アデライドと色のある世界
サンルームに燦々と光が降り注ぐ。こうしてガラス越しに見ると光にも色があるのか。
「おはよう、アデライド」
「おはようございます」
柔らかな声とともに髪に口づけが落ちた。背後から腕が伸びてリュシエンヌの体を抱きしめる。
温もりが心地よくて思わず小さな笑みがこぼれた。
気負わずとも自然と笑えるようになったのは、たぶんエリック様のおかげだ。
「体調は大丈夫?」
「はい。もっと揺れると思っていたのですが、海が荒れなければ船の旅は快適なのですね」
二人の蜜月は一ヶ月かけた船の旅だ。
強い潮の香りに弾ける波の泡。何もかもが新鮮で、キラキラと輝いて見える。
旅の始まりのとき、何も知らないリュシエンヌは無防備な状態で船の手すりから海をのぞき込んだことがあった。それを真っ青な顔をしたエリック様があわてて引き止めたのは大きく揺れると海に落ちることもあるからだとか。
あのときから一人でデッキに出してもらえないのよ。
部屋から眺めるか、このサンルームから眺めることしか許してもらえない。
せっかくの船旅なのに残念だわ!
その代わり、寄港地ではいろいろな場所を訪れて二人で一緒に過ごした。
地元の料理を堪能したり、お土産物屋さんでは珍しい品をたくさん見て。
エリック様は現地でしか手に入らない生地、糸やビーズを買い込んでリュシエンヌに合わせながら、さまざまな服を描いている。
一度見せてもらったけれど旅が始まったころには白紙だったはずのデザイン帳が今はほとんど埋まっていた。
「こんなにたくさん、すごいですね!」
「自分でも驚いている。アデライドを見ていると無限にイメージが湧いてくるんだ」
それまで無意識で描いていたのか、あらためて手元をのぞき込んだ彼は苦笑いを浮かべる。
「これだけ仕事が捗るのも加護の恩恵だったりしてね」
「いいえ、加護は国を出たとき完全に消えました。ですからエリック様の実力です」
両者を繋ぐ糸がぷつりと切れた、そんな感じだ。確信のあるリュシエンヌは笑顔でうなずく。
あのときのうれしそうなエリック様の顔を思い出して、リュシエンヌは小さく笑った。
今まであったものを失うのは不安だけれど、逆に縛られるものもない。
これからは本当の意味でわたしの力が試される。
それでも自由はとてもいい、囚われることもなく心が軽くなって。
リュシエンヌが振り向くと、視線の先に彼のポケットからはみ出すものが見えた。
「エリック様、それはグランドヴァローム王国の新聞ですか?」
「そう、寄港地に降りたとき頼んで取り寄せてもらった。状況が気になるからね」
リュシエンヌは差し出された新聞の記事に目を通した。強烈な見出しがまずは目に飛び込んでくる。
英雄の威光は何処に!
辺境伯軍敗退に次ぐ、敗退!
戦神の加護が失われたことに国民が勘づいた。国防の観点から詳しい説明はなくても日々の暮らしに直結するような情報に敏感な彼らが気づかないわけはない。
今回攻め込んできた隣国の軍は辛くも退けたようだけれど、国軍はかつてないほどに大きな被害を受けたそうだ。
辺境伯、父の兄である領主は戦死。嫡男は重傷を負ったという。
戦は起きるが、負けないという稀有な加護。
リュシエンヌと繋ぐ糸が切れて加護が消失した今、次は実力だけで防ぎきれるかわからない。
さて、どんなふうに誤魔化すのかしら?
