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エリック・フルニエの天啓


「オベール家から参りました。本日からよろしくお願いします」


 彼女は普通ではない。大事にしない者には罰が下るだろう――――。

 扉を開けた瞬間になぜかそう思った、後から思うとこれが天啓というものか。


「もしかしてオデット様の侍女の方?」

「いいえ、ですが今日からここで暮らせと言われました」


 一抹の望みをかけたけれど、やはり本人だった。オデット・オベール、今は籍を入れてオデット・フルニエか。さまざまな場面を想定して万全の体制で迎え入れようとしたところだったのに、現状は万全とは程遠い。

 けれど彼女は部屋を見回して文句も言わずに小さな手荷物を一つ運び込む。


「わたしにはこれでも十分贅沢です」


 あれ、良い子だ。わがままと聞いていたのだけれどな。

 嘘つきで傲慢と揶揄される気狂い姫の面影なんて何一つ感じさせない。

 この国の人間は何を見ていたのだろう。噂とはまったく当てにならないものだ。

 それに、と口を閉じたエリックの脳裏でリオネルとの会話がよみがえった。


 壮絶な気品か、まったくそのとおりだな!


 言葉にするなら人並外れた品位と風格。

 こういう内面から滲み出るものは、ずっとそばにいる人間ほど気づきにくいものなのかもしれない。

 それこそ初めて会うからこそ余計に他人とは違うと気づかされる。もしくは比較対象がいないから気がつきにくいだけで……そこまで考えて納得した。彼女が排除された理由の一つは間違いなくこれだ。

 リオネルの懸念も的外れではないかもしれない。たしかに彼女の隣には並びたくはないだろう。


 なぜなら公爵家の血を引かないはずのオデット嬢が、公爵令嬢にふさわしい品位と風格を持っているのだから。


 そのことに気がついたオベール家の誰かが悪い噂を助長するような態度を取り続け、オデット嬢の価値を落とし、人との接触を遮断して存在を消したというところか。

 それでようやくこの壮絶な気品を隠すことができたわけだ!

 オベール家は、直系であるリュシエンヌ嬢の地位と価値を守るためにやったのかもしれない。

 ただここまで徹底して排除する必要があるのかは疑問だけれど。

 黄金姫と呼ばれるリュシエンヌ嬢ほどではないが彼女の赤茶色の髪は豊かに波打っていて十分に華やかだ。

 顔立ちも整っているし、教養を与えて磨き上げれば貴族に嫁ぐには十分ではないだろうか。それなのに礼儀作法も中途半端で、公爵令嬢にふさわしい教育も満足に受けてこなかった様子だ。

 たしか、社交界にデビューしたときは礼儀がなっていないと散々な評価だったらしいな。ただ、実際に接してみるとそこまで不躾な感じはしない。

 きっとこのチグハグな感じが、リオネルにオベール家はおかしいと言わせたのだろう。

 視線が合うとオデット嬢は困った顔で首をかしげる。


 ……さて、どうしよう。ここから先は少しずつ仲良くなって探っていくしかないか。


 エリックはオデット嬢をさりげなく誘導しながら、普段の様子を聞き出していった。そして聞けば聞くほど絶望的な気持ちになる。

 結論から言えば公爵令嬢とは思えない冷遇だった。

 いくらなんでもあり得ないだろう。むしろ生活に困窮する男爵家の令嬢ですらもっとマシだ。少なくとも国費で学校には行かせてもらえる。まさか悪評と家事手伝いのために貴族学校へも通わせてもらえなかったとはね。


「ちなみに字の読み書きや計算は?」

「家庭教師がついていたときはその方に教えてもらいました。彼女が解雇されてからは独学です。誰も教えてくれなかったので」

「解雇って、君がわがままを言って辞めさせたのではないのか?」


 すると彼女はあきらめた顔で笑った。


「違うと説明しても無駄でした。あなたもきっと信じないでしょう」


 どんな慰めの言葉も今の彼女には届かない。そう思うとエリックは言葉に詰まる。

 きっと両親と対峙するときの自分も同じような顔をしているのだろう。けれど同じ痛みを知る彼女なら戦友として共闘できる。 

 だからエリックは賭けたのだ、契約婚をして家族から自由になろうと。

 大切にしない者には罰が下る、白い結婚を提案したのは彼女には自分のような悪評まみれの男よりも真っ白な男性のほうが似合うと思ったからだ。


 そしてようやく契約がまとまった。

 

