開かない匣にはなにもない
夏前に書いたきもちわるい話の集合体です。一番苦労したのが人物名だったという…。
湿気に肺の内側から窒息させられるような、陰鬱な夏の始まりの日だった。
「雨、やまないねえ」
放課後の部室で、出窓のようになっている窓際に腰かけたアリスが、もう何度目かわからないつぶやきをぽつりとこぼした。
授業終了に合わせるように降りだした雨は、ただの夕立ちだろうという期待を裏切って雷鳴を伴いながら滝のように降り続き、いっこうに収まる気配がない。最終下校時間まではまだまだあるものの、激しい雨は永遠にやまず私たちはここから出られないのではないかという根拠のない不安をかきたてる。
びしょぬれになるだけですむなら今すぐにでも出ていけるが、先日の雷雨で帰宅途中の高校生が落雷を受けて死んだというニュースが、私たちにこの校舎から出て行くことをためらわせていた。
「最悪。電車とまっちゃってるよ」
持ちこんだネットブックPCで最寄り駅の列車運行状況を調べていたノアが、それに応えるように不機嫌な声で言う。
えー、と、狭い室内のあちこちから悲鳴じみた不満の声が上がった。しかしそれは単純な不満ではなく、「しょうがないか」と半分ほどあきらめを含んでいた。田舎の電車は自然現象に弱い。風が吹けば運行を見合わせ、雷がとどろけば次の駅に進むことをやめてしまう。電車通学をしている者ならつねづね覚悟しておかなければならないことだ。
そうは言っても、徒歩以外の移動手段が、車か自転車か、一時間に一本あればいいようなバスしかないこんな田舎では電車の存在は大きく、それが使えないとなると、天候のせいもあって即座の帰宅はほとんど不可能だ。一部の同級生のように仕事帰りの親に拾ってもらうか、もしくは、ごく少数の裕福な子のようにタクシーを呼び付けるか。もっと家が近かったならその手段が提案されることもあったのかもしれないが、通学に片道一時間以上はかかる距離に住んでいるメンバーがほとんどのこの場では、そんなことを考えるだけ無駄だ。
私は長机を積み上げてつくった指定席から室内を俯瞰した。
七畳半の奥に長い部室内には、普段からすると非常に珍しいことに部員が全員そろっている。ただでさえ狭い部屋が、無駄に大きい机や資料の棚に場所をとられて一人半畳もないうえに、近くにいると暑苦しいので、机の下にござを広げて寝ている者、パイプ椅子の上で正座している者、棚の上に腰かけている者、と、各々が空いているところに好き勝手におさまって涼を求めている。
当分帰れないということでますます気が抜けたのか、室内に漂っていた無気力な空気はますます濃くなり、誰もが黙りこくって人形のように動かない。もともとが決して活動的とか活発とは形容しがたい顔ぶればかりだ。話し声の絶えた室内には、窓越しにもやけに大きく聞こえる雨と鈍い雷の音と、ノアがキーボードを叩いて刻むメトロノームのように正確な音だけが落ちている。
今日は夏休み明けすぐの文化祭で発行する部誌の内容について話し合うはずだったのだが、気だるい湿気はただでさえ無口な私たちから必要最低限の会話をする気力さえじわじわと削り取っていた。
それでも、心のどこかで鳴り響いている「良心」という名の警鐘に揺さぶられて、私は虚ろになりそうになる思考をリノリウムの床を睨むことではっきりさせながら、執筆する予定の作品についてのアイディアを脳内でまとめていた。
現在までに決まっていることとして、次の部誌では“納涼企画”ということで一人一話形式の『百物語』をやることになっていた。もちろん、百物語と言っても本当に百話掲載するわけではない。部員の人数から考えても、半分の五十話どころか五分の一の二十話だって難しいだろう。だから今回はそんな本格的なものではなく、あくまで百物語というネームバリューを借りて怪奇小説を書くのだ。
しかしそこは物書きのはしくれを名乗っていたとしても得手不得手というものはある。そもそも部誌作成、執筆活動とは名ばかり。実態はただの読書部のようなものなのだ。放っておけば誰も原稿なんて書きやしない。
そこで各々の進捗状況を探り、意見交換をする目的でこうして全員が揃ったわけなのだが、なにも始まらないまま時間だけが無為に過ぎて行こうとしていた。
そんな沈黙を突然に破ったのは、ドアの近くの椅子の上で膝を抱え込んでいた藍だった。
「ねえ、どうせ暇なんだし、今ここでやっちゃわない?百物語」
無気力に俯いていた面々が視線を上げて藍を見た。
「でも、舞台は?」
その対角線上でカラーボックスをつなげた本棚の上に腰かけている梨夏子がだるそうな声で尋ねる。普段だったらずけずけと、これ以上ないほど適切に、まずは相手をひるませる言葉ばかりを選ぶ頭脳も、この湿気に錆ついてしまっているようだ。
「ここにはろうそくがないよ」
短い発言にその意図を補足するように続ける。そもそもの企画の立案者で、オカルトマニアな一面を持つ梨夏子だ。百物語もどきの怪談小説はともかく、この場で一人一人が語るのならそれなりの準備をするべきだと言いたいのだろう。
「どっちみち百話はできないだろうからそんなにルールに乗っ取らなくてもいいんじゃない?」
「ダメ。百物語は百話する必要はない。でも、何話まで話をしたか数えることが大事なの」
「へえー」
「じゃあさあ」
二人の会話に口をはさんだのは、無言でキーボードを弾いていたノアだった。軽やかに跳ねまわる指先を一瞬でもとめることなく、画面を見つめながらノアは提案する。
「数えてればいいんだったら、くじで順番決めて、一人が話し終わるごとにそれを一枚ずつ窓際の机のところに置く、とかどう?百物語ってたしか、話し終わった人がろうそくを別の場所に置きに行く場合もあったよね。これだったらそれに適うし」
ねえ?と誰に言うでもなく彼女は同意を求めた。梨夏子と藍は、それぞれ黙って様子を見守っている他のメンバーの方を見たが、誰も反論しないのを見ると「うん」「ええ」と頷いた。
「じゃあ、くじ作るからみんな引いてね。作ってる間に誰から引くかじゃんけんで決めといて」
藍の呼びかけに人形のままだったメンバーが人間に戻って動き始めた。狭い空間に九人がひしめきあって拳をにぎる。
「じゃーんけーん」
近すぎて逆に誰のものとも知れない掛け声に合わせて、九の拳が一斉に振り下ろされた。
◆◆◆
一番……二条 水城 「入らずの山」
水城はどこを見ているわけでもない目で静かに語り始めた。
私がこの県に引っ越してきたのは小学校高学年の時なんだけれど、それまで住んでたのは○○県の山奥、ここより何倍も田舎の村だったの。娯楽なんて何もない村でね。テレビは、NHKと、民放は……山に阻まれて一局しか映らない。小学校は遠くて、村の隅にある分校とは名ばかりの塾みたいなところに通ってた。
そんな不便な環境だから子供なんてほとんどいないのよ。私の親の代はもっといたらしいんだけど、中学に通うためには村を出なくちゃいけないでしょ。そうしたらみんな出て行ったきり帰ってこない。そして村には歳とった人たちだけが残されていく。若い人がいないから子供は生まれない。負の連鎖よ。いわゆる限界集落ってやつね。それが私の生まれたところだった。
私が村にいたころ、小学生は私を入れて四人いた。言っておくけれど、これは同級生の数じゃないから。同じ学年が四人ってことじゃなくて、同じ学校に通う全校生徒が四人。村には赤ん坊まで入れればもっと子供はいたけれど、赤ん坊と小学生じゃ「遊んであげる」ことはできても「一緒に遊ぶ」って難しいでしょ。六歳くらいだったら一年生と歳が変わらないから、っていう考え方も今ならあるけど、あのころは小学生とそうでない子の間には大きな違いがあると思ってたんだよね。だから私たちはいつも四人だった。
六年生のレンくん、三年生の私、そして一年生のユカちゃんとその双子の弟のカズネくん。一歳くらいならともかく、この年齢差だと普通だったら一緒に遊ぶのは難しいんじゃないか、って思ったでしょ?でもね、「普通」を知らないんだったらそんなの関係ないのよ。山を二つ越えれば本校があって、そこには同学年の子たちもそれなりにいたけれど、あのころの私たちにとっては村の中だけが世界だったの。だから私たちは互いの年齢差を意識することもなく、同じ歳の友達みたいに仲良く遊んでた。
それで、ここからが本題。
あれは、やっぱり今日みたいに激しい雨が降りやんで、急に晴れた初夏の午後だった。いつものように集合場所だった分校に行くと、レンくんが一人で何かを待ちきれないようにしきりに足踏みしながら裏にある山を眺めていた。
「レンくん」
頬をくすぐるおかっぱの髪を払いながら私は彼の名前を呼んだ。このごろ急に背の伸びた年上の男の子は、その声が聞こえていないように、更に高いところを見ようと爪先立ちを繰り返しては崩れている。
「ねえ、レンくん」
大好きな人に無視されたという小さな悲しみに早速こみあげてきた涙をこらえて、私は彼のTシャツのすそを引く。しかしそれでも彼は気づいてくれない。このまま泣いてしまえ、と頭のどこかでささやく声がしたが、いつも自分に言い聞かせている「もうおねえちゃんなんだから」という言葉がぎりぎりで溢れてしまいそうなそれを食い止めた。
「レンくん…」
それでも無視され続けると声はか細くなった。
友達だとは言っても、年下の子たちとでは上手く話が噛み合わないことも多い。同じ年の子もいないこの村で、少し大人びた彼は私が唯一「おねえさん」でも「こども」でもなくただの小学三年生として接することができる相手だった。
「………あ、ミナ」
三度目の正直で、彼はやっと自分を呼ぶ私に気づいた。ミナ、は村での私の通称だった。“水城”なんて仰々しい名前を呼ぶ人はここにはいない。
まだどこかばんやりとした声が私の名前を呼び、目が合うといつもどおりの優しい笑顔が向けられる。私はほっとしてその袖を更に引きながら尋ねた。
「どうしてそんなにお山を見ているの?」
私たちの村では、お山は神聖な、そして恐ろしいものだと教えられていた。山は恵みをもたらしてくれるが、山の神は気まぐれで人間を隠したり、気に入らない相手だったら殺してしまうこともある。事実、私がまだ小学校に入る前、遊び半分でお山に入った近所のお兄さんはそれきり二度と帰ってこなかった。
だからこんな山間部にも関わらず村の大人はできるだけお山に分け入らずにできる仕事ばかりをしていたし、どうしても入らねばならない時は村はずれのお寺でもらった護符を身につけて行くのだった。もちろん、大人でさえそうなのだから村の子供たちは一人で出歩けるようになると絶対にお山に近づかないよう教え込まれる。土地の都合上分校はお山のふもとにあったが、それだってずいぶんともめた末のことだったと言うし、祖父母の年代の人々は「学校の方に行く」と聞くと今でもあまりいい顔をしなかった。
だからこれまでも私たちは学校で遊ぶことはあってもお山の方まで近づいたことはなかったし、物心つく前から刷り込まれた怪談の数々のせいでその時の私には近づくという発想さえなかった。それだけに、その直後に彼が放った一言は私を驚かせるには十分だった。
「ねえ、ミナ。今からお山に行かない?」
レンくんは年の割に落ち着いた子供で、ガキ大将というよりは知的なリーダーという印象だった。実際彼はかなり頭の回転が速く、村に一軒しかない本屋さんで難しそうな本を取り寄せては読んでいた。大人になったら「やなぎだくにおのようなみんぞくがくしゃ」というものになりたいのだと教えてくれた彼にとって、村の禁忌だったお山は興味をそそられるものだったのだろう。当時の彼は十二歳。大人への反抗心が芽生え始めるころだったこともそれを後押ししていたのかもしれない。それでも一人で行かなかったのは、やはり彼も怖かったのだろう。
「だ、だめだよ。大人だって怖い目にあった人いるらしいのに」
「山神さまが怒る、ってこと?大丈夫だよ。山神さまはきちんとあいさつすれば怒らないってうちのばーちゃんが言ってた。それに山神さまは子供が好きなんだって。だから、子供が山に近づくなっていうのはきっとケガとかしないようにってことだよ。ユカとカズネは小さいから連れていけないけど、ミナは三年生だから大丈夫だろ?おれは六年生だし、一緒にいれば平気だよ」
「そうかなあ……」
「そうだよ」
「でも…こわいよ」
「だいじょーぶだって。今までおれと一緒にあちこち探検してきただろ?それと同じことだよ」
「……………わかった。行く」
今までに村の林やちょっとした洞窟を探検してきたこと、戻っても彼がいなければ小さい子と遊んでも退屈なこと、それになにより大好きな彼と二人だけという事実が、私の中の潜在的な恐怖に打ち勝つのにそう時間はかからなかった。
「よし。じゃあ行こうか」
彼は私の頭を優しく撫でると、日に焼けた手を差し出した。私はその手をつなぎ、私たちは誰かに見つからないようにそろそろと辺りを確認しながらお山に向かって歩き出した。
初めて入るお山は、自然のまま放置されているせいか好き勝手に木が生い茂り日光が枝にさえぎられて薄暗く涼しかった。テレビの中でしか見たことはないけれど、おばけ屋敷ってこんな感じなんだろうか。未知のものへの興奮と、いけないことをしているという罪悪感で心臓が痛いほど鳴り響いている。その気持ちを上書きするように、私たちは一つしか知らないアニメのテーマソングを歌いながらがむしゃらに歩き続ける。
当たり前だが人が通るための道はない。胸の辺りまである夏草をかきわけ、突き出した枝はくぐり抜け、登っているのか下っているのかさえわからなくなりながらも私たちはただ歩いた。どれぐらい歩いたのか、どこまで行っても終わらない木のトンネルに思考が麻痺しはじめたころ、その子は現れた。
人形のようだ、と思った。
顔は見えなかった。正しくは、見たけれど思い出せない。ただ、首から下を包んでいる綺麗な着物が祖母の大事にしている古い日本人形のようで、人形のような子だと思ったのだ。とにかくその子は、ほんの一瞬の間に私たちの前に現れたのだ。
「だれ?」
レンくんが緊張した声で尋ねた。つないだ手が汗ばんでいる。
見た目は私より少し上、レンくんよりは下だから十歳くらいだろうか。当たり前だが村の子ではないし、よその子が迷い込んだにしては何かがおかしい。腰まで伸びた長い真っ直ぐな黒髪と、そこだけ覚えている黒目が大きいガラスのような瞳が怖かった。
「だれ?」
その子はレンくんの質問には答えず、オウム返しにつぶやいた。
「…………えっと、おれは、レン。こっちが」
「ミ……ミナ」
本名ではなくあだ名を名乗ったのは、見知らぬ相手への警戒心もそうだったが、祖母がしてくれた昔語りの中の「山で会ったものには本名を教えてはいけない」という注意を思い出したからだった。
山で遭ったものには気をつけなければいけない。
それがヒトでもカミでもケモノでも。
そして、名前は軽々しく名乗ってはいけない。
名前は魂なのだから。
いつも聞き流していたはずの注意事項が頭の片隅で赤く点滅している。気のせいだと思った。思いたかった。
その子は「レン、ミナ」と繰り返すと、「村から来たのか?」と聞いてきた。私たちがうなずくと、その子はいきなりレンくんの腕をつかみ、くるりと方向転換して歩き始めた。
「ねえ、ちょっと!」
レンくんの呼びかけにもその子は振り向かず、彼と手をつないでいる私も一緒に引きずられていく。ふりほどこうにも腕はなぜか離れないらしく、最初は抵抗していたレンくんもしばらくすると大人しくなり私たちは最終的に山道を三人横に並んで歩いていた。不思議とその子が歩く道は子供でも歩きやすいほどしか草が生えておらず、無秩序に枝を伸ばす木もほとんどなかった。今度はそれほど長くは歩かなかったはずだ。突然、目の前に広がった景色に、私とレンくんは声を上げる代わりにつないでいた手を互いにぎゅっと握りしめた。
それは夢のような光景だった。サザンカ、桔梗、レンゲ、シロツメクサ、彼岸花、キンモクセイ、桜…。ありとあらゆる花が季節を無視して咲き誇っていた。自然に囲まれた生活を送っていれば、季節の花にも勝手に詳しくなる。それでなくともとっくに散ったはずの桜が夏に満開の花をつけているというのは一目でわかる異様さだ。しかし、田舎の子供だった私たちはそれをただの「不思議なこと」だと受け入れた。きっとそういうこともあるのだと。
私たちは、いつもそうしているように花畑を転がり、木の間を駆け抜け、花冠を編んで遊んだ。名前も知らない三人目も、一緒に遊び始めてしまえば関係はなかった。昼過ぎに山に入り、結構な時間を歩いた後なら、夏とはいえとっくに日が暮れはじめてもおかしくないのにそこではいくら遊んでも空は青いままだったこともあって、私たちは完全に現実を忘れていた。
どれくらい経っただろう。一晩中遊んでいたような気もするし、ほんの一時間だった気もする。何回目かの鬼ごっこで私とレンくんを捕まえた三人目の子が、「この奥の洞窟にあるおもしろいものを見たくはないか」と言い出した。私たちはそのころにはすっかり打ち解けていたが、怖がりだった私は冒険に行くことを拒み、レンくんだけがその子と一緒に行くことになった。私は二人が帰ってくるまで花畑で一人で待っていた。何故だか知らないが、その時の私には洞窟に行くことを考えるよりも一人で残される方が怖くなかったのだ。
二人がそこで何を見て、何をしてきたのかはわからない。ただ、帰って来たレンくんはとても嬉しそうでまた行きたいと繰り返していた。連れて行った子の方は静かに「今日はもう帰った方がいい」と言い、私たちを山の入り口まで案内してくれた。
「次はいつ遊べる?」
あと少しで山から出るという地点で、私はその子に尋ねた。
「いつでも。私はいつもここにいる」
そう言ったあの子は少し笑っていたような気がする。
「じゃあ、明日は?」
レンくんが落ち着きのない口調で言った。洞窟から帰ってからというもの彼は少し変だったが、よっぽどいいものを見たんだろうな、くらいにしかその時の私は思わなかった。
「いいよ。明日も、明後日も、遊ぼう」
「よし。じゃあ約束」
私たちは互いに指きりすると、「ここから先は行けない」というその子と別れて進みだした。
「レン、ミナ」
しばらく歩いたところで名前を呼ばれて肩越しに振り返ると、小さくなっていくその子は手を振りながらこう言った。「約束だよ。明日になったら迎えに行くから」と。私たちはそれに笑って答えた。
けれど、その約束が守られることはなかった。
山を下りた私たちを待っていたのは、夕暮れどころか明け方に近づいた空と、鐘に太鼓を打ち鳴らして返せ戻せと私たちを捜し歩く大人たちだった。
後で知らされたことだが、私たちは半日どころか一日半もの間行方不明で、村では「山に呼ばれた」ともう少しで捜索が打ち切られるところだったのだそうだ。大人たちと合流した私たちはそのまま村はずれの寺に連れて行かれ、そこで三日間「お祓い」を受けた。寺の住職は、聞くまでもなく私たちが何をしてきたかを知っていたようで、ただ一言「その子にはもう会ってはいけない」と繰り返した。
その子が「何」だったのかは結局わからない。言い伝えにある山神さまだったのか、どこからか遊びに来ただけの人間だったのか、それとも別の何か危険なものだったのか。私たちが遊んだ花畑についてもそうだし、レンくんが見たものなど、わからないことはたくさんあった。けれどその事件の後、レンくんとは中学進学に備え彼の村を出る準備が始まったことなどで自然に疎遠になり、私と彼は結局一度もあの日のことについて話すことはなかった。
そしてもう、おそらく二度と話すことはできない。
「二度と?」
誰かが言葉尻に反応して繰り返す。水城は、無表情でかすかに頷いて見せた。
「レンくん、いなくなっちゃったの。『友達』と遊ぶって出て行ったきり。約束したから、迎えにきてくれたんだろうね」
そして、淡々とそうしめくくった。
◆◆◆
水城が窓際の机の上にくじを置いて戻って来る。まずは一つ。
雰囲気を出すために明かりを消した薄暗い室内は心なしか少し肌寒い。
「なんか…背筋がぞっとする話だね」
しばらくして、誰かがそうしなければなかった役を引き受けたまほがぼそりと口火を切ったが、藍と冴佳があいまいに首を振った以外、誰もが話に呑まれていた。つまらなかったのではない。ただ、現実離れした話の内容と水城の語り口があまりにも絶妙に合っていて、遊び半分な気持ちがどこかへ行ってしまうほど恐ろしかったのだ。
「でも、まだまだ、怖い、話、ある、ん、でしょ?」
しかし当の水城はそんな皆の反応に満足したのか小さく口の端を吊り上げ、ゆっくりと言う。話をしていた時とはまるで別人の、いつもどおり単語で区切る独特の口調が、次の話し手をけしかける。
「早く、次」
「じゃあ、いきます」
それに応えるように、次に当たっていた江夜が口を開いた。
◆◆◆
二番……神宮寺 江夜 「コンコンのお兄ちゃん」
水城先輩と被るような気がしてどうしようか迷ったんですけど、俺もひとつ、「人じゃないもの」と関わった話をしたいと思います。
名字もまんまだし、ここにいる皆さんは知ってるとおり、俺の家は代々神社を管理させてもらってます。「寺」なのに、ですか?そこらへんは説明するとややこしいんで、興味があったらウィキペディアで調べてみてください。俺も実はよくわかってないんです。……それで、うちは稲荷神社、いわゆるお稲荷さんを祀る神社なんですが、そのおかげで昔から狐さん関係で色々とあったんです。今からするのは、そのうちの一つ、俺が一番お世話になっている方の話です。たぶん今も近くで聞いてらっしゃいますから、先輩たちも心して聞いて下さいよ?
