十四 居場所ではありません
どうぞにやりと。
「あらあらなんて可愛らしいの、あなたがニイタカさんの黒ウサギさんね」
忠実に再現された異国のお城。
子どもの頃に聞いたお伽話し、さながらに、お城にはお姫様が住んでおりました。
白い物が混じられた髪をふんわりと結い、目元を彩る皺は、むしろとても優しげに見せる要素の一つです。
「お姫様だなんて、もう、いい歳のおばあちゃんですのに」
おおお驚きました。
困ったさんのおばあ様は〈貴〉のご出身だそうです。
光帝様のご血筋に近しい、本物のお姫様です。
「ニイタカさんたら、結納の席から攫ってきてしまったの。いけない方ねえ」
「ええ、可愛さの余り、つい。逃げ出さないよう閉じ込めておこうかと」
「優しくなさいな。でないと、ウサギさんに蹴られてしまいますからね」
「はい。妻になる大事な人ですので」
ふかふかした布張りの椅子に座られて、繊細な白磁の茶器でお茶をいただきながら、元お姫様と孫の王子様がおっとりと会話していらっしゃる。
な、なんなのでしょう。もう意味が分かりません。
この状況に、会話の中身にも、ついていける気がしません。
お家に帰ってもよろしいでしょうか。
「ニイタカ様」
足が悪いのよ、そうおっしゃられたおばあ様の後方で、控えておられた女性の方が初めて口を開かれました。
余りにもじっとされているので、置物でしょうかと思ったことは内緒です。
「わたくし共はどういった態度で臨めばよろしいでしょうか」
硬い声。
長い髪を後ろで束ねて、糸のような細い目をなさっておいいでです。お顔は似ていませんが伯母様の纏う空気と同じです。
親近感を感じます。
「セシカさんは〈武〉の出ですから、〈華〉の当家に馴染んでもらえるか心配です。結婚して実家に帰られるようでは困りますから。当家に早く馴染んでいただけたらと」
「では、当家に相応しい若奥様の花嫁修業と承ります」
「ココノエ、余り厳しくしないでね」
ココノエ様とおっしゃるのですね、あの、糸目の奥が光ったように感じましたけれど。
き気のせいですよね。
またしてもへらりと笑ってしまいました。そう睨まれますと、こわいのです。
「よ、よろしくお願いします」
この場に見合った挨拶はどのようなものなのでしょう。
私には分かりかねますが、ぴこぴこと頭を下げるのは不正解だったようです。眉間に皺を寄せられました。
「このような軟弱な様子で、当メネリック家の若奥様に納まろうなど笑止千万」
す、すみません。
「カン家のミレイ様ほどとは言いませんが、毅然とした美しさをお持ち下さいませ」
「ココノエの口は誰にも止められないの。お許しになってね」
教育係でしたココノエ様はおばあ様のお嫁入りの際、共にメネリック家に参られたそうです。
「ミレイは今、関係ないよ。ココノエ」
困ったさんの目下のほくろが動きました。ぴくり。
「ゆ、許すも何も、私もミレイ様はとても美しいと思います」
「そうね、小さな頃からあの子はとても綺麗だったわ。ニイタカさんのお嫁さんになるのだと、可愛いことをおっしゃっていたわね」
そうしておばあ様は、小さな頃のミレイ様の思い出を話して下さり、笑顔で頷く私とは対照に、困ったさんは複雑な面持ちをされたままでした。
な、何でしょう。
小さな花の壁紙、白い窓枠に掛けられた紗のカーテンが風に揺れています。
おばあ様とのお茶会を終えて、困ったさんに連れられた先には、お揃いの家具が並ぶ、とても可愛いお部屋でした。
何でしょう、このお姫様仕様のお部屋は。
夢でもみているのでしょうか。
「本当は私の隣の部屋を用意してあるのですが、あなたに怯えられると困るので、こちらの部屋にいたしました。どうぞ」
え、でも、こんな広いお部屋。
「あ、あのお茶もいただきましたし、おばあ様にお会いできましたし、そろそろお暇させて」
「帰しません」
はい?
