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リュシエンヌ、オデット、それともアデライド


「ようやく見つけたぞ!」


 マリノ共和国、首都ジョルジオラ。

 行く手を阻んだ人物の顔を見て、エリックは買い物袋を抱えたまま苦笑いを浮かべる。

 くたびれて、かつての輝きを失っているから一瞬誰かわからなかった。


「お久しぶりです。グランドヴァローム王国オベール家当主代行セレスタン・オベール様」

「エリック・フルニエ。いや、今はただのエリックか。リュシエンヌはどこにいる!」


 険しい表情をして今にも食いつかれそうだ。

 何というか、情緒の欠片もないな。むしろ清々しいくらいに用件だけだ。

 それだけ余裕がないのだろうが、そのせいで大事なものを見失っては救いようもない。


「リュシエンヌ様ですか、わかりませんな」

「何だと、貴様まさかリュシエンヌを捨てたとは言わないだろうな!」


 するとエリックの背後から帽子をかぶった女性が姿を現した。彼女はこの国で流行っているという派手な柄の服を身につけ、親しげに寄り添って彼の腕へ自身の腕を絡める。


「騒がしいのは苦手なの。リック、もう放っておきましょう?」


 セレスタンは彼女の艶やかで甘えるような声が不愉快だと思った。楚々として慎ましいリュシエンヌとは対極にいるような女性だ。


「お嬢さん、失礼だが部外者は黙っていただけますか。おいエリック、貴様はリュシエンヌだけでは飽き足らず、こんな派手で品のない女を連れ歩くなんて彼女の何が不満なんだ。男として最低だぞ!」

「おっと」


 この浮気者の、女好き!

 そう叫んで殴りかかってくるセレスタンの拳をエリックは軽やかに避けた。エリックの背後にセレスタンが連れてきた護衛の兵士が立って逃げないよう強く肩を押さえる。

 傍らの女性を守りつつ、エリックは目を丸くした。

 ……他国のこんな人目のあるところで揉め事を起こして声を荒らげるとは、ずいぶんと大胆な。

 皮肉げに笑ってエリックは鬱陶しいとばかりに兵士の手を振り払う。


「さあ、もう逃げられないぞ! リュシエンヌはどこにいる!」

「ですからリュシエンヌ様なんて知りませんよ」


 エリックの含みを感じさせる言い回しに、セレスタンは忌々しいとばかりに叫んだ。


「ではオデットはどこだ!」

「さて、どこでしょうか」

「貴様っ、どれだけバカにすれば」


 どこまでもこちらをはぐらかすような態度。

 すると女性のしなやかな指先がエリックの袖を引いた。


「リック、守ってくれてありがとう。でももういいわ」

「でもね、アデリー。彼らは気が立っているし、危ないよ?」

「アデリー?」


 セレスタンは女性の顔をまじまじと見て、驚愕に表情を歪ませた。


「ま、まさかアデライドか⁉︎」

「お久しぶりです、セレスタン・オベール様。ようやく気がついたようですわね」


 心底呆れたという顔でリュシエンヌは皮肉げに口元を歪める。


「部外者の、派手で品のない女がお邪魔して申し訳ありません」

「い、いやそういうわけではないが。何かそのあまりにも印象が違うというか」


 セレスタン様は信じられないと言う面持ちでリュシエンヌを見つめている。もちろん、そう見えるように振る舞ったのもあるけれど見た目だけで人を判断するところは相変わらずなのね。


 グランドヴァローム王国のドレスやワンピースはどちらかというと慎ましく貞淑な雰囲気のものが主流で、ゆったりとしており、体の線を隠すものが多い。オベール家から嫁いだときにエリック様に買ってもらったワンピースは、まさに典型的なものだった。良い意味で落ち着きがあって、悪い意味では地味で面白みに欠ける。


 反対にマリノ共和国の服は体の線を強調して女性らしさを表現する。最近のリュシエンヌはセレスタン様からすれば、はしたないと思われるような流行の服を好んで身につけていた。

 華やかな色が多くて、身につけるだけで心が弾む。それに布が柔らかいから着やすいし、丈も膝下くらいだから動きやすいのよ。

 今のリュシエンヌは誰に遠慮することなく着たい服を着ると決めている。

 空気感でそれとわかるから、余計に彼は気に食わないのかもしれない。リュシエンヌが帽子を外すと、赤茶色の髪が背に流れた。するとセレスタン様はハッとして顔色を悪くする。


「なんで髪がオベールの黄金ではないんだ、戻ったのではないのか⁉︎」

「どうしてです?」

「魔女がオデットの髪を赤茶色に戻した。だから君の髪は戻っているものとばかり」


 オデットはオベールの黄金さえ失ってしまったのか。だから豪勢な結婚式はできなかった。それにしてもこの魔法は解けないと魔女は言ったのに、どんな手を使ったのだろう?