中学二年生の秋だった。
「こっくりさんをしよう」と誘われた瞬間、俺は考えるまでもなく反射的に「嫌だ」と思った。ぎりぎりで口に出ることはなかったけれど、直感的な心ではなく、理性的な思考は、誰かに操られているように激しい拒絶を示している。それに伴っているのは違和感や気持ち悪さではなく、今までに何度も繰り返されてきたが最近ではめったに起こらなかったことに対する懐かしさだった。心だけは自由にしてくれているのは、最後の選択権は俺にあるということなのだろう。本当にやめさせたいのなら俺はこんなことを考えるまでもないはずだから。
「ごめん、無理」
俺は誘ってくれた圭吾に不快感を与えないようにへらりと笑いながら断った。
「えー。何でだよー。コーヤ、どうせ暇だろ?一緒にやろーぜ」
「いや。マジ無理。俺、オバケとかオカルトとか結構本気で怖いんだよ。別のことだったらいいけど、こっくりさんやるんだったら観客やるわ」
「神社の息子がそんなんでいいのかよ。神様が草葉の陰で泣いてんぞ」
「いいんだよ。つか、その表現明らかに変だから」
本当は今すぐにでも帰りたかったけれど、窓の外は傘なんて意味がないくらい激しい雨が降っていて、とてもこの中を突っ切って帰る勇気はない。今日は友達に貸していた文庫本を何冊か持って帰らなければならない。カバンに雨が染み込むのだけは避けたかった。
「それに、客観的に観察できる観客がいるのも悪くないだろ?先生が来た時もすぐ教えられるしさ」
「んー。まあ、それなら」
うちの学校では、こっくりさんを行うことが校則で禁止されている。それは「なんとなくダメらしい」なんてものではなく、タバコや携帯の持ち込みと同じくらい厳格な取り締まりの対象だった。噂ではずいぶん昔にこっくりさんが流行ったころ、不審な死を遂げたり発狂してしまった生徒が多発したことが原因らしい。
それにしても、普通は事件から十年以上も経てばどんな戒めだってなあなあになるものだが、うちの学校ではいまだにそのルールが生き続けている。ゆるいルールにはなんとなく従うのが人間だが、わけがわからないルールを強要されたら破りたくなるのも人間だ。今日いきなり「こっくりさんをやろう」という流れになったのだって、グループの一員である有理が髪型のことで教師に二時間も説教を受けたことのはらいせがきっかけだった。しかも狙ったように外は雷雨。教室に居残っている大義名分もある。
「さっさと始めようよ。そんなこと言ってる間に先生来たらどうするの」
教室の隅の机を動かして作った「会場」でこっちを見ていた秋元が尖った声を上げた。圭吾がやれやれというように苦笑しながら片目をつぶってみせる。
秋元のどか。名前どおりなのは無駄に横へと成長している体型だけで、不健康な青白い顔とぼさぼさの長い髪のせいで本人自体が幽霊のようだ。今から始まるこっくりさんでは、この自称・見える人の力で普通では無理なレベルの霊を呼び寄せるのだという。秋元の主張によると、こんな雨の日は強い力を持った「いい」霊が下りてきやすいらしい。もちろんこの場にいる誰もがそんな話は本気にしていない。むしろ、ただの提案だけで終わるはずだった話にいきなり口を突っ込んできて、まるで自分がリーダーのように振る舞うその態度に、呆れなかば馬鹿にしてやろうという気持ちなかばというところだろう。
秋元はクラスに一人はいる「痛い」女子だ。自分は霊が見えると言い張り、暇さえあれば「特別な私」をアピールすることに必死で、クラスではイロモノキャラとして扱われている。いつもだったらそんな彼女を笑い交じりに軽くいなしてこの話は終わりだったのだが、この雨では帰ることもできないため暇つぶしで話に乗ることになったのだ。長方形に並べられた机の並びで黒板に背中を向けた主役席に座っている秋元の両サイドには、その取り巻きの内田と藤村が座りじめじめとした雰囲気を放っている。秋元は馬鹿にしつつ見守る対象だったが、俺はこの二人のことはあまり好きではなかった。後ろ向きというか卑屈というか、そのくせ何もかもを恨んでいるような表情を常に崩さないのだ。比較的からっとした秋元とは対照的に二人は湿った目で俺の方を見ていたが、俺は気づかないふりをして自分の席でなりゆきを見守る態勢についた。
「こっくりさんこっくりさん、お越しでしたらこの社からお入りください」
無駄に澄んだ秋元の声が呪文を繰り返す。並べられた机の分だけ十円玉から遠ざかった距離をカバーするために、何人かが立ち上がって腕を伸ばしているのが面白かった。さっきまで頭の中で警鐘を鳴らしていた「それ」は、黙りこみはしたものの俺を見張っているようにまだすぐ側にいる。
家系が家系だけに、俺の血縁はほぼ例外なく「この世のものでないもの」を見たり聞いたりすることができた。特に俺の生まれた本家の人間はその力が強い。俺自身、姉や現役の神職である両親ほどではないがそれなりに色々なものに触れてきた。その中でも、俺が本当に小さかったころから関わって来たのが「コンコンのお兄ちゃん」だった。
お兄ちゃん、と言っても俺が成長した今では外見年齢はせいぜい二つくらいしか変わらないだろう。だが俺は他にいい表現方法を思いつかないため、今でも小さいころのその呼び方を維持している。四つ上の姉いわく、その人(というのも変な表現だが)は俺が生まれた日にはもう側にいたのだそうだ。俺がまだ小さかったころ、彼はよく俺の前に現れた。と言っても直接何かあったわけではなく、一人で留守番をしている時に部屋の隅で見守っていてくれたり、遊びに夢中になって危ない場所に行きそうになった時に襟首を掴まれて引き戻されたりしたくらいのもので、それも成長と共になくなり今では年に一回も姿を見ない。そして、さっき俺の思考に干渉してきた気配は間違いなく彼のものだった。彼が俺に何かするのには必ず理由がある。だったら「これ」はよくないことなのだ。
三回ほど呪文を繰り返したところで十円玉が動き出したらしく、輪の中から驚いたような声が上がった。だけどこの教室の中には彼以外に人外の気配はしない。どうやらこのこっくりさんは失敗らしい。「何か」が儀式に途中参加するなんてめったにないからだ。俺はそれ以上の興味を失くし、机から文庫本を取り出して読み始めた。
明日の天気に始まり、来週行われる部活の試合結果、連載中の漫画の展開などどうでもいい質問が繰り返され、その度に声が上がる。原因はともかく、それは暇つぶしとしては十分に機能していた。
そして何回目かの質問。それまで皆の質問をもったいぶって代弁していた秋元ではなく、別の声が信じられないような質問をした。俺は自分の鼓膜がとらえた単語に驚き、思わず立ち上がって声の主を確認した。それは、秋元の取り巻きの藤村だった。
参加している面々が、十円玉から指を離すことはないものの藤村の非常識な発言に非難の声を上げる。けれど藤村はそんな周りの様子が見えていないように固い声で質問を繰り返した。「○○さんは死にますか?」と。
○○とは、クラスの女子の中心にいる子で数日前から持病の悪化を理由に入院していた。本人はそれほど重大な病気ではないと否定していたが、授業中に倒れて病院に運ばれたことや生死に直結する部位の病気であることから、誰もがうっすらと「死」という単語を思い浮かべていたのは事実だった。だからではないが、俺はそれを口に出してしまう藤村の常識のなさに呆れはしても質問自体は突飛だとは考えなかった。それよりもそんなことを言うに至った藤村の思考が少し怖かった。突き抜けている秋元はともかく、暗くて地味なだけの藤村と内田は何かと○○をリーダー格とする派手なグループに悪意のないからかいやイジりの対象にされることが多く、○○がいなくなって喜んでいるのは確実だったからだ。
「ちょっと……やめなってば!」
藤村の向かいに座っていた内田がたまりかねて肩をゆさぶりながら叫んだが、藤村は机の上の紙を見つめたままぶつぶつと何かをつぶやいている。十円玉は最後に止まった場所から動いていないようだ。
「コーヤぁ……」
圭吾が不安そうに俺の方を見たが、俺にはどうすることもできない。誰かが短い悲鳴を上げた。近寄って様子を見ようとすると、小さいころのようにシャツの襟をぐいっと引かれる。肩越しに振り向くと、ほとんど鼻先が触れるくらい近くに懐かしい彼の顔があった。その表情は彼には珍しいくらい険しく、「行くな」と目が言っていた。それで妙に冷静になった俺は、教室の空気がさっきまでとは違っていることに気づいた。そこには、明らかに彼以外の「この世のものではないもの」がいた。
ぐるりと机を取り巻いていたメンバーが、秋元と内田と藤村を残し全員突き飛ばされたように後ろへと倒れていく。カチカチカチカチカチと震えるあまり歯がぶつかり合う音が響く。俺はやっと机の上で何が起こっているのか見ることができた。
ぞくり、と。防御反応のように鳥肌が立つ。紙の上では三人に押さえられた十円玉がありえない速度で動いていた。指先どころではなく、上半身全体を振り回すほどの動きで十円玉は紙の上を回転し続ける。倒れたメンバーはこの動きについていけなかったのだ。残っている二人も、秋元は青ざめて恐怖に引きつった顔をしていたし、内田にいたってはぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。さっきまでの暗示とか催眠で説明がつく状態ではない。明らかに「何か」が十円玉を動かさせていた。しかし藤村だけは違った。いや、それは藤村ではないように見えた。彼女は、動物の瞳のように黒目だけしかない目を大きく見開き、口の端から泡を吹きながら、「人間のものではない」鳴き声を上げていた。『狐狗狸』という漢字が頭をよぎる。
より速度を上げた旋回についていけなくなった内田が倒れた。摩擦に耐え切れなくなった紙がビリビリと真ん中からえぐられるように破れた。それでも十円玉は止まらず、紙のあった位置をぐるぐると回り続ける。こっくりさんを呼び出し、帰らせる紙は一種の結界だと聞いたことがあった。きっと出られないのだ。素人が遊び半分で用意した結界、それも破れてしまったものからすら出られないということは、それほどヤバいものではないはずだ。頭ではそう冷静に見ている自分がいても、初めて直面した異常事態に手足は震えるばかりだ。『こっくりさんを呼び出したら何があっても帰さなければならない』。そんな基本原則さえも今は絶対に不可能なことのように思える。「あれ」に近寄ってはならない。本能がそう叫んでいる。とうとう秋元も倒れた。藤村の上半身は人体の構造からするとありえないような動きをしている。バキッと何度か骨が砕けたような音がした。
その時、俺の後ろで襟を握っていた彼が動いた。普通の人間のように机の間を縫って、奇声を上げ続けている藤村へと近寄っていく。彼は藤村のすぐ後ろに立つと、背後からその身体を押さえ込むように抱きついた。それほど力を込めているとも見えないのに、たったそれだけで藤村は止まった。それでも抱きついた彼の身体が小刻みに揺れ、奇声がやまないということは、藤村を操っている「何か」は全力で抵抗しているのだろう。彼はそのまま藤村の指先へと手を伸ばし、その指ごと十円玉を包み込んだ。首を押さえて固定した耳元へと彼が何かをささやく。角度的に彼の表情は見えないし、声も聞こえなかったというのに、俺にはなぜだかそうだとわかった。すると、藤村の身体はまるで糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。彼は破れた紙を真ん中に集めると、十円玉をその上に置いて一人でこっくりさんの続きを始めた。
それは、「こっくりさん」という儀式のルールをほとんど無視した反則じみた力技だった。彼は呪文を唱えることも、こっくりさんの自由意思を尊重することもなく、抵抗するように紙の上を滑ろうとする十円玉を力ずくで図の中心に描かれている鳥居へと引きずっていった。そして、まるで突き飛ばすように十円玉を鳥居の外へと弾き出す。それですべては終わりだった。
彼は何事もなかったかのように自分の席で固まったまま動けずにいる俺のところへ帰って来ると、いたずらをした子供を叱る大人のような顔で俺の頭をくしゃくしゃと撫でまわしてまた背後へと消えた。触られた感触は確かにあったのに、髪は少しも乱れていなかったけれど。
◆◆◆
「それで?」
「いや、別に。それで終わりっす」
くじを置きに行こうとした江夜のシャツのすそをアリスがつかんで引きとめる。任務は果たしたとばかりに安心した顔をしていた江夜は、思わぬ追撃に戸惑ったように答える。
「そうじゃなくて、オチよ、オチ。さっきの水城の話みたいに後日談はないの?」
「後日談…ですか。強いて言うなら、藤村は肋骨が六本折れてて、秋元は霊感キャラを引退しました。あいつ、一応見えてたみたいで、『彼』のこともばっちり見ちゃったみたいなんです。ただ、正体まではわからなかったみたいで、仲間の霊がいたとか見当はずれなこと言ってましたけどね。とりあえず、見えることを吹聴したってろくなことがないってわかったんじゃないっすかね」
「へー。そのお兄さん、ちょっと会ってみたいなあ」
「会えますよ。ここにいますし。つか、今、アリス先輩のすぐ後ろに…」
「えっ!」
「嘘っす」
江夜がくじを置き、二つ目。
ふと、それまでずっと不思議そうに首を傾げていた梨夏子が口を開いた。
「江夜くんって、中学は××地区だよね?ひょっとして、その藤村さんって藤村●●さんって言うんじゃない?」
「そうです」
「え、なに。リカさん何か知ってるの?」
「んー。知ってるっていうかねえ…」
アリスの質問に、梨夏子は口癖の「どーでもいいけど」と前置きしてから、
「その辺りに住んでる祖母から聞いた話なんだけど、その子、この間自殺したよね?××病院で。ちっちゃくだけど新聞にも載ってたはず」
と、更に大きく首が落ちるのではないかというほど傾けて、江夜に尋ねた。
「あー、そういえばそうでした。葬式のお知らせ回って来ました」
江夜は両手を打ち合わせて大きく頷いた。
◆◆◆
「三」と書かれたくじをひらひらとさせて、梨夏子は「せっかく流れができてるし、あたしも中学の時の話をしようかな」と笑った。その一言に場が色めき立つ。
梨夏子は、内部進学率が九十五パーセントを超えると言われる全寮制の名門中高一貫校出身だ。
全寮制ということや、現役生が校外でほとんど学校生活について言及しないこと、学校側もそれほど広報活動に力を入れていないこと等々さまざまな理由で、県下どころか地域の人間なら誰でも名前を知っているレベルの学校にも関わらずその実態は謎に包まれている。そのせいで噂が一人歩きし、「卒業するまでに偏差値が上がる代わりに人格を改造される」とか「成績順に学内のヒエラルキーが決まる」とか話の種には事欠かない。
梨夏子がそこの出身であることは出会った当初に聞かされていたが、彼女が自分の中学時代の話をするのはこれが初めてだ。
興味しんしんで身を乗り出した一同を見回して、梨夏子は真ん中にぽっかりと空いたステージでスカートのすそを持ち上げて一礼した。
◆◆◆
三番……楢木 梨夏子 「試練」
あたしの出身中学がちょっと特殊な環境だっていうのは皆知ってるでしょ?全寮制、秘密主義、内部進学率の異常な高さ………。「中」にいた人間からすると、「外」に出て初めて自分がかなり変な環境にいたって気がつかされたことはもっとあるんだけど、それはまた今度ってことで。
ぶっちゃけると、あたしが書いてる小説はほとんどが中学の時に実際に起こった事件をモデルにしてるの。ん?そう。あれも、この間の部誌に載せた話も。あはは。嘘じゃないよ。信じられないだろうけど、実話ばかり。言うじゃない、「真実は小説より奇なり」って。え、正しくは「現実」?いいじゃん。現実も真実も大差ないよ。……で、だよ。今からするのはあたしが中学一年の春の話。あたしはそのころ演劇部に入ってたんだ。夏休み前にはやめちゃったけどね。結局その日を最後に部活には行かなくなったから、これはあたしが部活をやめるきっかけになった事件かな。ああ。そんな顔しなくても大丈夫。別にいじめとかそんなんじゃないから。ちゃんと「怖い」話だから、さ。
演劇部に入部することを決めたのは、別に大した理由があったわけじゃなかった。体力も根性もないあたしには、レギュラー以外はひたすら走り込みや筋トレに打ち込んでいるだけのように見える運動部は無理だとわかっていたし、運動部よりも数の少ない文化部の中では他に大した選択肢もなかったからだ。「帰宅部」という選択もあることを知ったのは入部してしばらくのことだったけれど、今更すぎてそんなことはもうどうでもいい。
入ってみれば部活はゆるいなんてものではなく、ただ籍を置くためだけにあるようなもので本質は帰宅部とあまり変わらなかった。本気で演劇がやりたくて仮入部をしていた子たちは次々と減っていったが、あたしにはこのぬるま湯のような空気が性に合っていたから、きっと卒業までこの部に居座り続けるのだろうと思っている。
