梁山好漢綺伝「時遷、盗みの技を学ぶ」
飯をねだるときは、靴を見ろ。
つい先日、時遷と父にそう教えた老人は今、少し離れた道端に襤褸布のごとく転がって、もう息をしていなかった。
本物の金持ちは、良い靴を履いている――ほとんど歯の残っていない口を大きく開けて笑った老人は、最期の飯になるはずだった冷粥を、自分たち親子にすべて食わせてくれた。
涙を流さないのは、その涙をめがけて蝿が集ってくるのを厭うから。立ちこめる死肉の臭いに吐かないのは、吐くだけ食っていないから。葬ることができないのは、痩せこけた人間の身体ですら、運ぶ気力がないからか。
「父さん、もう、うちに帰ろう」
高唐城下から東へ一里ほど行けば、時遷たちの暮らす村がある。
小時荘は、決して豊かな村ではなかったが、それでも時遷が幼い頃には畑があり、店があり、人々の笑顔が行き交っていた。それを奪ったのが決して日照りだけではないことを、時遷は知っていた。慎ましく平穏な生活を奪った者が大勢住んでいるこの高唐城下で、物乞いをしなければ生きていけないことが、どれだけ惨めかも、知っていた。
「遷児、もう少しだけがんばってみよう、な」
「でも、もう誰も来ないよ」
「歩けるか? 少し、場所を変えよう」
いい子だ、と時遷のもつれて伸び放題になった髪を撫でた父の手つきは、まるで小さな子どもをあやすそれだった。数え間違いでなければ、今年時遷は十五歳――だが、生まれついての性質なのか、はたまた満足に食えないままに育ったからか、小さく細く頼りなげな時遷の身体を見ても、決してすでに大人とも呼べる歳の少年には見えなかったろう。
「この世の優しさを忘れてはいけないよ。天は必ず善人を救ってくださる。時遷、どんなにつらくても、絶対に誰かのものを盗んだり、自分を傷つけて貶めたりしてはいけないからね」
父は、優しく、高潔で、とてもまじめな農夫だった。時遷を産んですぐに死んだ母の分まで、父は惜しむことなく時遷を愛してくれた。時遷の小さな手を包み込む大きな手は、餓えに苦しんでなお温かかった。どんなにつらくとも、誰かを恨んだり、泣き言を言ったりしない人だった。自分だって腹が減っているだろうに、恥を忍び物乞いとして得たわずかな飯の大半を、父は時遷に与え続けた。
(……天なんて、何も見ちゃいない)
暗い夜だった。
まちだけでなく月さえも、雲を纏って眠りにつく夜だ。
だが、時遷の目は煌々と、闇の中に光っていた。
どうせ万年盲た天が、夜にその瞼を閉じようと、この世は何も変わらない。
ならばそのまま、何も見ず、何も照らさずにいてくれたほうが時遷にとっては都合が良い――今宵のように、覚悟を決めた夜は特に。
(父さん、ごめん)
枯れ枝のような足を懸命に撓め、飛び上がる。
その一つだけで時遷の一生分の飯が手に入るであろう、豪奢な塀の飾りも今だけは、己の味方であった。
無学な己には何を模したものかも分からぬ、けばけばしい飾りを足蹴にしながら、時遷は目の前の高く厚い壁をよじ登り続ける。
「萬ッ……思、善……!」
噛みしめた歯の隙間から吐き捨てたのは、この厚い壁を築いた男の名だった。
「善を思う」などという名が泣いて恥じ入る程に、男は腐りきっていた。
彼の所有する広大な田畑のほとんどは、もとは小時荘のものであった。
かつて小時荘の庄屋であった人が病に倒れたとき、隣村・萬戸荘の庄屋であった萬思善は、真に善人のような顔をして、彼の看病をした。
だが、それからほどなくして小時荘の庄屋は死に、そして彼の遺言と称して萬思善は、小時荘の田畑のほとんどを手に入れ、そして非常識なまでに重い税をかけた。
その後、不幸なことに日照りが続き、小時荘はたちまち飢饉に陥った。だが、萬思善は救いの手を差し伸べるどころか、僅かばかりの収穫にすら変わらぬ税をかけ続け、萬戸荘の住人だけに自分の蓄えを分け与えたのであった。
