十一 胸の卵が
うらぎりもの。
冷たいお声でした。
まるでミレイ様のお心が凍ってしまわれたよう。
「わたくしの思いを知っておきながら婚約?裏切り以外、わたくし、言葉を知らないわ」
しっかりと私を見据える氷の眼差し。
私はきっとその中に閉じ込められたのです。寒さに足がわなわなと震えてしまいます。
「ニイタカ様のお相手?」
「ミレイ様から奪ったのですって」
「まあ、似合いもしないのに。不相応だとご存知ないのかしら」
ひそひそと囁かれる声。
私の耳には届きませんでしたが、ミレイ様はぴくりと眉をひそめました。
「ねえ、皆さま。十分楽しまれたでしょう。そろそろ消えて下さらない?」
辛辣な言いようでした。
けれどもお嬢様方は気にした様子もなく、頑張ってミレイ様と応援され、この場をお離れになって行かれました。
残されたのは三人だけ。
「ニイタカ様、そこで震えるしかできない黒ウサギが本当にあなたに似つかわしいお相手?」
「やめなさいミレイ」
「セシカ、あなたは彼に相応しいと、そう思うの?」
ますますミレイ様は冷たさを増し、薔薇色の頬も今は青ざめて見えます。
ミレイ様。
静まり返った闇が迫るけれど、私の役立たずの唇は何も紡げないのです。
こんなにも傷つかれてしまったなんて。
私の、せいで。
「私が彼女を選んだ。そう説明したはずだ、ミレイ」
ミレイ様。
咎めを含まれながら、困ったさんは、私を背中に庇われるかのように前に立ち塞がったのです。
やめて。
「セシカを選んだですって。ありえないわ」
吹き出された笑いも、ああ自嘲的すぎて。
そんな微笑み、あなたにお似合いになりません。
「…いいわね、セシカ。泣いたら庇ってもらえるのですもの。わたくしのニイタカ様は優しいでしょう」
「ミレイ、君は聡明なはずだ。愚かな発言は」
やめて。
私を庇わないで。
傷つかれたのはミレイ様。
責めるなら、どうぞ私にして下さい。
悪いのは、私なのですから。
口よ、動け。
「お、やめ、下さい」
足よ、動け。
背中の避難所を抜け出して、力の抜けた足を必死で動かし、ミレイ様の前へ出ました。
今、ミレイ様に相対しなければならないのは私です。
誰かの影に隠れて、泣いて、悲劇的な気分でいるなんて、間違いです。
私が、ミレイ様に。
どうか声よ、震えないで。
「ミレイ様」
膝を曲げ、ドレスの裾を持ち、深々と頭をお下げする。
「私は、友達として誠実さを欠いておりました。申し訳、ございません」
ミレイ様の傷。
どれほどでしょう、ああ、謝ってすむことではありません。それでも、私にできることは他に思いつかないのです。
どうして私はこんなにも情けないのでしょう。
「…友達だと、思っていたわ。セシカ」
どのくらい経ったのでしょうか、それとも瞬く間でしかなかったのでしょうか。
下げた頭を上げることはできませんでした。
あっ。
気が付いた時にはバルコニーの床が目前に迫っており、慌てて手の平を突き出しました。
ぺたり。
ドレスが汚れてしまうと思いましたが、足は限界です。もう立っていられません。
「大丈夫ですか」
差し出された大きな手。
のろのろと視線を上げると、目の前が眩んでしまい、ミレイ様のお姿は見えません。大きな手の持ち主だけが見えて。
「ミレイ様は」
「とうに帰りました」
「あの、追いかけては下さいませんか」
「…できません。あなたの傍にいます」
一人でも私は大丈夫です。
何度もそう申し上げているのに、ミレイ様の後を追って下さらない。
ため息が漏れます。あなたをミレイ様は必要としておりますこと、どうして分かって下さらないのかしら。
手も結構です。一人で立てますから。
さっと、のつもりでしたが実際はよろよろと立ち上がり、少しふらついてしまいました。
「落ち着かれるまで、どこかで休みましょう」
「場所を移します、どうぞ腕に摑まって下さい」
強めの声に会場に戻りますとは言えませんでした。
私、一人で歩けます。
広い背中について行くと、何度も振り向きながら困ったさんは、小さな白い長椅子まで案内して下さいました。
端と端に座ると、目の前には、所々に木立があるなだらかな斜面が見えます。空には輝く星々。
春には一面れんげ野原になるのですよと、教えて下さいました。
「私が軽率でした。あなたを婚約者だと紹介できるのが嬉しくて。結果、あなたを傷つけることになってしまいました」
え、私?
「婚約は、ミレイにもカン家にも報告済みでした。裏切者とは言い過ぎでしょう」
先程から気になっておりましたが、綺麗な額には皺を寄せられていますし、低目のお声ですし、不機嫌でいらっしゃいますか?
「あの、怒っていらっしゃるのですか?」
「…怒っていてはいけませんか。あなたが傷つけられたというのに」
はい?
「誤解です。私は傷つけた側です。ミレイ様こそあんなに傷つかれたお顔をなさっていたではありませんか」
お分かりになりませんでしたか?
