リュシエンヌ、オデット、それともアデライド2
そう、この期に及んでまだわたしのせいだと言うのね。
わかったわ、ならリュシエンヌとして言い返してあげる。
かつて深く傷ついた自分のためにどうしても言ってやりたかった。
「言ったではないですか、リュシエンヌはわたしだと」
「それは」
「なぜ本当のことを言わなかったかですって。笑わせないで、わたしにその理屈は通用しませんよ」
嘘偽りなく本当のことを言ったのに。
信じなかったのは、あなただ。
「リュシエンヌだけでなく、オデットやアデライドも。いつもあなた達は都合よくわたしに責任を転嫁する」
「違う。そんなつもりではなかったんだよ!」
「セレスタン様、この状況は自業自得です。お茶会であなたはわたしにそう言ったではありませんか」
見せつけるようにオデットの髪へ唇を寄せて。忘れたとは言わせない。
冷ややかな眼差しをしたリュシエンヌは、セレスタン様と護衛の背筋を凍りつかせる。
……もういいわ、終わりにしましょう。
リュシエンヌの手が、ひっそりと隠れるように止まる馬車を指した。
「お帰りはあちらです。グランドヴァローム王国の貴人牢であなたの黄金姫がお待ちですわ」
「そうじゃない、違うんだ!」
「どこが違うのです? たとえ偽装結婚だとしても、あなたの相手はわたしではない。病めるときも健やかなるときも愛を貫くと神に誓った最愛の奥様はグランドヴァローム王国であなたの帰りを待っています。お二人の幸せを、心からお祈りしておりますわ」
そう話すリュシエンヌの顔にはもはやどんな色も浮かんでいなかった。
完全なる無関心、他人事という表情だ。
セレスタン様はリュシエンヌにすがるような眼差しを向ける。
「そんなつれないことを言わないでくれ。君は、わたしを愛していたじゃないか!」
魂を揺さぶる悲痛な叫び。その叫びをリュシエンヌは嘲笑った。
嘘をつく必要がないというのは、すばらしいことね。
「いいえ、愛していません。なんでそんな勘違いをなさったのかしら?」
セレスタン様の目が大きく見開かれる。
「嘘だ、そんな」
「それは困りましたね。オベールの黄金を持つ者は嘘がつけないのではなかったかしら?」
リュシエンヌは皮肉げに口元を歪めた。
これを嘘だと認めたら、セレスタン様自身がわたしをリュシエンヌではないと認めることになる。ここにいるのはオデットか、リュシエンヌか。ますます見分けがつかなくて彼の脳内はさぞかし忙しいことになっているだろう。
見せつけるようにリュシエンヌはエリック様の手を握った。
「わたしの愛はエリック様に。自分の意思で彼の貴婦人になると決めたのです」
はにかむような柔らかな表情を見て、セレスタンは確信する。
やはり彼女がわたしのリュシエンヌだ!
失ったものを何としてでも取り戻したくて、セレスタンはもう一度手を伸ばした。
けれど手が届く前、リュシエンヌの冷ややかな声が無情にも終幕を告げる。
「残念ですが時間切れですわ」
揉め事が起きていると誰かが通報したのだろう。周囲のざわめきに、警官の怒鳴るような声が混じっていた。セレスタン様の背後で忙しなく周囲を確認する護衛にリュシエンヌは視線を向ける。
「戦争を回避するための重要な会談が控えておられるのでしょう。揉め事を起こしたとあっては、せっかくの良い話が流れてしまうかもしれません。この場はお引き受けしますから宿にお戻りくださいませ」
わたしからの、ささやかな餞別です。
再び馬車を指して微笑むと青ざめた護衛がセレスタン様を強引にリュシエンヌから引き離す。
「ああ、リュシエンヌ。君はわたしのリュシエンヌだろう!」
「本当にあきらめが悪いですわね、そこまで言い張るのなら……」
悪役にふさわしく歪な笑みを浮かべて、リュシエンヌの華やかな色を塗った唇がくっきりと弧を描いた。
「わたしがリュシエンヌ・オベールだという確たる証拠を握ってから出直してきなさいな」
愛という形のないものにすがるしかないなんて、哀れね。
セレスタン様の顔が絶望に染まる。
震えながら伸ばしたその手をエリック様が強く弾いた。
「よくも妻に悪役を押しつけてくれたな。彼女が受けた痛みはこんなもんじゃない」
そしてリュシエンヌの肩を抱いて己が胸に引き寄せる。
「彼女が体を張り、命がけで家を守ってくれたからあなたが当主代行になれた。あとはあなたの裁量だ。彼女を恨むのは間違っているし、これ以上わたしの妻に助力を求めることも許さない!」
