和魂タイ才 タイが独立を守り抜いたわけ
前回のテーマをさらに掘り下げて、タイが独立を守り抜いた理由を幾つかの理由にまとめてみた。
一 イギリスとフランスの緩衝地帯にされていた
言うまでもなく有名な話で、当時英領ビルマとフランス領インドシナに周囲を囲まれていたタイはお互いがお互いを侵略して余計な戦争を起こさないための緩衝地帯にされていた。
二 チャクリー改革による近代化
タイは1868年より、ラーマ五世による近代化に着手した。これをチャクリー改革といい、タイの明治維新と言われる。
チャクリー改革ではそれまで金銭で売り買いされていた奴隷を廃止したり、知事に任せきりだった地方自治を中央集権体制に移行させたり、鉄道を敷いたりと国を一つにまとめるための様々な政策を行った。
結果――かつて日本が戊辰戦争を経て明治維新を起こして大日本帝国を作ったように――西洋列強は保護国化ないし植民地化しにくくなった、と考える。
三 近隣国の割譲
ラオスやカンボジアには当時、タイが宗主国だった。二でも書いたが、タイは本国のほかに遠隔地に自治を任せきりの地方がたくさんあった。これを植民地化し奪ったのがフランスで、フランスは現在のラオス・カンボジア・ベトナム・トンキン(中国の一部)にフランス領インドシナ(1887~1954)を作り上げていく。
フランス領インドシナを奪還するため泰仏戦争が勃発したが、あえなく失敗した。
こうしてタイはかなりの領土を失った代わり、自国を割譲されずに済んだ。
四 表面上枢軸国、実質連合国
ここからは私見である。タイはかなり連合国寄りの土壌があったと考える。
なぜなら上記のチャクリー改革以来、タイはイギリス・フランスに大量の留学生を送り込んできたからだ。
事実、これが原因となって1932年にフランスの留学生であったプリーディと、のちの首相ピブンが立憲革命をおこし、タイの立憲君主制への移行を実現した。言い換えると軍部主導の国家への移行である。
はじめ私はピブンが親日的だったから日本と日泰攻守同盟条約(1941)を結んだのかと思っていたが、まったくそんなことはなく、ピブンはタイ国内で高まる反日的な声と自由タイ運動を黙認していた。そもそも一緒に立憲革命を起こしたプリーディが自由タイ運動を起こしたのだから、当たり前と言えばそうだ。
タイは枢軸国に加わったにも関わらずアメリカに宣戦布告しなかったのも、連合国寄りだったからと考えればつじつまが合う。なにせ宣戦布告通達を拒否した駐米大使のセーニーは自由タイ運動の創始者なのだ。
ではなぜ日本軍に協力したのか。
タイは単に奪われたフランス領インドシナの奪還を目指していて、フランスがナチス・ドイツに侵攻されると好機とみてタイフランス領インドシナ紛争を起こす。タイの軍艦トンブリーがフランス軍に撃沈されたのを口実に、ベトナム(フランス領インドシナ北部)に進駐していた日本軍と協力して戦争に踏み切ったのだ。
私はこの理由を、ラオス・カンボジアを枢軸国側に奪われることを恐れたからと考える。決して日本と協力したわけではなく、それまでフランス領インドシナを犠牲とすることでとりあえず自治を保っていたタイが、ラオス・カンボジアを枢軸国側に支配されることで完全に自治を失い、植民地化されることを危惧したのではないか。
だからこそタイは逆に自分たちから枢軸国に加わるという手段に出た。
表面上まるで、ピブンは親日でプリーディは反日という構図を演じながら、裏で二人は通じていたし協力関係にあった。
実際、日本軍が進駐してからタイの対日感情は決してよくなかった。泰緬鉄道での強制労働や日本からの製品の輸入による経済の混乱、さらには米軍によるバンコク爆撃で何千人も死者を出すなど、表面上枢軸国側に加わったことで様々な問題が噴出した。自由タイ運動はますます加速し、タイは日本との同盟を無効と主張するに至る。終戦当時タイ国内には留学生を中心に三万人に及ぶ自由タイのレジスタンスがいた。これはつまり、事実上タイが西洋列強の傀儡だったようなもの、というのを意味している。
ピブンは1938年に第一次ピブン内閣を作ってから戦後にかけて9度も首相をつとめ、戦後日本と国交を回復したときに賠償を請求した首相もピブンである。ピブンは戦後投獄されたが、1947年にプリーディの助けで戦争犯罪人でなくなり首相に返り咲きしている。
結局タイにとって一番悩ましい存在はフランスで、ピブンは敵の敵は味方、という論理ではなく、あくまでタイの防衛のために日本と一時協力したのだ。フランス領インドシナをどうにかしたい、と考えた結果日本についたけれどすぐに反発し、次にアメリカにつき、ところころ態度を翻す外交を展開したわけだ。
タイは親日的、というのは戦後日本がアメリカ側についたからではないだろうか。
○余談
比較としてベトナムの話を出す。
ベトナムは来日経験のあるファン・ボイ・チャウが始めた東遊運動とホーチミンによるベトミン、その後日本の助けもあって長い戦争でフランス領インドシナからの独立を果たす。当時ナチス・ドイツのフランス侵攻で勢いに乗った日本はフランス領インドシナを枢軸国化、ひいては植民地化することを考えていた。そのためにフランス領インドシナを解体しベトナム・カンボジア・ラオス三国を1945年に独立させるも、ポツダム宣言を受諾して敗戦。戦後、フランスは日本が退いたことを好機に傀儡のコーチシナ共和国を作ってフランス領インドシナを復活させることをもくろむ。第一次インドシナ紛争が勃発し、ベトミンは戦後残っていた日本軍と協力してフランスを追い出すことに成功する。(しかしこの後すぐアメリカ主導の南ベトナムが作られたので、本当に現在のベトナムが成立するまでにはまだかなり時間がかかるわけだが)
これだけ見ると、日本は結果論的にはベトナムの独立に一役買っている。もちろん戦時中は枢軸国化、植民地化したかったからこそベトナムを支援したことは自明だが、戦争に負けてからも協力したのはベトナムに対する純粋な貢献と言えるのではないだろうか。