化け物になった想い人と、ずっと二人で暮らしていたかっただけの女の話
⚠暴力・流血表現アリ
⚠好みがわかれる作品だと思うので読んでも自己責任で。
「ただいま!」
シエラは明るい声を出して、急いだ様子でドアを後ろ手で閉める。
部屋の中央になるテーブルの上に、買ってきた食料品の入った紙袋を置いて、ベッドの方へと話しかけるのが、彼女のこのところの日常であった。
「いい子にしてた? お腹が空いたでしょう、今日はね、あなたの好きなものをたくさん買ってきたの」
シエラは野菜などの食料品を袋から出していく。そして、それを出し終わるとベッドの方へと向いて、足早にそちらに近づいた。
ベッドのシーツの下、直径一メートルほどの大きな膨らみが、シエラの言葉を聞いて小さくみじろぎする。
シエラは部屋にある小さな自身のベッドに腰かけて、その大きな膨らみに手を乗せた。
「すぐに準備してあげるからね」
そして、シエラはシーツをそっと捲りあげた。
突然自身を隠す布がなくなったそれは、ゆっくりと頭をもたげる。
言葉を発せず、呼吸もしているのかもわからない。その瞳ですら、存在しているのかもわからない。
ただ、シエラの声に反応して、“それ”はシエラの方へ頭と、柔らかな胴体を向けた。
「──私のハイネさま」
ベッドに身体を横たえていたのは、目玉のような歪な模様を身体中につけ、無数の脚と凹凸の赤茶色の身体を持った、一匹の巨大な芋虫のような異様な生き物。
シエラはそれに愛おしげに微笑みながら、その身体を撫でた。
***
「きみ、大丈夫かい?」
こちらに振り向いたその人の新緑のような瞳が、光を浴びてキラキラと輝いていたことを、シエラはよく覚えている。
それは何年も前の出来事だ。
顎の下あたりで切り揃えられた赤茶色の髪を持つ、涼やかな細身の男は静かにそう問いかける。
そして、男は身の丈ほどある大剣を地面に軽々と差してから、地面に尻餅をついたシエラの前にゆっくりとしゃがみこんだ。
街の酒場のウエイトレスとして働くシエラは買い出しの途中だった。
夕暮れで、もうすぐ店を開けないといけないというのに食材が足りないと言うことに気づいて、シエラは慌てて買いに行っていたのだ。
帰り道、このままではオープン時間までに間に合わないと、普段は絶対に使わない森をつっきる近道を使ったのが仇となった。
蟲の魔女がいる森だと、そこは言われていた。
森に入ってきた人間を蟲に変え、気に入ったものをそのまま手元に置いて逃さない。
真偽のほどは定かではなく、誰もその魔女の姿を見たことはないけれど、町で行方不明者が出るのもそんな魔女のせいだといわれていた。
──別に、一度くらい、大丈夫よね。
けれどもそんな話は子どもを怖がらせるためのただの噂だと、すぐに出れば大丈夫だと、過信したのがいけなかった。
食材が買えなくて怒られるのはシエラだ。もし店の開店時間に間に合わなかったら賄いを出してもらえないし、それを理由に給料を下げられるかもしれない。
薄暗い森の中をシエラは走っていく。出口までそんなに遠くないはずだ。
「あれ……」
けれども、シエラがしばらくして足を止めたのは、そろそろ森の出口にたどり着くはずだというのに、その気配が全くないからであった。
不審に思って、元来た道を引き返そうとしたけれど、それも同じ道をぐるぐる回っているようで、入ってきた道にも辿り着けない。
──うそ、迷った?
