十五 ばかなの
暗闇にぼんやりと浮かぶ人影。
額の真ん中で分けられた髪が白い肌にかかり、縁なしの眼鏡の奥には思いつめた光を宿す瞳。
兄様。
「ごめん」
どうして謝るの、兄様。
「僕は、小さなお前から母を奪った。ごめん、セシカ」
この先何が起こるのか、ああ、私は知っているのです。
幼さの残る兄様の手が握るのは、きらりと銀色に光る懐剣。
「ごめん。僕は」
やめて、兄様。
兄様の喉元へと何の躊躇いもなく吸い込まれて行く切っ先。止めようと思った訳ではないのです。
ただ、こわかったのです。
だから、その刃を兄様から遠ざけようと、ぎゅっと握りしめてしまったの。
あつい。
「セシカっ」
兄様の白い喉が動いて、たらりと流れて行く赤い血。
私の手のひらも赤い花が咲いたように、真っ赤です。
知らなかったのです。
こんなにもあつくて痛くて、刃は、赤い血を流させて命を奪うものだということを。
小さな私。
小さな兄様。
もうずっとずっと昔のこと。
「ここはあなたがいるところではありませんわ」
遠くに聞こえる声。
どすん。
お尻に感じた衝撃に、はっとなりました。一瞬、気が遠くなっていたようです。
「ちょ、ちょっと大げさじゃないの。え、ほんとに真っ青だけど」
「わ、私たちのせいじゃないでしょうね。ちょっと大丈夫?」
お二人の慌てるお声に、ここは厨房で、今も働く方々がいらっしゃると思い至れば、倒れている場合ではございません。
ご迷惑ですけれど、あの、どこか横になれそうな場所はございませんか。
「そんな場所、あ、カイエ。あそこに行こう」
「でも、ウル」
こっちよと、顎先でお示しになり、積み上げられた荷物に囲まれた場所へと案内して下さいました。狭いですが座れそうです。
「ありがとうございます」
申し訳なく感じながらも、横にならせていただきました。
「なんかちっこい動物が寝ているみたいねえ」
「若奥様って感じには程遠いよねえ」
覗きこまれるお二方。
ひょろりと背の高いお方がウル様、ふくふくされたお方がカイエ様とおっしゃるそうです。
「ここ、私たちだけの秘密の場所。誰にも言わないでよね」
はい。
「ねえ若奥様、まさか倒れたのは指が切れたからなの?」
恥ずかしさの余り小さくなって、カイエ様のおっしゃる通りですと言うと、やはり呆れられてしまいました。
「〈武〉の出身でしょう。いいの、それで?」
全然良くありません。
「育てて下さった伯母様から毎日怒られておりました」
「それなのにここの若奥様になるの?」
大きく目を見開かれたお二人に、私はゆっくり身を起こして、へらりと笑いました。
「それは、大丈夫です」
心配なさらなくても大丈夫です、私はこの家の若奥様にはなりません。
困ったさんに相応しいかどうか、今は、確認している最中であり、最終的に私の不合格は決まっているのです。
「だから、最後に選ばれるのはミレイ様。若奥様はミレイ様ですよ」
秘密の場所を教えて下さったお二人。
それではと、私も秘密を打ち明けました。
ぽかんとなさったお顔ですが、ええっと、いかがいたしましたか。
「それ、あなた信じているの?」
ミレイ様と同じ台詞を口にされ、そう言えば、この案を考えられた困ったさんもおっしゃいました。どうしてでしょう。
「はい」
「…それって口実でしょ」
こうじつ?
首を傾げますと、ため息を吐かれてしまいました。
「…私たちでも分かるのに、莫迦なの?」
ば、ばか?
「ばかにしているわ」
頭を抱えられたウル様と対照的に、苦し気に言葉を吐き出されたカイエ様はぎゅっと拳をつくられて、僅かに震えておりました。
「そんな、私は関係ありませんっていう態度、ばかにしているとしか思えないわ。ニイタカ様にはそれほど魅力がないって言いたいの」
え。
「ニイタカ様に選ばれて、本当は嬉しいくせに。関係ないってふりして、選ばれなかった人をばかにしているのよ」
そ、そんなつもりは。
「カイエはさあ、本気でお手つきを望むくらい、ニイタカ様が好きなのよ」
「私なんか相手にされないって分かっているわよ」
くしゃりと今にも泣き出してしまいそうなお顔に、ミレイ様のお顔が重なりました。
この方も、困ったさんを思われている。
婚約者の私をどう思っているのか、お心のまま素直に話して下さる。
初めてのことに戸惑い、また、もどかしいような気持ちがいたしますが、ああ、確かに私の態度は良くなかったのかも知れません。
「ニイタカ様ご自身で、婚約者だと連れて来られた意味が、あなた、分かっていないわ」
意味。
押しかけられたことはあっても、過去一度も女性を家に連れてみえたことはないらしいです。ミレイ様でさえお連れになられたことがないとは、知りませんでした。
「ミレイ様は幼馴染みだから、しょっちゅう来るわね」
私。
確かに、私、困ったさんの行動の意味を、どうしてそうされるのか、考えたことはございませんでした。
私のことだけで精いっぱい、で。
人の気持ちを考えてはいなかったのです。
「私、考えが足りなかったのですね。お教え下さってありがとうございます」
深々と頭を下げますと、なんでお礼を言うのよと、困ったようにお顔を歪ませてしまいました。
え、だめでしたか。
「ウル、どうしよう。莫迦なくらいに純真だわ」
やっぱり、ばか、ですか。
「ねえ、若奥様。あなたはニイタカ様をどう思っているの?」
ウル様の言葉に、胸の卵が揺れます。
こつりこつりと、卵の内側から音をたてて。
私にとって、困ったさんは。
「ま、魔法使いみたいだなって」
ぷっと吹き出されてしまいましたが、本当なのです。解けそうにない難問もすらすらですし、その視線と甘い声には魔法を宿しておられる、そんなお方。
「婚約者に選ばれて、嬉しかった?」
「こ、困りました。大好きなミレイ様の思われるお方でしたので」
「じゃあミレイ様が好きじゃなかったら、どうなの?」
ミレイ様の思い人ではなかったとしたら。
考えたこともございませんでした。
でも、考えてみなければ。
私の心は。
亜麻色の髪、鳶色の瞳と甘い声。
私を困らせる、困ったさん。
浮かんで来るお姿に胸が疼くけれど、考えても考えても、なかなか答えは出て来ないのです。なんて難しい質問でしょうか。
ウル様は頭が良いのですね。
「わ、私はこの通り不出来ですから、素晴らしい方がお相手だと心苦しく思います」
つり合わないのですと呟くと、再びぷふっと吹き出されました。とても楽しそうなご様子ですけれど、どこか可笑しかったでしょうか。
ばかね、と、呟かれましたか?
