十三 約束よ
遅くなりました。
約束。
神様、私はどこかで間違えてしまったみたいです。
がらがらと軽快な音で煉瓦道を馬車は進むというのに、窓から見える帝都の景色は、私の家へと続く街並みではありません。
指摘してもよろしいでしょうか。いえ、とてもできません。
だって。
馬車に押し込められて以来ずっと窓を眺めているのは、正面にお座りになる方の視線がこわいからでして、とても声をおかけする雰囲気ではございません。
ああお家に帰りたい。
「間もなく着きますよ。私の家ですが、あなたが帰る家になります」
甘い声さえも、得体のしれないこわさを含んでいる感じなのです。
ああ、ようやく結納が終わったと緊張を解く間もなく、そのままお城をから連れ去られるとは予想できませんでした。
今日の結納を、私はどこで、間違えたのでしょう。
この姿が似合わないから、かもしれません。
ちらりと目線を下げると、白花色の晴れ着が目に映ります。お城で行われる結納に、さすがに喪服で出席できる訳もなく、母のお古である晴れ着を手直ししたのです。
喪服を脱ぐにあたり。
父様や兄様は良いとおっしゃって下さったけれど、やはり、伯母様からの許可がなくてはいけないと思いました。
それに、マナハラ様のこともございます。
折しも結納を明日に控え、マナハラ様の月命日がやって参りました。
いつも通り前日から準備を始め、炒ったゴマを塗したゴマあんおはぎを作りながら、マナハラ夫人や軍部の方々へきちんと報告しようと決心しました。
どうか上手く言えますように、神様。
「こ、この度婚約が決まりました」
予習した台詞は、セシカさん、とマナハラ夫人の声に遮られました。
「イクノの姉がつい先日、子を産んだの。男の子だったわ」
「それは、おめでとうございます」
力ない声で、時は流れるのね、とおっしゃられるマナハラ夫人。
「イクノは素晴らしい子だった。死んだなんて信じられなかった。この世の何もかもが許せなかった」
でも。
「時が流れ、過ごす日々に嬉しいことも起こり、悲しみは少しずつ小さな結晶になったわ」
そっと袂をあてがわれた瞳はじわりと潤んで見えました。
「もうここに来ないで、セシカさん。あなたを見ると悲しみが戻ってくるわ」
「えっ」
「こ、婚約って。俺の喪服の君が…」
「ああ神よ、どうか嘘だと言って下さい」
「そんな…俺、今日こそ告白しようと思って」
軍部では頑張ろうと思っていたのですが。
皆様に報告を、と、何故でしょうか。部屋は阿鼻叫喚となってしまいました。ええ、どうして。
おたおたと見回す私に、白いお髭の上司様はおっしゃいました。
「ああ気になさらず。我が隊には行動力がない者ばかりで、目の前で掻っ攫われるとは、全く嘆かわしい限りです」
そして。
婚約おめでとうとのお言葉をいただきました。
その夜。
伯母様から、喪服を解くことを許されました。
そんな経緯がありまして、高く澄んだ秋の空に、朝早くから着付けたのですけれども。
髪も結い上げ。
白粉をはたいたり、紅を刷いたり、マツさんの言われるがままでしたが、私なりに頑張ってみたのですけれども。
やはり、似合わなかったのでしょう。
それとも。
「セシカ、〈武〉に相応しいお顔をなさい。へらへらしないのですよ」
伯母様からの助言が生かされなかったからでしょうか。
困ったさんも私も身分ある家柄ですので、結納は立会人の元でお城にて行われたのですが、黒光りするほど磨かれた床や壁や柱に、圧倒されてしまいました。
兄様の軍服の裾に摑まりませんと、ぷるぷると足が震えてしまうのです。
通された部屋には、ずらりと並ぶ大勢の方々。
立会人がいらっしゃるとは聞いておりましたが、これ程多くだとは予想しておりませんでした。うう、威圧されてしまいます。
こ、こわい。
兄様の影に隠れて、へらりと笑ってしまいました。
あ、つい。
「はは〈武〉にしては何とも可愛らしい」
「当世の綺羅星は、ずいぶん初々しい花を選んだものだ」
うう笑われてしまいました。
この悪い癖のせいで、きっと、困ったさんのご気分を害してしまったのでしょう。
私が情けないのは今更ですが、それでも沢山の人から生温かい笑みを送られると、もう恥ずかしくて逃げ出したいです。
兄様、どうか傍にいて下さい。
「セシカ、あちらでお茶をいただいて来たらどうかな」
兄様の指し示された先には、立ち合いを務めて下さった方々が談笑なさっています。中央には、きらきらと輝く亜麻色の髪のお方。
空けられた隣の席に、私が行けるとお思いですか。
行けませんとも。
「セシカ、ニイタカと庭を見せてもらうといいよ」
「いえ」
「ニイタカがこちらを見ているよ。ほら、顔を上げて」
「いえ」
無理です。
「セシカ、何時までセーリクの後ろにいるつもりだ。お前が立つべき隣は、メネリック軍曹だろう」
ついには父様に叱られてしまいました。
うう。
それでも兄様の裾は手放せません。俯く私の頭をそっと撫でて下さる兄様に、いつもなら勇気をいただくのですが、今日ばかりは無理のようです。
だって。