そう思って顔をさあっと青ざめさせたシエラが振り向いたとき、かさかさと何かが蠢く音が聞こえて、シエラは悲鳴をあげてその場に尻もちをつく。
「ヒッ」
辺りを見回したシエラをいつのまにか取り囲んでいたのは、大きな蟲のような生き物たちだった。
蜘蛛や百足、蟷螂のような姿をした、けれども通常ではありえない、シエラと同じくらいの大きさで、毒々しい色をした生き物が、彼女をじっと見つめていた。
彼らはシエラを見た後、何かを話し合うかのように顔を見合わせ、手足を動かしてガサガサと音を立てる。
それはまるで森に入ってきた侵入者をどうするべきか、相談しているようでもあった。
シエラは咄嗟にその場から逃げ出そうとするけれども、異形の生き物たちに囲まれた恐怖で足がすくんでしまい、動かすことができなかった。
それでもシエラがなんとか後退しようと座り込んだままおもむろに手を動かしていると、落ちていた木の枝を折ってしまったのか、ぱき、という鋭い音が響き渡る。
そうすると、話し合っていた蟲たちがぴたりと静まりかえる。そしてその顔がじっとシエラに向けられると、彼らは激怒したようにシエラに襲いかかったのだ。
「いやぁっ!」
シエラは絶叫してその場でぎゅっと目を瞑るけれども、いつまで経ってもそれ以上何かがシエラを傷つけることはなかった。
恐る恐る目を開けたシエラの前を、誰かが庇うように立っていたからだ。
──そこにいたのは、片手に大きな剣を持った細身の背の高い男。
男はシエラに襲い掛かろうとする蟲たちを静かな瞳で見つめていた。
蟲たちは、そんな男の姿を見てぴたりと動きを止め、まるで怯えるように、許しを乞うようにずりずりと後退し、あっという間に見る影もなくその場を去っていく。
それを威嚇するようにじっと見送った男は、シエラのほうへと振り返る。
「きみ、大丈夫かい?」
そして、男はシエラを助け起こすと、心配そうな表情を浮かべながら、怪我がないかを確認した。
「は、はい……だ、大丈夫です……」
突然の出来事にシエラはこくこくと、無事を示すかのように何度も頷くと 男はどこか安心した表情を浮かべた。
煉瓦色の赤茶色の髪と、薄暗い中でも光るように輝いている新緑え目尻の垂れた瞳。柔和で穏やかな顔立ちと、すらりとした体躯。
そんな男がシエラを助け起こす姿は、まるで一つの絵画のようだとシエラはぼんやりと思った。
こんなに美しい男がいたらすぐに話題となるだろうに、この街にそれなりに長く住んでいるシエラも見たことがない男だった。
突然の出来事と、見知らぬ美しい男の助けは、平凡な日常を送っていたシエラにとっては夢を見ているかのようで、どこか放心状態のシエラを男が見知った町の近くまで連れてきてくれたことに気づいたときには、もうすでに日が暮れていた。
「ここからならもう道はわかるかな、もうここは通ってはいけないよ」
そう言ってにっこりと笑ってから、シエラに背を向けようとした男に、シエラははっと正気に返って、喉から搾り出すような声を出して呼び止める。
「あのっ、お名前を、教えていただけませんかっ!?」
シエラの言葉に男は振り向いた。
柔らかな髪の毛を揺らして、目を細める。そして、その問いかけには慣れていると言わんばかりに微笑んだ。
「ハイネだよ。僕は、ハイネって言うんだ」
運命だと、シエラはその時、確かにそう思ったのだ。
シエラには、今まで好きなものも、熱中するものも、特に生きがいもなく、ただぼんやりと生きてきた自覚があった。
ただ、過保護気味の両親の元から抜け出したい一心で家を飛び出し、なんとなく見つけた働き口であるこの酒場に勤めて数年になる。
遊ぶことも、贅沢することにも興味はない。趣味もない。お金の使い道だって、生活費以外は貯めてばかりで、それ以外に使うことはほとんどないくらいだ。
彼女のことを、周りは堅実であるとも言うが、それ以上に地味で面白みのない女であると嗤っていることもシエラは知っていた。
そんなシエラが出逢ったのは各地を巡る有名な冒険者であり、英雄譚を語られような男であると知ったのは、あの出来事のすぐ後のことだ。
今までハイネのことなど知りもしなかった、というよりも他人への興味というものがひどく薄かったシエラが周りの人びとに聞いてみると、英雄ハイネ、と呼ばれる男は、各地で困っている人々を助ける素晴らしい人物なのであると皆が語った。
そんな男が仕事のためにこの町にしばらく滞在することとなったという話はすぐにシエラの住むこの町に知れ渡り、街の人々は驚きと共に歓喜した。
そして、それに何よりも喜んだのはシエラであった。
一晩でまるで人が変わったようにハイネのことを聞きたがるようになった彼女に、職場のウエイトレス仲間たちはシエラがハイネに熱をあげているのだとすぐに気づいた。
「そんなに好きなら告白してきちゃえばあ?」
「付き合って貰えるかもよ? ハイネがいつまでこの町にいるかもわかんないんだし」
そんな彼女を見て、堅物で真面目で、酒場で働いているというのに今まで浮いた話の一つもなかった女にもやっと春がきたのかと、同僚たちは面白がりながら声をかける。
