君は笑った、落ちぶれた僕に。
高校時代の君は、クラスで男友達と馬鹿なことを話しているときに、それを近くで聞いていて笑ってくれる唯一の女子、という印象だった。
君と本当の意味で初めて出会ったのは、高校の同窓会でのことだった。
三次会のカラオケで、皆が恥ずかしがって僕と同級生の古田君しか歌っていなかったときのことだ。
僕の鼓動は早まっていて、普段はしない合いの手なんかもたくさん入れていた。
君が突然「とびら開けて」を歌い始めた。
歌声も、笑顔で横に揺れながら楽しそうに歌っていたのも、今でも鮮明に覚えている。
あの瞬間は、君の姿がエルサに重なって見えた。
今思えば、君と出会えたのも別れたのも、全部、この病気のせいだったのかもしれない。
終電が近くなり、ほとんどの人が去ってしまった後、残った6人で朝まで歌った。
僕の目からは、君は高校時代友達が少なかったように見えていて、その数少ない友達は皆帰ったようだったが、君はその6人の中の一人に含まれていた。
途中、何回か二人でデュエットを歌った。
確か、椎名林檎の曲を何曲かと、「打上花火」。
帰り道、僕は君に話しかけ、今の君が何をしているのかをたくさん聞いた。
気づいたら、他の4人は遠くを歩いていた。
電車内で予定が空いているかを聞き、またカラオケに行こうと誘うと、君は快諾してくれた。
成人式の日、地元の友達と共に、ゲストで来ていたコロコロチキチキペッパーズの下らないネタを見せられている時、僕のスマホに一件の通知。
「今から会えない?」
「振袖可愛いから見てほしい」
心臓が跳ねる音が聞こえた。
すぐに友達に別れを告げ、自由が丘へと向かう。
少し遅刻して改札から出てきた君の、しわくちゃな笑顔が忘れられない。
高校の時に通っていた塾の向かいにあるカフェの屋上の席で、僕は躁鬱であること、バイトもしていないこと、大学もまともに行けていないこと、全部話した。
もう君のことを好きになっていると確信していた僕は、後にその事を知られた時に幻滅されてしまうのが、怖かった。
「君は気にしてるかもだけど、私は全然気にしないよ」
嬉しかった。
落ちぶれてからの僕のことを初めて認めてもらえた気がした。
その後、カラオケに向かう。
酒が入っていたこともあって記憶が曖昧だが、後に聞いた話では、そこで僕が
「もう好きになっちゃったから、次のデートで告白するね」
なんてことを言っていたらしい。
次のデートは1週間後だった。
葛西臨海公園の観覧車の中で、告白した。
今まで告白という告白をしたことがなかったから、自分の顔が緊張して引き攣っているのが言葉を発しながらでもわかった。
酒を飲んでからにすればよかったと後悔した。
バレンタインが近いからと言って、君は好きなお菓子が何かと僕に聞いてきた。
いちご大福だと答えた。
次のデートで、いちご大福を持ってきてくれるらしい。
その後すぐに、付き合って初めてのデートに行った。
場所は川崎。
付き合いたてだということもあってか、時間も忘れてコメダ珈琲店で数時間も話をした。
君は
「クイズを作ってきたから」
と言って、スマホの画面を差し出してくる。
そこに映し出されているのは一束のほうれん草の写真。
「これはなんですか?」
「ほうれん草」
画面をスライドする。
「これはなんですか?」
「チンゲンサイ」
また画面をスライドする。
「これはなんですか?」
「小松菜」
君は、僕がこの三つのよく似た野菜を見分けられることに驚き、笑っていた。
何回か繰り返した後に、僕の一番好きな女優の顔が出てきた。
「これはなんですか?」
「小松菜奈」
二人で爆笑した。
こんなに面白い人と付き合ったことは今までなかった。
あともう一個だけ付き合ってと言ってまたスマホの画面を差し出してくる。
そこには闇夜を背に佇む仮面ライダーWの写真。
「これはなんですか?」
「半分菅田将暉」
また二人で爆笑した。
「伝わらないと思ってたのに!」
そう言いながら嬉しそうにしていた。
帰り道、僕の方から手を繋ごうと誘う。
君は、微笑みながら、
「人前ではちょっと」
その声は、少し強張って聞こえた。
今思えば君は、恋愛に。
いや、僕という人間に縛られることを嫌っていて、僕との間に見えない壁を作っていたのかもしれない。
それからは、会うのは三週間に一度くらい、連絡するのも三日に一度くらいのペースだった。
理由は、君が話すことが苦手で、会ったときにたくさん話題ができると提案してきたから。
僕と会っていない時の君は、バイトに大学、飲み会にカラオケと充実していた。
君と会っていないときの僕はというと、ずっと家に引きこもっていた。
少し君に嫉妬していた。
そんな自分が嫌になった。
