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第6章|見えない労働

アンナは、ムンバイ郊外の高級住宅街の一角にある白い門を、毎朝5時にくぐる。

曇りガラスの自動扉が音もなく開くと、磨き抜かれた床と、無音のリビングが広がっている。


彼女はフィリピン出身。

日本語と英語、ヒンディー語が片言で話せるが、どの言語でも完全には通じない。


屋内には、眠っているはずの子どものぬいぐるみ、家主のコート、脱ぎ捨てられたシャツ、流しに置かれた空のボウル——アンナはそれらを一つ一つ片付ける。


「ありがとう」はない。

だが、ないことにも、慣れてしまっている。



アンナのパスポートは、雇用主である夫人の金庫の中にある。

更新の手続きは「代行」される。

外出の時間も、スマートフォンのGPSで監視されている。


雇用契約には「週6日勤務・深夜帯あり」と書かれているが、終業の時刻は曖昧だ。

子どもが夜泣きすれば、呼ばれる。

老父が熱を出せば、看病もする。


ある夜、ソファに横たわる老父がアンナにぼそりと尋ねた。

「君はどこの人だったかね……」


「フィリピン、です。ミンダナオ……島の、北の方……」


「そうか……海が、綺麗なんだろうな」


老父の目は遠くを見つめていた。


「あなた、行ったこと、ありますか?」


「いや……一度も、ない」


アンナはうなずいた。

そのあと、老父は眠るように静かになった。



「家族の一員」と言われた。

その言葉は、むしろ鎖のように感じられる。


アンナは、かつて母国で看護助手をしていた。

家では3人の子を育て、病気がちな母の面倒を見ていた。

だが、物価高と給与未払いで生活は立ち行かず、知人の紹介でインドへ渡った。


彼女が送金する金額は、母国では家族5人が暮らせるほどだ。

だが、その金額の裏にある労働時間と孤独は、誰にも計算されていない。



夜、夫人がピアノを弾き、家族がワインを開ける時間。

アンナは、屋根裏部屋の簡易ベッドに身を横たえる。


「アンナ、今日のブランケット、香りが違うの。前のに戻して」


「すみません、マダム。洗剤、ちょっと、変えました」


「気をつけて。子どもに合わないと困るから」


「はい……」


携帯電話を開くと、母からのメッセージ。

「アンナ、声が聴きたい。元気ですか?」


画面に触れた指が、小さく震えた。

返す言葉を打ち込む前に、バッテリーの警告が光った。


部屋には、沈黙しかなかった。



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