「父さん、見てろよ……俺が、あいつに復讐してやる……!」
飢えた体に意志を漲らせ、時遷は壁を登り切った。見渡せば、夜の帳の中にあっても、萬思善の屋敷は煌びやかであった。ここならば、金目のものは十分にありそうだ。
盗んだものは、闇市で売りさばく。足がつかないように、変装しよう。娘っ子にでも化けてやれば、可哀想に思った大人が高値で買ってくれるかもしれない。そして手に入れた財は、小時荘の仲間たちに――
今後の企みを脳裏に描いていた時遷の耳を、突如けたたましい咆哮が劈いた。
「ひっ!」
闇の中で目を輝かせていたのは、小さな泥棒だけではなかった。
暗がりに紛れるようにこちらを見上げ、鋭く尖り黄ばんだ歯をむき出す黒い巨体が、壁からぶらさがった時遷の脚を食いちぎらんと躍りかかる。
「誰かいるのか!」
おまけに、番犬の吼え声を聞きつけた使用人たちの足音までも聞こえてくる。
「くっ……畜生め」
必死になって登った壁から半ば落下するかの如く、時遷は身をひるがえして逃げ去った。
背に追いかかる犬の声すら己を嘲笑っているかのようで、時遷は必死に涙をこらえた。家とも呼べぬ襤褸小屋に帰っても、もう涙をぬぐってくれる人はいないから。
一晩眠っても、時遷の頭から、昨夜の企みのことは消えなかった。
ほとんど壁の役目を果たしていない木の板の向こうに、小さく盛り上がっただけの地面。そこに愛する人が眠っていることを示すのは、名を刻むこともできぬ細い枝だけだ。
「父さん……ごめん」
どんなに辛くても盗みはするなと、その言いつけを守れぬことだけが悲しかった。
「このままじゃ俺も、ただ死ぬのを待つだけだ……そんなのは、いやだよ。父さんをきちんと葬れてもいないし、それにあの守銭奴の野郎に、ひと泡吹かせたい。生きる道を、探さなきゃ」
日が暮れるのを待って、時遷は再び歩き出す。犬に見つからぬようにするにはどうしたらいいか、ただそれだけを考える。
(あの犬、長い鎖で繋がれていたな。あの鎖が届かないところから忍び込まなきゃ)
昨晩のことがあったからであろう、萬の屋敷の表裏の門は、見張りの数が増やされていた。
屈強な男たちに見つからぬよう、小さな体をさらに小さくして木々の合間をすり抜け、とりわけ夜闇の濃い一角で再び高い壁と向きあい、飛び上がって飾りを伝い、そして、
「お若いの、こんな夜中に、何故そんなところにしがみついておるのかね?」
――とても静かで穏やかな声が、時遷の血を凍らせた。
噂によれば、以前、萬の屋敷に忍び込んだ賊は、生きたまま皮を剥がれ、熱湯で煮殺されたと聞く。己にも、同じ運命が待ち受けているのだろうか。
「さあ、おいで」
だが、冷たい刃や固い荒縄の感触を予感して目を閉じた時遷の体を包んだのは、久しく感じていなかった、他人の温もりであった。
「え……」
意を決して振り返った時遷の目の前で、白く長い眉毛を優しげに垂らした一人の老人が微笑んでいる。
「かわいそうに、体が冷え切っているではないか」
「あんた……いや、あなたは、もしかして……長老さま?」
細い目をさらに細め、自分を壁から抱き下ろした老人の顔を探るように見つめた時遷は、すぐに彼の正体に気が付いた。
彼こそ、誰あろう霊倖長老――時遷が幼いころから崇敬してやまない、琉璃寺の住持であった。
「長老さま、後生だから、どうか見逃してください。俺、まだ、死ぬわけにはいかないんです」
萬戸荘や小時荘からそう遠くないところにある琉璃寺を、まだ幼く、今ほど飢えていなかったころに訪れたことがある。
青とも緑とも、紫ともつかぬ不思議な色をした琉璃灯籠がずらりと並ぶ境内の美しさよりも、時遷の目を奪ったのは、霊倖長老の圧倒的な武術の技であった。