「いえ。あなたが糾弾されていた」
この方。
ミレイ様のこと正しく知っておられないのだわ。
裏切者と言ったミレイ様の真意は、私への忠告です。
決して糾弾されていたわけではありません。
「友達として、私は正直にミレイ様に婚約を話すべきでした。そうしなかった私は誠実を欠いていると、教えて下さったのです」
素晴らしい方ですと言うと、どうしてでしょうか。眉を顰められる。
私は自分を甘やかし、ミレイ様に話しませんでした。学校をお休みされていると言い訳をして。
お会いできるまで訪問したり、手紙を書いたりできたはずなのに。
誠実でなかったのです。
そうしなかった理由も今なら分かります。ミレイ様に嫌われたくなかったから、です。
ミレイ様から、私は、逃げてしまったのです。
でも、ミレイ様はきちんと向き合って下さり、言葉にして私に伝えて下さった。
「ミレイ様は勇気がおありです。大好きです」
「ミレイ様の素晴らしさ、分かっていただけましたか?」
「…あなたの好意は伝わりました」
「では、ミレイ様を選んで下さいますか?」
期待に満ちた瞳で見上げると、困ったさんは、くしゃりと亜麻色の髪をかき上げられる。その手の平の下には、悔し気な光を放つ鳶色の瞳。
困ります。
言葉とは裏腹にちっとも困り顔ではなかったのに、先程からの表情は、本当に困ったお顔をされています。
本当の困ったさん。
ちり。
不思議、です。
今の困ったさんは、逃げ出したいと思えないなんて。むしろ。
孵化する前の卵を飲み込んでしまったのでしょうか、胸がちちちと小さく叩かれている感じがします。
どうして?
「セシカさん、挑戦のやり直しを求めます」
思いもかけない提案にぱちぱちと瞬きしてしまいました。
もしかして、挑戦とは名ばかりで、婚約を考え直したいと思っていらっしゃるのかしら。きっかけを作って欲しいと思われているのでは?
そう、きっと彼はわざと負けるつもりに違いありません。
「お受けいたします。でも、机がありません」
「今度は鬼ごっこにしましょう。私が鬼です。逃げ切ったら、あなたの勝ち」
条件は、一本の木立まで逃げ切ること。
困ったさんは、私が走りだしたらゆっくり十を数え、私を捕まえる。きっと負けて下さるはずです。
走りにくいので、ぽいと靴を脱いで、裸足になりました。
それにしても。
「挑戦がお好きなのですね」
「こうでもしないとあなたは私を見て下さいませんからね」
囁く声に、え?と聞き返しましたが、困ったさんは開始の指笛を鳴らし、ぴゅっと高い音に走り出しました。
走れ。
走れ、私。
足裏に当たる湿り気を帯びた草を感じながら、ふと背中に迫る気配に、えっ、振り向けばすぐそこに困ったさんの姿。
えっ、早過ぎです。
伸ばされた腕に捕まってしまいそうになり、慌てて飛びのいて、また走り出して。
あと少し。
一生懸命伸ばした手、その指先に木の幹が触れました。
途端。
力強い腕が私の腰に巻き付きました。
勢いは止まらず、二人とも前のめりになってしまい、そのまま草の上をごろごろと転がってしまいました。
ああ草まみれ。
草の上に寝ころぶなんて、淑女はどこに消えたのでしょう。
先生に見つかれば、お小言で済むでしょうか。ましてや、腰に手を回されるなど、え、どうしてまだそのままなのですか。
「あの、放して」
「…いやだと言いたい」
そうは言いながらも腕を外して下さったので、ほっとしつつ、起き上がろうとしました。けれどドレスが彼の下敷きになっていたのです。
引っ張られて、またもごろんと転がる始末。もう。
「私の勝ちです」
「いえ、私が先でしたよ」
はあはあと上がった息に草は小さく揺れて、火照った体に冷たさが気持ちいいです。
「引き分けですね」
どうして負けて下さらなかったの。思いを込めて睨んでもいいですよね、神様。
あなたの言う通り、と囁く甘い声。
「私は婚約を考え直しましょう。その代わり、あなたは我が家にお出で下さい」
はい?
「世間的にいう花嫁修業です。あなたが我が家で過ごし、接している内にやはりミレイが良いと思うかもしれません。私の気持ちを変えてみせて下さい」
私よりミレイ様を選ぶようにしろと、おっしゃるの?
それは、自信があります。
ミレイ様より優れたところは、ございませんから。
「それに、あなたの父上や兄上のこともあります。今、婚約しませんと言っても不審に思われるでしょう。それより花嫁修業で、当家に合いませんでしたと理由があれば納得して下さいますよ」
…は。
「すごい、です。困ったさんって頭がよろしいのね」
「こまったさん?」
心の中での名をつい口にしてしまいましたが、いえ、それよりも尊敬の眼差しを贈る方が重要です。
「理に適った素晴らしい案だと思います」
ちり、胸の卵の音が。
「尊敬いたします」
「…信じたのですか?」
「え、違うのですか?」
首を傾げる私に、いえとおっしゃり、口元を覆って俯かれる。あの、もしかしてお笑いになっていますか。
ごんごんごん。
時計塔の鐘が鳴り、十二時を告げます。
「約束ですよ」
そうおっしゃい、跪いて私の靴を履かせて下さる。
遠い国のお話しのような姿に、あたふたしてしまいましたが、靴は人に履かせてもらうものですよと言われれば止めることもできません。
ミレイ様にお話ししたら、きっと喜んで下さる。
そう思うと、夜空の星が降りて来た気持ちがいたしました。
少し長目です。お読み頂き、ありがとうございました。