僕が一人暮らしをしている千葉の家に、彼女が来ることになった。
理由は、君が一番好きな映画「シン・ゴジラ」を一緒に見たいのだが、もう上映が終了しているから、ということだった。
家に着くと、早速Amazonプライムで映画を再生する。
途中で突然君は、
「次の台詞が気になったときは、教えてね」
と言い、私は驚いた。
実際にそれを教えると、彼女は次の台詞を次々と言い当ててゆく。
得意げな顔をしていた。
映画を見終わった後、僕の方から、彼女の手を握り、身体を寄せた。
彼女はそれを拒んだ。
「私、本当に異性の人とそういう関係になるのが苦手なの」
そうだったのか。
少し残念という気持ちと、彼女がまだ純粋であることの喜びが入り混じり、心の中が少し乱れた。
その日は、コンビニで買ったご飯を二人で食べ、帰路についた。
北千住に着いたことを知らせる車掌の声を聞き、電車を降り、改札を出る。
そこで頬を膨らませながら遅刻したことを怒っている君の顔は、それまでのものとは明らかに違った。
その事を伝えると、君の表情が緩んでいき、こう言った。
「たくさん褒めてくれるから、楽しくなってきて、メイク勉強してきたの」
正直、君の顔はタイプじゃなくて、とても可愛いとは思えていなかった。
君がメイクの勉強をした後でもそれは変わらなかった。
でも、会う度に好きになっていった。
スカイツリーの下で、初めて君の方から手を繋ごうと言ってくれたときは、息を呑んだ。
二人で旅行に行った。
場所は僕の祖父母の家がある秩父。
何もないところだ。
初めての旅行であまり遠出はしたくないと君が言った上に、特にいい案も思いつかなかったから、そこにした。
何より、君とならどんな場所でも楽しめると思っていた。
結局のところ、本当に何もなさすぎて、あまり楽しめなかった。
それでも、二つだけ思い出に残ることがあった。
宿泊した宿で、君が持ってきた紙風船を使って二人ではしゃいだこと。
もう一つは、帰りの電車に乗る前に立ち寄ったカフェで、君が結婚を考えていると話してくれたこと。
素直に喜べなかった。
いずれ別れると思っていたから自分に付き合わせていることに何も感じていなかったが、そう言われると突如として罪悪感が込み上げてきた。
自分に付き合わせていて、僕は君の時間を奪っているんじゃないか。
そう思い始めた。
次に君に会った日が、君と会える最後の日だった。
僕はその頃少し鬱症状が悪化していて、元気がなかった。
君の目からもそう見えていたと思う。
その前の数週間は、連絡もまともに取っていなかった。
次にあったら別れを告げようとも思っていた。
二軒目のカフェで、君は突然、
「お酒が怖い」
と繰り返し始めた。
僕の目を見ては逸らし、見ては逸らし、申し訳なさそうにしていた。
「なにかあったの?」
と聞くと、君は驚くべきことを話し始めた。
僕と連絡を取っていない間に、男友達の家に行き、同じ布団で寝て、胸を揉まれたという。
別れを告げる絶好の機会だと気づく前に、僕は、そのことに対しての怒りの言葉を並べてしまった。
やっぱり、僕は君のことが好きで、離れたくないのだと気付かされた。
その日は僕が怒った事で険悪な雰囲気になったので、夕方には解散した。
訪れる別れを想像したら、家路につくための一歩が踏み出せなかった。
小一時間経ったあと、地元の友達が旗の台で麻雀を打っている事を思い出す。
そこで君への鬱憤を晴らせば、少しは別れたときの傷口が小さくなるだろうと思った。
到着してすぐ、皆に顔色が悪いことを指摘された。
僕は彼女の愚痴をこぼしながら、同時にこうも感じた。
君に触れようとしても、抵抗されるのに、牌は無抵抗なまま。
その呆気なさが、恋しいと。
翌日、君の発言について、考えた。
少し時間をかけて、君の話は嘘だということに気づく。
彼氏である僕と手を繋ぐことですら拒んでいた君が、そんなことをするはずがなかった。
おそらく君は、私と別れるつもりで、その責任を自分に擦り付けるために、その話を考えてきたのだと。
本当は、僕のせいなのに。
数日後、僕の方から連絡をして、数十分後に返事が返ってくる。
わかっていたことだ。
そこに書いてあったのは別れの言葉。
不思議と涙は出なかった。
おそらく、少し時間があって気持ちの整理がついていたのだと思う。
取り乱すことなく、僕も返事をした。
まだ別れて間もないからだろうか、よく君のことを思い出す。
今の落ちぶれた僕に、気にしないと言ってくれる人はもう現れないだろう。
僕は写真に写るのが好きじゃないからといっていつも断っていた。
けれど、一度だけ君がわがままを言って撮った、西武秩父駅前の二人の写真が、今も僕のアルバムの中に残っている。