新聞の記事は続く。辺境に異変はあってもオベール家は一応存続しているらしい。
ただし、父は当主を引退、義母とともに領地にて隠居することになったという。
実際のところは処分保留のまま幽閉というのが正しいのでしょうね。
生温いと思われそうだが、いつ状況が代わって死を賜るかわからない身の上だ。全責任を負わされて国民の前で処刑されることもあり得るから、むしろ彼らにとっては中途半端なほうがより過酷だろう。ギリギリの状況にどこまで二人の精神が保つか。
そして最後に。想定どおりというか、リュシエンヌ・オベールが当主を継いだことが添えられていた。
セレスタン様と籍を入れたが、不安定な情勢に配慮して結婚式はオベール家を除く近親者だけで質素に行われたという。あまりにも簡素で王家と筆頭公爵家の婚姻とは思えないという記者の率直な感想にリュシエンヌは薄く笑った。
当初の予定どおり、オベールの黄金をさらして堂々と結婚すればよかったのに。
しかもオデットがあれだけドレスや会場の装飾にこだわったのに写真すら載せていないことが意外だった。
魔女を捕まえて、偽者だとバレたか。
偽者とわかっていても入籍や結婚式を強行したのは身代わりにするため。
リュシエンヌを捕らえたら、そのまま彼女と入れ替えるつもりだから。
……その発想が気持ち悪いのよ。
どこまでも学ばない人達だ。でもそれだけに行動が読みやすくて助かる。
「国は滅びる一歩手前というところで何とか踏み止まっているみたいですね」
この展開は望ましい。リュシエンヌが他国に入国するまでは国として保ってもらいたいもの。
小さく畳んだ新聞を掲げてひらりと振った。
「加護のない状況でどの程度戦えるものなのか。今後の展開が楽しみですわ」
「そういう強気なところも素敵だよね。女神の足下にひれ伏したくなる」
エリック様は新聞を受け取ると近くのテーブルに置いて、さらっとリュシエンヌを抱き上げる。
目を丸くして驚くリュシエンヌを抱えたまま、ガラス越しの絶景に背を向けた。
「まあ、いきなりどうしたのです!」
「難しい話はこれでおしまい。これからホールでオーケストラの演奏があるそうだ、聴きに行かない?」
突然のことに驚いたけれど、なんとも魅力的なお誘いだった。
飽きさせないようにと、船には専属の楽団員や劇団員も帯同している。
しっかりと抱き上げられたままリュシエンヌは首に腕を回して満面の笑みを浮かべた。
「行きたいわ、でもドレスコードがあるのではないかしら?」
「昼の会だからそこまで厳しくはないけれどね。せっかくだから前回の寄港地で買ったワンピースを着てみる? 寸法を調整して、ビーズと刺繍を追加してある」
「うれしい、ぜひ着たいです!」
「アデライドは、なんでも似合うからね。手を加えるのも楽しい」
本当にエリック様はリュシエンヌをよろこばせるのが上手だ。
寄港地で買ったワンピースは布地が独特の織りをしていて、現地でしか咲かない花が大胆に描かれていた。一目見てリュシエンヌが気に入ったものをエリック様が買って、さらに品よく豪華に仕上げてくれたのだ。
リュシエンヌの体をゆっくりと下すとエスコートするようにエリック様は手を引いた。
「一度、部屋に戻ろうか。髪を結い上げるのを手伝うよ」
「ありがとうございます。裁縫や刺繍以外もできるし、エリック様は手先が器用ですよね」
お義父様は不器用だと思い込んでいたみたいけれど、力仕事には向かなくても手先はとても器用な人だった。髪型も服に合わせてさまざまな形に結い上げ、花や余ったレースとリボンで華やかに飾ってくれる。
「器用というか、アデライドをよろこばせるのが得意なんだ」
「そうなの?」
「清廉な貴婦人の微笑みが、わたしの前でだけ甘やかに崩れ落ちるところが見たくなる」
耳元でささやかれるとリュシエンヌの頬が真っ赤に染まった。染まった頬に柔らかな口づけが落ちる。
「熟れたリンゴみたいだ、食べてしまいたい」
「もう、どうしてそういう甘い台詞ばかり言うのかしら。だから浮気者と勘違いされるのですよ」
「アデライドを見ていると賛辞が無限に湧いてくるのだもの、仕方ないじゃないか」
エリック様は軽やかに笑って、悪びれることはない。繋いだ手に少しだけ力がこもった。
「そうだ、君がサンルームにいたとき声をかけようとした男が何人もいたな。この際だから君が誰のものか、はっきりと彼らに見せつけておこう」
何をする気なのかしら?
あっという間もなくリュシエンヌは彼の腕に囚われて、添えた手が顎を軽く持ち上がる。
流れるようにエリック様はリュシエンヌの唇に絡みつくような口づけを捧げた。
どうしよう、このまま食べられてしまいそうだわ。
リュシエンヌが空気を求めて切なげに吐息をこぼせば、名残り惜しいとばかりにもう一度軽く唇が触れて離れた。
「こんな場所で恥ずかしいわ」
「その無作法を咎めるようなアデライドの表情を見ると、もっと追い詰めたくなる」
物騒なことを言いながらエリック様の表情はとても満足そうだ。リュシエンヌの口紅の色が移って、彼の唇がわずかに染まっている。まるで彼をリュシエンヌのものと主張するような光景になんだか恥ずかしくなった。
恥ずかしいと思いながら、ちょっとだけうれしいのがまた困るのよ。
呼吸を整えながらリュシエンヌはエリック様を軽く睨む。我が物顔でリュシエンヌを引き寄せた彼はサンルームを振り向き帽子を軽く掲げてニヤリと笑った。
「では紳士諸君。引き続き、よい旅を!」
ざわりと空気が揺れる。
背後から剣呑な、怨みがましい男性達の視線が突き刺さった。リュシエンヌは彼の意図を察する。
ああもう、エリック様ったら!