「いいってば、そういうのは! 遠くで見てるだけでいいの」
けれども、そんなことを言われると、いつもシエラはブンブンと首を横に振って曖昧に笑う。
同僚たちの言う通り、相手は冒険者で、いつまでこの町にいるかもわからない。一度助けてもらったからって、そんな相手に思いを募らせるなんて不毛だと、シエラにもわかっている。
町で時折見かけるハイネはいつも多くの人に囲まれ、話しかけられていた。
「ハイネさま!」「ハイネ、今日はなにするんだ?」「またお話聞かせてよ、ハイネお兄ちゃん」
彼らの声に、ハイネもいつも嫌な顔ひとつせずに微笑み、返事をする。
──見ているだけで、いいのよ。
そんな様子を遠くから見つめつつ、シエラは自分の黒髪を指先でいじりながら言い聞かせる。
人混みの中をかき分けて、ハイネに話しかける勇気などシエラにはなかった。いつもそんな彼を目で追いかけて、じっとその姿を目に焼き付けるだけ。
ただ一つあるとすれば、あの時に助けてもらった礼を、シエラはハイネに言うことができていなかったことを後悔していた。
もう話す機会などないかもしれない、いや、きっとないだろう。
だというのに、あの時に自分ができたことといえば、ハイネの名前を聞いただけだ。
シエラの名前でさえ、彼は知らない。ありがとうの一言でさえ、シエラは言えやしない。
──臆病者、意気地なし。
シエラは自身に向かって吐き捨てる。
運命だと、思ったのはシエラだけだ。そのことを、何よりもシエラが一番理解している。弁えている。
こんな卑怯な自分に、誰もが憧れるような男が振り向くわけがないのだ。
──そうよ、シエラ、欲張っちゃいけないわ。こんな私なんて、あの人を見てるだけで、満足なんだから。これ以上を望むなんて馬鹿げてる。
毎日毎日、シエラは一度も振り向くことはない男の姿を遠くからじっと見つめるだけであった。
それで、満足だったのだ。
✳︎✳︎✳︎
「待って、あれハイネじゃない!?」
「うっそ、うちの店に!?」
ある日の夜も更けた頃、そうウエイトレスたちが騒ぎ立てているのを聞いて、シエラは顔をあげた。
町に中心からは外れた場所にあるこの酒場に来る客はほとんど常連客ばかりであった。
別に目新しいメニューがあるわけでもない、そんな場所にあの英雄がやってきたのだと聞いて、店のスタッフたちは大いにどよめいた。
シエラがハイネに助けられてから数年経っても、ハイネは町を出ていくことも多いが、またこの町に戻ってくることを繰り返している様子であった。
そんな中、久しぶりにこの町に戻ってきたらしいハイネは、客やスタッフの注目を気にした様子もなく、店の一番奥の席に座ると、一緒に来た隣の女と楽しげに談笑を始めていた。
「ねえ、シエラ! 行ってきなよ、あんたの大好きなハイネがきたよっ」
「え……でも……」
突然のことに驚いて、ハイネの姿を遠くから見ながら皿洗いの手を止めていたシエラの背中を同僚が軽く叩く。
そして、同僚たちはにやにやしながらシエラの手にビールのジョッキを強引に握らせると、ハイネの座るテーブルへと送り出す。
「ご……ご注文の品になります……」
同僚たちに無理矢理送り出されたシエラは、震える声でなんとかそう言いながら、シエラはテーブルに料理を置いていく。
目の前には憧れのあの人がいるというのだ。話したことなど助けられた時しかない、何を話せばいいのか、どんな表情をすればいいのか、シエラには何もわからなくて、頭が真っ白になりながらなんとかそう言った。
「あぁ、ありがとう」
そんなシエラの心境になど気づかないようにハイネは声をかけて、シエラは咄嗟に勢いよく顔を上げる。そうすると、こちらを見ていたハイネと目が合い、思わずシエラはじっとその顔を見てしまった。
「えっと、何か?」
「いっいえっ! 失礼しましたっ!」
固まったように自分を見つめてきたシエラを不思議に思ったのか、きょとんとした様子で首を傾げたハイネに、シエラは慌てて小さく会釈をしてその場を後にする。
──少しだけ、期待をしていた。
数年前、森で助けてくれた人を覚えてはいないだろうかと、シエラはそう思った。
けれども、シエラには「私のことを覚えていますか」とも「あの時はありがとうござました」とも言う勇気はなく、会話らしい会話さえできず、まるで逃げるようにその場を去ることしかできなかった。
「あの子、ハイネの知り合い?」
「うーん、そうかもね」
シエラの背中に、そんな声が聞こえた。
店の厨房に戻ったシエラがちらりとハイネの方を振り向くと、隣の女がくすくすと笑いながらハイネにしなだれかかかる。
そしてハイネは、そんな女の顔を楽しそうに覗き込み、そしてキスをした。
──ハイネがこの町に戻ってくる理由。それは噂では、この町に気に入った女ができたのだと騒がれていた。
英雄色を好むというが、それはこの男のためにあるような言葉であると言ったのは、同僚のウエイトレスの一人であった。
