一 こんやくとは
兄様がおっしゃったの。
私たちは十五になったら選べるのだと。
「お前はおっとりだから、ここは合わないのかもな」
そう。
だって、ここはまるで海の底みたいなの。
必死になって手足をばたつかせても、体にまとわりつく海水が冷たくて重くて、少しも前に進まないみたいに。
選んでもいいのかしら。
そうしたら、この息苦しさはなくなるのかしら。
遥か遠くにある海面の向こうを。
違うそらが広がる向こう側を。
事の発端は、伯母様の一言。
「セシカ、あなたの婚約が決まりました」
お恥ずかしながら、私、〈武〉のセシカ アサツキはこの年齢になっても、一人の婚約者も居りません。
いえ、伯母様のおっしゃった言葉を信ずるなら、居りませんでしたと過去形にするべきでしょうか。
名に〈武〉を冠する家柄であるなら、婚約どころかすでに結婚をしていても不思議ではないでしょう。おかしなことを言うとお思いでしょうね。
そう、私はどうもおかしいみたいです。
その日は至って普通の日で、女学校の友人と「ごきげんよう、また明日」と手を振って別れ、二輪車で家に着いたのです。
「おかえりなさい、セシカ」
玄関の扉を開けると、そこには背筋を伸ばした伯母様が待ち構えていらっしゃった。あう。
そっと閉めて、なかったことにしたいです。
「扉を閉めてどうするのですか」
できませんでした。
「た、ただ今戻りました」
「部屋までおいでなさい」
厳しい声での呼び出しに、またもお説教だと気が重くなります。だけども逆らえません。制服の裳も脱がずに伯母様のお部屋に伺いました。
差し込む夕日はお部屋も空気も染め上げて、赤く照らされた伯母様の横顔に嫌な予感しかしなくて。
そして告げられたのは、嵐。
はい?
「えっと、伯母様もう一度お願いします」
こんやく、と聞こえましたが、え?
「聞こえなかったのですか、あなたの耳は節穴ですか。婚約が決まったと言ったのです」
「ええと、私の、ですか。兄様の婚約ではなくて?」
つい人差し指で自分自身を指させば、じろりと伯母様の視線が向けられる。
「セシカ、あなたのお相手は、我がアサツキ家と同じく〈武〉を冠する家柄です」
「え、ええっ、そんな。だ、大丈夫ですか?」
本音がぽろりと飛び出して、しまったと口を両手で塞いだけれど時すでに遅すぎました。伯母様の背後の空気はさらに低温化しています。
だって。
「大丈夫、とはどういう意味ですか」
…だって。
だって伯母様、私はおかしいのでしょう?
「不出来なあなたに、嫁ぎ先などありませんよ」
「〈武〉のアサツキ家に生まれたというのに、刃物がこわいなど、なんとおかしな子でしょう」
「〈武〉である誇りはないのですか」
そう常々おっしゃっていたではありませんか。
私は〈武〉にあるまじきおかしな子、だから、婚約も結婚ももうとっくに諦めて居りましたのに。
だのに、婚約が決まった?
そんな、え、今更ですか、と戸惑いしか感じません。いえ勿論そのように本心は口にしたりしませんけれど。
さらに〈武〉に相応しくないというのに、〈武〉に嫁げとは、これ如何に。
お相手は大丈夫なのでしょうか。失礼に当たったりしないのでしょうか。
「伯母様、私、〈武〉で嫁いでもやっていく自信が、その」
「当アサツキ家は代々続く武家、あなたはその一人娘であり、わたくしが直々に手ほどきし、女学校にまで通ったのです。あなた自身、〈武〉の名乗りを許された身。〈武〉以外にどこに嫁ぐのですか」
ぴしゃりと雷が落とされる。
こ、こわい。あ、嵐だわ。
そ、そう言えば伯母様自身が〈商〉に嫁ぎ、出戻られた経験をお持ちでした。〈武〉は〈武〉に、が持論でしたね。
確かに、私、十五の成人儀で〈武〉を許されました。
今でも後悔しているのです。
ああ、やっぱり試験受けたのは間違いでした。
「何ですか、その顔は。まさか不服とでも?」
そうです不服です。
と、言えますか。言えませんとも。
出てくる言葉は、あ、とか、え、とか、う、など単語のみで、情けないことに、本当に言いたい言葉は決して口から外に出てこないのです。
伯母様という嵐の前には、身を縮め耐えるしかないのですから。
「あなたのような不出来な娘を嫁がせるのは心配ですが、幸い、お相手はわたくしが女学校から親しくしている家です。ありがたいことにあなたでも良いと言ってくれたのですよ。この話以外、奇跡はおこりません。お受けしなさい」
お受け、したく、ない、です。
「で、でも、伯母様」
「でも、何ですか。まさかわたくしに逆らうと?そのような子に育てた覚えはありませんよ」
再び伯母様からびしりと落とされる雷。言わなければ、そう思うのに、引きつったような音しか喉は鳴らさなくて。
大波に呑まれ沈む音。
ごぼごぼごぼ。
「では話はこれで終わりです。戻って着替えなさい」
…おわった。
このご時世、身分ある者は平民より豊かである分、自由に生きられないのです。特に女性は。