「アサツキ少将に了解を得ました。今日からここがあなたの家です。ですから、帰しません」
少し強引に言葉を切られ、告げられる内容は。
帰さないと。
と、父様。何を了承しているのですか。もう。もう。もう。
「で、でも学校が」
「ここから通えます」
「でも」
「あなたは私の婚約者だ。兄であっても、まずは隣で私に笑顔を向けるべきでした。今日のあなたは本当にいけない」
う。
「どうか早く私に慣れて下さい」
父様、私の自業自得、でした。
広いお部屋を、恐る恐る扉を開けて探検して、お風呂があるだとか取っ手が可愛いだとか、一つ一つに驚いていましたら疲れてしまいました。
天蓋から掛けられた乳白色の紗の向こうにベッドがあり、あまりの可愛さに潜り込めずに、そっと凭れかけました。
両手の下では、心地の良い弾力。
あたたかい。
ふわふわ。
ミレイ様。
「セシカ、約束よ」
このお家の皆さまは、ミレイ様、あなたを待っておられる。
ここはあなたの居場所。
私のいるべき場ではないから。
きっとお約束をお守りいたします。
「アサツキ様」
呼名にはっと目を覚ますと、薄闇の中、小さな灯りを手にした方に覗きこまれておりました。
「ええと、ココノエ、様?」
「様は必要ありません。何度もお声をかけましたが、お返事になられませんでしたので失礼させていただきました。夕食にもお出にならないほど、ご不興でしたか」
灯りに照らされて、部屋の時計が指し示す時間は夜明けよりやや早い時間。
ああ、すっかり眠り込んでしまったみたいです。
「す、すみません」
「主がそのように頭を下げるものではありません。軽々しい態度は不快です」
申し訳ありません、と言葉に頭を下げそうになって、慌てて引き止めました。
「そろそろ起床のお時間です。その前に身支度なさいますように。何か不便はございますか」
身支度、ですか。
こ困りました。
「お一人では着替えられないとおっしゃいますか」
「ええと、お部屋の使い方が分からないのです。着替えも持っておりません」
袂や胸の袷にはハンカチと手鏡しかありません。
ココノエ様はため息を吐かれ、どうしてこのような方をと呟かれ、お部屋の使い方を教えて下さいました。
もう驚くことはないだろうと思っておりましたのに、わあ、お部屋でお風呂に入れるなんて、すごいです。
この真新しい衣服や様々な小物まで私が使ってもよろしいだなんて、あの、本当に?
えっ、でもでも、し、下着の類まで揃えられておりますが。
これを身に着けろ、と?
むむ無理です。
せっかくお風呂に入りましたが、泣く泣く、身に着けていた衣服をもう一度使うことにいたしました。
「何故またそのお姿に。ご用意した服はお気に召しませんでしたか」
「いえそんな。汚してしまうのではと心配なのです」
これも晴れ着ですがお古ですし、自分でお手入れできますが、このような素敵な衣装はとてもお洗濯できません。
お願いですから、普通の服を貸していただけませんか。
「全く当家に合わない方ですこと。本日は許しますが、明日からはきちんとお着替えなさいませ」
嫌な顔はされましたが、ココノエ様より襷を貸していただきました。
この経験を踏まえ、今後を学びました。
いついかなる時でも袂に襷を入れておこう、と。ええ。
「襷など、どこの下女ですか」
え、でもしないと動きにくいです。
前を行かれるココノエ様はきびきびと歩かれて、伸ばされた背筋も伯母様と同じです。ぴょこぴょこと着いて、お城で働かれる方々を巡りました。
「挨拶は、まず向こうがしてから、です。あなたが先になさってはなりません」
え。
「あなたが箒を持っては、下の者に示しがつかないでしょう」
え。
「馬の世話は馬丁がします。あなたはしなくてよろしい」
え。
「ちょこちょこと走り回るウサギめが。大人しくなさい」
叱られました。
「あなたの役割は、管理です。お仕えするに相応しいと思えるような主、その姿を女学校ではお習いにならなかったのですね」
冷たいお声。
冷たい視線。
「申し訳ございません。精進いたします」
この言葉以外、何も言えませんでした。
そうしてココノエ様の後についてぐるりと巡り、最後には厨房へと辿りつきました。
湯気が満ちる部屋には、白い服をお召しになった方が忙しそうに働きになっておいでです。
「ニイタカ様からお話しがありました通り、こちらの方が婚約者であるアサツキ様です」
今までと同じ台詞で、ココノエ様が紹介して下さり、浅めに頭を下げました。
「よろしくお願いいたします」
しばらくいたしますと、ココノエ様は用事のため席を外され、一人取り残されてしまいました。
「若奥様」
ぼんやりしておりましたのも事実です。
「若奥様」
何度も呼ばれましたが、まさか、若奥様が私のことだとは思いませんでした。
「えっ」
「先ほどからお呼びしております。若奥様」
振り返りますと、私と同じ年頃の女性の方が二人立っておりました。
お二人とも、お揃いの異国風の紺色の制服で、襟とお袖はまぶしい白、大き目のエプロンに帽子がお似合いです。
「あの、アサツキと申します」
どうか若奥様はおやめ下さい。
「こちらにどうぞ、若奥様」
「朝食の準備に参られたのですよね、若奥様」
は、あ。
促された先には色とりどりの野菜たち。
「洗って下さい、若奥様」
えっと、ココノエ様に大人しくしているよう叱られたばかりなのですけれど、このくらいならいいのでしょうか。
「洗うこともお出来にならないのですか、若奥様のくせしてねえ」
ふふっと笑われてしまいました。
えっと、では。
「…洗えるならさっさとなさって下さい。次に」
こちらですとの言葉に体を向けますと、まな板と人参がございます。
え。
「刻んで下さい」
そうして手渡しされましたのは、あの、予想通りなのですが。
切っ先も鋭く、ぎらりと銀に光ります。
包丁。
「このくらいも出来ない若奥様ですか」
「退いて下さい、邪魔ですわ」
ぎこぎことぎこちない動きで人参に向き合う私の背を、どんと押されますと、ああ。右手に持った包丁の先が、左の指にくさりと刺さってしまい。
あ。
ぽたり。
血の玉が、肌に浮き上がって。
そして。
そうして。
遠のく意識に捉えた言葉は。
「ここはあなたがいるところではありませんわ」
包丁エピでした(続きます)。お読み頂き、ありがとうございました。