「どうして煽るようなことをするのです!」
「どうしてかって、我が妻は清廉な泉であり高潔な女神で、しかも可憐な天使なんだ。自慢したいじゃないか」
誇らしげな顔で言われたらリュシエンヌは何も言えなくなってしまう。
それをわかって言っているのかしら、ずるい人だわ。
「恥ずかしくて、もう一人ではサンルームに来れないじゃない」
「ならば次は二人で来よう」
「そういうことではないのよ」
上目遣いでリュシエンヌは軽く睨んだ。すると彼は眉を下げて、困ったような顔をする。
「たくさんの自由をあげたい。けれど心のどこかで君を独占したいという気持ちもあるんだ」
翻弄するような、悩ましげな眼差しに胸が高鳴る。
こんなふうに執着をにじませて彼はリュシエンヌをわたしの貴婦人と呼ぶのだ。
リュシエンヌはあきらめたように笑って彼の胸元に身を寄せる。
本当に、困った人だわ。
彼の捧げる盲目的な愛は愚かで、だからこそこんなにも愛おしい。
「行こうか、アデリー」
「……もう、リックったら」
なだめるように優しく髪をなでて、エリック様はリュシエンヌの頬に唇を寄せた。
それは、わたしも同じ。
少しずつ互いを手繰り寄せるように、二人の距離は近づいていく。
外から見えているよりもずっと歩みは遅いけれど、この緩慢さがリュシエンヌには心地よい。
遠くから波の音に混じって楽器の奏でる旋律が聞こえてくる。
わたしが愛するものはわたしが決める。
ここにあるものはリュシエンヌが愛するものばかりだ。
万華の色がキラキラ、キラキラと輝いて。
――――
そして一ヵ月後。
心配していたけれど、リュシエンヌは体調を崩すこともなくマリノ共和国の首都ジョルジオラに到着した。この先の予定を決める前に、まずは一旦落ち着くところということでエリック様の部屋に二人で住むことになっている。
国を出たリュシエンヌにとって異国は初めてのことばかり。雰囲気も違えば公共のルールも違う。
唯一、マリノ共和国の言葉とグランドヴァローム王国の言葉は意味や発音が似ているから、ある程度覚えれば言葉には不自由しなさそうなところが救いだ。
港から馬車に乗って、通りから少し離れた場所にある集合住宅の一部屋がエリック様の住居を兼ねた仕事場とのこと。彼が鍵を開けると薄暗い部屋に散らかった荷物がいくつか見えた。
「っとごめん、散らかっていて。出発前に片づける余裕がなかったから」
「大丈夫、このくらいは平気です」
いつかのような会話を繰り返して、二人ふふっと笑う。
カーテンを開けると日差しが差し込む。色鮮やかな糸くずやリボンの端切れが落ちているのは見慣れた景色だ。
こういうものは変わらないのねと、リュシエンヌは小さく笑った。
「半年以上も締め切りだと埃っぽいな。ちょっと待って、窓を開けるから」
エリック様が窓を開けるとバサリと鳥の飛び立つ音がした。清々しい風とともに人々の喧騒が聞こえる。
マリノ共和国は開放的で活気があり、忙しない。
グランドヴァローム王国の閉鎖的でどこかのんびりとした空気とは大違いだ。
エリック様は周囲を見回して扉の脇に落ちた白い封筒に目を留めた。住人が不在のため、配達員が扉の隙間から差し込んだらしい郵便物を床から拾い上げて差出人を確認する。
「リオネルからだ。けっこう厚みがあるな」
消印の日付は二週間前。
リオネルとフルニエ商会はリュシエンヌが渡した脚本のとおりに動けば戦が起きる前日には国を出ている。手紙が届いたということは無事に国外へと脱出できたということ。読み進めていくうちにエリック様の眉間に皺が寄った。
「どうしました?」
「商会と商会員の退避は無事に終わったそうだ。だが父と母だけは国に残ることを選んだらしい」
「そうですか」
エリック様のご両親は沈む船に残ることを選んだ。
仲が悪いとは言っても肉親のこと。優しい人だし、いろいろ思うところはあるだろう。
痛みを耐えるように黙ったまま、読み進めていたエリック様はとある箇所に目を留めた。
「アデライド、リオネルが君に伝えてほしいことがあるそうだ」
「まあ、何でしょう?」
想定内か、それとも想定外のことか。もし想定外なら、それはそれで面白い。
「グランドヴァローム王国の使節がマリノ共和国を訪問する。表の目的は隣国との戦争を回避するための根回し、そしてもう一つ、裏の目的は」
リュシエンヌ・オベールの奪還。
想定内のほうか、つまらない。リュシエンヌはひっそりと笑った。




