて下さったのです。
あのでもこれって、ずる、なのでは。
「ずるではないです。全く真面目だなあ」
「そうそう。あなたじゃなきゃ助けようと思わないよ」
「だから帰るなんて言わないで下さいね」
そうして。
たくさんの人がお力を貸して下さいました。
どうしましょう。
すごくすごく嬉しいです。皆さま、本当にどうもありがとう。
翌日の朝早く、ココノエ様の宿題をなんとかお答えできましたのは、皆さまがいて下さったから。
ああ願ってしまいそう。
でも。
だめ。
「ココノエ様の顔、見た?まさか答えるとは思っていなかったのよ、きっと」
「献立とか招待状とかもう手配済みなのに、意地悪よね。すっとしたわ」
協力して下さった皆さまに、何かお礼でもと思い、この前学校で習いました焼き菓子を作ることにしました。厨房を快くお貸しいただいて、ありがとうございます。
「それより、その大奥様の誕生会なんだけどね。いつも、大奥様を喜ばせようと趣向を凝らすの」
「そうよ。私たちもとても楽しみなの。セシカはどうする?」
大奥様の誕生会。
困ったさんからお返事を伺う日、です。
それまで、ここにいてもいいでしょうか。
そして、やって来たその日。
深夜。
ひくひくと涙を堪えて家路を辿ることになったのです。
知能犯ウル&カイエでした。お読みいただき、ありがとうございました。