私の通う女学校でも、幼少時から親に決められた婚約者がいるのは当たり前で、成人儀を迎えると次々ご成婚しております。
最終学年となった今では、たくさんいらっしゃった同級も六人のみとなりました。
先月退学なさった友人は、二十も年の差があるお方の元へ後妻として、お輿入れなさいました。愁いを帯びた横顔も呟きも、思い出すと切なくなります。
「お家の為ですわ」
私たちは、家の持ち物。意思無き道具なのです。
とぼとぼと肩を落としながら自室に戻ると、どうにも力が抜けてしまい、机につっぷしました。
「私の莫迦…」
私の住むこの光護国は、光帝様を頂点とした身分制度があります。
十五で成人儀を迎えると、光帝に拝謁できる身分を求めて試験を受けるのですが、どなたでも受けられるわけではなく、受験さえも家に身分がなければなりません。
我がアサツキ家は代々武家、名に〈武〉を冠する栄誉を頂いております。
早くに母を亡くしたので、子どもは兄と私の二人のみ。どちらも試験を受けられる立場でしたが、私を育てて下さった兄様がおっしゃるとおり、私は挑むつもりがなかったのです。
自分では分からないのですが、私はどうにもおっとりらしいので。
身分を持たないといずれは平民となるのですが、それは構いません、むしろ自由になるのかもしれないと夢見ていました。
この息苦しい世界から、違う世界に行けるとしたら。
それはどんなに。
「莫迦をおっしゃい」
ところが兄様が慣例に従い帝学に入学する頃、父の姉セイナ伯母様が出戻られ、私の考えは一笑に付されました。
「母がいないからと、今までどれほど甘やかされたのですか。これからはわたくしが責任もって教育しなおします」
「あなたは身分を冠する栄誉を何と心得るのですか。試験を受けないなどあり得ません、受けたくとも受けられない人もいるのですよ」
何をしても怒られる毎日。
刃物がこわいです、争うのは苦手ですと泣くけれど、勿論、許されるわけがなくて。鍛錬は日課になり、家事は当然、それでも不出来だと女学校に入学させられました。
受験当日は、無理矢理手を引かれ会場入りしました。
こんなに悲壮な顔つきで試験に臨むのは、私だけでした。
伯母様だけのせいではありません。逆らわない私が悪いのですし、普段の成績から考えると、合格できないだろうとちょっぴり安易にもなっていました。
ところが、合格。
何故。
普通〈武〉は剣や槍の試合なのですが、私の受けた試験は剣舞だったのです。刃物がこわい私、試合ならへろへろになってすぐに負けてしまうのに、刃先が見えない剣舞は平気だったみたいなのです。
えええ。
合格を頂いた時には、伯母様の追跡を振り切り、人気のない木の下でさめざめと泣いてしまいました。
莫迦、私のばか。
「…身分なんていらないのに」
「まあ、そうなの?」
独り言に返された声があって、驚いて振り返ると異国風のドレスをお召しになった少女が立っておられました。その鮮やかな紅の色に負けない程、華やかなお顔立ち。
お人形みたい。
「あなたの剣舞、とても素敵で目を奪われてしまいました。どうしてもそれを伝えたくて不躾にも声をかけてしまいましたわ、お許しになって」
きゅっと上がった唇の両端に見惚れてしまい、返す言葉がありません。
「身分はいらないとおっしゃっていましたが、どうして?」
「私は身分に相応しくないのです、平民でいいのです」
鈴を転がすかのような声につられ、袖で涙を拭いながら答えると、美しい目を見開かれる。おかしな子だと思われるのでしょう。
「まあ」
長い睫毛がぱさぱさと音を立てて上下します。
「あなた、不思議な方ね。素敵だわ。わたくしとお友達になって下さらないかしら」
え?
今までに私のおかしな考えを肯定して下さったのは兄様だけで、こんなに綺麗な少女に素敵だと評価を頂いたことはありません。
「わたくし、ミレイ カンですわ。今から〈商〉の試験に臨みますの、応援していただけたら嬉しいわ」
この後、美しい少女の正体が大〈商〉カン家のお嬢様だと知って驚いて。
言葉通り〈商〉の試験を見学しに行き、難しい異国風舞踏を軽々とこなす姿にさらに驚愕して。
「ミレイ様の方が余程、素敵ですけれど…」
後日、女学校に入学してこられた時には驚きを通り越して、もう、にっこりするしかありませんでした。
「ミレイ様、会いたいな…」
薔薇のように美しく、そして鋭い棘をお持ちの大好きな友人は、私の婚約に何とおっしゃるでしょうか。明日になったら女学校で会えると分かっていますが、今、お会いしたい。
「失望される、でしょうか」
出会った頃と同じ様に、逆らわず泣くしかできない私。情けないです。
ところがその婚約は、三日後。
泡のように消えて無くなってしまったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。