 まあいい、むしろリュシエンヌには好都合だ。

 セレスタン様は軽く咳払いをして誤魔化すと、リュシエンヌに手を差し出した。王子然とした仕草は相変わらず品があるけれど今は完全に色褪せて見える。


「さあリュシエンヌ、帰ろう。オベール家に戻れば髪色も黄金に戻るかもしれない」

「いやです、戻りません」


 リュシエンヌは晴れやかな笑顔できっぱりと断った。

 笑顔のまま、セレスタン様は固まる。


「どうしてだ、君を取り戻すためにどれだけ探したと思っている?」

「それはそちらの事情でしょう。探してほしいとお願いした記憶はありませんわ」


 あまりにも身勝手な言い草にリュシエンヌは苦笑いを浮かべた。

 たった数ヶ月の間にグランドヴァローム王国は戦によって領土を減らし、経済は衰退の一途をたどっている。かつての栄華は嘘のように大国の威信は地に落ちて、波間にいつ沈んでもおかしくはない状況だ。

 王家に近いオベール家もまた、嫌が応もなく波に飲まれて、爵位なんてあってないようなもの。それでも持ち堪えているのは賞賛するけれど、こんなところでのんびりしている場合ではないでしょうに。

 エリック様と国を出て、すでに半年経っている。すぐに見つかる予定が、こうして姿を現すまで想像以上に時間がかかったからこちらも驚いたわよ!


「とにかく帰る気はありませんわ、お引き取りを」


 冷たく切り捨ててリュシエンヌはエリック様を見上げる。するとエリック様も心得たように意味深な微笑みを浮かべてリュシエンヌの左手の薬指に唇を寄せた。そこには彼の瞳の色と同じ宝石が飾られた結婚指輪が嵌っている。

 エリックの愛の籠った仕草、それをうれしそうに受け入れるリュシエンヌ。

 セレスタンの顔色が変わり、こめかみに青筋が立った。


「リュシエンヌに触るな!」

「触るなと言われましても。わたし、彼と結婚しておりますの」

「ああ、そのことか。大丈夫、心配はいらないよ。君の結婚は全部なかったことになったから」

「まあ本当に?」

「そうだ。オベール家に残る結婚契約書も破棄した。エリック・フルニエとオデット・オベールの結婚は公的にも存在しなかったことになっている。だから安心してわたしに嫁いできなさい」

「そうですか、それは安心しました!」

 

 リュシエンヌはにっこりと笑った。その色のない無垢な微笑みにセレスタンは急に不安になる。とにかく連れて帰ればすべて元どおりだ。その一心だけでセレスタンは手を差し出した。


「今度こそ幸せにする。だからわたしと一緒にグランドヴァローム王国へ帰ろう!」

「ですからいやですわ。帰らなければならない理由がありません」

「理由はある。君はリュシエンヌ・オベール、わたしの妻だからだ」


 ドヤ顔が眩しい。昔からこんな残念な人だったかしら?

 リュシエンヌは深々と息を吐く。

 必要な情報は聞き出したし、もういいわね。


「でしたら人違いですわ」


 リュシエンヌはバックからマリノ共和国の身分証を取り出した。身分証には姓の記載はなく、名の欄にはただオデットと書いてある。リュシエンヌはマリノ共和国で、平民オデットとしての身分をすでに取得していた。

 セレスタンは驚いて顔色を悪くする。


「なんてことを、詐称と文書偽造は重罪だ!」

「まあ、失礼ですわね。後ろ暗いことは何一つしていませんわ。わたしは正規の手続きを踏んで、この身分証明証を取得しています。手続きの詳細については役所に確認していただいて差し支えありませんわよ」

