一日
「ありがとうございました」
無愛想な表情で制服に身を包んだ少女の背中を見送る。
少女は店を出る前にちらりと清子の方を見て、軽く頭を下げた。
――若いな……
少女が、店を出た後におそらく待っていたであろう男性に笑顔を浮かべているのを清子は目撃した。
男性の方も制服を着ていることから、同じ学校の彼氏か……あるいは友達なのだろうと推測する。
最近は男女の間でも友情が成立することが多い。恋愛感情がなくても2人で一緒に帰宅したり、どこそこに出かけるという話をテレビで見たことがある。彼らももしかしたらそのような関係なのかと思ったが、少女の浮かべた幸せそうな笑顔を考えるとやはり恋人同士なのだろうなと清子は結論をだし再び業務へ戻った。
清子のが働いて射るのは商店街の一角にある小さな書店。
今では珍しい分類に入る個人経営の古めかしい書店だ。
普通ならとうに潰れていてもおかしくないが、ここの書店は意外にもそこそこの売上を出しており未だに潰れる気配がない。
「清子ちゃん。すまないがこの箱の中の本をそっちの棚に出してもらえるかな」
「はい、わかりました」
店の奥から出てきた初老から本が数冊入った箱を受け取る。
この初老は書店のオーナーである城ヶ崎賢治だ。
白髪に白い髭をはやし、そして優しげな笑顔を浮かべる賢治はまさに「紳士」といえる顔立ちをしている。古めかしい書店が売上をだす理由にはこの賢治の存在が少なくとも関わっているのではないかと清子はずっと思っていた。
女子高校生たちは彼を「可愛い」といいここに本を買いに来る。そして奥様方は彼を「かっこいい初老」として目の保養の対象にしている。彼はある意味で招き猫のような存在である。
「最近は奥様方も恋愛小説を読んだりするんだよねぇ……ドラマ化したものであったり、話題にあがったり……みんなまだ若いねぇ……」
「そうですね」
「僕なんてもう老いぼれだからさ。こういった恋愛小説読んでもあまりきゅんとはしないんだよ。こういうのは清子ちゃんみたいな若い子が一番きゅんとするんだろうね」
「私は……」
箱に入った本―数冊の恋愛小説を手に取りながら考える。
よくある恋愛小説は全てハッピーエンドで終わる。清子はこれが現実味を帯びていないことからあまり好まなかった。実際の恋愛なんてうまくいかない。好きになってもフラれてしまったり、恋人同士になれたとしても長く続いていくかもわからない。恋愛小説の結末なんて結局はヒロインが幸福になって終わるという予測ができてしまうと清子は考えている。
そのため清子が恋愛小説を読むことはあまりなかった。
ドラマ化して有名になったものやタイトルがなんとなく気になったものを手に取る程度で、恋愛小説だから買おうという思考にはあまり至ることがない。
恋愛が成就する過程がきゅんとするという理論も清子にはわかっていたが、どうにも好きになれなかった。
「清子ちゃん大丈夫かい?」
「あ、えと……大丈夫です。すみません」
賢治に声をかけられ慌てて棚に収納していく。
恋愛小説が嫌いというわけではないのだけど、と心で言い訳をし黙々と作業をこなした。
自分だって恋愛小説のようにハッピーエンドで終わる恋愛をしてみたい、そんな恋愛を体験したいと心の底で思う。
しかし現実はそうもいかないことを彼女は知っているのだ。
――
数時間後、彼女は家に帰宅しようとしていた。
発注などの作業を終えると時刻はすでに8時。夕食を作るということも億劫に感じた彼女はコンビニでお弁当を買い帰宅した。
「清子さん」
アパートの階段を上がろうとしたところで声をかけられる。
振り返るとそこには夜だというのに爽やかな笑顔を浮かべた男性―隣の部屋の男性がいた。
そして彼の隣には。
「清子さんも今帰宅ですか?俺らと一緒ですね」
「こんばんは、清子さん」
長い黒髪を後ろで結び、きっちりとしたスーツに身を包んだ女性がいる。
彼女は男性の彼女だ。美人とは決して言えない顔立ちだが、笑顔がとても素敵な女性。彼女は男性の家に頻繁に来ていることを清子は知っていた。
「こんばんは、2人とも。そしてお疲れ様」
「清子さんもお疲れ様。今から俺ら宅飲みするんですけど清子さんもどうですか?1日の疲れをお酒でリセットしましょうよ」
「人数は多いほうが楽しいですし、是非一緒に」
「残念だけど今日はやめておくわ。ごめんなさい」
軽く頭を下げてから階段を上がっていく。後ろから「じゃあまた今度飲みましょう」という声が聞こえたため、一度振り返り微笑んだ。それからまた前を向きさっさと自室へ入っていった。
「ほんと、恋愛小説みたいにうまくいくことがあればいいのに」
ぽつりとつぶやく。
青春時代を思い出すかのような淡い想いはあっさりと打ち砕かれてしまっているのだ。
清子は買ってきたコンビニの弁当を温めながら、大きなため息を吐いた。
しばらくして隣から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。幸せそうだな、とぼんやり思いながら温まったコンビニ弁当を口へと運ぶ。
アパートの壁は薄いため、隣の声が筒抜けになるということを隣の男性は知らない。
清子は友人を呼びはしゃぐということをしないし、隣の男性の逆側は空室となっているため、騒げば聞こえてしまうということがわかっていないのだ。
数時間経つと楽しそうな笑い声は消え、その代わりにいやらしい声が聞こえ始めた。
控えめな甘い声だが、少なくとも隣の清子には筒抜けになっている。
注意をしようにもこのような行為をどうしたらいいのか清子にはわからず、ただ黙って終わるのを待つしかなかった。
彼らが宅飲みをするときにはいつも起こることなので徐々に慣れ始めていた。
それどころか男性の甘い囁きと女性の小さな喘ぎ声に欲情することもしばしばあった。
官能的なその夜の行為は真面目で寡黙な清子にとっては少々刺激が強いものだった。
清子は隣の男性に抱かれているのは自分だという妄想を繰り広げることにより、いろいろな感情を発散してた。それがよくないことであるという認識はあったが、その背徳感がまた彼女の興奮をかき立てていた。
いつか自分も彼の腕に抱かれたい。
密かにそう思うが、絶対に叶わない夢だということを思い出すとその現実が清子に虚しさを与えた。