第9章|グローバルの皮膚
エレン・ローウェルは、英国出身の多国籍企業幹部であり、ESG(環境・社会・ガバナンス)推進の旗手として知られている。
「私たちは、社会的責任と企業の成長を両立できます」
彼女はそう言い、開発途上国における再生可能エネルギー導入、水資源管理、女性の起業支援などをアピールしてきた。
だが、現地ではその“開発”が、村の土地の接収や生活の解体を伴っていた。
彼女が訪れたのは、ビハール州の乾いた平原にあるカムリ村。
周囲にはひまわり畑が広がり、赤土の大地に割れ目が走る。
牛の鳴き声、井戸の軋む音、遠くで鳴る結婚式の打楽器。焼いたとうもろこしの香りが風に乗って漂う。
白いスーツに身を包んだエレンが車から降りると、子どもたちは距離を取り、大人たちは無言のまま睨みつけた。
説明会でエレンはマイクを持ち、現地語に通訳を交えながら話す。
「太陽光は、未来への投資です。土地の価値は増し、若者には雇用の機会が生まれるでしょう」
しかし、老女が一人、震える声で言った。
「お前らは、土を光に変える代わりに、私らの名前を消すんだ」
その言葉は、通訳されずに流された。
エレンは、その夜、PRチームと会議室で議論していた。
「反対の声は想定内よ。成功事例の映像をもっと前面に出して」
だが、何かが心の底に残っていた。
彼女の父親はかつて炭鉱労働者で、炭塵に咳を漏らしながら働き続けた。
炭鉱の更衣室の匂いは、汗と油と石炭粉が混ざったものだった。
朝の5時に家を出る父の背中に、いつも赤茶けた弁当袋がぶら下がっていた。
社会に「代替可能な労働者」として処理された過去。
その記憶が、老女の言葉と奇妙に重なった。
都市に戻った彼女は、ある夜、ひとりスラム街に立ち寄る。
子どもが薄い布をまとって火のそばに座っている。
肌に貼りついた埃、塩辛い汗のにおい。灯油の煙。犬が遠吠えし、空には不完全な月。
足元には水溜まり。鉄と尿の混じった臭いが鼻を刺す。
エレンは、自分が何を見ていたのか、再び問い始める。
「社会貢献」とは誰の文脈で語られるのか。
誰の痛みが統計に換算され、誰の顔が報告書から消えていくのか。
彼女は手帳に、小さな文字で書きつけた。
『光を与えるふりをして、影を広げていないか?』