結局、入部したのはあたしを含めて四人で、二年の先輩が三人、三年の先輩が五人の合計十二人でだらだらと部活は行われている。高等部にも演劇部はあるけれど、中高一貫なのはカリキュラムだけで中等部と高等部はほとんど没交渉のため部員はこれだけなのだ。一学年三百人を超え、部活加入率も八十パーセントを超えている現状からするとこれは驚きの少なさだったけれど、そういうこともあるのだろう。そもそも演劇部は他の文化部に比べて格段に知名度が低く、あたし自身、百合の誘いがなかったならその存在すら知らなかっただろう。
同じ塾で今年この中学に合格したのは、あたしと百合の二人だけだった。塾には同じ小学校の友達どうしで通っている子がほとんどだったけれど、あたしと百合はそれぞれ一人で受験に臨み、一人で三十倍の壁を突破してここに入った。当然ながら知り合いなんてほとんどいない環境の中で、十近いクラスのうちの一つであたしと百合が一緒になったのはほとんど奇跡的なことだった。それに、同じ塾だったとはいえ大人数クラスにいたあたしたちは一度も話したことがなかった。だから百合があたしを覚えていて、なおかつ向こうから話しかけて来た時あたしはとても驚いたのだ。けれど今ではあたしと百合は親友とまではいかなくても、それなりに仲のいい友達になっている。三カ月前には想像もしなかったことだ。
「おはようございまーす」
明らかに太陽が天高く昇り、時計が今は午後と呼ばれる時間であることを示しているにも関わらず、優貴子先輩はいつもそうするように時間に合っていないあいさつをしながら部室に入って来た。
「おせーよ。今何時だと思ってんだ」
スポンジのはみ出たパイプ椅子の上で体育座りをしていた玲先輩が、早速あいさつ代わりに毒づく。
「うっせーな。一時集合には間に合ってんだろーが。時計見ろよ。まだ十二時五十七分だ」
「上級生は準備があるから早く来いってメールきただろうがよ」
「昨日は疲れて帰ってすぐ寝てたんだよ」
「まあまあ。もう準備は終わってるんだからいいじゃん」
放っておいたら与党と野党についての論争にまで発展しかねない幼馴染どうしの口喧嘩に、副部長がタイミングよく水を差す。その一言に先輩二人はぴたりと口を閉じ、それぞれ自分に割り当てられている席に着いた。
「先輩、一時です」
あたしの左斜め前に座っている二年の成宮先輩が控えめに、けれどよく通る声で告げる。それと同時に部屋の隅の振り子時計が一回だけ鐘の音を響かせた。
「ん。じゃあ、これで全員そろったね」
てんでばらばらに配置されたパイプ椅子たちに囲まれているテーブルにもたれていた部長が、読みかけだった漫画を伏せて頷いた。
「この演劇部に正式に入部するためにはある『試練』を乗り越えなければいけない」そう聞かされたのは、今からちょうど一週間前、その日で仮入部期間が終わるという部活中のことだった。
『試練』。今どき漫画の中でも聞かないようなセリフにあたしたち一年生は呆気にとられたが、先輩たちは部長以下お調子者ポジションの優貴子先輩と玲先輩すらとても真剣な顔をしていて、冗談じゃないのかなんて聞ける雰囲気ではなかった。「大事なことだから、よく考えて受けるかどうか決めてきて。挑戦する人は来週の同じ時間、ここに集合すること」部長は能面のような無表情でそう言った。
そして一週間。あの時その話を持ちかけられた四人は、誰一人欠けることなくこの部室に集合していた。かなり早く来て「舞台」を準備していたらしい先輩たちは、いつもどおり明るくあたしたちを迎えてくれ、表面上は普段と変わらず部活が始まるように見えた。けれど、約束の一時を時計が打った今、部室内の空気は明らかに一変していた。
「これは確認じゃなくて最後通告だけど、ここにいる四人は挑戦するってことでいいね?」
いつもにこにこと笑顔を絶やさない部長が、別人のような冷たい無表情で低く尋ねる。適当に配置されているようでさりげなく一年生を囲い込む形になっている椅子に座った先輩たちも、一様に部長とおそろいの仮面をかぶっているような無表情だった。
「は、はい」
一年生の中でもリーダー格になりつつある斎藤さんが心なしか震える声で答えた。それに続いてあたしたちも小さく首を縦に振る。部長はそれを鋭い目で見ていたが、ややあって「わかった」と言った。
「それでは、始めます」
『試練』は一人ずつ受けなければならないらしい。順番は自分たちで決めていいということで、あたしたちは公平にじゃんけんでそれを決定した。まず最初にもう一人の一年生である一川さん。そして斎藤さん、百合と続き、あたしは最後になった。自分の順番が来るまでは隣の空き教室で待機するようにと言われ、先輩たちの中に一川さんを残してあたしたちは移動した。
「『試練』って、何やらされるんだろうね」
百合がスカートの生地をもてあそびながら不安そうにつぶやく。
「そんなに危ないことはしないと思うよ。だって室内でやるんだし」
斎藤さんは沈んだ雰囲気をなんとかしようと明るく言ったが、それでも表情に漂う不安感は隠し切れていなかった。
「りかちゃんはどう思う?」
百合が、ずっと黙りこんでいたあたしにすがるような視線を向けて尋ねてきた。
「んー。結局は中学の部活レベルのことでしょ?演劇部が実はアルカイダの支部だったとかっていうんでもない限り、そんなにヤバいことはやらされないと思うけど」
不安ではないと言い張ったら嘘になるが、それほど物事を悲観的に考えている性質でもないあたしは、天気の話でもするように淡々と答えた。
「じゃあ、逆にヤバいことってなんだと思う?バトルロワイアルとか?」
そのまま話題を明るい方に持って行きたいのか、斎藤さんがいたずらっぽく問いかけて来た。にぎりしめていたハンカチを筒状に丸めてマイクに見立て、あたしへと向ける。
「どうですか、先生?」
「そうですねえ」
あたしはそれに乗り、まじめくさった顔でかけてもいない眼鏡を押し上げる仕草をした。
「とりあえず、バトルロワイアルはさすがにないでしょう。せいぜい忠誠の証に小指を詰めるとか?あ、でも小指がないとピアノが弾きにくくなるなあ。だったら血判状でも押すように言われるのかも」
「あはは。ヤクザじゃないんだから」
部室に集合してからずっと強張った顔をしていた百合がやっと笑ったので、あたしと斎藤さんはほっと視線を交わした。
短い付き合いだが、百合が人一倍感受性の強い、言いかえれば臆病な性格をしていることはよくわかっていた。深刻ではないとはいえ、心臓に持病を抱えていることもそれに影響を与えているのだろう。そんな百合にとって「恐怖」はどんな効果をもたらすかわからないのだ。同じ歳の子相手に過保護だとは思っても、気をつけてあげるにこしたことはない。
それからは、まだまだお互いに知らないことがたくさんあることもあり、あたしたちは少しでも今後の人間関係を構築する材料となる情報を得ようと他愛もない雑談に没頭していった。全寮制で学外でもつながりがあるということもあり、怖い先輩の話、門限を破って帰っても先生に見つからない抜け道、小学校時代の思い出、と話題は下らないなりにとぎれることなく続いた。
三十分ほど経っただろうか。教室の後方の引き戸が静かに開いた。そこから一川さんが顔を出す。「次の人、来てだって」斎藤さんが立ち上がり出て行くと、彼女と入れ替わりに空いた席に座った一川さんに百合が身を乗り出して尋ねた。
「ねえ、どうだった?」
「どうって言うか……。先輩に他の人には言っちゃいけないって言われたからあまり詳しいことは言えないけど、面白かったよ?」
「面白い?」
百合が困惑した顔で私を横目に見た。
「ヤバいことではなかったわけ?」
「ヤバい……ううん。別にヤバくはないと思う。具体的に何かやらされるわけじゃないし」
私の問いかけに一川さんは少し考え込んでから首を左右に振った。
「言っちゃいけないって言われてなくても、『あれ』を言葉で説明するのはすごく難しいと思う。とにかく、自分で体験してみればよくわかるよ。私に言えるのはそれだけ」
そう言うと一川さんはその件に関して口を閉ざしてしまい、あたしたちはもう何も聞くことができなかった。ただ、彼女の様子がさっきまでとは違いどこか変なのが気にかかってはいた。
それからまた三十分ほど経って、『試練』を終えた斎藤さんが百合を呼びに来た。
「りかちゃん…」
「大丈夫だから。ね?」
「そうだよ。次はあたしも受けるしさ」
百合はドアの前で立ち止まって不安そうにあたしを見たが、斎藤さんになだめられ、あたしの一言で心を決めたのかうつむき加減に教室を出て行った。
戻って来た斎藤さんは、表面上は出て行った時と何も変わらないように見えたが、一川さんがそうなようにこちらから話しかけなければ返事もせず机の表面に視線を落としたきり黙りこんでいて何かがおかしかった。そんな調子では会話をしようとしても尻切れトンボになってしまい、あたしはぼんやり黙りこんで何も考えずに窓の外を眺めていた。
その静寂を、突き刺さるような悲鳴が破ったのは、百合が出て行って十分経ったころだった。
「今の、何?」
二人の方を向いて問いかけるが、はっきり聞こえていたはずなのに二人は虚ろな視線をあたしに向けるだけで何も答えない。その間にも隣の部室からは何かがぶつかったり倒れるような音と、悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。
何か異常なことが起こっている。
あたしは慌てて隣の様子を見に行こうとドアへ駆け寄った。と。取っ手に手を掛けるか掛けないかのタイミングでドアが静かに開いた。そこには成宮先輩が立っていた。
「せんぱ、」
「悪いんだけどさー、そこの二人、職員室と保健室に行って先生呼んできて。至急」
先輩は無表情であたしの呼びかけをさえぎって淡々と後ろの二人に指示を出した。振り返ると、二人は反対側のもう一つのドアから無言で出て行った。
「あの、先輩、一体さっきのは」
「あなたはこっち」
先輩はあたしの声が聞こえていないように身体をひるがえすと、部室へと入っていった。ドアが開いたことで叫び声はよりはっきりと聞こえるようになり、その尋常ではない雰囲気もひしひしと伝わってくる。あたしはほとんど転ぶように三歩も離れていない部室の中に駆け込んだ。
一目見た瞬間は、それがどういう事態なのかわからなかった。一回瞬きをして、「人間が倒れている」と脳が認識する。二回目の瞬きで、「さっきの物音はこの人が暴れる音だったのだ」と理解する。そして三度目の瞬きでようやくあたしは、金切り声を上げてのたうちまわっている「それ」が百合だと理解した。
「百合!」
床に膝をついて暴れるその身体を抱き起こそうとすると、死に物狂いの拳が飛んできて突き飛ばされた。百合はあたしより十センチは小柄で、そんな力なんて当然あるはずがない。けれど「火事場の馬鹿力」というやつなのか、百合は信じられないような勢いで周囲のパイプ椅子を蹴り飛ばし、押さえつけようとする先輩たちをに激しく抵抗する。
「先輩!どうしたんですか、これ!?」
突き飛ばされたかっこうのまま、すぐ横で百合を押さえている先輩の身体を揺さぶって叫ぶと、先輩が首だけを回してこっちを見た。その顔は、こんな異常事態にも関わらず冷たい無表情だった。ぞっとして他の先輩の顔を見ると、誰もが同じような無表情をしている。あたしは自分でもよくわからない恐怖に全身から血の気が引くのがわかった。
そのまま動けずにいると、斎藤さんと一川さんが先生を連れて帰って来た。安心したのも束の間、先生たちも暴れている百合を見ても顔色ひとつ変えず、それどころか「またか」と呟くと悠長に部長に何か注意を与え、その後で動かなくなった百合を担架に乗せて運んで行った。詳しい説明もないまま、一年生はその日は帰っていいと指示が出た。それでも斎藤さんと一川さんはぼんやりと立ち尽くしていたが、あたしはあいさつもそこそこに部室を飛び出した。
次の日、百合は学校に来なかった。それどころか寮にも帰ってはこなかった。事情を知らない友人たちは最初は心配していたが、入学して間もなかったこともあり一か月もするころには誰も百合の名前を口に出さなくなり、夏休み明けにはクラスの名簿から百合の名前は消えていた。持病が悪化して退学したらしい、と一度だけ噂で聞いた。あたしはその日を最後に演劇部の部室に行くことはなく、『試練』を受けることもないまま演劇部入部は立ち消えになった。
再びその『試練』に関する話を聞いたのは、その年の終わり、寮で出会った一人の先輩との会話がきっかけだった。その先輩は、二年前に『試練』を受け、そのうえで自分の意思で入部しないことを選んだのだと言っていた。
『試練』の内容は、代々こういうものだったらしい。
まず、先輩たちに囲まれて椅子に座らされた状態で催眠―――暗示のようなものらしい――――をかけられる。そしてそれが成功すると、夢の中で異次元に入ることになる。
その中ではまず、自分は夜の闇を背景にして大きなヨーロッパ風の城の前に立っていることに気づく。暗くてほとんど見えないため、それが城であるということ以外正確な大きさや距離はわからない。近づいて行くと城門のすぐ側に墓がある。第一の試練は、その墓を暴いて中に埋まっている死体が掛けている眼鏡を奪って装着すること。そうすると暗闇でも視界がはっきりするようになる。死体は放っておくと眼鏡を取り返しに襲ってくるので急いで埋め直す。そして門の脇にいる衛兵に頼んで城内に入れてもらう。
入ってすぐが大広間で、その真奥にある螺旋階段へと向かわなければならないのだけれど、大広間の床には一面足の踏み場もないほどの死体が散乱している。その死体は目にしてしまうと見た数だけ起き上がって自分の後をついてくる。だからなるべく死体を見ないように、後ろから追いかけてくる無数の足音に振り向かないように、全速力で広間を駆け抜ける。この時に振り向いたり追いつかれると自分も死体のうちの一つにされてしまう。
螺旋階段まで着いても安心はできない。何百段もある長い階段を、一度もスピードを落とすことなく駆け上がらなければならない。階段を上りきるとそこには大きな扉がある。その扉の向こうまでは死者も追いかけてこられないから、その奥に逃げてしまえば一安心。ただ、その扉はとても重く一人で開けるには時間がかかるので、階段を上る間に距離を詰められないようにしなければならない。
扉の向こうの部屋の中央には椅子に座った死体がある。第二の試練はその死体が首にかけている鍵を奪うこと。ただ、その時けっしてその死体を目覚めさせてはいけない。できるだけ音を立てないように、呼吸も止めて行わなければならない。言うまでもなく、目覚めさせてしまえば……。
その鍵を使い、入って来たのとちょうど真向かいにある別の扉を開ける。その扉の向こうは真っ暗で何も見えないが、一種の筒のようになっているらしい。滑り台の要領で中に飛び込むと、その中をひたすら滑り落ちて行くことになるが、途中にいくつか分かれ道があり、これはすべて右を選ばなければならない。これが第三の試練。中は真っ暗でほとんど何も見えないため、自分の五感を全力で研ぎ澄まして正しい道を選択しなければならない。一度でも間違って左を選ぶと、城の前に戻されて最初からやり直し。みごと正しい道を選択し、最後まで滑り降りると無事に現実に戻って来ることができる。
「と、まあ、これが建前なんだけど」
先輩はそう言うと足を組みかえた。
「建前、って。本当は違うんですか?」
身を乗り出して尋ねたあたしに先輩はニタリと笑った。
もちろん儀式自体は本当にやる。素人の遊び程度でも雰囲気に飲まれれば催眠にかかってしまうし、それ自体は緊張している新入生を部に馴染ませようという目的で始まったものだからけして危険なものではない。ただ、いつの年も影響を受けやすい人間はいるもので、毎年一人は「違うもの」を見る子がいるのだという。
あらかじめ筋書きを話し、催眠中もそれとなく指示を与えていると言うのに、城ではなく廃墟に迷い込んだと言い出したり、死神が追いかけてくると泣き叫んだり、果ては無理矢理目覚めさせても夢の中の死体がすぐそこにいる、と錯乱して暴れ出したりするのだそうだ。そう、百合のように。
この儀式はこうして毎年何らかの「犠牲者」を出しているにも関わらず、もう何十年と受け継がれており、教師陣もトラブルを黙認しているのだという。そして、無事に儀式を乗り越えた者もはっきりと断言はできないが確かに以前とは人格が変わってしまうのだそうだ。
あたしは、儀式を終えて帰って来た後の一川さんと斎藤さんの様子が変だったことを話した。
「たぶん、その二人は『合格』したんだね。『脱落』しちゃう子がいるのと同じように、最後までやり遂げても入部に適さない人種ってのはいるんだよ。私がそうだったように」
先輩いわく、表沙汰にならないだけで他の部活にも『試練』はあるのだという。それは運動部、文化部問わず共通のルールなのだそうだ。
「ひょっとしたら、『試練』はこの学校への適性があるかのテストなのかもしれないね」
そう言った先輩は、春から違う高校へ進学するのだとほとんど荷物のなくなった部屋を示して笑った。
◆◆◆
「以上」
「こわっ」
梨夏子のあっさりとした締めの言葉から間髪いれず、清明が肩を抱いてつぶやいた。
「言ったじゃない、『怖い』話だって」
窓際にくじを置きながら梨夏子は笑みを含んだ声で言う。
「そうだけどさあ、何て言うか、オーソドックスな怪談が続いた所でそんなリアルな話されるとは思ってなかったから、心の準備が」
