3話「後で死にます...」
名前が思い出せない。
いつも側にいた誰かが居なくなったような、大切だった何かが壊れたような、いやそれよりももっと事実は私に重くのしかかる。
私は誰なのか。
どこから来たのか。
何をしていたのか。
心には恐怖と不安しかなかった。
そんな私に彼女は手を差し出した。
私の焦りや恐怖なんて一切知らないといった顔で。
それは私に「ついてこい」と静かに示していた。
「い、いかない!」
震えた手を押さえ込んで、ムリに声を張った。
このままついていけば何をされるかわからないという恐怖が、私をとどまらせた。
しばしの沈黙の後、彼女はふいと私の顔から目線をそらして両手を合わせた。
供珀さんを警戒しながらその先に目をやる。
路地の奥から何かがやってくる。
人ではないそれは、小さな花束だった。
花束はひとりでに風を切るように揺れて、目線の高さでぽつんと浮いたまま、夕焼けに影はない。
それが、こちらへ来ているのだと気づくまで、ずいぶん時間がかかった。
私の手前で静止したそれの中央には、小さな手鏡があった。
そこには私以外の何かの目がひとつ映っている。
ぞくりとして空を見上げた。
夕焼け空のかわりに大きな目が、じっと私を見ていた。
「今死ぬか、後で死ぬか」
供珀さんの声が少し遠くから聞こえた。
空の目は私を見つめて離さない。
歩き始めた彼女に縋るようにして言った。
「あ、後で死にます...」
言葉が出たのは、目の前の恐怖から逃げたかったから。ただそれだけだった。
─────
家は歩いてものの数分。
決して新しいとも大きいとも言えない平屋の一軒家。両隣はまだ薄明るいのに、この家だけ真っ暗だった。
「ついた。離れろ」
供珀さんは突慳貪に言った。
私は必死にしがみついて、首を横に振る。
まだ、後ろに何かがいる気がした。
小さなため息。供珀さんはガラス戸を足で開ける。
蹴り飛ばすように草履を脱いで、ずかずかと家に上がった。
決して後ろを振り向かないようにして戸を閉める。
薄いガラス一枚の安心感が、かろうじて心を繋ぎとめてくれた。
「その辺で待ってろ」
玄関は足の踏み場もなかった。廊下も同じ。
通された居間も変わらない。
けれど部屋の一部、掃き出し窓の前だけは異様な程に整っていて、畳まれた着物に足袋に、すべてが新品同様キレイに置かれていた。
まるで誰かがそこで洗濯物を畳んだ後のような、そんな感じがした。
「あったあった」
居間の奥、台所から供珀さんの声がした。
ガチャガチャと音を立てて、ガラクタの山から取り出したのは──肘から先。
先ほど見た緑色の鼓動が頭をよぎる。
彼女はそれを、まるで電池でも変えるよう腕にくっつけた。
カチリと音がしてすぐに手のひらは動いた。
......やっぱり彼女、人間じゃあない。
そう思ったと同時に、私は先ほど見た花束と目を思い出して身震いした。
「供珀さん」
「あ?」
「さっきのあのお化けって、なんなんですか...?」
供珀さんは感覚を確かめているように、何度か手を結んで開く。
そして、その問いに少しだけ間をあけて、ため息混じりに答える。
「神様」
私に向けた横顔は、どこか憂うように見えた。




