初恋を海に見る(引っ越し前)/ 優しい百円玉(引っ越し後)
花音の故郷は、太平洋に面して高い山々に囲まれていた。
家を出て、坂を下れば海だった。
自室の窓から地平線が見えたので、時折フェリーが渡るのを、よく眺めたものだ。
山風が潮の匂いを、あちらこちらに吹き散らしながら夏を伝えると、真夏の太陽が細波を掬って、噴き上がる潮の白糸で青い海を縫っていた。
遠目に見て、きらきら光る海面から白い波が浮き立つと、澄んだ青空に海が近付いて見えた。
保育園の遠足場所は、大抵が砂浜だったので、花音は喜んだものだ。
釣りをする為にと、近所のおじさんが、竹で子供用の釣り竿を手作りして保育園に届けてくれた事もあった。
そして、春の遠足で釣りをした日に、初恋は終わったのだ。
正確に言えば、同じ魚を釣ったせいで。
その魚が釣れた時、花音の隣で、初恋の男の子も釣り竿を引き上げた。
「えっ、かのちゃんも、しまごうろう釣ったの?」
悦子先生が目を丸くして見入っている間に、もう一人の引率の笹男先生は、魚の口から素早く釣り糸を外した。
そして、元気に跳ねる黄色と黒の、縞々模様の魚を、花音と男の子の小さなポリバケツに、別々に入れた。
ポリバケツを満たす海水は、子供が持てる量しか入れなかったが、二匹とも尾鰭を揺らして、ぐるぐる回っていた。
男の子の釣り上げた方が大きかったが、花音は、小さくても十分嬉しかった。
「しまごうろうって名前なの?」
花音が尋ねると、悦子先生は頷いて言った。
「この地域では、そう呼ぶの。シマウマさんと同じ色もいるのよ」
「食べられる?」
男の子が笹男先生に尋ねると、先生は眉尻を下げて腕を組んでいた。
「食えるには食えるが、わざわざ食うほどの魚ではないな。それに、まだ小さいからなあ。本当は逃がしてやりたいが、二人共、初めて釣ったからなあ……まあ、お母さんと相談してみろ」
笹男先生は、そう言って話を切り上げた。
他の子たちは、「いいな」「すごいなあ」と言いながら、花音と男の子のポリバケツを交互に覗き込んでいた。
うさぎ組が保育園に戻ると、園長先生が、丸顔を綻ばせて出迎えた。
掃除をしていたようで、白いエプロンをして、白い三角布巾で白髪頭を覆っていた。
園長先生は、にこにこしながら一人一人の手に持った青くて小さいポリバケツを覗き込んだが、一匹も見当たらないので、困った顔をして落ちかかる丸眼鏡を頻りに押し上げた。
しかし、花音と男の子のポリバケツを覗き込んだ時、ぽっちゃりした大きな手を叩いて喜んだ。
黄色と黒の、縞々模様の魚が、尾鰭を揺らして元気に泳ぎ回っていた。
「あら、まあ、偶然!二人共、しまごうろう!釣れて良かったわねえ」
言われて、花音は、顔を赤らめた。《二人とも同じ》が嬉しかったのだ。
しかし、帰る頃になって、大きな方が元気を失って、今にも死んでしまいそうなほどだった。
可哀そうに思って、花音が口を開いた時、男の子が信じられない事を言ったのだ。
「僕の、小さい方ね。かのちゃんの大きい方、元気がなくなって可哀そうだね」
「……うん、私の可哀そう」
傍で聞いていた園長先生と悦子先生は、何とも言えない顔をして目を見合わせていた。
その日、花音の初恋は終わったのだ。
引っ越す前日、その懐かしい記憶を思い出した。
「そういえば、名前、忘れたな~。次は、いい恋したいな~」
最後に思い出の一枚を撮りたくて、花音は海に向かってデジカメを構え、シャッターを切った。
新しい土地に引っ越して最初の土曜日、家族三人で氏神様に伺った。
地域や、宗派によって相違はあるが、新しく住む土地の鎮守の神、氏神様への挨拶は欠かせない。
生まれた時からその土地に住む人たちは、初めから氏子で、氏神様の加護をうけている。
新参者を守護して貰う為には、直接お願いに伺う。
堅苦しいものではないが、氏子になる挨拶は大切だ。
そこは地元の小さな神社で普段もお参りは出来るが、赤い鳥居をくぐると、手水舎の水は止まっていた。
木の柄杓は置かれたままなので、右手に持ち形だけ清めた。
そして、お賽銭箱の前で手を合わせ、三人で声を揃えた。
「この地に越して参りました、氏子になります。どうぞよろしくお願いいたします」
これくらい至極簡単な挨拶で、丁寧に御辞儀をして終わった。
心を込めて願うことが重要なので、仕来りに縛られる必要はない。
花音は、その神社が、とても好きになった。
それで、週末は欠かさずお参りする事に決めたのだ。
叶ったらいいな~という漠然とした願い事をする時も多かった。
お参りに来た人を、見掛けた事はなかった。
四季折々のお祭りや行事が来ると、他県から神主さんが来て、務めを果たす。
賑わうのは、そういった時と、お正月の三箇日だ。
それだから、参拝客は滅多にいない。
けれど、先週の土曜日は違ったのだ。
神社までは歩いて三十分の距離だが、朝から曇り空で肌寒かった。
赤いレギンスに、トップスはブルーの長袖シャツを選び、黄色い薄手のカーディガンを羽織って出掛けた。
その日、参拝者がいるとは思わなかった。
気付いたのは、お賽銭箱の前だ。
お気に入りブランド,ロベルタの赤いトートバッグを開けたら、何も入っていなかった。
「うわぁ、ドジした……」
すっかり失念していたが、エルメスの長財布は、グッチのショルダーバッグに入れたままだった。
「一旦家に帰って、また来るしかないよね。明日は、用事があるし。それとも、今度にするか……でも、今日お参りに来たんだから、お賽銭だけ別の日にっていうのも、何だか、こう、氏神様に申し訳ないような」
悩んでいたら、三歳くらいの女の子が近付いて来て、紺色のジャンパースカートのポケットから、ぴかぴかの百円玉を取り出した。
「あげう」小さな右手を、いっぱいいっぱい伸ばして、手渡してくれた。
「ありがとう」しゃがんで御礼を言うと、女の子は嬉しそうに笑って、くるりと背を向け、母親の所に走って行った。
小さなポニーテールが、ぴょこぴょこ揺れて可愛いかった。
参拝客は、その親子だけで、母親の方は、歳は二十代前半だろう。
お揃いの髪型で、桜色のシフォンワンピースが良く似合っていた。
目が合って頭を下げると、にこっと微笑んでくれた。
使って下さい、温かな視線がそう言っていたので、有り難く頂戴した。
その優しい百円玉が、人生を大きく変える一枚になるなんて、想像も付かなかった。