鳥肌立っちゃった、とわざわざシャツの袖をめくって見せつける清明の腕を、水城が「邪魔」と払い落して梨夏子に尋ねる。
「でも、リカ、その、話、して、よかった、の?なんか、秘密、の、話、っぽかった、けど?」
「大丈夫。これくらいでどうにかなってたらあたしは今ごろメン・イン・ブラックに連れ去られてると思うし」
「前から思ってたんですけど、梨夏子先輩、どういう人生を送ってきたんですか~?」
冴佳が、まるで今にも入口から黒衣の男たちが入って来るのではないかというように声をひそめながら言う。しかし梨夏子はうふふと笑って、「直舌」と言われるゆえんである強烈な一言をこの善良な後輩に浴びせた。
「サヤちゃんと180度違うことだけは確かだけど?」
「ですよね~…」
窓際のくじはこれで三枚。まだまだ怪談は続く。
「はい。あたしの話はここまで。じゃあ、次の人、お願いします」
梨夏子がパンと両手を打つと、隅の方に座っていたノアが注目を惹くようにゆっくりとくじを持った手を挙げて進み出た。
◆◆◆
皆、話長すぎ。一人が話すのにどれだけかかってんの。は?うん、まあ、枝葉のない話は味気ないってことには同意するけど、もっと簡潔な話が私は好みなの。だらだら長い長編になんか興味ないの。人を殴り殺せる厚さの文庫本なんか問題外。だから、今からする話は起承転結を極限まで絞っといたから。……何言ってんの?百物語なんだから怖い話に決まってるじゃない。
四番……白倉 文乃 「ありえない」
前の三人と違って、私の話は実体験だけど私自身に起こったことじゃなくて私の父親の話。十歳の時だったっていうから、今から三十年くらい前かな。八十年代初頭?まあとにかく元号がまだ昭和だったころ。
☆☆川のキャンプ場、知ってる?そう。最近できたあそこ。あそこ、今じゃしっかり整備されてるけど、昔は本当に何もないただの川だったんだって。それで、夏になると地元の小・中学生が毎日のように泳ぎに来てたって。うちの父親も、田舎じゃ他に遊びに行くところもないから暇さえあれば友達と遊びに行ってた。その日もね、お昼を食べてすぐに泳ぎはじめたんだって。
すごいどうでもいいけど、うちの父親――――アキラって言うんだけど――――アキラは学年で一番泳ぎが上手かったんだって。って言っても、一学年が一クラスしかなかった中の一番だったんだけどね。で、アキラは友達に合わせて浅瀬で泳いでるのに飽きて、一人でどんどん遠くまで泳いでいったんだって。
ふと気がつくと、友達がいる岸の方からはかなり遠ざかってて、日の当らない木が生い茂ってる林の方まで来ちゃってた、と。いくら泳ぎが得意でも小学生だからね。怖くなって引き返そうと方向転換した時、右斜め二十メートルくらい先に大きな岩があったそうなんだけど、そこに、一人の男の子が座ってるのが見えたんだって。
体育座り、って言ってわかる?こう、尻もちをつく感じで座って、立てた両膝を前に回して組んだ両腕で抱きしめる感じの座り方。そうやって、岸の方を見てるんだって。
アキラはその姿を見たとき、「何かがおかしい」って思ったんだって。オーラっていうか雰囲気っていうか、その子がいる辺りだけ空気が違うような気がしたって。「存在感を灰色のクレヨンで縁取りしたような」ってアキラは言ってたけど。
でも、歳はそう変わらないように見えたし、遊び場には地区別に縄張りがあったから、たぶん友達の誰かだろうと思ってアキラは手を振ってみたんだって。アキラは当時からかなり目が悪くて、裸眼じゃそれが自分の知り合いか顔までは確認できなかったから。だけど相手はこっちの方をちらりとも見ない。
知らない子なのか、と思ってアキラはまた泳ぎ始めたんだけど、どうしても違和感が消えない。自分は一体何に違和感を覚えたんだろう、って泳ぎながらずーっと考えてた。
そしてね、気づいたんだって。
抱え込んだその子の足が、ありえないくらい長かったってことに。膝小僧がさ、頭の上まであったんだって。その子。
◆◆◆
「おしまい」
ノアはそう言うと、さっさとくじを置いてまた隅の自分の席に引っ込んでしまった。
「え、なに。つまりその子の正体ってどういうこと?」
一拍置いて藍が間抜けな声を上げた。
「いや。どういうこともこういうことも、そういうことだと思いますが」
「あっくん、行間を読むって技術を持ち合わせてないの~?」
江夜が冷静に突っ込み、紫苑が馬鹿にしたような口調で笑う。
「君らには聞いてません!ノア、詳しい説明を要求します」
ぎゃあぎゃあ騒いでいる男子陣には目もくれず、ノアはキーボードをリズミカルに叩くとあるページを呼びだした。そして「見ろ」と言うようにネットブックごとその画面を突き出す。それは、ウィキペディアの『河童』の項目だった。
「なるほど。これなら足が長くても変じゃないかもねえ」
それに一通り目を通した梨夏子が感心したようにうなずいた。
「昭和は遠くなりにけり」
その横でアリスが片目を覆うように頬杖をついてしみじみとつぶやいた。
◆◆◆
え。もう僕の番?早いねー、って言いたいところだけどそうでもないか。さっきからずっと何を話そうか考えてたんだけど、僕あんまりそういう話に縁がないからさ、ノアちゃんと同じくらい手短になるけどいい?…あは。ありがと。じゃあ、五番目の物語、始めるね?
五番……館花 紫苑 「紫陽花の下」
僕、花だったら紫陽花が一番好きなんだ。
いや、だってほら、僕の名前、「花」と「紫」だろ?見りゃわかるじゃん。……だから今の季節なんか最高だね。あちこちで紫陽花が咲き誇ってる。これは普遍の真理だと思うんだけど、紫陽花ってのは雨の中で咲いてるから綺麗なんだ。空梅雨なんて問題外だね。だから僕はこの季節が来るたびに日本人に生まれた幸せを噛みしめるんだよ。この高校を選んだのも、学校見学の時に見た中庭の紫陽花園が決め手だった、って言うのはさすがに半分冗談だけど、実際、あの庭園はアジサイストの僕の目から見てもなかなかのもんだよ。
えーっと、たしか昭和初期に造られたんだっけ?だからもう、八十年?もちろん植え替えはしてるだろうけど、間にはさんだ戦争にも負けずにこの二十一世紀まで残ってるなんて、なんだか感動的だよね。で、そんなに歴史のあるものなら当然それなりのいわくもつきもの。
この場にいる皆は知ってると思うけど、八不思議の四番目『赤い紫陽花』がそれに当たってる。毎年、一面の青い紫陽花が咲き誇る中に一株だけ赤い紫陽花が混じってるってやつ……………。
はあ?土壌の性質?文芸部とは思えないような一言だね。ロマンがないよ。そこはわかってても、「綺麗な花の下には死体がある」くらい言ってみたらどうなんだよ?
まあいいや。皆、あの現象は知ってるけど、それにまつわる話は聞いたことある?ほら、僕、曲がりなりにも生徒会とか入ってるだろ?だから普通じゃ見れないようなものも見ることがあるし、聞くことがあるわけ。
あれは、僕が初めて生徒会選挙に当選した時だったから、一年の秋だね。その年の生徒会長だった桐生先輩、覚えてる?そう。あの奇妙な……………って、そういうことまで思い出さなくてもいいんだよ。とにかくその秋の話だ。
あの秋は早めのインフルエンザが大流行して、代替わりで忙しい時期だったっていうのに放課後、無事に生徒会室までたどり着いたのは僕と桐生先輩だけだった。それで、なんとか仕事が一段落して休憩してた時、先輩が不思議なことを言ったんだよ。
「桜の下に死体があるのなら、紫陽花の下には何がある?」
「は?」
歌うように言った先輩の声は、静かな生徒会室の中では妙に大きく聞こえた。僕はガチガチにこった肩を叩く手を止めて思わず目の前の先輩の顔を見る。
「だから、何がある?」
奇矯な性格と、それ以上にたぐいまれな頭脳を持っていることで有名なこの先輩とこうして一対一で向かい合うのは初めてだ。無意識に横目で辺りを見るが、普段なら橋渡し役になってくれる他の先輩たちは誰もいない。
僕は、目を細め唇をあひるのように広げて自分がなるべく困惑していると判断されるような表情を作った。しかし先輩は、ついさっき割り当てられた予算が例年より減額されていることについて怒鳴りこんできた柔道部の部長に向けたような無機質な目をし、その奥で僕が何か言うのを待っている。無言でやりすごすことは許されていない。
「やっぱり……死体、じゃあないですかね?」
言葉を選び選び、上目遣いに言う。
「なんで?」
「いや……なんとなくです」
別に叱られているわけではないのに、この先輩には一言発するだけで相手を委縮させてしまう不思議な存在感がある。と言っても、それは「こわい」というより「おそれおおい」という感覚に近いのだ。
先輩は僕の答えを聞いて伏せた横目で机の上を睨んでいたが、ややあって「八不思議の四番目を知ってるか」と聞いてきた。
「赤い紫陽花、ですね」
ただの噂話ではなく、その紫陽花はたしかに存在した。ついこの間のように思える梅雨の一ヶ月間、クラスではその謎を推理する遊びが流行っていた。しかし梅雨が明け、紫陽花が茶色く枯れ果てると同時にクラスメイトの関心はすっかりその話題からそれていた。
僕は紫陽花が好きということもあって他の生徒に比べれば興味を持続し続けていたが、最近ではそれも薄れてきてはいた。
先輩は小さく頷くと、すぐ後ろの棚に立てられている無数のファイルの中から一つを取り出して僕の目の前に広げた。それは、納められているファイルこそ真新しいものの、明らかに年季が入っていることを感じさせる茶色く変色した何枚かの資料だった。
「紫陽花は酸性の土壌では青く染まり、中性あるいはアルカリ性の土壌では赤く染まる」
そう言いながら先輩はファイルをぺらぺらとめくっていく。そのうちのいくつかは古い新聞記事のようだった。日付を見るまでもなく、見出しの字の向きや使われている漢字でそれが終戦前のものだとわかった。先輩は、何ページ目かで手を止めると爪の先でそこを叩いて僕に示した。
「バラバラ殺人事件……猟奇の仕業…」
ただでさえ読みにくい上に、経年によって茶色味かかった紙は文字の保護色になっていて、僕はやっとそれだけを読みとった。上目遣いに先輩を見ると、先輩は更にその中の一か所を爪で痕をつけるようにぐるぐるとなぞる。
「■■高等学校にて死体が発見された…………え?これって…?」
僕は顔をファイルに近付けて、食い入るようにその内容に目を通していった。
殺されたのは当時はまだ高等学校だったこの学校の生徒の恋人で、死体は校内で紫陽花園にされる予定の場所に埋められたものの、土を耕していた業者の手によって発見された、と。
死体は、それほど深くはないが一見して気づかない程度に埋められていたことから、発見までにその上を何往復かした業者の鍬によって切り刻まれ…………………………………………。
「人間の肌は弱酸性だけど、中身はアルカリ性なんだよね」
先輩はそうささやいて、ペットボトル入りの血のような色をした紅茶を美味しそうに飲んだ。
◆◆◆
「なるほどー。だからあそこだけ違う色なんだ」
「まほ、落ち着きすぎ」
のほほんと両手を打ち合わせたまほにノアが青い顔で突っ込む。
「もう、あそこ、の、前、通れ、ない。門、変える」
「回避できるだけマシじゃないっすか。俺、今月の掃除当番あそこの草抜きなんすよ。あと一か月あるんすよ」
両手で顔を覆ってうつむいた水城の横で江夜が泣きそうな声を出した。
オバケに強い人間は、グロテスクなものに弱いことが多い。従ってこの話では見事にそれぞれの反応が逆転することとなった。
梨夏子とアリスは何を想像しているのか口元を手で覆って眉間にしわを寄せ、一方で、他の話ではこわいこわいとぎゃあぎゃあ騒いでいた藍、冴佳、清明の三人組はなぜかペットボトルの紅茶はどれが一番好きかについて話している。当の紫苑はと言えば、にやにやとチシャ猫のような笑みを浮かべてその騒ぎを眺めていた。
「この学校も古いからねえ。そりゃあ表沙汰にしないで忘れられてることもあるよ。なんならこんどその資料のコピー、あげようか?手元にあるし」
「やめて」
間髪いれず、四つの声が息ぴったりに重なった。
◆◆◆
先輩たちハードル上げすぎですよ~。そんなに怖い話ばかりされたら、大したことない話でお茶を濁すこともできないじゃないですか~。いやいやいやいや。そんなに期待しないでください。ウチ本当に怖い話って苦手なんです。だから、これからする話は先輩たちにとっては大したことないかもしれないんですけど、ウチにとってはめちゃくちゃ怖かった話です。
六番……綾部 冴佳 「お面」
「今日はおばあちゃんの家に行くから」
ママのその一言は、いつだってウチの気分を一瞬でどん底に突き落とす。どんなにテンションが上がっている時だって、それは魔法のようにウチを最悪の気分にしてしまうんだ。
「うん…」
ウチはそれまで大事に大事に味わって食べていたお昼ご飯のハンバーグの味もわからなくなるほど落ち込んで、だけどそれをママに気づかれないようになんでもない顔で頷いて見せた。ラッキーなことにこっちに背を向けて洗い物をしているママは気づかなかったようで、呑気に鼻唄を歌っている。
「食べ終わったらすぐに出発だから」
ウチは返事の代わりにただの「食べられる物」になったハンバーグを喉の奥まで詰め込んだ。
おばあちゃんの家はうちから車で一時間半かかる山のふもとにある。パパは仕事でいないので、今日はママとウチだけで行くことになった。
行きたくない、と喉まで出かかって言えない言葉を呑み込んで、ウチは車のほこりっぽい後部座席に寝転んで暇つぶしに持って来たゲームをしているふりをする。ゲーム機から伸びたイヤホンはにぎやかな電子音のBGMを歌っているけれど、今のウチの耳にはそれは車のエンジンの音と同じ程度の意味しかない。
いやだいやだいやだ。頭の中で繰り返せば繰り返すほど気分が落ち込んでいく。
おばあちゃんのことは好きだ。おばあちゃんの家があるあの町も好きだし、飼っているネコのひめに会えるのだって嬉しい。だけど、あの家は好きじゃない。もっと言うなら、あの家にある「あのお面」がウチは怖い。
そのお面は、おばあちゃんちの正面玄関にまるで外から入って来る人を脅かすように掛けられている。今よりずっとウチが小さかったころ―――小学校に入る前だ―――おばあちゃんは「悪いものから守ってくれるのよ」と教えてくれたけど、ウチはそれ自体が「悪いもの」だから他のものは怖くて近寄れないんじゃないかと思っている。覚えたばかりの言葉で言うのなら、「毒をもって毒を制す」ということだろうか。それくらい、それはよくない雰囲気を持っているのだ。
考えているとどんどん気分が落ち込んでいくので、ウチはゲームの電源を切って無理矢理寝てしまうことにした。どうせ着くまではまだまだある。カーコンポからはエアコンの風に乗ってウチの好きな曲が流れていたけれど、今はそれも聞きたくないくらいだった。
一か月ぶりのおばあちゃんの家は当たり前だけど何も変わっていなくて、あのお面は怖がっているウチを睨み殺そうとしているようにこっちをじっと見ていた。ほこりをかぶった青緑の顔から鋭い角を生やした鬼は、くすんだ金色の目を薄暗がりで光らせて玄関の天井近くに下がっている。ウチはなるべくそっちを見ないように急いで靴を脱ぎ捨てて家の中へと上がった。
奥の居間では、近所に住んでいるいとこの律ちゃんが畳に寝転んでテレビを見ていた。
「サヤ、ひさしぶりー」
「ひさしぶり」
律ちゃんはウチと目が合うと、にこりと笑って起き上がった。ウチはその笑顔にやっと安心した気分になって笑い返す。
律ちゃんはウチと同じ歳だったけれど近所の子たちのリーダー格で、とても勇気があって遊びに行くたびにウチを色々なところに連れて行ってくれる。
「今日は遊べる?」
律ちゃんはウチの服のすそをつかんで聞いてきた。先月来た時はすぐ帰らなければなくて遊べなかった。でも今日はママの「息抜き」だから夕方までは遊べるはずだ。律ちゃんに誘われるまでもなく、どこにいてもあのお面が見張っているようなこの家にはいたくなかった。
ママに許可を取って戻ると、律ちゃんはもう玄関に下りて靴をはいていた。
「誰か呼んでもいいけど、今日は二人だけで遊ばない?」
「うん」
「じゃあ、公園まで競走ね」
そう言うと勢いよく走りだした律ちゃんを追い掛けて、ウチもあわてて玄関を飛び出す。その時、背中に何か嫌な視線を感じた。じっとりとからみついてくるような。首を回して振り返ったけれど、そこには誰もいない。ただあのお面だけが暗がりからこっちを見ている。
「気のせい、だよ」
ウチは声に出して言うと急いで首を回して走りだした。
律ちゃんたち地元の子は「公園」と呼んでいたけれど、そこはどう見てもただの空き地だ。田んぼと用水路に囲まれた真ん中にその大きな広場はある。隅の方に、乗ったら壊れてしまいそうな傾きかけのブランコが一つと、やっぱり台風が来たら吹き飛ばされそうなぼろぼろの小さなほこらがある以外は何も面白いものはない。だけど何もなくたってできる遊びはいっぱいある。遊ぶものがなくてもそこにはまばらにたくさん木が生えていたからかくれんぼも木登りもできたし、木がない場所もグラウンドの半分くらいの広さはあったからいくらでも走り回ることができた。最初はだるまさんが転んだ、次に鬼ごっこ、木のぼり競争。たった二人でも真剣勝負の遊びは楽しくて、ウチらは時間なんて気にすることなく転げ回って笑い合った。