ハイネの隣に居る女は見かけるたびに違っていた。
そして、ハイネの隣にいる女たちはみな、男であれば誰もが羨むような美女ばかり。
その視線が、シエラと合うことはない。だって、その目を見ればわかる、わかってしまう。
──私みたいな女、あの人の眼中に入りはしないわ。
シエラが見たところ、ハイネの隣にいるのは髪が長くて、スタイルが良くて、歯が白くて、そして背の高い美しい女ばかりであった。
見た目もスタイルも、特に秀でているわけではないと、シエラは自分のことをそう評価している。ありふれた黒髪と、ありふれた焦茶の瞳だ。
性格だって、特に誇れるものがあるわけでも、何か得意なことがあるわけでもない。
そんな自分のことを、あの英雄様が選ぶわけがないのだ。
それはシエラにだって理解している。だからこそ、遠くで見つめるだけでいいのだと、シエラは何度も何度も言い聞かせた。
けれども、ハイネが店にやってきたあの日から、シエラは夜になると少しだけ期待してしまう。
──今日は、来てくれるかしら。
誰が一緒でもいい、恋人を連れていても構わない。厨房からこっそりと、時折その姿を見れればいい。
そう思いながら、窓の外をちらりと覗くのだ。
✳︎✳︎✳︎
ガシャンと、グラスが勢いよく厨房の床へと落ちる。
「……ハ、ハイネさまが? なんで?」
呆然とした様子のシエラに、同僚のウエイトレスの女は驚いた表情を浮かべながら箒を手渡す。
「なんでも、魔女に手を出したんですって。森に棲んでる蟲の魔女に」
そんな女にまで手を出すなんてね、なんて言いながら同僚は呆れたように首を横に振った。
──あの英雄ハイネが行方不明になったという知らせを聞いたのは、彼がシエラの勤める店を訪れてからほどなくのこと。
「あはは、あの女好きめ。節操がないな! きっとバチが当たったんだろうさ!」
酒場に来た男たちはそう言いながら酒を飲み干す。
そんな男が、一昨日はハイネに対する何度聞いたかもわからない賞賛の言葉を投げていたことを様子を見ていて、それを覚えていたシエラは眉を顰める。
──どうしてみんなあんなに彼を慕っていたのに、誰も助けに行かないの? 心配じゃないの?
噂が本当なのかも、シエラにはわからなかった。けれども、その噂を聞いた誰もがハイネを探しに行く様子はない。
あれだけちやほやしていたというのに、街の人々はそんなハイネの話題にゲラゲラと笑って、酒の肴にするばかりであった。
「あーぁ、やっちゃったかぁ。ま、いつかなんかあるんじゃないかって思ってたけどさ」
「シエラもいい機会じゃない? これでほんとに自分に合った恋人見つけるの頑張ってみたら?」
あれほどシエラに告白しなよと言っていた同僚たちも、肩をすくめて呆れたようにそう言うばかり。
シエラにはそれが理解できず、同時に身体の奥からふつふつと湧いて出てくる苛立たしい感情に包まれた。
古いアパートの小さな部屋で、シエラは来る日も来る日も考える。けれども、街はハイネが消えても、まるで何事もなかったかのように毎日が進んでいくだけ。
「よおシエラ、こないだの件、ちゃんと考えてくれたか? 早く返事をくれよ!」
「……もう少し待ってちょうだい」
帰り際のシエラに声をかけたのは赤ら顔の若い男だった。
こんな地味なシエラを気に入っているらしい男は、こうしてシエラをデートや食事に誘うが、シエラはそれに首を縦に振ることはなかった。
例え自分の想いが叶わなくとも、ハイネ以外を考える選択肢など、シエラの頭にはなかったのだ。
シエラの返事に不満そうに舌打ちをした男の背中を見送ってから、シエラも身支度をして店を後にする。
暗い夜道を歩き、酒場の前でタバコを吸っている二人の女の横をシエラは通り過ぎる。
「ねえ、あんたそういえばハイネのことどうしたの?」
女の一人から、シエラにとっては何よりも大切な名前がでてきたものだから彼女はその足を止めた。
「ああ、ハイネ? 確か変な女に手を出して死んだんだっけ?」
もう一人の女が口を開く。シエラが振り向けば、そこにいたのは店にハイネとともにやって来ていた美しい女だった。女はシエラが見ているのことにも気づいていない様子でケラケラと笑う。
「顔もセックスも好きなんだけどさあ、あれに本気になるのはないでしょ。あいつ何考えてんのかわかんないし! ああいう男は一回痛い目に遭ったほうがいいでしょ」
「うわ、薄情ねえ! まだ死んだかもわかんないのに!」
女二人の下品な笑い声が響く。その声を聞いて、シエラは服の裾を握りしめた。
助けてもらったのは自分なのだ。感謝の言葉だって、言えていない。
気づけばシエラは走り出していた。
家に帰ったシエラは軽く身支度を整えると、すぐに外に飛び出していく。
目指すは、何年も前にハイネに助けてもらったあの森だ。
──私が、私が助けなきゃ。
なんの力もない自分がどれだけ愚かで、危ないことをしているかというのはシエラにもわかっていた。
けれども、ここで探しに行かなければシエラは自分を許すことができそうになかったし、それを止めることもできなかった。