 それにしてもオデット・オベールとは何者なのか。

 噂のオデット嬢と今目の前にいる彼女は同一人物なのだろうか。

 今も冷静に、激昂することもなくエリックの提案を呑み込んでいく。エリックだけでなく自分にとっても利があることをちゃんと理解していた。

 むしろ辛抱強く、頭の良い人だ。それだけにどんな無茶振りでも成し遂げてしまいそうな逆の怖さがあるけれど。

 正直なところ噂に聞いていた評価ほど悪くないのだよなぁ、そう思ったときだ。


「半年ね、契約しましょう」


 慎ましく微笑んでいた彼女の笑みが憎しみで歪み、色のない彼女の微笑みが突然鮮やかに色づいた。

 渾々と湧き出る清水のように清廉だった顔が燃えるような苛烈さを滲ませる。

 エリックの背筋が粟立った。

 笑顔に浮かぶのは侮る者を容赦なく消し去る冷徹さと、残酷さ。

 オベール公爵家は建国の英雄の血を受け継ぐとされ、まるでその一端に触れたようだった。かの英雄は慈悲深く温厚だが、敵に対する情け容赦ない残酷な一面は歴史書にも詳しく記されている。

 その建国の英雄が恐れることなく果敢に挑む姿を戦神が讃美し、オベールの黄金を授けたとされていた。

 彼女にはオベール公爵家の血が流れていないはずなのに、なぜ英雄の片鱗を思わせるのだろう。

 

 まるで戦いと知恵を司る女神のような。


 そう思うと同時にエリックの心拍数が一気に上がった。

 あれどうした、自分がおかしい。

 顔を上げて彼女と視線が合った瞬間、ようやく気がついた。

 

 彼女こそエリックの待ち望んだ泉と女神だ、なぜ気がつかなかったんだ!


 まさにエリックの理想とする存在が目の前にいた。エリックの視界限定で彼女の周りには百合や薔薇の花さえ咲いている。顔色が悪く、やつれている姿がむしろ清廉で神々しく思えた。

 エリックはおそろしい速度で生まれて初めて知る感情に落ちていく。


 どうやら自分は彼女に恋をしたらしい。


 そうだ、とにかく彼女の美しさを取り戻さないと!

 いやそうじゃない、もっと他にすることがあるんじゃないのか。後で冷静になってみるとそう思うが、あのときはなぜかそれしか思いつかなかった。

 恋は人を愚かにする、まったくもってそのとおりだ。

 必死に取り繕って連れ出したはいいが、馬車に乗ったところでハタと気がついた。


 あれ、俺は今さっき契約婚を持ちかけてなかったか?


 ――――


 契約婚を持ちかけた相手が、実は理想の女性だった。


「アハハハ、本当バカな男だね!」

「言わないでください、過去の所業も含めていろいろ後悔しているところですから」

「似合わないくせに格好つけるからよ。ざまあみなさい!」

 

 社交界には何度か顔を出していたけれど、この国にはエリックの泉も女神もいないと早々に見切りをつけていたから完全に盲点だった。

 まさか社交界から弾かれたような女性の中に理想の人がいたなんて。


「まあたしかに、あなたにはもったいないくらいの素敵なお嬢様じゃない。清楚で慎ましく、礼儀正しい。ああいう女性はきっと一途よ」

「結婚なんてするつもりなかったから、評判なんてどうでもいいと思っていた自分を恨みます」

「わたし達の仕事には贔屓にしてくれる顧客も必要だもの、人付き合いを制限されると困るときもあるわ。特にあなたの場合は女性物が得意で、専門分野なのだから女性に会うなというのがそもそも無理よ」

「そうだ、それだけなんだ!」

「しかも商家出身だからそれなりに人当たりもいいし、相手の望みを察することにも長けている。容姿も整っているし、女性にしたら付き合いやすい相手だもの。装飾品みたいに連れて歩きたくなる気持ちもわかるわ。ただ誤解を招くような態度が悪い噂を助長したのもあるから無罪とは言えないわね!」