それはちょうど近くの駄菓子屋さんで買ってきたおやつを食べ終わり、次は何をしようか考えながら座り込んでいる時だった。
「ねえ、次は肝試ししない?」
「肝試し?」
ウチは目を丸くして律ちゃんの言葉を繰り返した。律ちゃんはそんなウチの反応を興味を持っていると思ったのか、にこにこと続ける。
「うん。今、あたしの学校で流行ってるの。ここを出て、あそこのあぜ道をずーっと行ったところに小さなお堂があるのね。そこまで一人で行って、お堂の扉を開けて中を見てから証拠に花を一輪置いて来る。それだけ」
「そのお堂って、何があるの?」
「さあ?あたしもやったことがないからわかんない。でも、六年生の人の話だと、ちょっとびっくりするようなものがあるんだって」
ウチはうつむいて爪先で足元の土を蹴った。ウチだって肝試しなんかしたことない。地域の子供会でやるやつだって絶対に行ったことなかったのに。でも、その時はなぜか「やってみよう」という気になった。臆病なところを見せて律ちゃんに馬鹿にされたくなかったのかもしれない。
「わかった。やろうよ」
夏の夕暮れは遅いと言っても、じきにママが呼びに来て帰らなければならないだろう。やるなら日が傾き始める前にさっさと済ませてしまいたかった。
「じゃあ、先と後、どっちがいい?」
「あ、後!」
それでも順番を先延ばしにしたのは、やっぱり怖かったからだ。
ほこらまでは五百メートルくらいあるらしい。律ちゃんが行っている間、ウチは一人で公園の隅のブランコに腰かけて、真正面の山をぼんやり眺めていた。同じ県内でも山の中になると人も車もほとんど道路を通らず、まるで自分だけが違う世界に入り込んでしまったような不思議な気分になる。それにしても、この時間だったら近所の他の子が通ってもおかしくないはずなのに今日に限っては本当に誰も見かけない。一体どうしてしまったのだろう。
そう考えると急に心細くなってきて、ウチはわざと大きな音を立ててブランコをこぎはじめた。勢いをつけて、左右に振れるたびに高く高く昇っていくイメージで空気を蹴る。
とにかく地面に足をつけていたくない。だって、「何か」に捕まってしまいそうで。
どれくらい経っただろう。何度も何度も空に近づいては落ちるのを繰り返した末のことだ。
唐突に、いつの間にか目の前に人が立っていたことに気づき、ウチは背中に定規でも差しこまれたように全身を凍りつかせた。驚いたからだけではない。その人は、おばあちゃんの家にあるはずのあのお面と同じ鬼の面をかぶってこっちをじっと見ていたのだ。玄関を出る時に感じた、あのからみつくような視線で。
いや。それは同じお面ではなかった。よく見れば角の長さが違うし、顔の色だって青緑じゃなく赤黒い。でもそんなことに気づいたからといって怖い気持ちが消えるわけではない。その人はゆっくりと近づいてくる。けれどその足は歩くために動いているのではなく、まっすぐに地面の上を滑っていた。
これは、人間じゃない。
身体が一気に冷たくなる。
こわいこわいこわいこわいこわい。
声も出せないくらい頭の中がその言葉でいっぱいになる。だけど、ブランコが止まって地面に足がついてしまえば終わりだということはなんとなくわかっていた。
ウチは手の感覚が消えるほど強くブランコの鎖をにぎり、がむしゃらに空を蹴り続けた。それにも関わらずそれはゆっくりと近寄って来る。とてもとてもゆっくりと、まるでウチが怖がっているのを楽しんでいるかのように。
膝から下が骨折でもしたように痛み、限界ギリギリまで上がるたびに鎖が今にも千切れそうな音を立てる。手さえ伸ばせば空に届きそうなのに、あと一歩で身体は地面に引き戻されてしまう。
ブランコが壊れて身体が地面に叩きつけられるか、それに捕まるかと覚悟したその時。鈍い音を立てて何かがぶつかる音がした。音は何回か続き、突然スイッチが切れたように止まった。
それでも怖くて怖くて、たっぷり時間を空けて、そろそろと目を開けてみる。するとそれが立っていた位置には、なぜか潰れたみかんがいくつか転がっていた。呆然としていると、また背後から視線を感じる。ただしそれはさっきまでの嫌なものとは違っていた。
振り返ると、そこには鬼のお面をかぶった人がいた。今度こそ悲鳴をあげようと息を胸いっぱいに吸い込んで気づく。その顔は、あのお面だった。そういえば落ちていたみかんはおばあちゃんの家の玄関に置いてあった段ボールに入っていたのと同じだった気がする。息を吸い込むために口をぽかんと開けたまま見つめていると、その人はほんの一瞬まばたきをした間に消えていた。
遠くで律ちゃんの呼ぶ声がする。気がつけばあたりはすっかり落日に染まっていた。
ウチの前に現れた二人の鬼が何だったのかは今でもわからない。だけど、それ以来ウチはあのお面を見ても怖いとは思わないようになった。
◆◆◆
「以上、でした」
冴佳は、胸に詰まっていた空気をすべて吐き出すようにゆっくりとそう言った。
「え。なんか、怖いっていうか普通にいい話じゃん!」
「江夜といい、冴佳ちゃんといい、後輩組はいい話ばかりなのに君らときたらね…」
無駄に手ぶりをして叫んだ清明に、可哀想なものでも見るような視線を向けて紫苑がため息をつく。
「しーくんも人のこと言えないよねえ」
さっきの話の仕返しとばかりに梨夏子がにこにことそれに突っ込んだ。
「しーくん言うな」
「はいはい。しーくんはうるさいねえ。しーくんの分際で」
「梨夏子、なんか最近ほんと僕に対して酷いよね」
「被害妄想過剰にもほどがあるよ。しーくん、いいかげんに身の程を知りなって」
「あー。もういいから次!七番の人!」
ノアがうっとおしそうにゴーサイン代わりに片手を振り下ろした。
◆◆◆
アリスは顔の半分を覆い隠すようにまぶたの上に手を当てながら口を開いた。
七番……有里 由貴花 「いつも会う人」
怖い、っていうのとは少し違う気がするんだけど、サヤと同じで私が小学校のころの話。
私の通ってた小学校は家から少し遠くて―――って言っても水城の話にあったほどのレベルじゃないんだけど―――間に竹やぶとか色々あって、直線距離はそんなにないのに通学に片道三十分かかってたの。
途中までは同じ方向の友達と帰るからいいんだけど、それも最初の十分くらいで残り二十分はずっと一人で歩かなくちゃならない。できるだけ人通りの多い道を選ぶんだけど、家が辺鄙な場所にあるせいでどうしても薄暗い竹やぶに囲まれた道を歩かなきゃいけないのね。
それで、低学年のころは怖いからそこを駆け抜けて帰ってたんだけど、三年生を越えるといいかげん慣れてきて余裕も出てくるのよ。友達と別れたら家に着くまで暇でしょ?今みたいに音楽聞くものや携帯持ってるわけじゃないし。だから私は、そこを通る時にいつも本を読みながら歩くようにしてたの。道っていっても車が一台ぎりぎり通れるくらいの幅しかなかったから、そんなに心配することもなかったしね。
最初に気づいたのはいつだったかなあ?いつも同じ時間にね、その道ですれちがう人がいたの。サンタクロースみたいに、全身真っ赤な服を着た人。
その辺りにはお店なんかないのに、いつも白いビニール袋を下げてカサカサ音をさせながら向かいから歩いて来るから、犬の散歩なのかなあ、って思うんだけど犬は連れてないのね。私はうつむいて本読んでるから、前から近づいて来るビニールがこすれあう音と紐まで真っ赤なスニーカー、すれちがう瞬間に見える赤い上下の服だけで一度も顔は見たことないの。
男なのか女なのか、若いのか年とってるのか、そういう具体的なことはぜんぜんわからないし、近所の人だとしてもその竹やぶの奥にあるのはうちを入れて三軒だからすれちがったら絶対に声をかけられるはずなのよ。なのに、その人はいつも、ただ、前から来てすれちがっていくだけ。後ろから追い越されたこともなかった。
最初の二年くらいはね、何とも思わなかったの。赤いものが好きなんだなあ、いつもすれちがうなんて珍しいなあ、って。だけど、高学年になったある日、いつものようにすれちがった瞬間に、こう、雷に打たれたみたいに気づいたの。さすがにおかしい、って。
いつも全身赤いものだけ身につけてることとか、お店もないのにビニール袋を下げてることとか、それ以上に、どうして毎日すれちがうことができるの?って。
そう。
そんなこと、ありえないのよ。
自分が小学生の時のことを思い出してみればわかると思うけど、小学生の下校時間って学年で全然違ってたでしょ?一年生と六年生じゃ下手したら二時間くらい差があったはず。なのにね、その人は、少なくとも私が三年生の時から毎日、何かの都合で下校時間がいつもより遅くなった日も必ず私とすれちがっているのよ。おかしいでしょ?そんなの、親や先生だって正確には把握できていないのに。校門を出た時間がわかっていたって、途中で寄り道したり友達とふざけながら歩いていればいくらでも時間はずれる。私がもっと几帳面で、絶対にこの時間にここを通らないと耐えられない、って性格だったならともかく、小学生なんてそういうものでしょ?なのに、どうしてその人は毎日、一日もタイミングを外すことなく私とすれちがえたの?
そのことに気づいた瞬間、何があったわけでもないのに、すごくこわくなった。全身真っ赤な格好も、いつもぶら下げているビニール袋の中身も、なにもかもが。今思えば親とかに相談すればよかったんだろうけど、なんとなく、さ、「言ったら、来る」って思ったんだ。ジェットコースターに乗ってるとき、「バーから手を離したら死ぬ」って思うでしょ?あんな感じ。ほとんど本能的な恐怖ってやつ。
本当はもうその道を通るのは嫌だったけど、他に通れる道もなかったから、次の日からも私はその道を通り続けた。その人はそれからも毎日私とすれちがい続けた。
あの頃は本当にこわかったなあ。毎日、その道が近づくたびに、「今日は会いませんように」って一生懸命念じるの。だけど、ビニール袋のこすれるガサガサって音が前から聞こえると、こわくてこわくて。それでも気づいてることを悟られないように、息を止めて、なんでもないような顔で、足が震えて転びそうになりながら、一秒でも早く前へ進むの。
そして、あの日。あれは卒業式の前の日だったから、三月の終わりね。そのころには、あきらめじゃないけど、感覚が麻痺してきてて、恐怖はあったけど身体が震えるほどじゃなくなってた。だから、あんなことする気になったんだと思う。
優花ちゃん、わかるでしょ?何度かここにも来たことあるし。そう。茶道部の。私とあの子は小学校からの付き合いなんだけど、その日はいつもより帰るのが早かったこともあって、すぐに家には帰らずにあの子の家の近所の公園で遊んでたの。
で。浮かれてたんだろうね。遊んでる最中に、そのことを何気なく話しちゃったの。そうしたら優花ちゃんがさ、「その人の顔を見てみたい」って言うのよ。
私はいつもうつむいて歩いてたから、その人の顔は当然知らなかった。それが違う日だったら絶対にやらなかったんだろうけど、その日はテンションが異常に高かったのと、一人じゃないっていうのがあって、私は優花ちゃんと一緒にあの道を通ることにしたの。そして、その人はその日も現れた。
結果?ごめん。そればっかりは話せない。正直、本気で思い出したくないんだ。ただ、嫌なことに対する直感って意外とあなどれないんだってわかったよ。
◆◆◆
そう言ってアリスが口を閉じると、最初の水城の話が終わった時に勝るとも劣らない沈黙が場を支配した。
単純に「怖い」のではなく、他の話のようにこれ以上突っ込んで触れてはいけないような不気味さがこの話にはあった。
「こわい、です…」
「いや、ほんとに洒落になんないです。アリスさん」
ややあって冴佳と清明が声を声帯からしぼりだすように言えば、
「やっぱり本当に怖いのはよくわからないものだわ」
「ゾンビ、より、幽霊、の、方、が、怖い、し、ね」
とノアと水城がやや的外れな感想を感心したように述べる。
「………ねえ、アリスちゃん。最後、何を見たのか話せないってさあ、それは『話すことができない』ってことなの?それとも『話したくない』ってことなの?」
一瞬会話が途切れた間を狙ったように、ぽつりと、紫苑がそう言った。
単純に文脈から考えればそれは後者の意味だろう。しかし、紫苑がそんな表面上の答えを望んではいないことは表情から一目瞭然だった。
「あ、それあたしも思った。ねえ、どっち?」
その発言に梨夏子が右手を挙げて同意する。
頭の良さや着眼点の特異性に一目置かれている二人がそろって同じ疑問を呈したことで、単純に話の不気味さに騒いでいた部室内の空気がシンとなる。うっすらと二人の真意を悟った面々が、気まずい視線をそっと交わし合う。できれば止めた方がいいのだけれど、自分たちも気になる。そんなジレンマを抱えた表情だ。
「んー。…………………言わなきゃダメ?」
「できれば」
明らかにこの話題にはこれ以上触れたくないというようなアリスの不自然な笑顔も意に介さず、二人は息を吐くタイミングまでぴったりと異口同音に答えた。
アリスは、視界を塞ぐように顔の上半分に手を当て、短いため息をついた。
「わかったよ。…………………『話すことができない』」
そして、その手をずるりと下へずらす。
「話したら、今度はこっちの目を持って行かれちゃうから」
冗談めかしてアリスは笑った。けれどそれに応える者は誰もいない。ただ、「ああ」と納得したような吐息がこぼれた。
軽く開かれた指先には、見慣れた精巧な義眼がはさまれ、本来それが入っているはずの眼窩は、ぽっかりと真っ黒な穴を空けて私たちを見ていた。
壁際の古い時計が、もう一時間半経ったことをひっそりと示す。
雨はまだやまない。
◆◆◆
八番……青柳 清明 「向こう側」
俺じゃなくて、うちの姉さんが小学生の時に体験した話。
俺、小一の時に一度転校してるんだけど、転校する前の小学校はその地域でもわりと歴史がある方で、いつから伝わってるのかわからないくらい古い七不思議があったんだ。いや、あったらしい、ってのが正しいのかな。俺はその学校にたった一学期しか通わなかったから記憶もあいまいなんだ。まあ、それはどうでもいいよ。
で、本題は俺がもっと大きくなってから姉さんに聞いた話。
その学校の七不思議のひとつに、『割られた鏡』っていうのがあったんだって。
普通は学校の怪談で鏡っていうとさ、決まった時間にあるトイレの鏡に幽霊が映る、とか、鏡の向こうに連れて行かれる、とかだろ?だからその鏡を見てはいけない、ってやつ。その話も、大部分はそんなテンプレ通りの内容だったんだけど、ほんの少し普通とは違ってる部分があったんだって。
その話に出てくるのは、校内で一番古い校舎の、誰も近づかないような奥の奥の階段の踊り場に飾られた大きな鏡なんだ。とても大きい鏡でね、横は一.五メートルくらい、縦も成人男性が爪先から髪のてっぺんまでまるごと映り込むくらいあったらしい。ただ、それは鏡がはめこまれているフレームから推測した話で、実際にその鏡に誰かが映っているのを姉さんは見たことがないって。
ん?うん。そう。まあ、タイトルから考えれば簡単に予想がつくんだけど、その鏡は割られていたんだ。誰かがわざと割ったのか、それとも勝手に割れてしまったのかはわからない。ただわかるのは、その鏡はそこにかけられた時にはもう割れていて、でも誰もそれを交換しようとしたり、撤去しようとしなかったってこと。さすがに小学校にあるだけあって、子供がむき出しの破片で怪我しないように普段はカーテンみたいな布で覆われてたそうだけど。
それで、その鏡について姉さんが聞いた話はね、こんな内容だったんだ。
旧校舎の階段の踊り場は、「向こう側」へとつながっている。
その入口は普段は閉じているが、壁際に鏡をかけることで開いてしまうことがある。髪の毛一本でも鏡の向こう側に引き入れられてしまうと、「向こう側の自分」と自分が入れ替わってしまい二度と元には戻れない。
ここまではありがちな内容だよね。だけど、その学校の話には更に続きがあってさ……。
たとえ壁から鏡を取り外しても、いつの間にかまた鏡がそこにはかかっている。古い鏡をしまっていた場合やゴミに出した場合は再びそれが、割ってしまった場合でも新しい別の鏡が、誰かの手によってかけられている。
そして、鏡を撤去するのに関わった人間は、例外なく不可解な事故に遭遇する。
もっと昔に同じ学校に通っていた年上の親戚の話だと、この怪談は数十年前から伝わっている有名なものだったらしい。そこに建っていた建物は時代によって違うけれど、話の舞台になっているのは決まって同じ踊り場。実際、本当に鏡の向こう側へ連れ去られた人がいたかどうかは別として、鏡を撤去してもまたかけられているっていうのは有名な話だったし、その親戚もかかっていた鏡が割れた次の日に新しい鏡がかけられているのを見たことがあって、鏡を処分した用務員さんも奇妙な事故にあってるんだって。
僕たちが通ってたその当時かけられてた鏡は、十数年前にかけられたもので、噂によるとわざと最初から割れた鏡をかけてその上からお坊さんに封印してもらっていたらしいんだ。
封印って何を、って?