父様や兄様と同じ深緑色の軍服なのに、あの方は、どうしてああも煌びやかなのでしょう。
腕を組んで立っておられるだけで、皆の視線を集めてしまわれるくらいに。
私には、とても、近づけません。
それに。
約束、ですから。
「約束でしたね、セシカさん。結納を終えたら我が家にいらして下さると。さあ行きますよ」
無事に結納を終え、帰り支度を始めたのですが、背後から甘い声がいたしました。
え。
軍帽を脱いで、では、との挨拶を、父様はどうしてお認めになられるのでしょう。
「花嫁修業、ね。いろんな手を使うよね」
ひらひらと、どうして私に向けて手を振るのですか。兄様。
背中に回された腕、その熱に触れないためには前に足を進めるしかないのですが。あの。
強引ではありませんか、そう抗議したいのですが、見上げると引き締められた口元はご機嫌が悪そうなので、言えませんでした。
そこでようやく私は、何か失敗したのだと気がつく始末で。
そうして。
私は、困ったさんの馬車へと押し込められてしまったのでした。
「今日のあなたは…ひどいですね、私を見ようともしない。この前、カン家でもあなたはミレイと共に部屋に籠ってしまい、送らせてもらえなかった。約束したのに」
約束。
セシカ、約束よ。
ミレイ様の声がすぐ耳元で聞こえ、私は、心の中でそっと返事をしました。ええ、分かっています。ミレイ様。
私は、この方を好きになりません。
「周りが何と言っていたか知っていますか。私よりセーリクが婚約者に見える、だ、そうですよ」
吐息が車内の空気を震わせましたが、窓から顔を上げられません。
「晴れ着が似合っていると言いたいのに、あなたはこちらに来ないし」
どうして胸がちりっとするのでしょう。
「易々とあなたに触れる彼が羨ましいと思うなど、莫迦だな私は」
馬車の速度が緩やかになり、やがて停止いたしました。
「我が家に着きましたよ、どうぞ」
は?
我が家って、え、お城ですけれど。
目の前には、赤味の強い煉瓦で造られたお城のように大きな建物があり、一部には鋭い三角の屋根を有する円塔になっています。
白い窓枠が輝いて、あの、異国のお城に見えます。
ええ?
「亡くなった祖父は異国風建築が好きでしたので、ああ、驚かれましたか?」
は、あ。
個人の住宅とは、驚いて固まるしかありません。ですが、手をお貸しいただかなくても大丈夫ですから。
「ひ、一人で降りられます」
「…あの夜の魔法よ、もう一度。そう願いますね」
少々高さはありましたが、ぴょんと馬車から飛び降りますと、ほら、無事に着地できました。
「中で皆に紹介しますから、私の名誉のため、どうか腕に摑まっていただけませんか」
う、腕にですか。
困ったお顔で頼まれますと、嫌ですとは言えなくなり、仕方がありませんのでその左腕に指を掛けさせていただきました。
ほぼ、触れてはいない、くらいですが。
女学校で教わりましたが、昔からの習慣で、男性の方と並んで歩くのは緊張してしまいます。兄様みたいに裾を握らせて、とは希望しませんが、後ろからついて行ってはいけませんか。
そんな事を考えておりました。
ですが。
一瞬にして、吹き飛びました。
ぎいと開いた扉の向こうには、十数人の方が両脇に整列し、同じ角度で頭を下げられておりましたので。
は、はい?
「お帰りなさいませ、ニイタカ様」
「ああ、ただ今戻りました」
困ったさんの言葉に、皆、頭を上げました。その揃った動作はきびきびとされていて、見ていて気持ちが良いくらいです。
「あの、ニイタカ様。そのお方は」
「婚約者の〈武〉のセシカ アサツキさんです。連れて来ますと言ったはず」
えっと。
男性の方は口は開かれていませんが動揺なさっているようですし、女性の方に至っては、目配せ合って不審な表情ですけれども。
「…ニイタカ様、ミレイ様はいかがいたしましたか?」
年配の女性が恐る恐る質問をされ、困ったさんの眉がぴくりと動きました。
「どうしてミレイの名前が出てくるのか分からないな。彼女は今日、訪問する予定にないだろう」
でも、と言いかけて噤まれた口。
ええと。
いくら鈍い私でも分かります。
この方々はこのお家にお仕えしており、婚約者を連れて来るとの言葉に、お相手はミレイ様だと思われていたのではないでしょうか。
なのに、全然見知らぬ私がやって来て、戸惑っておられる。
そうに違いありません。
これは。
私にとって、いえ、ミレイ様にとって。
良い状況ではないでしょうか。
「セシカさん、お茶を飲みませんか」
そうして中へと困ったさんは招いて下さいましたが、気付かれないよう腕から手をそっと外して、私はその背を見送りました。
そそくさと場を離れ仕事に戻られる皆さまでしたが、小さな囁き声はきちんと私の耳に届きました。
「どうして、あんな方」
「ミレイ様と婚約なさったのでは」
「〈武〉だなんて有り得ないわ」
「ニイタカ様は何をお考えでしょう」
約束よ。
好きにならないで。
愛さないで。
もしも、約束を破ったなら、わたくし。
あなたを呪うわ。
お読み頂き、ありがとうございました。