「あなたって、私がこんな話し方していても怒らないのね。とても身分持ちに思えないわ」
え、怒ることでしょうか。
ぽかんとするしかないのですが、あの、どうしてにやりとなさるのですか。
「ね、その綺麗なレースのリボンをくれたら、私、あなたの味方をしてあげるけど、どうかしら?」
え。
「もうウルったら、ずるいわ」
ええっと、味方って。
「…さっきの、背中を押して怪我させたことを忘れてくれるなら、私も、あなたを手伝ってあげる」
「あら、カイエ。私にもリボン下さいって、素直に言ったらどうなの」
ちょっとふてくされたご様子でしたが、私もリボンが欲しいのとおっしゃいました。
たかが、リボンで味方になって下さるの?
晴れ着に合わせた白花色のリボンは、私がレース編みしたのですけれど、このようなもので良ければいくらでもお作りいたします。
「じゃあ、交渉成立ね」
ウル様も、カイエ様もよろしいのでしょうか。
私の味方をして下さるなんて。
どうしましょう、とても嬉しい、です。
「あ、りが、とうございますウル様、カイエ様」
「ちょ、ちょっとやめてよ、若奥様に様付けされるなんて有り得ないから」
ウルとカイエでいいから、そうおっしゃって下さいます。
でも、あの。その。
「呼び捨ては、あの、恥ずかしいです」
ぽっと顔が赤くなってしまいますので、どうか、さん付けでお許しください。
そして私のこともセシカとお呼び下さると、嬉しいです。
「あの、味方よりお友達になって下さいませんか?」
「…なに、この可愛い生き物」
「ニイタカ様もこれにやられたのね」
えっと、見つめただけですのに、どうしてお二方ともあちらを向かれるのですか。
後日。
特別に誂えた私の包丁で料理した時には、お二人とも、大いに驚いて下さいました。
「はあ?何でこの包丁だと大丈夫なの?」
「えっと、刀身が黒なので銀色に光らないのです。それに切っ先は丸く作られておりますし、大きさも手のひらくらいなので」
兄様が刀鍛冶に頼み込まれ、毎年、私仕様に誂えて下さっているのです。
「刃物が苦手になったのは、僕のせいだしね」
そう言って下さいますが、違いますよ。小さな頃の私が莫迦だっただけ、なのです。
「えっ、美味しい」
「あなたって本当に意味が分かんない子だわぁ」
そ、そうですか。
以後、お菓子を作ってねと、ねだられるようになりました。
お二人と厨房に戻ると、真っ赤な顔で料理長さんから、どこに行っていたと叱られました。
私のせいです、お叱りは私に。
そうぺこぺこと頭を下げておりますと、はんにゃ、いえココノエ様が地の底の声で言われました。
「軽率を改めるよう言ったはずです」
うう。
すごすごと部屋に戻る私の元まで、残念ながら、お二人の声は届きませんでした。そっと手を振りました。
「ね、ウル。味方って言っても、味方にはならないんでしょ」
「そうね。カイエも、でしょう」
私たち。
ニイタカ様の隣にはあなたがいいわ。セシカ。
「何をされているのですか、セシカさん」
何を、って。
部屋に戻り、しばらく休ませていただいていると、ココノエ様より玄関に行くよう指示されましたので従ったのですが。
何故、怒るのですか。困ったさん。
「まだ顔色が悪い。見送りはいいですから、早く部屋に戻って下さい」
困ったさんのお見送りなのですが。
「もう何ともありません」
そんな心配そうなお顔をなさらないで下さい。
並んだ方々の、あの、生温かい眼差しを感じませんか。もう、早くご出立なさって下さい。
「いってらっしゃいませ」
「…行って参ります」
どうして、そんなに嬉しそうに微笑まれるの。
「今日は学校を休んで下さい。心配ですから」
言い残された言葉に、せっかく緩めた私の頬は、固まるしかありません。
い、や、で、す。
包丁エピ続きでした。お読み頂いて、ありがとうございました。