精一杯、張り上げたエリック様の声がセレスタン様に届いたかどうか。
結局最後まで、必死に伸ばした彼の手がリュシエンヌに触れることはなかった。
リュシエンヌの視線の先では、護衛に引きずられるようにしてセレスタン様が客車に詰め込まれる。そして馬車はそのまま勢いよく走り出した。彼の乗った馬車が角を曲がったところで怖い顔をした警官が二人の前にたどり着く。
「どうしましたか、何か問題がありましたか?」
エリック様はさりげなくリュシエンヌをかばうように前に出た。
「問題というか、妻が知り合いに似ているということでしつこく話しかけて来た旅行者がいてね」
「それは……災難でしたね」
「騒ぎになった途端、退散してしまったから相手のことはよくわからないんだ」
困った顔をしてエリック様が微笑むと警官は二つ三つ聞き取りをして、あっさりと二人を解放する。
並んで歩きながらリュシエンヌは目を丸くする。
「すごいですね、わたしの出番がありませんでした」
「言っただろう、きちんと手入れをされた容姿というのは信用を生むと。あれは誇張ではないんだ」
自身を磨く努力は、美しさとはまた別種の武器になる。
それを忘れてはダメだよと彼は笑った。
「それよりも、あれでよかったの?」
「何がです?」
「彼らを逃してあげただろう。正直なところ、彼らは警察が介入してもおかしくはないことをしたんだ」
戦争を回避する目的の使節が国民を無理やり連れて帰ろうとした。もはや会談どころではなくなって、国際問題をきっかけに国が滅ぶかもしれない。
「君の加護に頼りきってきたような国だ。君の意思で遠慮なく滅ぼしてもよかったのでは?」
まあ、そういう脚本もあったけれど。
ほんの少し考えて、リュシエンヌはゆるく首を振った。
「ですがそれは望むところではないのです」
勘違いしないでほしいわ、これは慈悲などではないのよ。
薄く笑って、確かめるようにリュシエンヌは胸元へと手をかざす。
リュシエンヌはずっと思ってきた。このまま国を簡単に滅ぼすなど生温いと。我々オベールの黄金を持つ者が苦労してきただけ足掻いてみせよと、ずっとそう思ってきたから。自分でも制御できないこの怒りは初代リュドヴィック・オベールのもの、戦神の加護を軽んじた国への怒りだ。
けれど怒りが霧散すると同時に、リュシエンヌは不安に駆られる。
そういえば今までこんなふうに情け容赦なく追い詰める一面を、エリック様に見せたことがなかった。
「恐ろしいですよね。わたしは人々を次々と罠にかけて、容赦なく国を傾けた」
あんな醜い姿を見たら、誰だって怖くなるだろう。
怒りに突き動かされているときは自分が自分でなくなる。ああなるとリュシエンヌでさえわからない。
……おまえは、誰だ?
この期に及んでエリック様に嫌われたらどうしよう。
すると緊張で冷えたリュシエンヌの手を、一回り大きい温かな手が包んだ。
「心配いらないよ、わたしの捧げる愛がこの程度で揺らぐものと甘く見ないでほしいな。どんな姿だろうと君は君だ。恐ろしいだなんて、これっぽっちも思わないよ。むしろ完膚なきまでに敵を叩き潰して、誰よりも神々しく勇ましい。わたしからすると今日の君は割合的に女神が多めだね」
「リック……」
「そもそも君は当然の権利を行使しただけじゃないか。自分で幸せになろうと手を尽くした。君の幸せの先にあるものが彼らの望みとは違ったというだけで、気に病むことも、怯えることもない」
揺るぎない真っ直ぐな眼差し。
エリック様は出会ったときからずっとリュシエンヌが幸せになることを願ってくれる。
「人の幸せのために行動することは尊いけれど、ときには自分の幸せを優先しても悪くないはずだ。誰にでも幸せになる権利はあるのだから、アデリーだって幸せになっていいんだよ」
一片の曇りもなく、エリック様はどこまでも澄んだ表情で笑った。
「君は幸せになっていいんだ」
リュシエンヌは不意にこぼれそうになる涙を堪えて、ほんの少し表情を歪ませる。
そうか、もう幸せになってもいいのか。
「あなたを愛しています。誰よりも、あなたを」
「もちろん、わたしも君を愛している。昔も今も変わらずそれだけは自信があるんだ」
リュシエンヌの手の甲に柔らかな口づけが落ちる。
途端に耐えていた涙がこぼれてエリック様は小さく笑った。