一心不乱にシエラは暗い森の中を当てもなく探し回る。
聞こえるのは木々の葉が風に揺れる音と名前も知らない鳥の鳴き声だけ。
「ハイネさま、ハイネさま! どこかにいらっしゃいませんか!? 助けに参りました……」
恐怖をかみ殺しながら、シエラはできる限り大きな声で森の奥へと叫ぶ。けれども、その声に反応する者は誰もいない。
──だって私、ここで死んだっていいわ。
シエラはそう思った。ハイネのいない世界で、自分がこれから何かを好きになるなんてことが考えられなかったのだ。
自分の中の色あせた世界をハイネが救ってくれたのだ。お礼すらいえていない自分にできることは、そんな彼を探すことだけだと、喉が痛くなるまで叫び続けた時、木の根っこに躓いてシエラはその場に勢いよく倒れ込む。
「いっ……」
咄嗟に手をついたが、ぬかるんだ地面で服も手足も泥だらけになってしまった。
シエラはきゅっと唇を噛みしめてそれでもなんとかふらふらと立ち上がったその時、しんと静まり返った森の中で見知らぬ声が響いた。
「──全く、傲慢な男。私に謝る度胸が出るまで、精々その姿でいるがいいよ」
その場に突然響いたくすくすと愉快そうなそれは、この場にはあまりに不釣り合いな笑い声。
シエラが視線を向けた先、少し開けたその場所には一人、すっぽりと顔が隠れるほどに深く深緑色のローブを被った女が立っていた。
どうしてこんな場所に女が、とシエラは目を丸くすると同時に、女は泥らだけのシエラの存在に気づいたのか、「ん?」とシエラの方へと顔を向ける。
「おお? なんだ。よかったねえハイネ! お前を探しに来てくれるやつがやっと出てきたみたいだよ!」
シエラをじっと見た女は、ぱちぱちとその場で拍手をして、感動したかのように高い声を出す。
「……ハイネ?」
ローブの女の呟いた名前に、シエラは思わず口を開く。
それは、シエラが今、何よりも探している相手の名前に間違いなかったからだ。
「お嬢さん。この馬鹿を探しにきたのね? 今まで誰も探しにきやしなかったのに、熱烈だねえ」
そしてシエラの方へ身体ごとゆっくりと向き直ったフードの女は、ゆっくりと自身の足元を指をさす。
シエラはやっとそこで気づいた。
女の足元に、何か大きな生き物が一匹、小さく蠢いているということに。
「ほら、ご覧。これがハイネだよ」
「え……?」
シエラが瞬きをすると、女は笑い声だけをその場に残し、まるで煙のようにその場から消え去っていた。
それをぽかんと見つめることしかできなかったシエラは徐に視線を、女の足元にいる“それ”へと向ける。
そこにいたのは、煉瓦色の身体を持った一匹の巨大な芋虫のような生き物。
シエラはその芋虫を呆然と見下ろす。
「ハイネ、さま……?」
恐る恐る、シエラはその名前を呼んでみる。
この場にいた女はこの大きな芋虫をハイネだと言ったが、それは悪い冗談で、からかっているだけだと思ったからだ。
けれども、シエラの口から零れ落ちたその名前を聞いた芋虫は、びくりと身を大きく震わせて後ずさるような様子を見せた。
まるで、それはまるで、その名前を隠しているかのような、芋虫がするのにはありえない、あまりにも人間身に溢れた仕草であった。
その様子を見て、シエラは確信したのだ。
──目の前のこのおぞましい生き物が、シエラの探していた想い人そのものであると。
どれくらい時間が経ったかはわからない。けれども、シエラはゆっくりとそんな芋虫に近づく。
「わ、私の名前、シエラっていうの。あなたを助けに来ました……」
近づいてくるシエラを、芋虫はじっと見つめて、後ろにじりじりと下がるが、あまりにもその動きは遅い。
シエラはそんな芋虫を怖がらせないように、泥だらけのスカートの裾がさらに汚れることも厭わずにその場にしゃがみこむ。
──助けてあげなきゃ。
その芋虫がハイネだと知って、彼女の心に湧き上がったのはその感情だけであった。
彼を賞賛する人々も、彼にしなだれかかる女たちも、誰もハイネを助けたりすることはない薄情者ばかり。
──誰も彼を助けないのであれば、私が助けなければ。
どこか怯えたようにも見える芋虫に、シエラは優しく微笑みかける。
そうすると、芋虫は驚いたようにぴたりとその動きをとめた。
「一緒に、帰りましょう? ハイネさま……」
そう言いながら、シエラはその大きな芋虫をそっと抱き上げたのだ。
***
「最近なんか元気そうね?」
「え、そ、そう?」
そうシエラの顔を覗き込んできたのは、散々シエラを馬鹿にしてきた同僚の一人だ。じろじろとシエラの全身を眺めまわして不思議そうに問いかける。
「なになに? 恋人でもできたの!?」
「あれだけハイネハイネ言ってたのに、あんたも薄情ねえ」
物珍しそうな目と、くすくすという嘲笑。それを聞いてシエラは曖昧な笑みを浮かべてただ俯くと、「やっぱりそうなんだぁ」と、その声は大きくなった。
けれども、シエラにとってはもうそれはどうでもいい外野の声。
──この人たちは知らないのよ、そのハイネさまが今、私の家にいるってこと!