変わり者で、弟子を一人も取っていないそうだが、時遷は彼の修行の様子を時折覗きに行っては、いつか弟子に取ってもらえたならと、目を輝かせていたものだった。
その憧れていた人に、大変なところを見られてしまった。
顔もあげられず、ただ許しを請う時遷にしかし、霊倖長老は決して侮蔑の眼差しを向けることはなかった。
「どうやら事情がある様子。ここで話していては、ちとまずかろう。さあ、顔をあげて、一緒に寺に来なさい」
まるで我が子を抱く親の如く、霊倖長老が時遷の身を起こす。
安堵のせいか、空腹のせいか、ぐらりと傾いだ体はいつしか、長老の背に負われていた。
時折、琉璃寺の塀の影から、己の修行の様子を見つめる小さな子どもの姿を、霊倖は知っていた。
小さな体をさらに小さくして、小さな目をいっぱいに輝かせていた子どもはしかし、ある時分から、まったく姿を見せなくなった。
話したこともないその子どもがやけに気にかかることを、狩のために叔父の屋敷に留まっていた柴家の若君と茶を啜っていた時、ふと漏らしたことがあった。
しばらくして若君から届いた手紙には、高唐城下の妓楼街の裏路地に、そのような子どもがいるのを使用人が見たと書いていた。
「お若いの、名は何と」
「……時遷」
茶碗を滴る水に指を浸し、卓の上に彼が己の名を書く。彼の親がどのような人物かは知らないが、良い名をつけたのだ、と霊倖は思った。
「時遷、いったい何故、あんな泥棒の真似事をしていたのかね」
決して責めるつもりの言葉ではなかったが、寺男たちの用意した飯をたらふく食って頬を赤く染めた少年は、ふてくされたように唇を曲げた。
「長老さま、今の世の中に、正義なんてあるもんか。お偉い役人どもは仕事もしないで威張ってばかり、金持ちどもは毎日贅沢三昧で、弱い者からぶんどった金を湯水のように使ってる。それなのに、俺たち百姓は……着るものだって、食うものだって、水の一口さえ手に入れることもままならないんだぜ。 なあ、長老さまも、萬思善がどんな奴か知ってるだろ。おかしいよ、こんなのって。あいつらの好きにさせちゃだめだ。この世に正義がなくたって、俺の中の正義はあいつらを許さない」
薄く、触れれば壊れそうな肩をいからせ、時遷が顎をあげる。目尻がくしゃりと歪んだのは、そこに張った膜を破らぬためだったろうか。
「父さんはね、何も食べられないまま、俺をいじめようとした萬の使用人から俺をかばって死んだんだ。死ぬ前に……水さえ、飲めなかったッ……! このまま俺が何もしなけりゃ、父さんからもらった命が無駄になる。このまま死ぬのを待ってるのは嫌なんだ。生きて、小時荘の仲間を……弱い者をいじめるやつらにひと泡吹かせてやる。そのためなら、盗みだってやるさ。そして父さんの墓を建てて、きちんと葬ってあげるんだ。手をあわせて、俺の義挙を教えてやるんだ!」
ついぞ零れることのなかった塩辛い水をいっぱいに湛えた彼の瞳が、澄み渡るほどに美しいのを霊倖は見た。父を、仲間を想う無垢な心の起こしたことを、誰が罪と責められよう。霊倖は、からからと笑った。
「これは大きく出たな、お若いの。殺されるのが、怖くないわけではあるまい。今日は幸いにも儂がお前を見つけたからよかったが、何の技も持たぬままこんなことを続けていては、それこそ無駄死にするだけではないか」
「なら、俺を弟子にしてよ」
小さな好漢がその答えを導き出すのに、いっさいの間はなかった。まるで最初からその一言を霊倖に言わんがために出会ったかのように。
「長老さま」
椅子から滑り落ちるように、時遷はがばりと平伏する。
「仏の道は善を求め、孝を尊ぶんですよね。俺はこんなに孝行したいと思っているのに、何の技も持たないばっかりに、父さんをきちんと祀ってあげられないどころか、自分の身すら守れない。今日こうして長老さまに会えたのは、きっと何かの縁なんだ。お願いです、どうか、弟子にしてください!」