 そう言って腹を抱えながら笑う女性、マダム・ジャクリーヌはこの国で人気の高いデザイナーの一人である。貴族にも顧客がいて、エリックはフルニエ商会経由で知り合った。才能があると、エリックを今所属する他国の商会に紹介して道を繋いでくれたのも彼女である。

 尊敬する先輩で、恩人。協力者が必要と思っていたので、家族には話せないけれど彼女にだけは契約婚のことを打ち明けて協力してもらおうと思っていた。


「そもそも誤解されるような態度を取り続けてきたのは実家への当てつけでしょう。いわゆる遅い反抗期だわね。それと婚約や結婚を回避するための汚名でもある。ところが汚名のはずがどういうわけか相手のお気に召してしまった。思いどおりにいかなくて残念だったわね!」


 返す言葉がない、完全に自分の子供と扱いが同列だ。

 ちなみに彼女は最愛の旦那様がいる二児の母、母は強かった。ちょっと世間の荒波に揉まれた程度の自分ごときが太刀打ちできるわけがない。


「それにね、あなたはもともと好きなものに注ぐ熱量が多い性格なのよ。今までは分散させていたからそうでもなかったけれど、本命が見つかったらそうはいかないわ。分散されていた熱が一ヶ所に注がれる。恋人に愛が重いとか言われるタイプね。加減は大事よ、執着しすぎて嫌われないように気をつけなさい」


 良いところがまるでない。

 しょんぼりとしたエリックの顔を笑った彼女は、満足したところで真面目な顔をする。

 真剣な眼差しが彼女の緊張を物語った。


「それで契約を交わした奥様のお名前は? 悪いけど一瞬背筋がゾッとしたわ、どなたかしら?」

「やはりジャクリーヌ様でもわかりますか」

「もちろんよ、あのとんでもない気品は普通ではないわ」


 百戦錬磨のデザイナーすら怯ませる気品。やはりエリックの贔屓目ということではないらしい。

 視線の先では彼女が若い女性達と一緒にふわふわと笑っている。いつの間にかゾッとするような気品は薄れて、今は淑やかでかわいらしいだけの普通のお嬢様だ。

 差し入れのマカロンに、キャンディー。テーブルの上に所狭しと並べられたデザイン帳の隙間からレースと飾りリボンが見える。エリックの愛する物しかない美しい景色。

 その中心で埋もれるように咲く彼女は、この世にあって、この世にはいない者のようで。


「天使だ、背中に真っ白な羽根が見える」

「はいはい、泉に女神に今度は天使ね。わかったからお名前は?」

「オデット・フルニエ。結婚前の姓はオベールだ」

「オ……、オデット・オベールですって⁉︎」


 一瞬大きな声を出しかけたけれど、あわててジャクリーヌは音量を下げた。

 エリックは苦笑いを浮かべる。わかる、自分も似たような反応をしたわけだから。


「ちなみに私は彼女をアデライドと呼んでいます。どうにもオデットの名に抵抗があるようだったので」

「あれが傲慢でわがままで礼儀知らずの気狂い姫だというの、それこそ嘘でしょう⁉︎」

「まあオデット・オベールの替え玉でもいたら嘘ということもあるのでしょうね」


 悪評しかないオデット・オベール嬢の替え玉を用意して、同じく悪評のあるエリックに嫁がせるメリットはあるのだろうか。それこそチグハグだ、それならまだ本人というほうが納得がいく。


「婚姻届はオベール家の当主自ら署名されたそうですから、間違いなく本人でしょうね」

「……あなた、もしかするととんでもない陰謀に巻き込まれているのではなくて?」

「かもしれません。ですからジャクリーヌ様にもご忠告申し上げたいと参上したわけです。尊敬する先輩で、恩人ですから」


 家だけでなく、オベール公爵家や国も巻き込む騒動になるだろう。リオネルの勘ではそうだった。そしてエリックもまた、彼女の選択次第で平穏無事では済まないだろうと感じている。

 理由はわからないけれど、そう思わせる何かが彼女にはあった。


「わたしのためだとか言っているけれど絶対巻き込もうと思ったでしょう!」


 ジャクリーヌは恨めしそうな顔でエリックを軽く睨んだけれど、その視線はすぐにゆるんだ。

 そして真剣な顔をする。


「でもたしかに普通ではないわね」

「たとえば?」

「髪の色も顔立ちも似ているけれど私の知っているオデット・オベールとは別人だわ。間違いない」


 彼女の悪評には贅沢好きというものがあって一度着た服は二度と着ないと言われていた。その悪評のとおりに、ジャクリーヌはこれでもかと贅を凝らしたドレスを彼女のために何度も仕立てている。けれど自信を持って言えるのが注文主は目の前にいる彼女ではない。