あのあと、シエラはその芋虫を隠すように自分の小さな家に連れて帰った。
別に、虫が好きなわけではないし、できれば触りたくはない。けれどもそれがハイネであるのならば話は別だ。
身体を拭いてやり、柔らかなベッドで寝かせてやれば、芋虫は身じろぎしながらもされるがままで、シエラの言うことを聞いた。
自分の家に、あれほど焦がれた思い人がいるのだ。
彼は今、シエラがいないと何もできないし、食事すらままならない。全て、シエラがいなくちゃダメなのだ。
そう思うと、シエラはどんな嘲笑の言葉にだって耐えられた。
その日も、仕事終わりにいつもシエラはハイネのために新鮮な野菜を持って帰った。
大喰らいな芋虫はシエラが買ってきたたくさんの野菜をぺろりとすぐに食べてしまい、シエラの食費よりもずっと高くつく。
けれども、そんなことは構いやしなかった。
野菜を一心不乱にしゃくしゃくと食べている芋虫と視線を合わせるようにしながら、シエラはうっとりと口を開く。
「いつか、静かで自然がたくさんあるところで暮らしましょう、二人で。そうしたら、あなたもきっとのびのび過ごせるわ」
それは、誰にも話したことない、シエラ自身でさえ、ちゃんと考えたことのない夢だった。
「それでね、庭に小さな畑を作るの! 私とあなたの二人だけなら、そんなに大きくなくていいだろうし」
頭に思いついた光景を、シエラは照れくさそうにぽつぽつと話していく。
口数がさほど多いわけではない彼女の、それは珍しい姿だった。
芋虫は野菜を食べるのをぴたりとやめると、シエラの方へゆっくりと頭を向ける。
「お金は……今はあんまりないけど頑張って働くし、貯金するわ。だから待っていてね」
そんな芋虫に向かって、シエラは嬉しそうに言いながら、その身体を大事そうに撫でる。
「……大好きよ、ハイネさま。あなたが居なきゃ生きていけないわ」
誰が彼女を嗤おうが、彼女は幸せというのは今この瞬間なのだと思った。
曖昧に生きて、何にも情熱を燃やすことなく過ごしていた自分にも、本当に大切なものが、愛おしいと思えるものができたのだ。
それは手に入ると思っていなかったもので、それでいいと思っていた。
けれども、それは今、シエラの庇護下にあり、その庇護がなければ、生きることさえままならないのだ。
芋虫はシエラの言葉を聞いてじっとしていて、その話を理解しているのかもシエラにはわからなかった。
だって、その出来事を覚えているのは、シエラだけであることを彼女は知っていたからだ。
***
シエラがシフトを以前よりも増やしたことについて、同僚たちはシエラが新しい恋人との結婚資金を貯めているのだと考えたようであった。
それをシエラ本人に対して茶化すと、シエラは嬉しそうな笑みを浮かべ、詳しいことを語ろうとはしない。それを見た周りの人々は、さぞいい相手が見つかったのだろうと勝手に推測をした。
そんなシエラがへとへとになるまで働き、いつもよりも遅く、深夜に帰ってくると、いつものように野菜の入った袋をテーブルの上へと置く。
そして自分のベッドの方へと目をやったあと、首を傾げた。
「……ハイネさま?」
今朝までは、いつも通りベッドの上でじっとしていた愛しい男の姿はどこにもない。
シーツから抜け出した痕がそこには残っているだけであった。
「ハイネ、ハイネさま? どこにいるの?」
それを見た瞬間、シエラはさあっと顔を青ざめさせてベッドの下や家具の隙間など、部屋中をうろうろと探し回るが、狭い部屋の中に芋虫が隠れる場所などそうない。
ハイネがこの部屋から逃げたのだ、と気づいたシエラは、鍵も閉めずにそのまま慌てて外へと飛び出した。
──どこにいるの、どこにいるのどこにいるのどこにいるの!?