さあ?
ただ、その鏡の割れた表面にはたしかに古いお札が貼ってあったのを姉さんは見たって言ってた。
子供ってさ、無茶はするけど「本当に危ないもの」っていうのはなんとなくわかるだろ?だから校内ではその話を知ってはいてもその鏡に近寄る子は皆無だったらしい。当時学校では肝試しが流行ってたけど誰もその鏡の話には触れなかったし、授業では使わない校舎の外れにあったから、上級生でも一度も実物を見たことがない子が多かったって。
俺が一年生だった時、姉さんは四年生だったんだけど、その年の春、姉さんの学年に一人の女の子が転校してきたらしいんだ。なんて名前だったかなあ。聞いたんだけどちょっと思いだせない。まあいいや。
で、小学校のころを思い出してみればわかるだろうけど、転校生っていうのはだいたい最初はクラスでも人気者のグループに囲まれてちやほやされるだろ?だけどその子はなーんか陰気でさ、いくら話しかけられても二言、三言しゃべったら黙りこんじゃっていっつも本ばかり読んでたんだって。そんな感じじゃたいていのやつは話しかけなくなるよな。てわけで、クラスでも孤立気味だったその子と仲良くなったのが、そのころ同じ図書委員会に所属してたうちの姉さんだった、と。クラスは違ったけど、二人とも外で遊ぶより読書の方が好きだったことや、好きな本の趣味が合ったことでそれなりに楽しくやってたって。うちの姉さん、こわがりのくせにオカルト系の本が大好きでさ、そのつながりで同学年の子より怖い話にもくわしかったんだ。相手の子も怖い話は大好きだってことでよく二人で怖い話大会――大会っていっても参加者二人なんだけど――してたらしい。
そんなある日、姉さんがふと七不思議の話をしたんだ。最初から順番に話していって、その子もいつも通りただ聞いてたんだけど、鏡の話になった時、なんか様子がおかしくなった。すごく真剣な顔で、もっとくわしくその話について聞かせてほしい、できればその場所まで連れて行ってくれ、と言う。その時点で放課後で校内に人気も少なかったし、姉さんは怖がりだったからはじめは断った。だけど彼女は熱心に何度も頼んでくる。その熱意がちょっと怖かったけれど、二人で行くのなら大丈夫だろう、と姉さんは最終的にOKした。実のところ姉さんも本物を見に行くのはその日がはじめてだったので、ちょっと期待してもいたらしい。
実際に鏡を目の前にするとその子はおそろしいほど真剣になり、黙々と布をめくったり、破片に触れるぎりぎりまで顔を近づけて観察しはじめた。まるで何かを確かめているように。
三十分くらいで「確認」は終了したけれど、帰り道でもその子はずっとうわの空で、姉さんはその子が気づかないうちに鏡の向こうに魂を持って行かれたんじゃないかと怖かったらしい。そして、それから二週間くらいその子はずっとそんな感じだった。ただ、鏡の話をするときだけは妙に嬉しそうだった、と。
二人が鏡を見てから二週間たったある夜、学校に侵入した人がいた。表立った騒ぎにはならなかったけれど、それは校区内に住んでいる少年で、姉さんが仲良くしていたあの子の兄だった。あの鏡の前に崩れ落ちるように座っているところを、校舎内の警報装置が作動して駆けつけた警備員さんに発見されたらしい。
未成年だったこと、侵入だけで特に被害もなかったことで警察沙汰にはならなかったけれど、妹である彼女は一週間くらい学校を休んだ。姉さんも心配ではあったけれど彼女の家を知らなかったこともあってただ学校に来るのを待っていたらしい。そもそも彼女は自分の家の話をいつも不自然なくらい避けていて、兄がいるというのもその事件ではじめて知ったって。
そして、久しぶりに学校に来た彼女は、姉さんと顔を合わせるなり、こんな話をした。
入れ替わりが上手くいった。あの話は本当だった。本物の悪い兄は鏡の向こうに連れ去られてしまった。鏡の向こうから来た新しい兄はとてもいい人だ。と。
興奮して何を言っているのかよくわからない、日本語にすら聞こえないような部分も多かったらしいけど、だいたいこんなことを言ったそうなんだ。周囲の噂でなんとなく彼女の家庭環境を知らされていた姉さんは、彼女のその嬉しそうな様子にひどくぞっとした。
彼女の兄はもう何年も自宅に引きこもっていて、ほとんど不登校だった中学を卒業してからは進学も就職もせず家にいるのだという。親があきらめて放任しているのをいいことに、気に入らないことがあると家族に暴力をふるい、妹である彼女も毎日のように殴られていたらしい。
ここからは姉さんがその子に聞いただけの話なんだけど、彼女の兄は……なんていうか小さい女の子に興味がある人だったんだって。特に小学生にはすごく興味があって、常々小学校に侵入してみたいと言ってたそうだ。彼女はそんな兄が大っ嫌いだった。姉さんは写真で一目見たそうだけど、色白でぶよぶよと太った、いかにも「そういうこと」をしそうな気持ち悪い外見の人だったから気持ちはわからなくもなかったそうだ。
彼女はいつもどうやったら兄を今すぐこの世から消すことができるか考えていたが、人生経験も知識もない小学生ではろくな考えなんて思いつかない。そんなある日、姉さんにその鏡の話を聞かされた。
そう。あの話の主題は、鏡がどうこうじゃなくて、「向こう側」と入れ替わってしまうってことなんだよ。
成功すれば嫌いな兄はいなくなる。失敗しても社会から白い目で見られることになり、どこかへ行ってくれるかもしれない。試してみる価値はあった。
その日から彼女は少しずつ兄に小学校の敷地に入るための抜け穴や、警備員に見つからないルートをさりげなく教え、兄が侵入するようにその気分を煽っていった。そしてあの夜、彼女の兄は彼女が話した嘘――どんな内容かは教えてくれなかったらしい――に引っかかって鏡を見てしまった。鏡に貼られていた封印のお札は、あらかじめ彼女がはがしていた、と実物を見せてくれた。
帰って来た兄は、彼女の期待通りまったくの別人になっていたらしい。見た目は同じでも出かける前と同一人物とは思えないほど温厚で、もう家族に暴力をふるうこともなく、部屋にあった漫画やゲームをすべて捨てて昨日からバイトをはじめたばかりだと。さらに、その兄を見かけた元クラスメイトの近所のお姉さんの話だと、彼の右頬には大きなほくろがあったんだけど、それが左頬になっていたそうなんだ。もっとあげると、左利きが右利きになっていた。
そう。まるで、鏡に映して反転したようにね。
いらない兄は連れ去られ、望んでいた兄が来てくれた、と彼女は笑っていたそうだ。
もちろん、単に兄は改心しただけで、ほくろや利き手なんかもちょっとした勘違いなのかもしれない。けれど、本当に鏡の向こう側に連れ去られたのだとしたら、その後彼はどうなってしまったのか?また、入れ替わった彼はこの世のものではないのではないか?
そういった疑問以前に、姉さんは自分と同じたった十歳の彼女が罪悪感もなしにそんな話をすることになんともいえない恐怖を感じたそうだ。その話をする彼女がそれはそれは嬉しそうだっただけに。
それから二人はなんとなく疎遠になり、数ヵ月後姉さんが転校すると関わりは完全に途切れた。今はどうしているのかは知らない。
ただ、それから様々なオカルト体験をしてたいていのことには慣れた姉さんでも、その時以上に怖い体験はまだしたことがないらしい。
◆◆◆
「人の恨みはかうもんじゃないですねえ」
冴佳が両手で頬をはさんでぽつりとつぶやいた。
「小学生にもちゃんと悪意はあるわけなんだけど…。けっこうそういうことって忘れがちなだけに怖かったわ」
アリスがそれに同調するようにぱちぱちと瞬きをしながら言った。ゴミでも入ったのか、片目が少し充血している。
「でも、鏡の向こうに行っちゃうっていうのも案外悪くないかもね」
梨夏子だけがふふふと笑った。
清明は立ち上がって窓際に紙を置いてくると、大きく伸びをした。
「怪談ではあるけど、人間的な怖さがあるあたり清明くんらしいね。これ、単体でも十分にお話としていけるんじゃん?」
「んー。どうにも文章力が追いつかないよ」
紫苑の軽口に笑って答えながら、足を組み直す。
「あとちょっとで終わりか。まだ雨降ってるね」
外は相変わらず薄暗い。けれどさっきに比べれば窓を叩く雨音も弱くなってきているような気がした。
「ノア、この校舎って何時に施錠されるんだっけ?」
「残りジャスト三十分」
藍の問いかけに、ノアはキーボードを奏でながら淡々と答えた。
「ん。じゃあ、駈け足で行きますか」
なんだかんだで終わりは近い。
「どっちが先?」
梨夏子の問いかけに、藍はひらひらと手にした紙片を振った。
蛍光灯の光を集めて「九」が揺れた。
◆◆◆
九番……藍 礼彦 「ひとでなし」
みんな、ドッペルゲンガー、って知ってるだろ?そうそう。もう一人の自分が現れるっていうあれ。え?いやあ、それは知らなかった。……………うわ、そうなんだ。なんかさあ、たった今オレの中で知らなきゃよかった雑学がひとつ増えたよ。地味に怖いな、それ。……………………………………うん。
って、これから怖い話するのに話し手がヒイてたらダメだよな。いや、あ、うん。オレ、聞くのは好きなんだけど自分が体験するのはちょっと…………。いや、ちゃんと話すよ?それもとっておきのやつ。だからそんな目で見るなよ!
……ん。で、ドッペルゲンガーはみんなわかるんだよな?じゃあさ、「憑き物筋」ってなんのことだかわかるか?お、正解。ザッツライト。あー、でもこっちは全員が把握してるわけじゃないか。説明がいるな。
「憑き物筋」ってのは、一言で言っちゃうと「血」に呪いを潜ませた家系のことなんだよ。メジャーなのは犬神を宿らせる「犬神筋」とか蛇神の「蛇神筋」なんだけど。まあ、なんだ、遺伝病ってあるだろ?ある特定の遺伝子を持つ家系の人間に発現する病気。憑き物筋は、その病気を「呪い」に置き換えたもの……だとオレは理解してる。ん。「専門家」からしたらこんな説明、事実の一パーセントもかすってないかもしれないけれど、この話には小数点以下の知識だけあれば十分なはずだ。
すごく……アレなんだけどさ、がんばって理解とかしなくていいから。オレ自体いまだによくわかってないし。言い訳ってわけじゃないけど、他のみんなの話と違ってこれは「完結」してない現在進行形の話なんだよ。だから、下手な話でも勘弁してくれよ?
オレの友達………っていうほど仲良くはないんだけど、まあ、それ未満知り合い以上くらいの関係のある女の子の話だ。
その子とは小学校からの付き合いなんだけど、とにかく性格のいい子なんだ。
こんな言い方すると微妙だけど、女子ってちょっとしたことでいじめをはじめたり、そうでなくたって誰かの悪口を言い合うことでコミュニケーションとるようなとこがあるだろ?でもその子は全然そういうところがないんだ。いや。本当に。悪口を言うこともなければ、誰かをいじめることもない。そう見えてるだけ、とか、見えないところで実は、とかじゃなくて、本当にまったくもって一切そういうことをしたことがない。これはたしかだ。
そんな性格いい子だったら周りから慕われてそうなもんだろ?けどさ、それが意外とそうじゃないんだな。ううん。いじめにあうわけじゃない。そもそもいじめってさ、けっして無作為にターゲットが選ばれるわけじゃないだろ。いじめる側になるのに理由はいらないけど、いじめられる側に回されたってことは必ずどこかにきっかけがあるんだ。原因のない問題はないからな。
ってまた話が逸れる!
それで、その子はそれなりに友達もいて、クラスでも目立つ方ではないけれど誰からも尊重されるタイプではあるんだ。だけど、無条件に慕われてるわけじゃない。みんなどこか彼女と関わる時には距離を置いてるし、それ以前に彼女自身が一線を引いてるところがある。畏れられてる、って表現するのが正しいのかな。
いや、畏れるのと慕うのは違うと思うぞ。だって、キリスト教徒がキリストに遭遇したら頬擦りすると思うか?………いや。今のたとえはないな。忘れてくれ。
とまあ、彼女は見かけはとても善良だし、誰からも一目置かれているわけだ。ちょっと普通ではありえないんじゃないかってくらいに、な。
うん。本当のこと言うと、みんなは彼女を畏れてるっていうより怖がってる。彼女の機嫌を損ねることが怖いんだ。そして、彼女自身も自分の感情がマイナスに動くことを恐れている。
最初はたしか小五のときだったと思う。それまでは比較的彼女も他のみんなと同じように喧嘩したりマイナスな感情を発露させることもあったんだ。だけどある日、ある女子とひどい喧嘩になった。きっかけは、彼女がその女子がいじめていた子をかばったことが気に入らなかったとか、そんなことだ。
喧嘩っていっても相手の女子が一方的に怒鳴ってるだけで、彼女はただ悲しそうにしているだけだった。でも相手にはそれが気に食わなかったんだな。ずいぶんと長い間怒鳴ってたらしい。結局、喧嘩は相手が飽きて一方的に終わったんだけど、その日の放課後、その相手は下校途中にとつぜん車道に飛び出して死んでしまった。表向きにはふざけてた結果の事故死、ってことになったけど、飛び込む直前まで話していたその子の友達が学校で変なことを言い始めたんだ。
「あの子は彼女に突き飛ばされたんだ」ってね。
ややこしいから「彼女」をアキちゃんって呼ぶけど、その友達は、アキちゃんが自分の目の前でいじめっ子を車道に突き飛ばして殺したって言うんだよ。
えっとねー、結論から言うと、それは明らかにおかしいんだ。いじめっ子とアキちゃんは学校を出た時点で帰る方向が真逆な上に、事故が起こったその時間、アキちゃんはまだ学校にいたんだ。何人もの同級生が彼女と話してるし、先生だって彼女をみかけていた。それに対して事故現場でアキちゃんを見たって言ってるのはその友達ひとり。しかも死んだ子とその取り巻きたちはアキちゃんを嫌っていた。
普通レベルの思考回路があればどっちを信頼するに足るかはわかるよね?ただでさえ自己中心的ないじめっ子グループにはみんな辟易してたから、そんな話を信じる子はいなかった。ただね、不幸にも飛び出してきたいじめっ子をはねてしまった運転手さんも似たようなことを言ってたらしいんだ。「三人めの女の子が友達の背中を突き飛ばしたんだ」って。
次は中学一年のとき。詳細は省くけど、やっぱりアキちゃんに暴言を吐いた同級生が死んだ。それも他殺。
鋭利な刃物で頸動脈を切られて失血死したらしいんだけど、今度は三人の人間が犯人が被害者に切りつける現場を偶然見ていたんだ。彼らはそろってアキちゃんが犯人だと訴えた。けれど、その時も彼女はたしかにそこから離れた別の場所で大勢に囲まれていたことが確認されている。そもそも返り血は?凶器は?現場から逃げる彼女を誰も見ていないのはどうして?
