-(3)
一瞬、奏志の瞳が鋭い光を宿してこちらを見つめた気がした。
いや、幻想だろう。
遥は自嘲する。
奏志を想う心が見せた、都合のいい幻。
そう、私は雅のもの。
そして、……奏志も。
2人して、彼女に絡めとられているから。
だから、わかってる。
奏志への想いは、彼に一生届かないだろう。
「あ、私、今日早く帰んなきゃいけないんだった。雅、そろそろ帰るね」
「えー!来たばっかりじゃない!」
遥は不満そうに口を尖らせる雅に苦笑しながら席を立つ。
極力、奏志を見ないようにして。
これ以上、ここにいるのは辛すぎる。
「ごめんね、雅。また遊びに来るからさ」
すまなそうに告げると、雅は渋々承知する。
「じゃ、また―――」
「遥」
唐突な呼び掛けに、背筋が凍る。
まさか、気づかれた……?
「な、何?」
振り替えると、どこか楽しそうな雅と目が合う。
「遥、ちょっと貧血ぎみだったでしょ?奏志に送って貰いなよ」
「……!で、でも」
「何遠慮してるの?昔はよく3人で遊んでたじゃない。最近、何だか遥と奏志、ぎこちない感じだし……」
雅は目を伏せ悲しそうに言う。
「そ、そんなことない!」
思わず咄嗟に否定してしまうと、雅は途端に嬉しそうな表情に戻って奏志な方を向く。
「ほんと?じゃあ、奏志、送ってあげて!」
「はい」
奏志は従順に答え、雅から離れ遥の方に向かってくる。
心臓の音が、痛いくらいに鳴っている。
遥は急いで背を向けると、ばいばい、と一言言って玄関を後にする。背後から奏志が付いてくる気配がしたが、一度もそちらは見ないで足を速める。
雅はずっと嬉しそうだった。
何も、知らないから。
無言で足を進める。
思えば、二人きりになったのはいつぶりのことなのだろう。
あの時が、最後だ。
遥は遠い記憶に思いを馳せる。
「……るか様」
懐かしい、甘い記憶。
「遥様!」
はっと我に帰る。
「な、何?」
「家はこちらではないのですか?」
見ると、考え事をしていたせいで曲がり角を大分過ぎてしまっていた。
「あ、ほんとだ。ありがと」
「いえ」
淡々とした受け答えに、ちらっと視界の片隅に彼を捉える。
端整な顔立ちに黒髪がよく似合っている。
また心拍数を上げ始めた心臓を宥めるように、遥は言葉を探した。
「覚えててくれたんだね、私の家」
「はい」
当たり前のように返された答えに、それだけで胸が高まる。
そこに何も特別な感情はないと、わかっていても。
「様、なんてつけなくてもいいのに」
小さく呟いた声が聞こえていたらしい。
「いえ、私は雅様に仕える執事。雅様の親友である遥様に敬称をつけるのは当然のことです」
遥は急に立ち止まる。
「……?どうしましたか?」
「いつから、かな」
駄目だ。このまま話を続けていたら、絶対苦しい思いをする。
でも、でも、
「いつから、私たち、こうなったのかな」
黙り込んだ奏志と遥を、風が掠めていく。
何も言わない奏志に、遥は初めて目を合わせた。
―この瞳に、囚われた。囚われた時は、私たちはただの"遥"で"雅"で"奏志"だった。
「ひとつだけ、聞いてもいい?」
駄目なのに。
頭ではわかっているのに、
止まらない。
「あの約束、覚えてる?」
声が震える。
声だけじゃない。体も、心臓も、その奥底にある心も。
奏志は一瞬目を細めた。無表情に、何の色も宿らない瞳に遥を映す。
「……いいえ。何のことでしょう」
揺るがない答えに遥はそっと目を閉じて、ううん、と首を振る。
「覚えてないなら、いいの」
そして静かに佇む奏志から視線を外し、じゃあね、と言い残して家へと向かう。
背中に纏った拒絶の印。
きっと奏志は追ってこない。
*
遥は家に入ると、おかえり、という声を無視して自室へ向かった。
扉を開け、閉める。
「……」
目が、霞む。
痛い、痛い、痛い、痛い。
「ぅ、あ……」
覚えてなかった。わかってた。あんなの、子供の戯れ言だって。
知ってた、はずなのに。
心のどこかで期待してた。ずっと、奏志が今のようになってしまってからも。
「ぅぅ、ぅぁ、……!」
漏れてしまいそうになる泣き声を必死に抑える。
遥はベッドに突っ伏し、そのまま泣きつかれて眠りに落ちるまで声を出さずに慟哭した。
「そう、し……」
眠りに落ちる寸前、遥が呟いた彼の名前は思ったよりも優しく、遥の耳に響く。
そして遥は闇に意識を委ねたのだった。