 彼女がオデット・オベール、でも自分が知るオデット・オベールではなかった。では今までジャクリーヌがドレスのデザインを請け負ったオデット・オベールは誰なのだろう。


「それを調べればジャクリーヌ様も真実にたどり着くはずです」

「わかったわ。それで情報の対価は?」

「情報には、情報を。オデット・オベールもしくはオデット・フルニエに関する社交界での噂を教えてください。私はこちらの社交界には疎いので」

「フルニエ商会に頼めばいいじゃないの」

「家族には極力知られたくないのです」

「ああ、そうね。家を捨てるなんて知ったら商会長が怒り狂いそうだもの」


 出来が悪くても我慢して育ててやったのに何が不満なんだ。

 そう言われた日のことは忘れない。

 あの日、エリックは家を捨てようと心に決めた。


「半年だけですが彼らの思惑に従って踊ってみましょう。その間に、自分と彼女はいろいろ準備をしておこうと思っています」

「いいんじゃないかしら、応援するわ。あなたにこの国は合わないもの」

「それまでは彼女もそうですが、自分も普段どおりに過ごすつもりです。そのほうがオベール家にも、フルニエ商会にも疑われにくい」

「ということは、浮気者で女性がいなくては生きていけないエリックを演じるということ?」

「そうです、彼女にも伝えてあります」

「それが最善でしょうけれど、罪深いわねー」


 きっと天使は苦しむ、愛と義務の狭間で。そう思うと最善ではない気がするけれど。

 ジャクリーヌは深々と息を吐いた。


「そうだ、一つだけ忠告よ」


 採寸が終わり、天使は既製品のワンピースが並ぶ部屋に行くらしい。エリックは弾むような足取りをした華奢な背中を見送った。愛らしさにゆるんだ口元を見咎めるようにジャクリーヌは視線を鋭くする。


「今のオデット嬢にとってエリックは救世主なの。あなたは優しいから全力で彼女を救おうとするでしょう。そんなあなたを彼女はきっと好きになる。白い結婚とわかっていてもね」


 けれどエリックの周りには必ず女性の影が付きまとう。

 浮気者で、女性がいないと生きていけない。最低な男という評価そのままに。

 エリックの浮かれた気持ちが一気に地へと叩き落とされる。


 彼女に蔑みの眼差しを向けられて、自分は生きていけるだろうか?


「あなたが彼女に惹かれているのもわかっているわ。本気の恋には不器用なあなたに、ちゃんと一線を引いて彼女と接することはできるのかしらね」

「それは、でもどうしたら」

「いいこと、今からでも遅くないから土下座して謝り倒しなさい。突然の結婚を言い渡されて頭に血が上った結果、愛さないなんて寝言を言ったけれど実は君が泉で女神で天使なのだと誠心誠意を尽くして口説き落とすのよ。それから女性の影をすっぱり切って、彼女が不安に思う隙もないくらいに一途に愛するの。今まで持っていた悪しきものを根こそぎ捨て去る、それが彼女への誠意よ。でもそれができないというのなら」


 ジャクリーヌは一層、視線を鋭くした。


「あなたの好意は絶対に悟らせてはダメ。その時がきたら彼女を冷たく突き放すの。後腐れなく彼女を幸せに送り出す、それが本当の優しさというものよ。彼女に幸せになってもらいたいのならなおさら間違えてはいけないわ。もちろん幸せになるのはエリックもよ。あなたを不幸にしたくて他国の仕事を紹介したわけではないの」


 中途半端に連れ帰っては彼女が幸せになれないし、彼女を苦しませることでエリックも苦しむ。

 まったくもってそのとおりだった。オデットもそうだが、エリックの過去もまた消せないものだから。

 厳しい顔をしたまま、ジャクリーヌは試着室の様子を見に行くため立ち上がった。


「あなたの泉で女神で天使を泣かせたくはないでしょう。肝に銘じておきなさい」


 

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