「泣き虫だなぁ」
「リックが泣かせてくるのでしょう!」
「アデリーは恥ずかしがり屋だから、なかなか愛してると言ってくれないじゃないか。だから言われるとうれしくて思わず」
「だって愛しているって言うと三倍以上の賛辞が返ってくるのよ。余計に恥ずかしくなるじゃない」
「君に愛を伝えるときは言葉を惜しまないことに決めたんだ」
もう、そんなことばかり言って。恥ずかしくなるけれど、幸せだ。
リュシエンヌは彼の背中に上気した顔を隠した。
軽やかに笑ったエリック様は、リュシエンヌの手を引いてそっと耳元でささやく。
「最後の一人を討ち取って、気は済んだ?」
「ええ、もう十分だわ」
いつまでも、過去に囚われているのは時間がもったいないもの。
「それなら前から話していたけれど、そろそろ引っ越そうか」
「いいわね、だったら新居を探さないと」
「実は移転先の候補があるんだ。でも君の人生にも関わることだから話し合って決めたい」
「もちろんよ!」
これからは何でも話し合って、二人で未来を築く。
リュシエンヌはようやく本当の意味で彼の同志になれた気がした。
「それと今住んでいる部屋だけれど、次の借り手を見つけてある」
「まあ、素早い。次の借り手はどんな人なの?」
エリック様曰く、男性で、デザイン関係の仕事をしていて。
一人暮らしのときにエリック様の部屋にも何度か遊びにきた人だそうだ。
「彼に部屋を格安で譲る代わりに、少しばかり面倒ごとを引き受けてもらえるように話をつけた」
「面倒ごととは?」
「今、我々の住んでいる家の住所を調べてグランドヴァローム王国から突撃してくる奴がいるかもしれない。そのとき適当にあしらってもらうようお願いした」
「そうなの、それでこちらの事情はどんなふうに話したの?」
するとエリック様は真面目な顔をした。
「わたしの妻がグランドヴァローム王国の高位貴族に妾となるよう迫られている」
やりかねないから否定できないわねとリュシエンヌは苦笑いを浮かべる。
あの調子ではセレスタン様がすんなりあきらめるとは思えない。けれど書類上でもリュシエンヌ・オベールと離婚することができないとなれば残された手段は一つ。
マリノ共和国のオデットを妾に!
そう思った途端、リュシエンヌの背筋に悪寒が走った。凍りついた背中をエリック様が優しく叩く。
「大丈夫、君にはつらい思いはさせないよ。ただ、もしかすると次の借り手が我々のいざこざに巻き込まれるかもしれないからね。無関係の人が巻き込まれたら可哀想だし、こちらの事情を知っている人間に部屋を渡したほうがいいかと思った」
「それもそうね」
「家主にも話は通したけれど君に同情していたよ。状況によってはすぐに警察へ通報してくれるって。それから次の借り手は肉体を鍛えるのが趣味の男で、見た目だけなら護衛と十分に張り合える。しかも相手によってはわざと女性らしい態度と口調で話しかけるから、別の意味で男性から恐れられていた」
餌食になった男性によると、本気で食われるのではないかと思ったそうだ。
「好みは屈強な肉体派の男性だ。あまりにも適任すぎて事後承諾になってしまったけれど、ごめんね」
「いいのよ、むしろ頼もしいわ。わたしにはそんな手は思いつきもしなかったもの。それなら借り手の方に会うときは礼を言わなくてはね!」
「それはそうなんだけれど……会わせるのは嫌だな」
「どうして?」
「いいやつだから、君が彼を好きになったら困る」
ボソッとつぶやいてエリック様は面白くなさそうな顔をする。
うわ、かわいい。
リュシエンヌの心臓が跳ねた。胸の奥がじんわりと温かくなって喜びで満たされていく。
これが嫉妬かしら、だったらうれしい。
リュシエンヌはふわりと笑って、彼の胸元へ甘えるように身を寄せた。
「そこは心配しないで。わたし、リック以外は興味がないの」
「……今のは完全に想定外だ。強烈な一撃にぐらっとしたよ」
「わたしもね、あなたをよろこばせるのが得意なの」
不意にエリック様はリュシエンヌに口づける。
光を遮るように影が落ちて。
目蓋を閉じれば真っ暗闇で、でも今は色のない世界すらリュシエンヌに優しい。
瞳を開いて、恥ずかしそうに笑ったリュシエンヌはエリック様の手を握り返した。
「さあ引っ越しの準備をしましょうか」
胸の痛みと悲しみは全部、ここに置いていく。
これからもっともっと幸せになるために。