足下にひれ伏した時遷の細い指が、折れそうな背中が、乾いてもつれた長い髪が、気迫に震えている。その想いを汲み取れぬほど、霊倖は耄碌してはいなかった。
「……よかろう、時遷。さあ、お立ちなさい。お前の気概はよくわかった。槍棒と刀、拳法、儂が教えられることは少ないが、それでも知りうる限りの技をお前に教えよう」
だが少年は、待ち望んでいたはずの霊倖の申し出を聞いても、顔をあげようとしなかった。
「長老さま、いえ、師匠。お気持ちには感謝します。だけど……俺に必要なのは刀でも槍でも、拳法でもなくて、盗みの技なんです」
まったく予期せぬその言葉に、霊倖は思わず腰掛けていた質素な椅子から立ち上がった。袖をひっかけた茶碗が、軽い音をたてて床に砕ける。
「時遷、物事の道理を知らぬ幼子という歳でもなかろうに、何ということを言い出すのだ」
こちらを仰ぎ見る時遷の顔は痩せこけていても、瞳はやはり生き生きと、真摯な輝きを放っている。
「師匠、俺の体、小さいだろ。これでも、もう、十五になるんだぜ。この先どんなに食ったって、ほかの江湖の好漢のような体にはなれない。どんなに槍や刀を学んでも、体の大きなやつ相手に優位には立てない。でも、こんな体でも、身軽に屋根を飛びまわって塀を渡り歩く泥棒の技でなら、誰にも負けずに生きていけるんです」
「そういうことなら、儂の弟子にはしてやれん。泥棒の技を教えるなど、儂にはできぬ。他をあたりなさい」
「師匠、お願いだ、あなた以外に頼れる人がどこにいるんですか! 俺、あなたの説法を何度も聞いたんです。あなたは、戦わぬことこそ仏の道と言ったじゃないか!」
「なっ……」
霊倖は、それ以上、何も言うことができなかった。
物陰から恥ずかしそうにこちらを見ていた痩せっぽちの幼子は、決して己の武術を見物していただけではなかったのだ。
「ああ、これも天命なのであろうか……」
溜息混じりの声は、ひどく掠れていた。
「よかろう、時遷。今日よりお前を、儂の弟子とする。だが、これから言う三つのことを、絶対に守ると誓いなさい、いいな?」
「もちろんです、師匠」
喜びに輝く瞳はやはり澄んでいて、霊倖はいたたまれぬ気持ちになった。
「一つ、貧しい者が血と汗を流して稼いだ金は決して盗まないこと。二つ、忠義に篤く、親に孝行を尽くす者の家からは決して盗まないこと。三つ、寺院の金や娼妓の財は決して盗まぬこと。この三つを、よく、覚えておくように」
「心に刻みます、師匠」
深く頭を垂れ、己に向かって三拝した時遷の腕を取り、立ち上がらせた霊倖は、彼が右の口尻をくいとあげて笑ったのを見た。
「師匠……?」
もうこの先、彼が子どもらしい時を送る日々は二度と来ない――いや、これまでそんな日々がいったい彼にどれだけあったと言うのだろう。
「修行は明日から始めよう。今日は儂の部屋に泊まりなさい。何も心配せず、ゆっくりおやすみ」
もう大人だと口を尖らせようと未だ幼い体を包み込んだとき、霊倖はそこに星が宿っていることを知った。
小さく、人を惑わせながら鋭く輝くその星は、世俗の欲に浸り濁った目には、賊の掲げる松明のようにも映るだろう。
誰よりも澄んだ光を放つ少年が、いつか仲間の星のもとへとたどり着くことを、霊倖はただ祈った。
その日から、時遷は琉璃寺で鍛錬に明け暮れる日々を過ごした。
師は時遷に、寝食の場と父を祀るための銀子を与える代わり、厳しい修行を課した。
最初の一年の修行は、「無根水」――高唐城下の井戸から三つの桶にいっぱいの水を汲み、十里離れた琉璃寺まで一度も下ろさずに運ぶ、というものだった。
水を満たした桶は一つで五、六十斤はある。ろくに食えもせずに育った細腕は、そんなものを三つも持てば音をあげて軋んだが、時遷は必死にその苦しみに耐え、汗水を流して毎日桶を運び続けた。
