第6章|見えない労働
アンナは、ムンバイ郊外の高級住宅街の一角にある白い門を、毎朝5時にくぐる。
曇りガラスの自動扉が音もなく開くと、磨き抜かれた床と、無音のリビングが広がっている。
彼女はフィリピン出身。
日本語と英語、ヒンディー語が片言で話せるが、どの言語でも完全には通じない。
屋内には、眠っているはずの子どものぬいぐるみ、家主のコート、脱ぎ捨てられたシャツ、流しに置かれた空のボウル——アンナはそれらを一つ一つ片付ける。
「ありがとう」はない。
だが、ないことにも、慣れてしまっている。
◆
アンナのパスポートは、雇用主である夫人の金庫の中にある。
更新の手続きは「代行」される。
外出の時間も、スマートフォンのGPSで監視されている。
雇用契約には「週6日勤務・深夜帯あり」と書かれているが、終業の時刻は曖昧だ。
子どもが夜泣きすれば、呼ばれる。
老父が熱を出せば、看病もする。
ある夜、ソファに横たわる老父がアンナにぼそりと尋ねた。
「君はどこの人だったかね……」
「フィリピン、です。ミンダナオ……島の、北の方……」
「そうか……海が、綺麗なんだろうな」
老父の目は遠くを見つめていた。
「あなた、行ったこと、ありますか?」
「いや……一度も、ない」
アンナはうなずいた。
そのあと、老父は眠るように静かになった。
◆
「家族の一員」と言われた。
その言葉は、むしろ鎖のように感じられる。
アンナは、かつて母国で看護助手をしていた。
家では3人の子を育て、病気がちな母の面倒を見ていた。
だが、物価高と給与未払いで生活は立ち行かず、知人の紹介でインドへ渡った。
彼女が送金する金額は、母国では家族5人が暮らせるほどだ。
だが、その金額の裏にある労働時間と孤独は、誰にも計算されていない。
◆
夜、夫人がピアノを弾き、家族がワインを開ける時間。
アンナは、屋根裏部屋の簡易ベッドに身を横たえる。
「アンナ、今日のブランケット、香りが違うの。前のに戻して」
「すみません、マダム。洗剤、ちょっと、変えました」
「気をつけて。子どもに合わないと困るから」
「はい……」
携帯電話を開くと、母からのメッセージ。
「アンナ、声が聴きたい。元気ですか?」
画面に触れた指が、小さく震えた。
返す言葉を打ち込む前に、バッテリーの警告が光った。
部屋には、沈黙しかなかった。