結局、アキちゃんが犯人だという客観的証拠はひとつもなくて、いまだにその事件の真相は謎のままだ。
それからも同様の事件が一年に一回くらいのペースで起こった。アキちゃんが不快に感じるようなことをした人間が死に、現場で彼女の姿がはっきりと目撃される。けれど彼女には崩しようのないアリバイがある。
三件目にもなるとさ、みんな気づき始めたんだよな。これは偶然なんかじゃない。アキちゃんの機嫌を損ねた人間が殺されるんだ、って。ただの思いすごしで片づけるにはその法則は単純明快すぎた。
となると普通は彼女を避けようと思うよな。だって怖いじゃねーか。そんなよくわからない人間。だけど、そうすれば彼女は不快に感じるだろう。いくら表面には出さないからって、内心でどう考えているかなんてわからない。
アキちゃん本人も辛かったんだと思うよ。本当だったらなんとなく仲間外れにされるような状況が十分にできあがってるのに、誰もが自分の反応を恐れて優しくしてくるなんて。優しくされるってのは、責められるより何倍も辛いときがある。いっそのこと理不尽に嫌われた方が楽なんだろうに。ましてや腫れものに触るような態度を相手が必死に隠そうとしてるのが透けて見えるんだしな。機嫌を損ねないために機嫌をうかがうのに、やりすぎて機嫌を損ねないように、って、何重にも同じことが積み重なってるんだ。永遠の堂々巡りさ。する方もされる方も疲れるばかりだ。
そんなこんなで、アキちゃんは中学にあがったころからマイナスの感情を完全に殺してしまった、ように見えた。とにかくいつも笑顔なんだ。無理しているくせにそれを悟らせないために笑顔で塗り潰している感じだな。これは辛いよ。笑わなくなるよりも強い自制心が必要になる。
ここまででもある意味十分に怖いんだけどさ、どうして彼女にそんな能力?があるのかっていうのがこの話の本題。そう。今のは全部前置き。…うん。グダグダなのはわかってるよ。
アキちゃん本人に聞いた話なんだけど、彼女のお母さんの家系がちょっと特殊なんだってさ。ぶっちゃけると、話の内容から判断してその家系は「憑き物筋」らしい。
それだけならまだ比較的ある話なんだけど、なんでもその家系の憑き物は「自分自身」なんだって。
変な話だろ?憑き物筋っていうのは普通なにか別の生き物を使役するイメージなのに、その家系では自分自身を使うんだ。だから、厳密に言うとそれは憑き物筋じゃないのかもしれない。具体的には、自分自身の分身…生き霊みたいなものなんだと。オレもぜんぜんわかってないんだけど、憑き物筋の人間は使役する憑き物を飛ばして他人を不幸にしたりできるらしい。ただ、主人が未熟だと憑き物は勝手にその心の動きに反応して他人を襲うこともあるらしい。悪化するにつれてどんな小さなことでも憑き物は反応するようになり、主自身では制御できなくなる。そりゃそうだよな。それってつまり心があるからいけないってことだし。
ここまで言えばわかるだろ?…そう。そうだよ。事件が起こるたびに目撃されてたもう一人のアキちゃんは、彼女の心に反応した憑き物だったんだ。
どんな善人だってさ、プラスの感情の裏にはマイナスの感情があるんだよ。憎いとか恨んでやるとかそんな激しいものじゃなくても、ほんのちょっと悲しいとか辛いとか思うだけで相手が死んでしまう。いや、殺してしまう。たまったもんじゃないよな。
彼女が性格のいい子に育ったのは、将来その能力を少しでも抑えつけるために親が必死で誰かに悪感情を抱くことは最悪だと教え込んだからなんじゃないかな。誰も殺さなくていいように。
悲しいよな。
今のアキちゃん?普通に高校生やってるぞ。どこの高校かは秘密だけどな。そもそもアキちゃんって仮名だって本名に一文字も関係ないし。
………………ここだけの話、オレはいまだに普通に生活してる彼女のことが本気で怖い。っていっても、危険だから関わりたくないとかじゃなくてさ。
生き霊を飛ばすのって、すごく本人の身体を消耗するって言うだろ?つまり、それだけの思いをこめないと生き霊なんて生まれないってことだよな?オレが本とかで調べただけだからあいまいだけど、憑き物筋って言われてても本当にそういう能力を持った人間はまずいないんだって。たいていはなにかの隠語だったり、根拠のない噂だったり。アキちゃんの家系も、そうだったとしたら?実はそんな能力なんて家系にはなかったとしたら?
…察しがいいな。オレはここまでほとんど推測で話してきたけど、彼女が引き起こしたとされてることは視点を変えるとまた違った恐ろしさが見えるんだ。
みなまで言わないけどさ、生き霊を飛ばしまくっても何ともないってことからしてどれだけの感情を抱え込んでるのか見当はつくよな。それにもっと単純な話、自分がどんな相手でも直接に手を汚すことなく確実に殺せる能力を持ってると知っててそれでもまともな心を保って、かつ笑顔を絶やさないなんてこと、できるか?
これが小説や漫画の登場人物だったら簡単だろうな。だってしょせん紙の上のお話なんだから。だけど、自分の身になって考えてみろよ。
本当にそんなことできると思うか?
オレはできないね。少なくとも心がどっかイカれでもしない限り、そんな状態ではいられないだろう。だって、自分が何か考えただけで人が死ぬんだぞ?心底嫌いなやつだけならいいかもしれないけれど、親友や家族だって殺してしまうかもしれない。
しかも手を下すのは自分の分身なんだ。
それでも耐えられるか?
………だからオレは、彼女の笑顔がなによりも怖いよ。
◆◆◆
窓の外に雨が降る。
しとしとと。古びた雨どいを伝って、今にも壊れそうな校舎へじわりじわりと染み込んでくる。
蛍光灯の漂白されたような光の中に、ほんの一瞬、カッと黄色味を帯びた稲光が差した。窓際に並べられた九つの紙の上で、黒鉛色した手書きの数字たちが鮮やかに浮かび上がって見せる。それにほとんど被せて、天が壊れたような轟音が鳴り響いた。
近くに落ちたようだ。
ひょっとして同じ校内のどこかかもしれない。
そう考える間にもまた一筋の光が昏い空を駆け抜け、それを追いかける雷音が鼓膜に叩きつけられる。たった一瞬でも音は光に永遠に追いつけない。まるで徒競争でいつもビリになる小学生のように。
雷がどれほどの威力を持つのかまでは教科書には書いていないけれど、あれほどの力に狙い撃ちされたらたしかに人間なんてものはひとたまりもないだろう。
雷は「神鳴り」。そして「神也」。
そんな言葉遊びを考えた昔の人の気持ちが今とてもよくわかる。
他の校舎ならともかく、校内で一番古いこの校舎には避雷針なんてものはない。ここだけは落雷しないとの確信があったのか、雷撃で焼け落ちても構わないと思ったのか、単に予算がなくて先延ばしにされ続けた結果なのか。おそらく誰も答えなんて持ち合わせていないだろうそんな疑問を疑問のままで消去して、軽く前のめりになって座る位置を調整する。
室内を見回さなくても全員の視線がこちらを見ているのを感じながら、私は湿った部室の空気を可能な限り肺に詰め込んだ。
◆◆◆
十番……月原 茉莉 「もうひとり」
「ねえ、どうしてこの学校には文芸部が『あるのにない』のか、みんな知ってる?」
静かにそう問いかけられると、誰もが怪訝そうに目を細め、続いて横目で互いの表情を探り合った。けれど皆一様に不可解な表情で首を小さく左右に振るだけで誰も是と答える者はいない。
予想していたとはいえ同時にどこかで裏切られることを期待していた反応に、何とも言えない表情で苦笑する。しかしだからといってそこで話が止まるわけではない。こんなのはただのきっかけ。本題の枕以下なのだから。
「この学校の部活動には確かに『文芸部』がある。連絡掲示板にはスペースがあるし、予算こそ下りていないものの生徒会の資料にもちゃんと載っている。そしてなにより」
肩越しに背後のドアを指差す。それを突き抜けて、ドアの上部から廊下に垂直に少しだけ伸びている部屋の名前が書かれたプレートを指し示す。確認するまでもなく、もはや景色の一部と認識してしまうほどに見慣れたその表示は認識から簡単に呼び出せる。ほこりでくすみ、黄ばんだプラスチックの板に挟まれた紙を、そこだけ時間が止まっているかのように用意された日のまま黒々と飾る活字の流れ。
そこにはたった三文字だけが並んでいる。
「文芸部」と。
「いちおう私たちが間借りする形になってはいるけれど、ここは本来、文芸部の部室だよね。文芸部の部室だったもの、をもらったわけじゃない。文芸部が使わないから借りてるだけ。正確には、文芸部員がいないから借りてるだけ」
そこで言葉を切ると、誰かが引き継ぐように低く言った。
『部員がいない部活はすぐに廃部』
「そう。そして、文芸部にはもう何年も部員がいない。私が調べた限り、少なくともこの十年は。なのに文芸部自体は廃部にならないまま今も部室まで与えられている。不思議じゃない?そんなの、普通だったら噂になったり疑問に思う人間がいてもおかしくないのに、誰もこの件に触れない。それどころか知らない人の方が多かったりする。だって、八不思議にもカウントされてないんだよ?これって絶対何かあるよね?」
ひと呼吸する間にまた一撃、神が地上に墜ちてくる。
やめろ、と脅すように。
けれど声はあくまで機械的に思考を言葉に変換していく。
一度始まった話は止めてはいけない。それが怪談を語る時の唯一絶対無二のルール。
埃っぽい空気を吸い込んで、肺の中の二酸化炭素を吐きだす。
「聞いたんだけどね」
誰に、とも、どこから、とも続けない。大事なのはそんなことじゃないから。
「昔、ここで一人の生徒が変死したんだって」
雷が、落ちた。
明かりも、消えた。
曇天のせいとも時刻のせいともわからない薄墨色の暗闇が視界を覆っている。不健康な肌の白と、漂白された制服がかすかに浮かぶ以外は何も見えない。互いの表情も、相手が誰なのかさえも。それでも乱されることなくぼそぼそと話は続く。
昔――って言っても十年以上、二十年未満らしいけど――ある年のことです。この学校の文芸部に一人の女生徒が入部してきました。実はその年の春に文芸部の部員は全員卒業してしまい、文芸部は新入部員を迎えられなければ廃部になる予定でした。
彼女の入部によって部は何とか存続しましたが、その後新たに部員が増えることはなく、彼女はたった一人でした。
彼女には友達がいませんでした。正確には、仲のいい友達が、ということでしょうか。クラスメイトと他愛ない世間話をすることはできても、そこから一歩進んだことがないのです。彼女自身はいつもにこやかで明るい女の子でしたが、それでもどこか他人との間には埋めることのできない溝があるようでした。目に見えない境界線を引いているかのように、彼女は他人に近寄らず、他人を近づけさせようとはしませんでした。
彼女は、客観的には、とても孤独でした。
そんな彼女の学校生活最大の楽しみは、毎日の放課後にある部活でした。と言っても部員は彼女ひとり。作品の見せ合いも、雑談も、部誌を作ることも、ひとりぼっちではできません。それなのに彼女は、毎日放課後を待ちかねたように急ぎ足で部室へと通うのでした。
ある時、疑問に思ったクラスメイトが彼女に尋ねました。
『たった一人で部活してて楽しいの?』と。
すると彼女は静かにその問いかけをただ否定しました。
『ひとりじゃないから』と。
彼女が遠巻きにされていた理由の一つとして、入学直後からひそやかに、けれど消えることなくいつまでも語られるある奇妙な噂がありました。
彼女は、人でないものと親しく関わっていると言うのです。
いわゆる「見える」人、などというものではなく、彼女は「この世のものではない」ものとまるで人間に対するかのように身近に接しているのだそうです。彼女が他者と関わらないのは、その能力のせいで小学校、中学校と不気味な事件が多発したからだ、と。
そんなのはただの噂だと笑い飛ばす人もいました。けれど、彼女と同じ中学出身の生徒たちによれば、彼女に関わって不可解な体験や恐ろしい思いをしたと訴える人間はたしかに存在したそうです。複数の生徒が彼女と関わったその夜に細部まで一致した悪夢を見たり、いじめとまでいかなくとも彼女を馬鹿にしていた生徒が「何か」が自室に出るとノイローゼになったり。
どのクラスにも一人はいるような自称・霊感少女たちとは違い、彼女は「本物」だ。と、彼女を知る生徒たちはその固有名詞を口にすることさえ恐ろしそうにささやくのです。『ひとりじゃない』という彼女の発言も、その生徒たちに言わせれば幽霊が一緒だということなのだろう、と。
実際、生徒会に提出された部員名簿には彼女一人の名前しか記載されていないにも関わらず、当時隣にあった新聞部の部室には壁越しに楽しそうに話す彼女と誰かの声が聞こえてきていたそうです。
彼女にはそこまで深い付き合いのある友人などいないはずだというのに。
そもそも、それが誰なのか誰も姿を見た人はいないのです。男子生徒なのか女子生徒なのか。どこのクラスの誰なのか。
彼女は早く部室にやって来る日もあれば、事情があり遅くになって来る日もあります。文芸部の部室は廊下の並びの突き当たり。行くにしても帰るにしても、必ず同様に並んでいる他の部室の前を通らねばなりません。今となってはこの廊下にある部室はここ文芸部室だけですが、当時はもっと多くの部室が並び、たくさんの生徒たちがひっきりなしに行き来していたといいます。それにも関わらず、部室から行き帰りする彼女の姿を見かけたという生徒はいても、彼女の話相手である「誰か」を見かけた生徒は一人も、一度もいなかったのです。
そんな相手は実はいないのではないか。そう言う生徒もいました。会話は独り言の聞き間違いではないかと。けれど、会話を聞いたことがある生徒たちは口々に反論するのです。『同じ人間が一人で交互に会話しているフリをすることはできる。けれど、違う声質の二人が同時に話すフリをすることは不可能だ』と。
彼女は少々特徴的な声質をしており、薄い壁越しによく通る声の持ち主でした。それに対し相手は何の特徴もない、低くも高くもない声で、だからこそ二人が同時に笑い声を立てた時に二つの声の違いが際立って聞こえたのだそうです。
誰もが「姿の見えないもうひとり」を疑問に思っていましたが、触らぬ神にたたりなし、とばかりにそれ以上彼女に深く尋ねる生徒はいなかったといいます。
ところが、彼女が三年生だったある夏の始まりの日のことです。
その年、隣の新聞部に一人の女生徒が入部してきました。よく言えば元気で好奇心旺盛な、悪く言えば少々無鉄砲で暴走気味なところがある子だったといいます。その子は先輩から噂を聞くや否やたちまち文芸部と彼女に興味を持ちました。さっそく校内新聞で文芸部の噂について取り上げたいと主張したのですが、そのような内容、許可されるわけもありません。同じ噂として八不思議について扱ったりと当時の新聞部はなかなか活動的だったようですが、それでもやはり触れてはいけない領域というものはありました。しかし女生徒は納得せず、個人的に彼女のことを調べていたようです。
その日の放課後、その女生徒はたまたま新聞部の部室に一人でした。しばらくして、いつものように文芸部の彼女が通るのが廊下に面した窓越しに見えました。鍵を開ける音がし、ドアを開いて彼女が中へと入ります。
次の瞬間、女生徒は自らの鼓膜を震わせた音に耳を疑いました。たしかに、誰かが彼女に話しかけていたのです。
廊下を通り過ぎたのは彼女ひとり。
部室の鍵を開けたのは彼女。
なのに、部室にはもうひとり、誰かがいる。
全身を耳にするようにして聞いてみると、噂で聞いていた通りそれはたしかに別々の違う声質をした二人の会話でした。和やかに会話し、時には二人が同時に笑い声を立てているのです。
女生徒はしばらく壁越しに様子をうかがっていましたが、ふと、直接室内の様子をのぞいてみようと廊下へ出ました。ドアは閉まっているものの、廊下に面した小窓からは中の様子が見えます。女生徒は見つからないように注意しながらおそるおそるそこから室内をのぞき見ました。
そこには、ふたりの人間がいました。
窓側に顔を向けているひとりは彼女です。しかし、その向かいで背中を向けているもうひとりはだれなのかわかりません。ただ、彼女と同じくらいの長さの髪と、女子の制服を着た後ろ姿が見えるのみです。
いつ、その人は部室に入ったというのでしょう?
どうやって、見られることなくいられたというのでしょう?
いいえ。それ以前にその人は誰なのでしょう?