一年が経つころには、その努力が実を結び、水をたっぷり満たした桶を三つ、小脇に抱えて飛ぶように走ることができるようになっていた。
次の一年は、この修行に、両足十斤ずつの重りが加わった。相も変わらず水を運び続ける時遷を、高唐城下の人々は胡乱気に見ていたが、時遷は一日もその修行を欠かすことはなかった。どんな天気であろうと、どれだけ具合が悪かろうと、時遷は耐えた。
そうして琉璃寺での修行も三年目となったとき、ようやく霊倖は、闇夜に隠れ、隙間を這い、塀の上を走り、藪のなかを転がり、屋根を飛び越え、人の心を読み、己の姿を欺く技をすべて、時遷に授けたのだった。
「時遷、時遷や」
その夜は、月の見えぬ晴れた夜だった。
鍛えられた夜目にすらおぼろげに映る師は、眠りから覚めた時遷をじっと見つめ、「これから盗みに行くぞ」と囁いた。
「お前が目当ての場所を決めなさい……いや、もう決まっておろうがの」
唇が震え、心の臓がどきりと溢れ落ちそうな心地がした。
この日を三年間、待っていた。
寝台から跳ね起き、自分で繕った闇色の装束を纏えば、時遷の輪郭もまたすぐに、夜の中の朧となった。
「行きましょう」
師の後に続いて部屋を出る間際、時遷は食い残していた饅頭をひとつ手に取り、懐に押し込んだ。常に食糧を少し残しておく食い方もまた、師に教わった技だった。
寺院から一歩外に出れば、風のひとつも吹かぬ生ぬるい外気が体を包む。臭いが漂わぬ、盗みには適した夜だ。
巻き起こる風と言えば、夜に紛れた師弟が音もなく駆け抜けた後の、気の揺らぎのみである。
「俺が先に」
音にならぬ己の呟きを拾った師が、口許を隠した布の下で笑っているのを時遷は知っている。試しているのだ。時遷の三年を。
かつて幾つもの飾りの上を必死に伝った高く厚い壁を、時遷はただの一飛びで越えた。
何の気配もなく降り立った屋根の上の影は、烏にも似ている。それが人だと気がつくのは、獲物を探して涎を垂れ流す醜悪な番犬だけであったかもしれない。
「……お待ちを」
興味深げに犬を見下ろす師に囁くと、時遷は軒に足を引っ掻け、逆さまにぶら下がる。そして懐からさりげなく取り出した饅頭を、低く唸りながら近寄ってきた犬の鼻先に揺らめかせた。
「ひひ、良い子だ、こいつが食いたいだろう?」
すばしこく動き回るだけが、泥棒の技ではない。愚かな獲物を惑わし、絆し、隙を作るのに手っ取り早いのは、胃袋を掴むこと――人間だろうが畜生だろうが、欲に弱いのは同じことだ。
「食ってこい!」
さんざ鼻先でうまい餌を焦らされた哀れな番犬は、時遷の放り投げた饅頭を追って、己の使命を放棄した。
その隙をついてあっという間に屋敷の入り口にたどりついた時遷が中の様子を見ると、萬思善は西の間の豪奢な天蓋の下で、ぐっすりと眠りこけている。
師は、いつの間にか取り出した匕首で扉の閂を外すと、静かに戸を押し開けた。部屋の中には趣味の悪い香の臭いが立ち込め、いったいその価値を真に理解しているかもわからぬ壺や皿がこれ見よがしに飾ってある。
だが、萬の枕元に置かれた燭台の弱い明かりの中でさえ、一際目を引くのは、鮮血の如く赤い漆で塗られた巨大な箪笥だった。
「時遷」
心の中の深いところから何かが揺らぎ立ちそうになった時遷は、師の静かな呼びかけに、はっと居住まいを正した。
「来なさい」
師が、箪笥の扉を開け、時遷を手招く。
訝しげに近づいた時遷が箪笥の中に入った途端、何の前触れもなく扉が閉まる。ご丁寧に、鎖で鍵をかける気配さえあった。
「儂は先に戻り、寺でお前を待つとしよう」
そう言い残した師の気配は、あっという間に消え去った。 なるほど、やはりこれは、試されているらしい。
この三年の修行で、多少のことでは動じなくなっていた時遷は、にやりと片方の口尻をあげると、さっそく箪笥の中を見回した。いくら己の体が小さいとはいえ、人ひとりがすっぽりおさまる箪笥だ。ただ空にしているわけではあるまい。
