第5章|消せない過去
大学の講堂に一人残り、カナカヤは黙って黒板を見つめていた。
チョークの粉がわずかに残る曲線は、昨日の講義で使った統計のグラフだった。
「平均値と実在の乖離」——その言葉が、心に突き刺さったまま抜けない。
カナカヤは五十代半ば、細身で背筋の伸びた女性だった。
メガネの奥にある眼差しは静かで厳しく、黒髪は白髪を染めずに結わえている。
学生からは「怖い」と言われることもあるが、それを否定しない。
彼女は、自分が信じた方法でしか教育を行ってこなかった。
都市の教育機関で、地方出身者を対象にしたブリッジ・プログラムの責任者だった彼女は、かつて農村から来た学生を何人も指導してきた。
その一人、ラーム。
サトウキビ農家の四男で、奨学金を得て上京した彼は、粗末な寮の一室でいつも分厚い辞書を抱えていた。
「先生、ここ……意味が分かりません」
カナカヤは、初めの頃、彼に対して「努力不足」と感じていた。
だが、彼のノートには、板書をそのまま写した文字と、その横にびっしりと書かれたヒンディー語訳が並んでいた。
最後に彼が言ったその言葉が、耳の奥に張り付いている。
「彼女、講義、早口すぎて……全部、聞きとれなかった」
◆
カナカヤは、その日の成績会議で、彼の進級を「不適」と判断した。
理由は明白だった——定期試験での平均点未満、出席率の低さ、そしてレポートの論理性の欠如。
誰もが納得する書類上の判断。
だが、その数日後、彼の実家から一通の手紙が届いた。
「息子は、線路で……事故だったと……」
震える手書きの文字に、彼女は声を失った。
あれから三年。
彼女は変わった。
テストを廃止し、口述試験と個別面談を導入し、履修の自由度も高めた。
だが、それでも新年度の教室には、同じように言葉につまずく学生がいる。
マニシュ——ベンガル地方の山間部から来た彼は、ヒンディー語すら苦手で、英語のプリントを前に沈黙する。
今朝も、彼が口を開いた。
「先生、あの……自分、読んでても、意味が……入ってこなくて……」
カナカヤは微笑んだ。
「じゃあ、一緒に読もうか」
読み上げる声のかすれと、沈黙の間。
それが、彼女にとっての“講義”となった。
過去は消えない。
だが、過去に触れ続けることは、未来に何かを手渡す方法かもしれないと、彼女は思っている。