「正規の手続きでというのは?」

「グランドヴァローム王国が発行してくださったオデット・オベールの身分証明書類。それから除籍後のオデットの身分証明書類。あといくつか条件が揃えば国籍の取得は可能ですわ」

「は、オデット・オベールの証明書だと! いつそんなものを……」

「ふふ、わたしの旦那様はいついかなるときも賢明なのです」

 

 誇らしく胸を張ってリュシエンヌはエリック様を振り向いた。

 無垢な天使の微笑みにエリックの口元がゆるむ。

 あれはまだエリックが彼女と出会う前のこと。オデットとオベール家を探る交換条件としてリオネルにお願いしたのがオデット・オベールの身分証明書類だった。


 ……あのときは離婚のために必要と考えて揃えたのだけれどね。


 離婚する意思もなくなって、何かのときに使えるかと取っておいたものが、まさか後になってこういう使い方をすることになるとは思っていなかった。ただエリックは、自分の泉で女神で天使を悲しませたくないので、この秘密は墓場まで持っていくことにしている。

 ちなみに除籍された後の身分証明書類は、二人仲良く手を繋いで民間の役所まで取りに行った。これまたグランドヴァローム王国発行の正真正銘、本物である。


「残念ですが今のわたしはグランドヴァローム王国のオデットではありません。マリノ共和国のオデットですわ。それをこの国の身分証明書が明らかにしています」


 ついでに言うと、グランドヴァローム王国のリュシエンヌでもない。

 リュシエンヌはオデットの身分証明書をしっかりとバックにしまった。


「グランドヴァローム王国の担当者は気狂い姫の悪名に騙されて、除籍の申請も妥当と疑問にも思わなかったのでしょうね。滞りなく速やかに処理されました。公爵令嬢の悪評を放置していたオベール家と国の怠慢です」


 自分達に瑕疵はないと思っているのが丸わかりなのよ。

 呆然としたセレスタン様の顔を見て、リュシエンヌはにこやかに笑った。


「新聞で拝見しましたわ、リュシエンヌ・オベール公爵令嬢と結婚されたとか。おめでとうございます」


 そして蔑むような眼差しで、くっきりと口角を上げる。


「書類上、あなたはすでに結婚しています。そのうえ別の女性と結婚したら重婚。重婚こそ大罪ですわよ」


 少なくとも、グランドヴァローム王国とマリノ共和国では犯罪行為だ。それでもセレスタン様がわたしと結婚したいのならばまずは自分がリュシエンヌ・オベールと離婚するしかない。

 それこそ誰もが許さないだろう。リュシエンヌは、ふっと薄く笑った。

 絶望的な顔をしているけれど、まだまだ。

 

「それともう一つ、素敵なお知らせがありますの」

「まだ何かあるのか!」


 セレスタン様は混乱から抜け出せていないようですが、この程度で許したら戦神に叱られますわ。


 いきなりリュシエンヌは見せつけるように、ぎゅっとエリック様に抱きついた。

 それをしっかりと抱き返したエリックの表情も心底からうれしそうだ。


「わたし、エリック様と再婚しましたの――――マリノ共和国で。ささやかですが二人で結婚式も挙げました」

「……は?」

「だから最初に申し上げましたでしょう、『彼と結婚しております』と」


 もちろん祝ってくださいますよね、セレスタン様?

 リュシエンヌがからかうように口角を上げると我に返った彼が叫んだ。


「グランドヴァローム王国だけでなく、マリノ共和国でも。それこそ重婚じゃないか!」

「ご冗談を。先ほどご自身で『オベール家に残る結婚契約書も全部、破棄された。エリック・フルニエとオデット・オベールの結婚は公的にも存在しなかったことになっている』と、おっしゃったではありませんか。あの言葉、大変心強かったですわ」


 しかもグランドヴァローム王国は自分達の意思で記録を抹消した。

 そうしろとリュシエンヌが願ったわけではない。


「そうなるとグランドヴァローム王国での結婚はなかったことになっているので書類上は初婚になるのかしら?」


 セレスタン様は青ざめた顔で首を振った。


「違う、あれはそんなつもりではなかったのに!」


 そんなことはどうでもいい、結果がすべて。

 リュシエンヌはエリック様と視線を合わせて幸せそうに微笑んだ。

 