女生徒はなんとか相手の顔を見ようと必死に動きました。すると、つかんでいた窓枠が小さく音を立て、彼女と相手がそちらへと視線を向けました。
女生徒は、再び自分が認識した事実に戸惑いました。
振り返ったもうひとりのその顔は、その向かいに座る彼女とうりふたつだったのです。
その次の日の放課後、文芸部の部室で彼女の遺体が発見されました。
室内は密室だったことから、最終的には強引に自殺ということで処理されましたが、事件にはいくつか不可解な点があったそうです。
第一に、死因は首が絞まったことによる窒息死だったのですが、その痕がどう見ても後ろから誰かに絞められたとしか見えない様子でくっきりとついていたこと。
第二に、首を絞めるのに使われたはずの紐状のものが部屋中のどこを探しても見つからなかったこと。
第三に、彼女が死亡したと考えられる時刻の直前まで、彼女と「誰か」がいつものように会話していたのを複数人が聞いているにも関わらず、その「誰か」が部室から出るのを目撃した人間がいないこと。
第四に、密室状態にあった部室の鍵はその放課後、たしかに返却されていたこと。
そして第五に、一番不気味なことに、事務室に鍵を返しに来たのは、その時間にはすでに死んでいたはずの彼女自身だったこと。
これらの謎と、新聞部の女生徒が前日に見たもうひとりの話から、校内では様々な憶測が飛び交い、噂が噂を呼びましたが、その放課後に何があったのかは結局謎のままでした。
唯一の部員もいなくなった文芸部は廃部となり、部室は物置として封鎖されることになりました。しかし事件から数年が経ち、在校生にも事件について詳しく知る者がほとんどいなくなったころ、その部屋はある部活に部室として割り当てられることになりました。
最初の数か月は特に異変もなく、強いて言うならば何年も封鎖されていたほこりっぽさが気になる程度だったといいます。最初はいわくつきの部室に不安を示していた部員たちも新しい環境に馴染んできたころ、不可解な現象は始まりました。
誰もいないはずの、まだ鍵さえ開けていない部室内から人の話す声が聞こえる。
雑談をしていてふと部員の人数を数えると、本来の人数よりもひとり多い。
施錠をして下校しようとすると、内側からドアを叩く音がする。
などなど。
とにかく奇妙なことばかりが起こるのです。
はじめは気のせいだと言っていた部員たちも、こういった現象がほぼ毎日起こるようになるとさすがに気味わるがりました。部室を他の場所に移したいという意見も出ましたが、学校側は本気にせず取り合いませんでした。
そんな日々が続いたある放課後のことです。その日はちょうど事件の起こった日で、奇しくも当日と同じように雨が降っていました。
一人の部員が部室の鍵を借りに行くと、それはすでに誰かによって借り出された後でした。貸出簿に記載されているのは、聞いたこともない女生徒の名前です。部員は不審に思いながらも部室へと向かいました。
ところが、到着してみると部室の鍵はまだ開いていません。部員は他の誰かが来るのを待つことにし、ふと、廊下に面した小窓から中をのぞきました。
室内には、誰かが背中を向けて立っていました。
後ろ姿から女生徒だということは推測がつきます。けれど、それは見慣れた部員の誰でもない後ろ姿でした。
部員はとっさにすぐ横のドアノブに手をのばしましたが、やはりドアには鍵が掛かっています。仕方なしに部員は、施錠されている小窓を叩いて中の人物の注意を引こうとしました。すると、中の人物がゆっくりと肩越しにそちらを振り返りました。
その顔に部員は見覚えがありませんでした。けれど、部員は出しかけた声も忘れるほど驚いて振り向いた相手を凝視しました。
その首には、赤く細い紐がぎりぎりと食い込んでおり、その肩越しに紐を絞め上げている一対の手がのぞいていたのです。そして、首を絞められていた女生徒が床に崩れ落ちると、その向こうにいた人物の姿が部員の視界に飛び込んできました。
その顔は、崩れ落ちた女生徒とうりふたつでした。
部員はしばらく呆けていましたが、いざ教師を呼びに行って合鍵でドアを開けてみると、そこには死体どころか誰ひとりいなくなっていました。ただ、部員が見たものが夢ではないと言うように女生徒が立っていた辺りに首を絞めた赤い紐がぽつんと落ちていたそうです。
事件後に赴任してきた教師たちは部員の話を聞き流そうとしましたが、騒ぎが予想以上に拡大し生徒間に不安が広がったことや、事件を知る教師たちの提案もあって、部室は元通り「文芸部の部室」という扱いで放置されることになりました。封鎖されなかったのは、学校側が依頼した霊能力者のアドバイスに従った結果だそうです。その後文芸部は実際には「ない」ものの、表向きには「ある」ことにするという暗黙の了解のもとに現在に至っているとのことです。
なんでも、殺された彼女はともかく、謎の「もうひとり」はこの部屋に強い執着を持っている霊なのだとか。
気がつけば、その子は誰かと同じ顔をしてここに紛れこんでいるのかもしれませんね。
今でも。
◆◆◆
「で、何も起こらないね」
話し終えたまほは、緊張した場の空気を取り去るようにそう言うと、穏やかに微笑んだ。その一言で破裂寸前の風船のようだった緊張感が一瞬にしてしぼんでいく。
「んー。百物語って、噂が確かなら終わった瞬間に何か起こるんだよねー?数分待ってこれならもう何も無いのかな」
「でも、その『何か』が具体的に決まってるわけじゃないからね。もう起こってるかも」
不満そうな顔で椅子の背もたれをつかんで言う紫苑に、梨夏子がむきになったように答える。オカルト好きとしては、これが「失敗」として片付けられてしまうのは気に入らないのだろう。単に紫苑が相手だからかもしれないが。
「まあ、起こっても起こらなくてもいいんじゃん?普通に怖い話するだけでも面白かったし。ところで、まほ、それって本当にこの学校の話なの?今まで全然聞いたことないんだけど。たしかに文芸部がどうこうってとこはそうだけどさ」
放っておいたらまた一悶着ありそうな二人の会話に水を差すついでに、アリスがまほにそう問いかけた。
「そうです。まほ先輩、そこのところどうなんですか?」
いつも一番早く部室に来ることが多い冴佳は、返答次第によっては泣きださんばかりだ。
「さあ?ぶっちゃけ私も先輩に聞いた話だからねー。単に誰も話さないから忘れられていた話だったのかもしれないし」
そこでまほは意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「嘘、かもよ?」
「先輩……」
「……まほ、あんたそれ、なんか脅しとしては順番間違ってるよ」
アリスの脱力したようなつっこみも柳に風と受け流し、まほはただニコニコと笑う。さすが部員の中で一番のマイペースと呼ばれるだけはある。無責任というか無軌道というか。この十話の間、ほとんど特にコメントすることもなく、自分の番になればこれだ。まあ、それが彼女らしさなのだが。
「お、雨止んでる」
江夜が窓を開けながらつぶやいた。
雨で冷やされた夜気が、湿気に煮詰められたような室内の空気と入れ替わっていくのを肌で感じる。
停電はまだ回復していないようだが、この時刻ならもう関係ない。タイミング良く下校をうながす音楽がスピーカーから流れ始め、各々が帰り支度のために月明かりの下で動き始める。幻想的な雰囲気は二酸化炭素と共に窓の外へと流れ出していき、代わりに酸素を含んだ現実を私たちは身体のすみずみまで取り入れる。
「しかし、本当になにも起こらなかったねえ」
「まあ、たった十話ですからね。古式ゆかしく作法にのっとってるわけでもないですし。くじじゃなくてろうそく使ってたら何かあったのかもしれませんけれど」
「今度はもっと余裕持ってやりたいよね。あ、夏休みにどっかの墓場でやる?一晩中かけて」
「蚊にさされるのはいやだなあ」
「暑そうですよね」
「テント張ればいいじゃない」
まほと冴佳のややずれたやりとりに梨夏子が更にずれた突っ込みを入れ、どんどん脱線していく会話を紫苑が何か言いたそうな顔で聞き流している。
その横では、藍と清明が同じクラスの水城に、明日の朝一番に行われる小テストの範囲について教えを乞うている。
「今日、の、宿題、やれ、ば、大丈夫、じゃない?」
「その宿題の段階でつまずいてるから困ってるんだよ!」
「そうだ!馬鹿は大丈夫じゃないんだ!」
つれない水城にぎゃあぎゃあと抗議する男子二人に、様子を見守っていたアリスが助け船を出す。
「なんなら今日の小テストいる?先生一緒だし、たぶん同じ問題でしょ」
「アリスちゃんマジ神さま。優しい」
「馬鹿。アリスさんだろうが」
「いや。むしろアリスさまだろ」
会話に加わっていないノアはといえば、シャットダウンしかけの画面を見ながらなにやら考え込んでいる。
十人の部員たちは、相変わらず好き勝手に楽しそうだ。
◆◆◆
いつの間にか寝てしまっていたようだ。
なにか夢を見ていた気もするけれど、その残滓は思いだす前に肺から吐き出される二酸化炭素と一緒に空気中へと還元されていった。
カーテンのように視界を覆っていた髪をはらいのけて首をもたげると、頭の重みに耐えていた部分がズキリと痛んだ。そのまま視線を上げると、窓ごしに、夜を従えた月がこっちを見下ろしていた。意識があった時に見ていた空はたしかに雨を降らせる曇天だったというのに、今見上げているそれは、暗くはあれど澄みきった色をしている。時間の経過は天気さえも変えてしまったようだ。窓際の長机の上では、プラスチックのタグで飾った鍵が月光を受けて鈍い銀色に光る。
枕代わりに組んだ腕をどかすと、開いたっきりまだ一文字も書かれていないノートのページが現れる。執筆開始とまではいかなくても、なにかアイディアが浮かべばとわざわざここを選んだのに損した気分だ。しめきりまでもうあと一か月もないというのに。
誰が聞いているわけでもないけれど、耳で再確認したらよけいに気分が落ち込む気がして、それでも行き場の無いやるせなさに心の中だけでため息をつく。
書かなければ物語は始まらない。けれど流さなくても時間はどこかに行ってしまう。そもそも怪談に挑戦してみようと思ったのが間違いだったのかもしれない。文章力以前にネタが見つからないのだ。
「百物語、とか、一人じゃ無理だよねえ…」
百、せめて十人で怪談をすればなにかインスピレーションを得られるかもしれないが、私にはその望みも薄い。こういうとき、友達とか仲間の必要性を痛感する。なにごともないよりはあった方がいいものだ。
とにかく今日はもう帰ろう。そう心に決めて立ち上がる。
たいして広がってもいない荷物を片付け、薄くほこりの積もった部室に別れを告げて外へと出る。
ドアを閉める音ばかりが、誰もいない静まり返った廊下に恐ろしいくらいに響いた。遠くに聞こえる、最終下校をうながす放送が、まるで警鐘のように背中を押す。よろけるように廊下へと一歩、壊れた人形みたいにぎこちなく歩きだす。
両脇を教室に挟まれて窓がないため、実際の時刻よりも暗いくらいだ。その中に申し訳程度に点在する蛍光灯の貧乏くさい点滅を見上げながら、私はとぼとぼと階段までの短い廊下を歩く。一歩、また一歩と部室から遠ざかるたびに、私の身体に入り込んだ「現実」が毒のように内側から蝕んでいく。
良い子は早くおうちに帰りましょう。
逢魔が時にはまらぬように。
違和感なく聞こえる「とおりゃんせ」の旋律は、まるでそうささやきかけているかのようだ。
「行きはよいよい、帰りはこわい」
どうせひとりぼっちのなのをいいことに、歌というよりはひとりごとに近い調子っぱずれな声を出してみる。
「こわいながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせ」
暗い静かな廊下には、少しだけ上ずった自分の声ばかりが響く。
誰も通るはずがない。こんな時間に、こんな場所なんか。この階のこの廊下には、あの部屋しかないのだから。
封鎖され物置と化した室内を晒している小窓を通り過ぎるたび、ひとつひとつ横目で眺める。ほとんど暗くて何も見えない中に棚や机が無造作に並んでいる光景は、少し不気味で物悲しい。この校舎全体が忘れ去られてしまっている以上、それは仕方のないことなのかもしれないけれど。
事務室で部室の鍵を返し、校舎の外へと出る。部室の額縁のような小さな窓越しには見えなかった綺麗な星空が広がっていた。いつやんだのかは知らないけれど、うっとおしい湿気は夜空を掃除する程度には役立ってくれたらしい。
校門まで歩く途中、少し前を歩く女子グループの声が耳に届いた。
「さっきの雷ヤバかったねー」
「うん。絶対どこか近くに落ちたでしょ」
「そういえばさー、さっき部活で雷の話になった時に先輩に聞いたんだけど」
「えー、なにー?」
「怖い話とかー?」
「そーそー」
「え。マジで。ちょっとマジそういうのないんだけど」
「なに。あんたオバケだめなの?」
「うん。オバケと数学はないわ」
「ちょっ。なんで数学。ウケんだけど」
「いや、だって数学ヤバくね?期末赤点の可能性濃厚っすよ。ただでさえ中間ヤバくて、かーちゃんに超キレられたんだけど」
「あー。うちもママがさあ…」
「そんなことより、それってどういう話なの?」
特ににぎやかな二人によって脱線しようとしていた話題の真ん中に割って入るように、リーダー格らしい子がそう話を振る。予定調和のような会話に付き合うよりは、ずっとマシだと判断したのだろう。横から話を奪われて黙っていた話し手の子は、急に自分の番が回って来たことに戸惑ったようだったが、すぐにペースを取り戻した。
「あのさー、校内の隅に旧クラブ棟あんじゃん?」
低く、けれどメンバー全員に聞こえる程度の声でそう切り出す。内緒の話をするようなその雰囲気に、横並びに広がっていたメンバーたちは、歩きながらも上半身を話し手の方へとかたむける。
「あそこ、『出る』んだって」
お約束の一言にこれまたテンプレート通りの反応として、合わせたように驚嘆のため息がこぼれる。
「具体的には、三階の文芸部の部室に出るらしいの。………ほら、この間生徒総会でちょっと話題になったけど、うちの学校に文芸部なんてないじゃん?なのになぜかあることになってるあの文芸部。そこに『出る』って話でね…」
聞き手をじらすようになかなか核心に触れない話し方は、少しつたないけれど怪談をするにはぴったりだ。書く予定の作品の参考にしようと、私は近づきすぎず、追い越さない程度の速さでグループの後ろについた。
「あのクラブ棟は一度建て直されたものなんだけど、その前、って言ってもかなり昔らしいんだけど、やっぱりクラブ棟があったんだって。けどね、今日みたいな雷が激しかった夏の日に、落雷があって、木造だったせいもあって火事になったんだって。でね、当時は避雷針なんてなかったから落雷は直接、当時から校舎三階の一番端にあった文芸部の部室に落ちて、逃げられなかった部員が死んじゃったんだってさ」
「へー。雷ってやっぱ危ないんだね」
リーダー格の子が軽口じみた相槌を打つ。しかし、話し手はあくまで淡々としている。
「で、その時部員たちは百物語のノリで一人一話ずつ怪談をしていたらしいんだけど、参加していた十一人の部員のうち、十人目の話が終わったところでちょうど雷が落ちたんだって。最後に話すはずだった十一人目の部員は、その時たまたまトイレに行っていて助かった。その後からなんだって。あの部室に幽霊が出るって噂が立ったのは」
そこで余韻を含ませるようにいったん言葉を切り、
「ずいぶんと色々あったみたいだよ。少なくとも文芸部が今みたいに特別待遇を受けるようになるくらいまでは。でね、百物語は、一度はじめたらちゃんと最初に予定してた話数を話し終えなきゃならない。でも、その百物語は途中で途絶えてしまった。…助かった部員は体は無事だったけど、精神的ョックで学校をやめてしまい、文芸部は廃部になった。でも、死んでしまった部員たちは、今もそのいなくなった部員を探してる。正確には、最後の話をして百物語を終わらせてくれる誰かを。だから、事故があった日みたいに激しく雷が鳴るようなこんな夏の日は、あの部室で部員たちが最後の一人を待ちながら百物語を繰り返してるんだって」
話し手が口を閉じると、一同はしばらくの間その言葉を噛みしめるように黙りこんでいたが、やがてまた他愛ない陽気さを取り戻しにぎやかに騒ぎながら校門を出て行った。
怪談をするには雰囲気も重要だ。日暮れ時、というチョイスは悪くなかったのだろうけれど、本格的に怖がらせるには聴衆の心の準備が足りなかったようだ。
それにしても、さっきの話は初めて聞く種類のものだった。文芸部が『ない』ことになっている事実には現役にして唯一の部員として一言物申したい気分だが、まさか帰り道にこんな話を聞けるとは。明日にでもなにか資料がないか部室を漁ってみよう。
しかし、さっきからずっと首が痛い。寝違えてしまったのだろうか。ズキズキとした痛みがとまらない。思わず首筋を押さえる。すると、何かが指先に触れた。
指でなぞって確認すると、それはくるりと首全体に巻きついている。細い、けれどしっかりとした感触の、糸というよりは紐のような。今まで気づかなかったのが不思議なくらい、それは異物として私の首筋にまとわりついていた。
足を止めて、右横に続いている校舎の窓ガラスへと向き直りのぞきこむ。蛍光灯によって鏡になったその中を。
寝起きで血の気の失せた顔。その下に続く制服を着た身体。
見慣れた自分が、自分と同じ姿がそこには映っていた。ただ違うのは、それがどこかよそよそしく感じられるということ。
まるで、鏡ではなく、自分によく似た誰かを前にしているように。
そして、青白い私の首筋には、絞め上げるように真っ赤な紐が巻きついていた。