光のひとつも射さぬ狭い場所では、慎重さが肝要だ。いったいどこに音をたてるようなものがあるか見当がつかぬのだから、時遷はゆっくりと自分のまわりに手を這わせる。
最初に手に触れたのは、その感覚だけで上等とわかる真珠の首飾り――手で触っただけでその物のすべてを理解する技は、いやというほど叩き込まれた。
だが、これは今、盗むべきものではない。この手の首飾りは、どこかにひっかけただけで珠がばらばらと落ちる危険があるし、何よりこんなものを盗んだところで、売ったらすぐに足がつく。
数々の宝飾品が入っているらしい箱の次に時遷の手に触れたのは、こんな派手な箪笥に入れておくにはあまりに不自然な襤褸布だった。
(わかりやすいやつめ)
幾重にも積まれた襤褸布はいやに重かったが、もはや今の時遷は片腕だけで静かにその重みを取り除くことができた。
徐々に闇に慣れてきた目をこらせば、襤褸布の山の奥底に、これまた襤褸の布で作られた袋が二つ、無造作に突っ込まれている。その口はぎちりと縛られていたが、袋の上から指でなぞった時遷は、その中身にすぐに思い当たった。
そっと持ち上げれば、銀子が片方に三十両、もう片方に五十両。
さらにそのまわりには、鉄爪がいくつも置いてある。奪いに来た盗賊と、これで戦うつもりなのか、はたまた罠にでも見立てているのか――どちらにしろ、時遷にとっては好都合でしかないのだが。
銀子袋が楽に担げる重さであることが分かった以上、ここに長居する用はない。たとえ小枝のようでもそこらの男よりよほど力のある指で袋をたぐりよせ、懐から取り出した紐で背にくくりつけると、時遷は鉄爪を手に取り、細かく震わせながら箪笥の戸をひっかいた。何度も、執拗に。
「ん……がッ……ね、鼠か?」
この甲高い音には、さしも図太い萬思善も、そのだらしない図体を揺らしながら飛び起きた。
「おい、誰かおらんか! 鼠だ、鼠が出たぞ、さっさと始末しろォ!」
無様に上ずった萬の声に叩き起こされた使用人たちが、大儀そうに唸りながらぞろぞろと現れたところで、もう一度「鼠の声」をあげた時遷は、再び懐の道具袋に手を入れ、細い吹き矢を探り当てた。
「鼠め、いったいどこに……」
糸よりも細い観音扉の隙間から、一人の使用人が、蝋燭を掲げてこちらに近づいてくるのが見える。その顔には、覚えがあった。
あの日、己を嬲り、父を殺した男――
(来い)
だが、時遷はぺろり、と唇を舐め、ただ吹き矢を咥えた。暴れ出しそうになる心を抑える術を、もう時遷は知っている。
ぎ、と微かな悲鳴をあげて、箪笥の戸が開いたその瞬間、時遷は鋭く息を吐いた。
「う、うわあ、何をしている、灯りをつけろ!」
たかが鼠獲り如きで慌てふためく萬とその使用人たちを後目に、吹き矢のひと吹きだけで使用人の持っていた蝋燭の炎と萬の枕元の燭台の炎を一気に吹き消した時遷は、猫のように素早く部屋を抜け出し、静寂の中誰に気付かれることなく夜へと身を溶かした。
仇の男の横を駆け抜けた刹那、その胸元に銀子をふたつほどくれてやる。せいぜい、欲深く疑り深い主の手で熱湯に突き落とされてから、己の悪行の限りを嘆くがいい。
「……戻ったか」
琉璃灯籠の灯りを眺めながら茶をすすっていた師が、ゆっくりと時遷を振り返る。
その顔に浮かんだのが安堵であることが、時遷に何かむず痒いような喜びを与えた。
「この三年、お前に教えたことは、無駄ではなかったようだな」
初めて師に出会った日も、こうして師の腕に包まれた。もう子どもじゃない、と言う言葉は、不思議と口をつかなかった。
「一つ、儂の授けた技を使い、見事に銀子を盗み、そして帰ってきた。これはお前の勇であり智じゃ。二つ、己の親や己の仲間の仇に『ひと泡吹かせて』やった。これはお前の孝じゃ。そして、三つ……」