「国を出てから一ヶ月ほど新婚旅行に行きましたの。そのあと、すぐに身分証明書の取得と婚姻届を提出しに役所に参りました。届出は受理されて、結婚は告知されてから一週間の異議申し立て期間を経て無事に成立しました」


 異議申し立て期間に申し立てをすればまだ芽はあったけれどと、リュシエンヌはほくそ笑む。いくら都合が悪くても他国の法に基づいた婚姻の記録を抹消することはできない。


「ですので今も変わることなく、わたしはエリック様の妻ですわ」


 恥じるように頬を赤らめて。潤んだ瞳がエリックだけを見つめている。愛らしさに思わずエリックの瞳も同じように潤んで手が震えた。

 ……どうしてこんなにかわいいのだろうな!

 健気で、あまりにも尊くてエリックは自身の泉で女神で天使を引き寄せた。

 この至高の存在が奴らの視界に入るのも腹立たしい。


「アデライド、穢れるからこちらにおいで」

「なんだと!」

「そうじゃないか。グランドヴァローム王国に妻がいるのに、マリノ共和国で他人の妻を口説いている」

「まあ、本当だわ!」


 思わずというリュシエンヌの声に、あわててセレスタン様は周囲を見回している。

 自分はそうじゃないと思っていても他人からはそう見えているのよ。節操なしの浮気者、オデットとお似合いだわ。リュシエンヌは皮肉げに口元を歪めた。


「ねぇ、セレスタン様。嘘を何度も繰り返すと本当になるという言葉をご存知かしら? 嘘を繰り返し聞かされているうちに、なんとなく本当かもしれないと思ってしまうことよ。そして、いつしか周囲の人達も嘘を真実だと信じてしまうの」


 唐突に何を。セレスタンは意図が読めなくて固まる。

 試すような眼差しでリュシエンヌはセレスタン様の瞳を見つめ返した。


「もう一度、よく考えてみてください。グランドヴァローム王国にいるのは本当にリュシエンヌ・オベールではないのでしょうか?」


 リュシエンヌとなったオデットは決して少なくない時間をリュシエンヌとして生きている。繰り返し、繰り返し。彼女がついた嘘はいつしか本当になった。オデットが成り代わったリュシエンヌこそ彼らにとって正しくリュシエンヌ・オベールであり、わたしはリュシエンヌだけれど彼らの求めるリュシエンヌではない。

 あってはならないこと、いてはならない者。

 出会ってしまえば本物が死に至る。今はむしろ、わたしのほうがドッペルゲンガーだ。


「あたりまえじゃないか、だって彼女は赤茶色の髪をしてオデットと名乗っている」


 セレスタン様はかろうじてそう言い返した。

 けれど何が言いたいのかわからない、そんな顔をしている。

 するとリュシエンヌは待ってましたとばかりに弾む声で答えた。


「あら、でしたらわたしと一緒ではありませんか!」


 見せつけるように、リュシエンヌはゆるく巻いた赤茶色の髪を指先で摘んだ。

 セレスタン様はハッとして目を見開く。


「赤茶色の髪に、身分証明書も。わたしがオデットであることを証明しているのです。それをあなた達がリュシエンヌ・オベールだと言い張っているだけ。しかも、それらしいという状況証拠しかないのにです」


 あなた達はいつもそう。自分達にとって都合の良いほうを信じる。

 けれどセレスタン様は強く首を振った。


「そんなことはない、君がリュシエンヌのはずだ!」

「しつこいですね、どうしてそう思うのか聞いても?」

「はにかむように笑う顔が、小さいころのリュシエンヌにそっくりだから」


 虚を突かれたリュシエンヌは、一瞬言葉を失って黙り込む。

 そんな昔の記憶をまだ律儀に覚えていたのね。


「ですが、もしわたしがリュシエンヌだとしたらこう答えるでしょう。もう昔の話だと」

「ああ、リュシエンヌ! こうなる前に、どうして君はわたしに本当のことを話してくれなかった。オベールの黄金を持つ者は嘘がつけないことを、嘘をつくと血を吐いて死ぬという代償を、オデットと入れ代わる前に話していてくれたら君と気づけたかもしれない!」


 セレスタンの悲痛な叫びに周囲を囲む護衛は傷ましそうな顔をする。

 その瞬間、リュシエンヌの微笑みが完全に温度を失った。


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