あの子は、シエラが居ないと生きられないのだ。
食事さえままならず、ベッドの上からほとんど動くこともできない。
シエラ以外にはおぞましいと言われる見た目をしているハイネが、外で生きられるはずがない。
きっと今頃、そんなハイネが誰かに傷つけられたり怯えられたりしているしているのではないかと考えると、シエラは気が気ではなかった。
今すぐハイネを連れ戻さなくてはならない。
いつもみたいにたくさんご飯を食べてもらって、ゆっくりと眠って──
「よぉシエラぁ」
誰もいない深夜の町のあちこちを一心不乱に探し回るそんなシエラの後ろから、聞いたことのある声が響く。
シエラが後ろを振り返ると、そこにいたのは酒場の常連客で、シエラにいつもちょっかいをかけてくるあの男だった。
目が据わった男はひどく酔っている様子だが、どこか苛立った様子でシエラに大股で近づいてくる。
「な、なによ、いきなり。私急いでるの! 邪魔しないで!」
涙声のシエラはきっと男を睨みつけ、足早にその場を去ろうとする。
今のシエラには何よりも大事な用事があるのだ。いくら常連の客といえど、相手にしている暇はない。
「どこいくんだよ!」
けれども、男の横を抜けていこうとするシエラの腕を、男は乱暴に掴んで自分の元に引き寄せる。
赤ら顔でフーッ、フーッとまるで怒った獣のように息を漏らしながら、じろりとシエラを見下ろしていた。
「俺にかまわねえでよお、今度はどこのどいつに熱あげてんだよ、お前の大好きなハイネはいなくなったってのに……」
男は低い声でぶつぶつとそんなことを言いながらシエラの腕を掴む力を強くする。
「い、痛いわ、離して!」
男の常軌を逸した様子にシエラは恐怖を押し殺しながらも、掴まれた腕を振りほどこうとする。
けれども細身で小柄なシエラでは男の手を振りほどくことはできず、叫んで誰かに助けを求めるため口を開こうとしたシエラの顔を男はもう片方の手で掴む。
「こンのクソ女! 大して美人でもねえのにお高く留まりやがって!」
そして男はシエラの体を勢いよく地面に投げ捨てると、地面に倒れたシエラの前に舌打ちをしながらしゃがみこむ。
「ヒッ」
鈍い音を立てて地面に倒れ伏すしかないシエラは恐怖で喉から声が出ず、それでもなんとか男の元から逃げようとする。
「お前みたいな女は黙って俺の言うこと聞いてりゃいいってのによぉ」
けれど、そんなシエラの服の胸倉を掴んだ男は、下卑た笑みを浮かべながら怯えるシエラの体を押さえつけてどこかに運ぼうと再び腕を掴む。
その時だった。
「おい」
シエラも気づかぬうち、男の背後に、音もなく背の高い別の誰かが立っていた。
「あ?」
見知らぬ声を聴いて、男は不機嫌そうに振り向く。
「──彼女を、傷つけたな?」
新緑のような緑が、夜の闇の中でもくっきりと、輝きを放つように光っていた。
煉瓦色の髪がその表情を隠しているが、そこに立っている人物が誰であるかを、シエラは即座に理解する。
「許さない」
声の主は一言、冷たい声を呟くと、素早く自分よりも大きな男を軽々と地面に倒して馬乗りになる。
酔った男は何が起こったのかもわからず、目を見開いており、その口が何か言葉を発するよりも先に地面に勢いよく押し倒された。
声の主は無言で大きく振りかぶり、そして容赦なく男の顔へと拳を振り上げる。
鈍い音が何度も何度も、静寂のその場に響き渡り、男の悲鳴とうめき声が聞こえた。それでも殴ることをやめない。
すぐ横の冷たい壁に真っ赤な痕ができて、地面にも生暖かい体液が広がっていく。
やっと鈍い音が止んだのは、男の声が完全にしなくなってからのことであった。
「シエラ」
ふーっ、と気持ちを落ち着かせるように息を吐く音が聞こえた後、「ハイネ」はその名前を呼んだ。
「シエラ、大丈夫かい?」
それは、まるで、数年前のあの森で、助けに来てくれた王子様の声のよう。
ハイネはふわりと笑みを浮かべる。
誰もが見惚れるような美しい微笑み。その頬に赤い鮮血がこびりついているのにも、まるで気づいていないかのように。
──これは、誰?
そう問いかけるけれど、その答えなんてシエラが一番わかっている。目の前で、顔に赤い血をつけて微笑んでいるこの男に、シエラがどれほど焦がれていたことか。
──でも、じゃあ、部屋にいるあの子は?