時遷の顔を覗き込んだ師は、皺の間に目が消えるほどに笑んだ。
「例え親の仇を目の前にしても、決して殺さなかった。これはお前の義じゃ……お父上もさぞ、お前を誇らしく思っておるだろう」
「師匠?」
厳しくも優しい手に目元を撫でられて初めて、時遷は己が涙を流していることに気が付いた。
「戦わず、殺さぬことこそ仏の道。だが、これからお前が生き抜いていくには、仏の道から外れねばならぬことの方が多かろう。お前は優しい子だから、悩むこともあろうが、その道が己の義に沿うものならば、迷わずに進みなさい」
「これから……」
ず、と一つ、鼻を啜った時遷は、自ら師の温もりを離れ、そして拱手した。
「お別れの時ですね、師匠」
「時遷、儂のたった一人の愛弟子よ。儂が教えてやれる限りのことはすべて、お前の身についたようだ。だが、江湖は広く、お前の想像もしないことが日々起こっている。これから先は、お前が自ら学ぶのだ。悪を欺き、俗を笑い飛ばし、義を貫くお前の生きざまを、その手で探るのだ。今日得た銀子は、お前が常々言っていたように、故郷の役にたてるために使いなさい。そして故郷での孝行を終えたならそのあとは、忠義の集まるところへ身を投じよ」
ふと、師が空を仰ぎ見た。時遷もつられて夜空を見上げれば、先ほどまでひとつの灯りもなかった空に、いくつもの星が瞬いている。よく見れば、その星々はゆっくりと、どこかへ向かっているようであった。
「お前はきっといつか、大事を成すだろう。その前に決して、道を誤るでないぞ。お前を待っている者のためにもな」
師であり、父であった人は、己の首に提げていた飾りを外し、時遷の首にかけた。
「儂はいつも、お前と供にある。失くすでないぞ」
「……はい!」
痩せた時遷の胸元に、琉璃灯籠の小さな破片が、謎めいた色を灯した。
「おい、こそ泥の分際で、偉そうにこんなものをぶら下げているのか」
「随分綺麗な石だなあ、売ったら高値が付くんじゃないか?」
罵声も暴力も、すでに青年の生の一部だった。へまをしたのは久しぶりではあったけれど。
「へっ、それはな、お前らみてえな汚ぇ野郎の触っていいもんじゃねえぞ」
笑みを浮かべれば、口の端がびり、と痛む。だが、それでも笑い飛ばさねばならぬ俗物が、青年の目の前にいた。
「なんだと、この死にぞこないが!」
「もっと痛い目に合わせなきゃわからんようだなァ」
鞭の一振りが着物を裂き、手足をあらぬ方向に折り曲げられようと、青年の目は笑う。
「このまま俺を殺すかい? 怖いお役人さまだなあ。俺はただ、あんたらがお偉いさんの目をかいくぐって売りさばいてた危ない薬を、盗んでやっただけなのに」
「な、貴様ッ……その減らず口、永遠に叩けないようにして」
「やめないか!」
青年を嬲り殺そうとした二人の牢役人は、低く、地を這うような男の声に、まるで矢を受けたかの如く動きを止めた。
「囚人を嬲り殺していいなどと、誰が許可した……出て行け!」
「は、はい」
その一声だけで青年の命を救った男は、咳込む青年の背をさすり、彼の顔を覗き込んだ。
「すまなかった」
「……へへ、牢役人にも、あんたみたいな馬鹿真面目なやつがいるんだね」
「罪を犯した囚人であろうと、何の許可もなく危害を加えていいわけがない。それに、お前を助けるかどうかは……お前の盗んだ物による」
青年の手足から枷を外し、傷だらけの体を抱え上げ、粗末な寝台に座らせた男は、微かに笑ったようだった。
「先程の話、詳しく聞かせてくれないか、鼓上蚤」
「俺の二つ名を知ってるとは、あんた、さてはただの牢役人じゃないな。何て名だ?」
「俺の名は、楊雄。病関索、と呼ぶ者もいるようだ」
その夜、 薊州の空に生まれたふたつの星を、遠い高唐州で一人の老人が静かに見あげていた。