人一人が暮らすのに精一杯な、古びた小さなアパート。そのベッドの上で、じっとシエラのことを待っていてくれたあの子は、どこにいるのだろう?
「ハ、ハイネさまは……? ハイネさまはどこ……?」
シエラは地面によろよろと後ろに後ずさるが、すぐに背中には冷たい壁が当たってそれを遮る。
「ハイネは僕だよ、シエラ」
彼女の声に男は不思議そうに首を傾げたあと、シエラと目線を合わせるようにしゃがみこむ。
そして手を伸ばして、シエラの髪をそっと撫でた。
「触らないでっ!」
咄嗟にシエラは自身に触れられたハイネの手を勢いよく払いのける。
「あ、あなたなんか違う、違うわ……」
シエラはがたがたと身体を震わせて、目の前の煉瓦色の髪をした美しい男をまるで化け物を見るかのように見つめた。
彼は、シエラがいないと生きていけないはずだったのだ。そうじゃないといけないのだ。
それが、よかったのだ。
皆が憧れた英雄ではなく、おぞましい化け物になった男となら、ずっと一緒にいられるだと。
──それがシエラだけの、ハイネだったのに。
「私が好きになったのは、あなたじゃない……もう、あなたじゃないわ! あなたは要らない!」
シエラは己の髪の毛を掴み、まるで狂ったかのようにぐしゃぐしゃと乱す。
「返してッ! 私のハイネさまを返してッ! かえして、よぉ……ッ!」
そして大粒の涙を零しながら、シエラは場に頭を抱え、まるで何かに祈るかのように泣き崩れた。
「違わない」
そんなシエラを穏やかに見つめ、ハイネは髪を揺らしてシエラの顔を覗き込む。
振り払われた手でシエラの顔を強引に掴み、その視線を無理矢理自分へと向けさせた。
「僕がハイネだよ。君が好きになった相手は今、君の目の前にいるだろう?」
ハイネは目を細める。どこか恍惚とした表情で、ハイネはシエラだけを見つめている。
かつてあれだけ焦がれた顔がそこにあって、ありえないと考えていたその瞳が、今はシエラだけのものであった。
「──さあ、僕を見て。シエラ」
泣きじゃくり、怯えた様子の女の青白い唇に、頬を薔薇色に染めた男はそっと口付けを落とす。
逃げ場のないそれは吐き気を催す血の味であるのだと、シエラはぼんやりと思ったことを覚えている。
***
「──あんたが謝るっていうからもとに戻してあげたけど、理由はその子?」
暗い路地の中、音もなく現れたローブの女が、ハイネの顔を背後から覗き込む。
男の腕の中には気絶したように、ぐったりした小柄な女が眠っていた。
「……魔女」
ハイネはぎろりと女の顔を睨みつける。
魔女と呼ばれた女はそんなハイネの顔を見て、肩を上下させながら笑った。
「女なんて中身は全部一緒だって言ってたじゃない、どうせ同じなら一番見た目と身体の具合がいいやつにするって」
ハイネは何も答えない。
腕の中に眠る女の顔をじっと見下ろしているだけだ。そんな男の様子を見て、魔女はローブの下で唇に弧を描く。
「あんた、長いことこの街にいてことあるごとに説教しにくるんだもの。もう私の気が済むまであの姿ままにしてやろうと思ったけどね、ふふ、寛大な私に感謝なさいよ」
そう言いながら魔女は男の腕の中にいる女の頬へ指を伸ばそうとするが、ハイネはそれを片手で乱暴に払い落とした。
「早くどっかにいけよ、姉さん」
「はいはい、弟のくせに生意気ねえ。あんたが街からいなくなるなら大歓迎、せいぜい二人で幸せに暮らすといいわ」
魔女は笑うと、ローブを下した。
頭を振って髪を払うと、現れたのは、ハイネと同じ色で切りそろえた髪をし、ハイネとよく似た女の顔。
そしてローブを翻しながら魔女はハイネに背を向けた。
「これに懲りたら、女なんてみんな一緒だなんて金輪際言わないことね!」
出てきた時と同じように、再び音もなく消えた魔女のいた方向を睨みつけてから、ハイネは腕の中で未だ目を瞑ったまま女をぎゅっと強く抱きしめる。
「……当たり前だろう」
嬉しそうに、大切に。
「君がいなきゃ、生きていけないよ」
──勇者ハイネが呪いを打ち破り、妻を娶ったという知らせはどこからか国中に知れ渡ることとなった。
けれども、その妻の名前や顔を知る者も、勇者ハイネが今どこにいるかを知る者も、誰もいないのだ。
まるで、誰にも見せまいと、誰かが隠しているかのように。